第2話
バーゲンというのは生きるか死ぬか。もうね、言葉を発するのも厳しい状況下ですよ。怜ちゃんは私をセール品確保要員として戦線へ送り込むのに、私の行きたいお店には「そういうお店には入りたくない」ってね。本当、あの人の生き方すごいよね。
ということでやっと自宅へたどり着いたのは22時を回っていた。半分意識喪失しながら二人で夕飯を食べて帰ってきたからと言えなくもない。
マンションのエレベーターホールで、電光表示される数字を見ていた。不意に後ろから足音が!無理だ。両手がふさがっている状態で、精神力もゼロに等しい状況での攻撃に対抗する手段はない!なんてな。マンションなんだからエレベーターの前に人集まるの普通だし。ダメだ疲れた。
ピーンという間抜けな音がしてエレベーターが開く。紙袋をわんさかと手に持ってごそごそと乗りこめば、後ろから乗ってきた人物と不意に目が合う。目が合う。目が合った―!!にも拘らずものすっごいスルー。例えばさ、目が合うかどうかとかこっち向いてるかどうかわからない距離ってあるじゃん。それならわかる。あ、気付かなかったのかなあ?とかね。情状酌量の余地があるってものだけどさ。これは確実にダメだろこれ。
「ちょっと。お隣さんに挨拶一つもできないって何?」
すると、振り返りもせずに「コンバンワ」とめんどくさそうな声がぼそぼそと聞こえた。
これはもう確実にカチンとくるよね。
「挨拶すりゃいいってもんじゃないでしょ?大体高校生がこんな時間まで制服でうろつくって何事?」
「はあ?」
ゆっくり振り返ったその顔は問答無用の美形である。しばらく顔を合わせてなかったが、かなり良い方向へ順調に成長してんだな、くっついて歩いていた、人形のようにかわいかったころを思い出してしばし見つめてしまう。
するといつの間にか距離を詰めてきたやつの顔が真上にから覗き込んできているのに気づく。背もずいぶん伸びたんだ。背を抜かされたのはいつだったっけ?
がたんとエレベーターが止まり、後ろのドアが開かれる。だけど目の前ののっぽがどかないから私は降りることができない
「ちょっと。着いたんだけど。どいて?」
するとあからさまなため息をついて、エレベーターから降りていく。
なに、あの反抗的な態度は!18にもなってあんなんじゃ、先が思いやられるね!早いとこ社会にもまれやがれ!
隣の家に消えていく背中に、靴を投げ飛ばしたくなったが、あいにく両手はふさがっていた。
体をよじらせながら玄関ドアに鍵を差し込み、ドアを開くと母がパジャマで立っていた。
「ちょっとお母さん」
私はたまらずに、そのまま話し出す。
「ただいま、は?」
「ただいま、ちょっとお母さん隣の息子どう思う?」
「何よいきなり。比呂君?いい子じゃない。すっごいイケメン君になっちゃって。礼儀正しいし。あの年で隣近所にちゃんとあいさつするの偉いわよ。いうことないわね」
「へ?」
「この前もスーパーの帰りに会ったら、買い物袋持ってくれたのよ。優しいし。あんたも少しは見習ったら?」
なに、それ。あの態度の悪さは私限定ってこと?(身長差から言って仕方がないと思いつつも)見下すあの出来過ぎた顔を思い出すだに腹が立つ。
なんなのあいつ!弟のようにかわいがってやったというのに!!
「早くお風呂入って寝なさいよ~」
母がのんきな声でそう言った。お腹の底から湧きあがってくるこの怒りをどうしたものか!ひとまず自室へ入って買い物袋を床に置く。当たるものが何もないので仕方なく自分をベッドに放り投げる。
比呂の事は生まれた時から知ってる。隣の美人ママの赤ちゃんだけあって、あのころからおむつのコマーシャルに出てもいいくらいかわいかった。小学生くらいの時までは夏休みの宿題だって見てあげてた。
いつもニコニコしている比呂は、天使みたいだった。それが中学に入るころから急に無視され始めて、でもあのころってそういう年だし仕方ないかあと思ってたらいつまでたってもおんなじ態度だし!
