もう、この手は君に、触れてしまった。
ナガコーン
第1話
たとえどんなイケメンが耳元で甘言を囁き、優しく髪を梳こうとも、この胸の高鳴りを明け渡すことはできない。綺麗な瞳にのぞきこまれようとも私の心は靡かないだろう。そう、恋焦がれたひと月に一度の再会の時!
給料日!!
バシッとなかなか重い音で頭をはたかれる。
「what's inは結構痛いのに。しかもそれ790円もするんだからー」
「バカなこと言ってないでよねー。このこじゃれたカフェ汚すんな」
「いいじゃん。給料日に対する熱い思いを語ってるだけじゃん」
「うざ」
「ふふふふ。これで来月の参戦日程組まねばな!」
私は手帳を取り出し、いそいそとスケジュールを組む。
「あんたね、いい加減、わけのわからないインディーズバンド追っかけるのやめて、現実見なさいよ。もう25になるんだよ?18,9のわやわやきゃあきゃあしてたころと違うんだからね。大体CDショップに就職して仕事終わると直行でライブハウスって、あんたの頭ん中ちんどん屋でも入ってんじゃないの」
「怜ちゃん、ちんどん屋って単語はなかなか出てこないよ」
「うるさい。今あんたの話をしてるんです」
はああっと大きい溜息をつかれても、関係ない。だって私は紛れもなく楽しく暮らしているんだから。
「怜ちゃんだって、昔は一緒にライブハウス行ってくれてたじゃん」
「そうね昔はね。今とは違うわ。あーあ。あんたが抜け出せないのはいったい何が問題なんだ!」
「問題ってほどの問題じゃないじゃん。what's in返してよ」
先ほど私の頭に打ちつけられたその雑誌を取り返す。だって怜ちゃん、腕に筋肉の筋つくくらい力入れて雑誌持ってんだから。まだ読んでないのよそれ。
そう言うと、テーブルを華麗に滑って私の手元に無事到着。嫌だわ乱暴なんだから。裏表紙に傷が付くじゃん。
怜ちゃんの、大きな目をさらにぐりぐりと黒く縁取りして音が鳴るほど立派なまつ毛がくっついた目元が影を落とした。目の周辺が真っ黒になってちょっと怖い。半目でこちらを睨め上げるからますます怖い。でもあのまつ毛、使い様によっては、男がどきどきしちゃうような魔法がかかってるらしいよ!知らんけど!
それで、そのほの暗い淵の隙間から放たれる眼光が私を捉える。
「確かにあんなイケメンがお隣に存在してたら、世の中の誰も男に見えなくなるから、非日常をよそに求めるのを止めることはできないわね」
なんか小難しいことを言われたような気がする!
「え?怜ちゃん。ごめん、日本語?」
怜ちゃんげんこつ握りしめてるよ!
「えーっとえーっと、ごめん真面目に聞くから!お隣のイケメンね!確かにね!そうね!イケメンイケメンだわ!」
「いわゆる幼馴染ってやつでしょ?それぞれが成長していってはっと気づけは一番そばにいました的な何かは無いの?」
「怜ちゃんの方が妙な創作上手だよね」
「よくある話をしているのよ、樹里亜。私はあんたの事を真剣に心配しているの。確かに高校の時から私は樹里亜と楽しく過ごしてきた。だけど、あの時からあんたは全然何一つも変わっちゃいないから心配してるの。その原因として、あの出来過ぎた顔を持つお隣のイケメンが悪い作用を起こしてるか、もしかしてあんたがずっと惚れてるというまさかの片思いに身を焦がしているかって思ってるわけ」
そこまで言うと、怜ちゃんはカフェラテを口に運ぶ。
「怜ちゃんは時々文学的なこと言うよね。詩でも書いたらいいのに」
ギロリと擬音が聞こえる勢いで目玉が動く。おっといかんいかん。
「変わってないことないよ。高校と違って自由に使えるお金が増えたから、あちこち遠征できるし、いけるライブの数も増えたし、これで毎月頑張ろうって思うし。応援してたバンドがメジャーに旅立っていくのを母のような気持ちで見守ったりさあ。それの何がそんなに心配かけちゃうのかわからないよ。借金してるわけでもないんだし。それから怜ちゃんが心配するような作用をお隣のイケメンは果たしてないよ。ちょっと考えれば怜ちゃんだってわかるでしょ」
「何が?」
「そりゃ美形だよ。子供のころからのけぞるほど見た目はいいさ。でもね、あの子まだ17歳だよ?怜ちゃんが考える様な事あるわけないじゃん」
私は雑誌を丁寧にかばんにしまう。what's inはとんだとばっちりを受けてしまったよ。
「いやだからこそよ。最近になって大人びてきたからなあと思っているわけよ」
「大人びてると言ったってねえ。怜ちゃんは最近のあの子知らないからそう言うかもしれないけど、あれね、まだ反抗期抜けてないから。怜ちゃんの高校の時の彼氏とは全然違うんだから」
「反抗期?」
「そー。顔あわせても挨拶一つもできやしないし、挨拶どころか顔をそむけるしね。いったいいつまで中学二年生やってんだか」
