第19話

 相変わらずテンションが妙な方向へ高い兄ちゃんであるが、今日はその、比呂によく似た横顔に影が差しているようだ。大学へ進学すると同時に兄ちゃんは一人暮らしを始め、卒業してもそのままだったから、ここ最近顔を合わすこともなかったが、久しぶり~という雰囲気は雲散霧消した。

 「そう言えば兄ちゃん、盆でも正月でもないのに、急に帰ってくるなんて何かあったの?」

 「いや、ほら、親が旅行に行って比呂が一人になるというし、俺も偶然スケジュールが空いて、もうこれは比呂の寂しさに付け込んで優しくすれば、前みたいに仲良くできるよ!って神様が言ってるような気がしたからさ……」

 そう言ってがっくりと肩を落とした。その気持ちは痛いほどよく分かった。


 兄ちゃんが10歳、私が7歳の時に比呂が生まれた。兄ちゃんは弟が生まれたことをすごく喜んで、10歳のくせにおんぶして公園行ったり、おむつ替えまでやっていた。

 やがてハイハイするようになると、兄ちゃんは常にハイハイするようになった。登下校ではやめろと怒られていた。

 そのうち歩けるようになると、1メートルも歩いていないのに、まるでフルマラソンを比呂が完走したかのように全身で喜んだ。

 初めて発した言葉は「にーにー」だった。兄ちゃんは感激し、私にも自慢しまくり、何回も比呂に言わせてすぎて、怒った比呂が積み木を兄ちゃんに投げつけて、それをよけなかったために右目の周りに大きな痣を作った時もあった。 

 ちなみに、中学生で初めて持たされた携帯に最初に録音したのは「にーにーだいしゅき」という比呂の言葉で、ずいぶん長い事目ざましに使っていた。今も使ってるかもしれない怖い。

 幼稚園の運動会なんか、周囲の保護者の方々が引くほど応援したりした。それくらい比呂のことは、軽いトラウマになりそうなほどかわいがっていたのをよく覚えている。

 比呂は成長するにつれ、もちろん兄ちゃんべったりになるわけだが、半分対抗心も育てていった。出来るはずないのに、兄ちゃんと同じことをしようと無理をして泣いたりするときもあった。兄弟っていろいろと面倒な感情があるもんだと、一人っ子である私はうらやましくもあり、またなんだか大変そうだなと思ったりもした時もあった。

 そんな風に私が思うにもかかわらず、どんなに対抗心むき出しで行っても、兄ちゃんは比呂を「かわいいなあ」と相手にしない。それがますます対抗心に火をつけたのだろう。

 そうだ、対抗心。兄ちゃんのことが好きであるが故、その存在をまた超えたいと思う、そういうのなんかどっかスポ根ものの漫画で読んだような気がする!

 比呂は兄ちゃんが嫌いなわけじゃない。兄ちゃんが大学へ行って家を出て、それから比呂の、兄ちゃんに対する態度は硬化の一途だった。

 私は一人うなずく。そう考えると、比呂がなぜ私と付き合いたいと思ったのか、そして先ほど投げつけられた『兄貴とはやれるのに』という謎のセリフの意味も理解できる。

 もちろんそんな事実はあるわけない。私にも選ぶ権利というものはあるのだよ、比呂。

 リビングへ続く廊下で、リアルにorzの形を保ち続けている、28歳の兄ちゃんを振り返る。あり得ない。

 「じゃあ、兄ちゃん。行ってくるぜ」

 「お、おう……。樹里ちゃん。なにをどう任せていいかわからない上に何を任せているのかもいまいち分からないけど応援してる」

 兄ちゃんはorzのまま顔だけこちらに向けてそう言った。大丈夫。兄ちゃんの脳みその容量超えるとこまで期待しないから。

 マンションのドアを閉めて、向かうところは一つである。昔からヒロは拗ねるとそこにいた。先ほどから少しも涼しくならない風を受け、街灯の光すら暑いと感じる夜道を行く。


 兄ちゃんを好きすぎて兄ちゃんに憧れて、それが故の対抗心を看板みたいに掲げてしまっているに違いない、比呂。たぶん間違いない。

 兄ちゃんは私から見たら結構アレだけど、やはりそこは兄弟。オムツも替えてもらうという間柄、同じ血が流れる人間として、一番に憧れても驚きはしない。確かに驚きの人間性の持ち主であることは否めないが、10歳も離れていればそんなことは見えないだろう。むしろ愉快なお兄さんである。

 高校も結局兄ちゃんと同じところに進学した比呂。しかも兄ちゃんはあれでも、実はスタジオミュージシャンとして結構有名どころのツアーやらライブなんかのバッグをやっている。それを証拠に、比呂だって結局バンド始めたじゃないか。

 一分の隙もない私の比呂分析。さすが長い付き合いだ。ほとんど母親と言っていい。

 そこで話は最初に戻る。なんでそう思ったかわからないが、どうも比呂は私と兄ちゃんが付き合っていたことがあると思っているようだ。それで初めに、私を文字通り通過しなければならないとでも思っているのではないだろうか。勝手に通らないでほしいと思うのは私だが、イケメンであり、さらに「キノコばばあ」というある意味的確な指摘をすることができるくらい切れ者の美少女にも好かれているというのに、わざわざ私と付き合うという黒歴史を作らなくてもいいのである。

