第20話
認識の違いが事実誤認が視点の違いが、こじれて意味不明になっているような気がする。
その違いがどこにあるのか分岐点すら見いだせない。いったいどこから何を説明すればいいのか。頭の中は狂乱を極めているわけだが、現実にはただひたすら比呂が私を抱きしめているという図である。かなり暑い。
「あの、比呂」
と声を上げれば、覗き込んでくる目の切なさに絶句する。誤解がある。大いなる誤解だ。
「あのね、兄ちゃんと付き合っていたという事実はないよ!」
「え?」
比呂が一瞬驚いて、お!わかってくれたか、と思った瞬間、驚きは消えて顔をしかめ、苦いものでも噛んだような顔をする。
「どういうこと?」
「どういうって、どうもこうも無く、そんな事実はかけらもないのさ」
まったく潔白である。逆さに振っても何も出てこない。私は清廉潔白ですという顔で、比呂を見る。
「……兄貴と樹里亜はさ、よく旅行いってたじゃん。二泊三日とか普通だったし。それでも付き合ってないの?」
比呂の声はひどく重々しい。へ?旅行。そう言われて頭をめぐらす。そんな楽しい旅があったろうか……。
「な!もしかしてキャンプのこと?」
「なんだか知らないけど、とにかく泊まりで出かけてるんじゃん。二人で。それでも付き合ってないって逆にどういうことなんだよ。兄貴は樹里亜をなんだと思って……」
「ストップ!」
私は比呂の口を両手でふさぐ。もごもご言う比呂の顔がにわかに赤くなる。すわ窒息か?とあわてて手を退けるが、窒息では無かったらしい。紛らわしいのですぐ赤くなるのはやめてほしい。
「あのね!野外でキャンプだからね。しかもね、キャンプというよりも、むしろサバイバルだからね、兄ちゃんは」
そうなのだ。確かに中学から高校にかけて、長期休みになれば兄ちゃんは海に川に連れて行ってくれた。兄弟姉妹もないし、親と旅行という年でもなかったから、そうやって連れ出してくれるのはうれしかったし。
だがしかしだがしかし。
そのキャンプは、食料は自分で用意すべし!生きたければ狩れ!という、題して壮大なるロビンソンクルーソーごっこであったのだ。
くううう。お外遊びがいくら好きでも、あのキャンプは相当壮絶だった。食べるものを自らの手でつかみとる!という兄ちゃんのよく分からない哲学につき合わされたのだった……。
不参加を表明してもよいのだが、でも長期休みは外で遊び回りたい私は、やっぱり「キャンプ行くベー!!」と言われれば「ばっちこーい!」とばかりについていってしまう……。そして星空を見上げながら文明万歳と涙を流す羽目になるのだった。
だから、そんな兄ちゃんが結婚するなんて、あの過酷キャンプに付き合えるようなアマゾネスの様な女性をとうとう手に入れたのかと私は白目になったのだ。
それでも変わらず胡乱な目で私を見下ろす比呂に目つぶしをお見舞いしたくなる。
「よくあるファミリーキャンプ場だよ。そんなところでどうのこうの何てあるわけないでしょうよ。しかもね、キャンプなんて楽しそうな事言って、蓋を開ければ兄ちゃん好みのサバイバルだったんだからねー!ほんと過酷だったよ、毎回血を吐く思いをして魚とったりさ」
私は遠い日を思い描く。人が生きるって大変。それを身をもって知ったのだった、10代のあのころ……。
「でも」と比呂のその目はまだ不安に揺れる。
「でも好きだったからそれでもついて行ったんじゃないの?」
いや、そうか。比呂は兄ちゃんが好きだし、連れて行ってほしかったのか?逆に?私はびしりと睨みつけた視線を緩める。やっぱり比呂は兄ちゃんと一緒に居たかったのだろうか……。しかし、あんな過酷なキャンプに幼稚園や小学生の比呂を連れて行けるわけがない。そこはちゃんと伝えねば。誤解は一つずつ解消せねば!!
「もしかして、比呂もキャンプ行きたかったの?もちろん私だって連れて行きたかったけど、まだ比呂は小さすぎたんだから、仕方がないじゃん。もちろん仲間外れになったみたいで悲しく思ったかもしれないけど」
「それは無い」
いやにきっぱりと比呂は言い切った。ええ?違うの?