はあ。私はため息を吐く。むかつくんじゃなくて、さびしいんだ。隣のお姉さんとしては。
昔みたいに「じゅりちゃんじゅりちゃん!」ってそう言ってほしいんだ。何でもいいよ。今なら、カブトムシの話だって、ワンピースのサンジの話だって何時間でも付き合うのに。
「せっかくのライブなのに、辛気臭い顔してるわね」
「ええ?そう?」」
「なんかあったの?」
「いや、こう時の流れの無常を感じたりなんだり」
「樹里亜の言ってることっていつまでたっても訳が分からないよね」
恵美ちんからもらったチケットで本日はライブなり。なんか結構なお客さんの入りで、結構混み合ってる。
「恵美ちん。相変わらず容赦ないね……。ところでこのバンドって、作ったばっかじゃないの?なのにワンマンなの?」
「I factorはsinさん効果もあるけど、結構人気出てきてるんだよ。樹里亜が知らないほうが驚いた」
「あーなんか名前は聞いたことあるような気もするんだけど、最近ご新規さんにまでお金が回らない!」
「……どんなお金の使い方なんだ。そりゃ怜も心配するよ」
「あはははは」
「笑ってもごまかしきれん」
なんてこと話しているうちにばんっと客電が落ちて、次にまぶしいくらいのライトが目を射る。相変わらずアグレッシブなドラムが聞こえて耳を割くような歓声の中、その上を行く音が心臓をわしづかみにする。ライブの始まる瞬間が好き。どうもこうもないで、すっ飛ばされる感じ。
疾走感のあるメロディと、ああ、これ。このボーカルすごい。
ひさびさに耳がノックダウンされるぐらいの声量とこの声。
「すごいじゃん」
隣の恵美ちんに叫ぶとうんうんと頷いている。煽りもうまいし、私は否応なくI factorの世界に連れ込まれた。
音楽に身を任せながら薄々感じた違和感以外は、久々に最高だと思えるライブだった。曲も好みだし。
ライブが終わってぞろぞろとライブハウスを後にするお客さんに流されながら、私と恵美ちんも地上の空気を吸う。久々の確かな昂揚感に、恵美ちんとつい熱いトークをしてしまう。
「やっぱsinさんのドラムはいいよね!」
「うん。熱いんだけどリズムは狂わないし、しっかり曲支えてる感じだしね」
「そうそう!ボーカルの声もいいよね。あの声は宝だわ!」
「んだね。なんかこうすっと入ってくる声だよねえ」
普段はそんなにテンション上げない恵美ちんも心なしか浮き足立ってる感じで、私たちはそのままファミレスいっても同じ調子でしゃべりまくる。
「でもさ、恵美ちん」
「うん?」
もう何杯目かのコーヒーを飲む恵美ちんに先ほど感じた違和感の元を聞いてみる。
「あのボーカル、なんでキャップ取らないの?」
そうなのだ。ボーカルさんは最初から最後までずっとキャップを目深にかぶってて、はっきり言ってその上真上からの照明で影になり、全然顔が見えなかった。
「ああ。そうなんだよね。ボーカルの顔いっつもわからないんだよ」
「えー?そうなの?まあ確かにあれだけ目深にかぶってたら顔なんかよくわからないよね。なんでだろ?」
「さあ?まあ音楽は顔じゃないというものの、あの声にはまった女子のファンも多いし、悪い方にギャップがあると居た堪れない感じとか?」
「あー……。でも人気出てきたらそうも言ってられんでしょ?」
「そうかもしれないけど。逆にすっごい美形だったりして」
「だったら顔だすじゃん。その方が人気出るだろうし。というか、その美形かもしれないという期待を持たせといて真逆だったらますます苦しいのにね」
恵美ちんと一通り語りつくして、ファミレスを後にする。とりあえず、次のライブも行くということを決定事項にした。次が楽しみだなあ。
電車に揺られ、目をつぶると、さっきのライブの臨場感がよみがえる。今日はいい夢を見れそうだ。
地元の駅の改札を抜けると、前方に見知った後姿が視界に入る。
あいつ。時計を見るとすでに23時近い。高校生の分際でこんな時間までほっつき歩くとかけしからん。
「比呂!」
後ろから大きな声で呼んでやると、びくりと肩がはねる。そのさまが昔みたいでついにやりとしてしまう。カッコつけたって比呂は比呂だ。比呂は心底うざそうに振り返る。
「こんな時間まで高校生が遊び歩くな!」
「はあ?」
「はあ?じゃないの。全くもう」
「身内でもないのにうるさいんだけど」
「身内でもないって……。あのね!弟のようにかわいがってきた私に向かって何その発言!」
「お前にお姉さんやってくれなんて頼んでないし」
くっそむかつく!
「あんたねー!」
「もういい?うるさい」
それだけ言うと、比呂は歩き出した。実際これだけ足の長さも違うと、向こうがさっさと歩けばこっちは当然追いつけないわけで。それで。私は歩みを止めてしまう。
身内じゃないってさ。その一言が案外ぐさりと刺さってしまった。さっきまでの高揚感はすっかりしぼんで、私はがっくりと肩を落としていると、前方から足音が聞こえ、はっと顔を上げると先に帰ってしまったはずの比呂が目の前に立っていた。
「何やってんだよ、こんな時間にこんなところで突っ立ってたらあぶないだろーが」
そう言うと、私の手提げバックを引っ張る。
「え、ちょっと!」
そのまま私は比呂に引っ張られるバッグごと歩き出す。見上げる背中は広くていつの間にこんな大きくなったんだろうか。蛍光灯の明かりで、私たちの影がいくつも放射される。そのどれも私は比呂の背に届かなかった。
無言で歩く私たちはマンションにたどり着く。そのままやっぱり無言でエレベーターに乗り込んだ。
やがて私たちの家のある、8階に到着する。
「あ、ありがと」
ここでちゃんとお礼を言わねば。心配してくれたんだろうからなと、私は隣の家に入ろうとする比呂の背中にそう言った。
「俺、お前の弟じゃないからな」
比呂はこちらを見ずにそれだけ言って、ドアの向こうに消えた。
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