私は思い出すだに腹立たしくなって、フォークでチーズケーキを真っ二つにすると、そのまま口に放り込み、もしゃもしゃと咀嚼する。姉のようにずっとあの子の面倒を見てきたのは私なのにさ。中学入ってからというもの、ものすごくわかりやすく無視しやがって。
「へえ」
って、さっきとは180度反転したかのように怜ちゃんはクールダウンした相槌を打った。
「はいはいお二人さん。コーヒーもう一杯どう?」
頭上からかわいらしい声が響く。ギャルソン服に身を包み、金髪に染め上げた髪を丁寧にまとめて微笑むのは、これもまた高校時代からの友人恵美ちんだ。なんだかんだと高校からずっと仲良くしている私たちは、それぞれがとある企業のOL、CDショップの店員、カフェの店員と、進む道は分かれても、恵美ちんがこのお店でアルバイトだったころから変わらずに、カフェの一角を陣取る。いくら人の良さそうなオーナーであっても、こんな私たちに何にも言わずに微笑んでくれるのは、恵美ちんの人望だね。
「恵美ちーん。怜ちゃんが私の趣味にケチつけるー」
「ケチつけてんじゃないの。加減てものが無いから言ってんの」
「まあまあ。怜が心配するのもわかるけど、いいんじゃないの。本人が楽しんでんだから。そんな樹里亜に実はいいものを持ってきた」
恵美ちんがポケットからさらりと出したのは、ライブの招待券。
「おおおおー!!」私がささやかな感嘆の声を漏らすのと、怜ちゃんがため息を漏らすのがほぼ同時!
「なにこれ、どうしたの?」
重なる声の同じセリフを全く別方向のテンションで怜ちゃんが言うから、恵美ちんは苦笑する。
「undefinedってバンドあったじゃん。もう解散しちゃったけど、あのドラムの人がうちの店長と知り合いでね、今度新しいバンド立ち上げたからってもらったの」
「へええ!懐かしい。undefinedのドラムって言ったらsinさんだよね?」
「そうそう。よく覚えてるね~ さすが!」
「褒めない褒めない!今、もうちょっとまともに生きろと諭しているとこだったのに!」
「まともじゃないみたいに言った!」
「当たり前じゃない。いい年してお給料全部をつぎ込んでるなんて聞いてあきれる」
「いいじゃん~ 私の労働の対価なんだし~」
私がへらりと笑ってみせると、怜ちゃんは私の胸ぐらをつかむ勢いでテーブル飛び越えてくる。
「バンドやってる男なんてろくな男いないんだから、あんたみたいな女なんていいカモにされるのが目に見えてるのよ!」
「いや別に、バンドの方々とお付き合いしたいとか思ってるわけじゃないけど」
「そんなこと言ってるうちにあっさり食われてポイ捨てされるのよ!」
あまりに鬼気迫る怜ちゃんに、もしかしてそんな痛い目にあったことがあるんだろうかと思うけど聞けない。黒縁の眼光コワイ。
「どうどう」
さわやかな笑顔でいつもにこやかクールの恵美ちんが私の頭を片手で握る。
「い、痛い」
「確かにふらふらして危なっかしくて、25歳にしては夢の住人すぎるうえに、今まで彼氏の一人もいなくてこの先もできる要素ゼロな樹里亜を心配する気持ちは分からなくはないけど」
「恵美ちん……オレ撃沈」
ここまでの事をすらすらと笑顔で言い切る事の出来る恵美ちんに、怜ちゃんもちょっと同情したような目で私を見る。
「いいんだ、みんなに蔑まれようと、好きなんだもん。この招待券は余すことなく堪能させてもらうよ」
私はそっと招待券の上に手を載せた。楽しませてもらうわよ、ぐひひひひひひひ。
「ちょっと今の顔ぞっとした!これじゃ隣のイケメンに顔をそむけられるのは仕方ないわね」
「それとこれとは関係ない!お隣さんには挨拶する事も出来ない非常識なのはあっちだもん」
「相手が変態だったら用心するに越したことないわ。イケメンてのは変なのに付きまとわれると怖いしね」
「ちょっと怜ちゃん、今軽く私を変態扱いしなかった?」
「さあって、お茶も済んだし行くわよ」
怜ちゃんは、私をほの暗い隙間からじろりと一瞥すると席を立つ。
「行くってどこへ?」
「バーゲンよ!今日から始まってるのよー。じゃあ恵美、ごちそうさま」
「はいはいまた来てね」
さらっと支払して、ヒールのかかとを鳴らしながら怜ちゃんはお店を出ていく。
「ちょっと待ってよー」
私はあわてて財布を引っ張り出し、中をさらって1000円差し出す。
「はい20円のおつり」
「恵美ちんもライブ一緒に行けるんだよね?」
「そうだね。sinさん出るし、行ってみようかな」
「じゃ、また連絡するよ!!」
金髪のギャルソン美人に手を振って、私はあわてて怜ちゃんの後を追う。
湿度の上がってきた風をまとった強い日差しは、夏を予感させるけれどまだ季節は早くて、でももう夏物バーゲンだって!早!
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