 私は一言、比呂の耳に「兄ちゃんとは何の関係もないですよ~」と告げて、比呂の呪いを解いてやらねばならない。

 昔そんな童話読んだなあ、と思いながらさすがに少女とは言い切れない私が、砂浜じゃなくて市街地をカモメではなく鳩のように走る。くるっぽーくるっぽー。


 やがて、コンビニの灯りが見えてくる。どこから集めてきたのか、全く種類に統一性のない椅子が、このコンビニ前にはずらりと並べられていて、昼間はおばあちゃんやおじいちゃんがそこでよく休憩をしている。ほどよく向かいの建物の影が落ちて、今の季節でもお年寄りがよく座っているのだが、今は店内の灯りを背負って、比呂がそこに座っていた。

 「くるっぽ……いや、比呂!」

うっかり鳩のまま話しかけるところだった。呼びかけると、比呂が弾かれたように顔を上げ、私を視界にいれると、辛そうに顔をゆがめた。

 私はそのまま比呂の前に立つ。比呂は目を伏せて、顔をうつむかせてしまった。

 「比呂」

 「……めん」

 「え?」

 「ご……めん、俺」

絞り出すように言う比呂の、缶ジュースを持つ手の指が白くなる。ごめんというのは私に馬乗りになった事だろうな。

 「まったくだ」

そう言うと、ますます比呂はうつむくから、私はしゃがんでその顔を覗き込んだ。

 「比呂」

すっきりとした二重の目が、私を気まずそうに見る。

 「わかっていると思うけど、同意の無い事を二度としちゃダメだ」

今後できるであろうかわいらしい彼女に、比呂がそんな横暴を働いてほしくない。

 「本当に、ごめん。ごめんなさい。俺、なんかどうしようもなくなる時があって、どうしたらいいかわからなくなる」

 私はその頭をなでる。男のくせにやけにさらさらとした髪も、昔から変わらない。

 まずは兄ちゃんに対しての対抗心を何とかしてやらなくちゃいけない。比呂は比呂のままでいいのだ。比呂は比呂の人生を歩くべきだ。私は、さあ今こそ呪いを解くぜよ!と息を吸いこんだら、比呂が先に話し出した。

 「樹里亜……俺、樹里亜に言って無い事があるんだ」

ちょっと肩すかしだが、じゃんけんで話す順番を決めるような場面ではない。

 「うん。なに?」

仕方なく譲る。言って無い事を言うよりも、聞いてないことを聞いたほうがよいのだが……。すると、比呂は意を決したように顔をあげ、私をまっすぐに見てこう言った。

 「兄貴さ、もうすぐ結婚する」

へ……。け? 

な!なんだとうううううう!結婚!!!!兄ちゃんが!

 私はよろめいた。なんということか!なんという大ばくち!あの兄ちゃんと結婚しようというアマゾネスの様な精神力の女が現れるとは!まさに博打!兄ちゃんに人生をゆだねるなんて!

 驚愕と共に私は歓喜の鐘を聞いた。え?待てよ、え?あの兄ちゃんが結婚できるということは!なんか同じにおいを発してるとよく言われる私にも、結婚なんて人生の選択肢があわや残っているということか!!!!

 おおううう!なんてことだ!私はこのまま色事に一切かかわらぬ人生をひたすら摩耗していくのだろうと思っていたのに!!兄ちゃんが本木雅弘に見えるうう!「このカンテラでお前の道を照らしてやる」って線路で言ってる気がしてきた!古すぎて誰も知らない映画の場面が私の中によみがえってくる!

 視線を感じてハッと比呂を見れば、神妙な顔をして私を見ていた。

 その顔を見て私は重大な事を思い出す。

 しまったああああ!兄ちゃんは比呂の兄貴だった!!!うっかり忘れていたけど、顔が、顔が比呂にそっくり!ってことはすなわち!!!!!!!

 兄ちゃんも、顔だけ見てればイケメンなのだった……。

 急上昇した私の気持ちはそのまま急降下して深く暗い穴に永遠と落ちていく。うふふ私アリス……。

 顔のつくりの違いについて、あまり考えたことは無かった。だって普段の行動が常軌を逸しているし。しかし顔面の壁は見えない鉄条網となって私を圏外へ放り出す。

 愕然とした気持ちを体で表すとどうなるかこうなる。orz。地面が汚い事は百も承知だが、私は私を支えることなどできなかった。同類と思っていた人間が本当は白鳥だったのだ。私はしがない家鴨……と書いてアヒル……。漢字から受けるイメージすら天と地ほど違う……。

 「樹里亜……」

比呂は不意に立ち上がると、そんな私を掻き抱いた。ううう、大人なのにこんなポーズしてごめん……。

そう言おうと身じろぎしたが、比呂は一層腕に力を込めた。

 「樹里亜、兄貴のことを好きなままでもいい」

比呂はかすれる声で、確かにそう言った。え?あれ?

 「それでも、俺を、俺を樹里亜の側に居させて」

 「比呂……」

 「兄貴と似ていて兄貴の弟な俺と一緒にいるのは、樹里亜には辛いかもしれないけど、でも俺、もうこの手を離すことなんてできないよ」

 は?え?あれ?

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