第18話

 それきり黙ってしまった比呂の横顔は、まっすぐ前を向いたままだ。

 夜になってもアスファルトは昼間の熱を逃がさずに、足から暑さが登ってくる。たまに吹いていく風は生温かく、またしても熱帯夜の始まりかと思うとうんざりするが、夏は始まってしまったから暑い暑いと言っていても仕方がない。もうすぐ海へ行くことだし。

 おおよそ人からのイメージからすると、私は家から一歩も出ないような風に取られるけれど、夏といえば我は海の子を熱唱したいくらい海が好きという本当はアウトドアな人間である。というかむしろなぜ私がインドア派と思われるかがわからない。背中に漂うワイルドな雰囲気を感じ取ってもらいたいものだ。ああ、Tシャツにワイルドって書いてないからか?近々入手すべきだな。

 だから比呂から海のリクエストがあった時は、まさしくオレの漁場バッチコイ!と気合が入ったのに、今まさに、当の本人がよく分からない。もやもやっとしている。朝もやレベル。やれやれ、10代の少年というのはまったく難解だぜ。

 次はどんなエサで、ご機嫌を直せばよいものかと思案しているうちにマンションに到着した。ぬううう……。いい案が浮かばなかった。まあ、いい。明日になれば風向きも変わろう。船が出るぞー。

 「じゃあ、比呂。お休み」

そう手を振って背を向けた。いつもならここで「おやすみ」という一言が聞こえてくるはずなのに、一向に気配がない。気になって比呂を振り返れば、何やら神妙な顔をしている。

 「比呂?」

 「あの……さ」

 「ん?」

 「昨日からうちの親が、海外旅行へ行っちゃってさ」 

 「へえ!!相変わらず仲いいね~」

 「うん、でさ……」

 「うん」

 「なんか、また、一人だなあみたいな」

 そう言って目を伏せた比呂に、数年前の小さかった比呂が重なった。夕方のチャイムが鳴ると家路を急ぐ子供たち。その中で比呂はいつもゆっくりと歩いていた。まだその時間に、比呂のお父さんもお母さんも帰ってない。平気な子は平気だけど、比呂は平気な子じゃなかった。私が夕方学校から戻って、極端にゆっくり歩く比呂の背中に「おかえり!」って声をかけて、「またマリオカートやる?」と訊ねて、そうするとぱっと顔を上げて笑顔になった。お母さんが帰ってくるまでの、30分とか1時間とかそんな短い時間を二人で遊んだ。

 あの時と同じような顔をされたらさ、「もう18なんだからしっかりしなさいよね!」とも言えなかった。

 「じゃあ、マリオカートでもやるか!」

と言えば、比呂はぱっと顔を上げて、うんと言って笑顔を見せた。


 5年ぶりくらいにお邪魔した比呂の家は、相変わらずロマンチックホイホイだった。ありとあらゆる家具も小物も全くドイツロマンチック街道だった。さすが比呂ママ、何年経ってもぶれないなあ。

 あのひらひらしたソファに座って、周囲の環境に全くそぐわないマリオカートを白熱したもんだ。

 「入って」

 と、勧められるまま、懐かしのリビングへのドアに手を掛けた時、「こっちこっち」と比呂が後ろから手招いて、廊下の右の部屋のドアを開ける。あれは懐かしの子供部屋じゃんか!

 私は兄弟もないから、縁の無かったトミカとかプラレールとかレゴのおもちゃがあの部屋にはいっぱいあって、7歳上の技量を駆使して一大トミカタウンを作ったりしたんだった。シムシティリアルバージョンみたいな。ああいうの、比呂は喜んだよなあ。

 なんてことを思いながら部屋に入ると、当然だけどそれらの懐かしいおもちゃはどこにもなかった。

 普通にベッドと机と本棚があるという、なんともつまらない部屋に変貌していた。

 私の部屋にはまだリカちゃんハウス飾ってあるのにな。めちゃくちゃ場所とってるけどな。いい加減片付けろって言われているけどな。片付けろってもう20年言ってるって言われるけどな。

 部屋のドアを開けたら、もう高校生バージョンのトミカタウンがバーンとあるという私の夢はもろくも崩れ去った。比呂ったら大人になってしまったのね……。

 そんながっかり感の中佇んでいると、いきなり比呂が後ろから抱きついてきた

 「おわ!!」

 私はバランスを崩しかける。何とかとどまったが、今度は回転させられて、一体何が起こったのか!私はベイブレードではない!