「そういうことを言ってるわけじゃないよ。ただ単純に、樹里亜を目の前で兄貴がかっさらっていくのが辛かった」
えーっと……。
「小学生のころは、兄貴が樹里亜を独占しているのが許せなかったけど、二人で泊まりで出かけることの意味をそのうち考えだして、ますます兄貴が嫌になった。兄貴みたいに樹里亜が手に入らないってことが嫌だったのに、二人が出かけなくなった時に、兄貴が簡単に樹里亜を手放したことがますます嫌だった」
なんという誤認識!比呂の中の私という人間はなんとまともな恋愛をこなしている青春をリア充なんだ!どっかでその私に巡り合えぬものか!実際は魚釣ったり捌いたり空腹で辛かったりするんだけども!現代日本で飢えと闘いながら野宿の青春なんだけども!
比呂の中の比呂と私と兄ちゃんの物語は、まるで小林さんが夢中になっているウェブ小説のようだ。
しかし実際は全然違う。あれ、一体どこを訂正すればいいのかますますわからなくなってきた!
「比呂、実際は、私と兄ちゃんは付き合ってもいないし、私は兄ちゃんを好きだったことなど一度もないからね」
「全然?」
「全然」
「少しも?」
「少しも!というかちょっと考えればわかるでしょうよ!比呂の兄ちゃんを変人扱いしたくないけど、あの人ちょっと変わってるよ!あの人と恋愛するなんて、ハダカデバネズミと一緒に風呂に入るくらいの覚悟が無いといけないような気がするし!」
「……そ、そうかな、俺から見ると、兄貴と樹里亜は似てるところがあるような気がするけど……」
「えええ!」
非常に、心外である。は!しかしそうか。大好きな兄ちゃんに似ている私が好きという心理は、やはり姉を慕うような、なんていうのそういうの、兄ちゃんに対する疑似恋愛的な何かでスライドされて隣の私が好きとかそういう心理で、比呂は……。
「違います」
「え?今声に出てた?」
「あのさ、樹里亜。頭の中真っ白にして」
「へ?」
「真っ白いスクリーンを想像する。何も聞こえないし何もない。なんにも」
言われたとおりに真っ白い画面を思い描く。比呂は私の肩に手を置いて、じっと私を見るから、私もただ、比呂の目を見た。
「俺は樹里亜が好きだ。ただそれだけなんだ。樹里亜のことが好きなんだ」
「えっと、比呂」
「そこに理由も何もなくて、ただそういうこと」
そうして不意に比呂が私の口に、もう何度も交わしたその唇を落とす。
「間違っても、兄貴にキスしたいとか考えた事もないから。つうかこんな事言いたくもなかったけど!」
頭の白い画面に、やけにくっきりとはっきりとした明朝体の文字が浮かび上がる。『樹里亜のことが好きなんだ』と。
「わかった?」
「わかった」
そう言えば、やれやれ、という風に比呂は息を吐いた。
「それでさ、兄貴のことは全く対象外なんだよね?」
「そのとおり!それにかけては今この画面に、ゴシック体で書いてもいい!」
「……うん、よくわからないけど、まあ、いいや。じゃあ、俺はどう?」
「比呂?」
「そこで俺の名前に疑問符がなんでつくんだ……」
先ほどの勢いをなくして、比呂は肩を落とす。あわわわ、なんだ、難しいな、さすが10代。
「えーっと!!!」
「……うん」
「比呂は一般的に見て、普通だと思う!」
「ふつう……」
比呂はこめかみを押さえながらその場にしゃがみ込んだ。え!え、どうした!
「いやその、つまり、比呂はさ、普通にモテるだろうと思うし、普通にかわいい彼女ができると思う普通のリア充タイプだと思う!なんかこう、モテるとは言ってもキョンちゃんみたいなちょっとアレな感じでもなく、なんていうの、安心して嫁を渡せるというかなんというか……」
なんだ言ってることがよく分からなくなってきた!!
「つまりその」
つまりつまりつまり。
「比呂のことは好きだよ。普通に」
しゃがんでいた比呂が、ふっと笑いをもらす。そうしてそのまましばらくくすくすと笑いながら、ゆっくり立ち上がると「今はそれで満足しとく」と言った。眦が赤くなっていたけど、今のが涙が出るほどの笑いだったのか!!控えめだな!
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