 「なにす……」

何するのか!という言葉はそのまま比呂に吸い込まれる。でええええ!本日二回目のマスオさんである!などと呑気に解説している場合ではない。

 待て待て!比呂!なぜこんな場所で!いや公道でも嫌だが比呂の部屋というものまたどうしたものか!じゃあどこならいいんだという話ではあるが今そんなことは知ったことではない。

 とか何とか考えているうちに、とうとう踏ん張りきれずに私は後ろにひっくり返る。ヤバい、後頭部はヤバいと思った矢先に、柔らかく体が沈む。ナイス!ベッド!さすがスプリング!助かったいや全然助かってない!

 いくら比呂がデカいから見上げるとはいえ、馬乗りされているのを下から見上げるというのは、状況的にこれはいかん!「いたずらなkiss」だってあれこんなシーン何巻何ページ目というお話だよ!

 「ちょ、比呂」

 「黙って」

黙れるかーー!!

 「待て待てちょ、マジで待……」

強制的に比呂によって黙らされる!ぐぬおううううううう!火事場の馬鹿力はまさにこのこと!チュウにチュウを押し込むように頭を上げて、すっと引いたいくらかの隙間で私は頭突きを食らわす。

 「って!!」

当たり前だ!私だって痛い!!

 「樹里亜……」

 それでもなおも力を抜かない輩に、もうどうしたらいいんだ!滅びろ!バルスバルス!!

 混乱のさなか、不意に玄関のドアがガチャガチャと威勢の良い音を立てた。その瞬間、比呂がはっとドアを振り返ったおかげで力の均衡が崩れる。おっしゃあああ!今だー!と比呂を突き飛ばすのと、玄関から「さーくーまーのぶくんでえええっすう!比呂りんただいまーーーんまん!!」

 という懐かしい声が聞こえたのがほぼ同時だった。

 ああああ!あの声はーーー!!まさに救世主!!

 走り寄った部屋のドアに手を掛けドアノブを回し、開け放とうとした瞬間、暗い声が聞こえた。

 「兄貴とはやれて、何で俺とはやれないんだよ」

 ……え?今なんと?

 ドアは静かに開いていく。廊下の灯りがベッドまで差し込み、ひどく暗い顔をした比呂を照らす。

 「あれ?樹里ちゃんじゃーん!あのイカした運動靴!やっぱり樹里ちゃんのだったか!」

 「兄ちゃん……」

反射的にそう呼ぶと、大きな手が頭を撫でた。

 「なんだ?二人とも~。いい年してまだマリオカートか?」

 ドアの隙間からのぞいた顔が朗らかに笑む。

 音を立てて比呂が立ち上がると、私たちの横をすり抜けて、玄関へ向かう。

 「ひ、比呂!」

 そう呼んでも振り返らない。そのまま雑に靴を履くと、バンッという音を大きく立てて玄関の向こうに出て行ってしまった。

 「なーんだ、比呂りんめ。まだ中二病治らんのか……」

 悲しげにまゆを寄せると、大きくため息をついた。


 佐久間暢というのは、比呂の10歳上のお兄ちゃんだ。私とは3歳しか違わなかったから、比呂が生まれる前から私はよく遊んだ。その関係か、私は小さいころから「兄ちゃん」と呼んでいた。兄弟姉妹もいない私には、兄のように接することができる「兄ちゃん」にずいぶんと懐いていたのだ。

 「比呂は俺が嫌いなのかなあ」

 「そんなことないよ!昔、よくついてきてたじゃん。にいににいにってさ」

 「昔はそうでもなかったけど、あいつ中学生になったころからずっとああだし。もう18になのになあ。ごめんな、久しぶりに会うのに、こんな話して」

 「兄ちゃん……」

 さびしそうに呟く兄ちゃんのセリフが頭を反芻する。

 あれ、それどっかで聞いたことある。「中二病治らん」とか「嫌いなのかな」とか。しかもごく最近聞いたよ……。いつだったか誰だったか。すごく重要な事だ。思い出せー思い出せいいいいいいいいいい!

 はっ!!私のセリフだよ!

 そうだ!比呂が私を無視しまくっていたのはごく最近のこと!結局あれは私の事が好きでした、のツンデレだったわけだが……。

 や、待てよ。とすると、比呂が兄ちゃんにつらく当たるのも、本当は兄ちゃんが好きで好きで好きで辛抱たまらんからなのでは!!!

 ふおおおおおおお!待てよ!とすると!いやいやそうだきっとそうに違いない!今まさに私の頭の中身が、まるでお掃除専門家がクリーンしたみたいに理路整然となった!まさしく平安京ここにあり!

 私は顔を上げる。

 「兄ちゃん、私に任せろ」

 「ふおおおお!なんだその自信のと輝きに満ちた瞳ー!!!キタコレキタコレ!!」

 「すべての謎は!」

そのまま玄関を指さしながら叫んだ

 「まるっとお見通しだーーー!」

 「待ってましたー!樹里ちゃん素敵ー!!」と横から黄色い声援が来る。さすが兄ちゃん。心得ているぜ。

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