第2話 楽々ポイポイなんて嘘だ!
その翌朝。
「んしょっと」
顔を洗い髪を整え、フィオーネは大きく伸びをした。
魔術学院は、郊外の森の奥に建っている。大きな中庭を囲む形で、教室棟と生徒たちの寮と教員寮と図書館が存在している。そしてその裏に広い演習場と、裏山がある。
森の奥だからか、ここは空気が清涼だ。朝は特にそれが強く感じられる。
中庭に植えられているらしいライラックの花の香りも、風に乗って届く。
その澄んだ空気をたっぷりと吸い込んで、フィオーネの目はぱっちり開いた。
「さぁ、カイザァ。さっそく仕事を始めましょうか。ざっと終わったら、ご飯にしようね」
フィオーネがそう声をかけると、足元で毛づくろいをしていた焦げ茶色のシマ猫が「ニャア」と鳴いた。
家から連れてきたこのカイザァは、その名にふさわしく堂々とした猫だ。飼い主とはちがい、新しい住処でもしっかり眠れたらしい。
「昨日のは、何だったのかしら……」
衝撃的なダリウスとの出会いを思い出し、フィオーネはげっそりした。
フィオーネも年頃の娘なのだ。肝がすわっているつもりでも、やはりあの手の一方的なアプローチを受けると怖い。だから昨夜は、窓やドアの戸締まりを厳重にしたし、念のために隠し扉などがないかも調べた。それでも安心できずに、よく眠れなかった。
「誰もいない、よね……?」
住居として与えられた部屋から医務室に続くドアを、こわごわと開ける。ベッドは空だ。隠れられていてはたまらないと、昨日のうちにカーテンをすべて開けておいてよかった。
「カイザァ、誰か隠れてたら教えてね」
フィオーネはそう飼い猫に頼んだけれど、興味などないと言いたげに窓際へと歩いていってしまった。でも、その態度こそが何もない証だと、フィオーネは安心した。
「さてと」
ホッとしたところで、支給された白のローブをまとった。それから、備品の収納されている棚に向き直る。
棚はよく整頓されていて、どこに何があるのかがわかりやすかった。外用薬、内服薬、包帯など、ひと通り確認しても不足はない。退職前にヘンデルさんがきちんと補充をしておいてくれたようだ。
そこにフィオーネは、念のためにクララの店から持ってきておいた予備の薬も並べていく。そして棚の空いたところに、ハーブティーやお香など、今後役に立つだろうものを並べる。
あとは、簡単に掃除をするだけだ。ほんの数日、人の出入りがなくなっただけでほこりはうっすらと降り積もってしまっている。
「ん?」
フィオーネがハタキでパタパタとはじめたとき、ガタガタバターンと激しくドアが開けられた。……鍵をかけていたのに、だ。これで昨日ダリウスが侵入していた仕組みがわかった。鍵など、あってなかったようなものだなんて、わかりたくなかったけれど。
「ちょ、ちょっと!」
大きく開け放たれたドアから、ぞろぞろと男子が数人入ってきた。
「誰?」
侵入を咎めようとするフィオーネに、少年たちのほうが不思議そうな顔をする。
「それはこっちの台詞よ! あの、休日は基本的に生徒の出入りはないって聞いてるんだけど」
「あ! ってことは、あんたが新しい医務室の先生か。へぇー。俺たちと同じくらいの年に見えるんだけど」
少年たちのひとり、赤毛をツンツンに逆立てた少年が、犬のようにグルグルと周りを回りながらフィオーネを観察する。そのうち匂いでも嗅がれるんじゃないかと身構えたけれど、きっちり二周したところで気が済んだらしい。ピタッと動きが止まった。
「俺、グリシャね。グリシャ・ルルツっていうの! よろしく!」
「俺はカール」
「ボリスでーす」
「ディートリヒだ」
赤毛の少年・グリシャが名乗ったのを皮切りに、少年たちは次々と名乗りを上げる。
「……フィオーネ・リッツェルよ。明日から、この医務室で働くの」
フィオーネは言外に、勤務時間外だと伝えた。けれど、少年たちには伝わっていない様子だ。まったく出て行く気配がない。
それどころか、ググッとフィオーネとの距離を詰める。
「フィオ先生かー。年はいくつ?」
「ねぇねぇ、彼氏は? どんな男がタイプ?」
「どこから来たんだ?」
「朝ごはん済んだー? まだなら一緒行こうよ」
質問責めにされ、フィオーネは言葉に詰まった。自分より背の高い男子四人に囲まれると、圧を感じるのだ。
日頃フィオーネは店の奥でゴリゴリ薬をするばかりで、あまり人と接することはない。接するとしたら、おじいちゃんかおばあちゃんばかりだ。だから、こうしてエネルギーに満ち溢れた同年代の男子に囲まれるのは、どうしても少し怖い。
「あ、あれ? 怖がらせちゃった? あ! 俺、とっておきの技があるんだった!」
フィオーネの怯えを感じ取ったらしく、グリシャがそう言って不思議なポーズをとった。人差し指と中指を立てた手を目元にかざすポーズだ。すると、彼の薄茶色の目から勢いよく青白い光線が飛び出した。目からビームだ。
「え、ちょ、わぁーっ!」
「愛と正義のヒーロー、グリシャ様の必殺技だぜ!!」
「そんなこといいから火を消してー!」
グリシャの目から放たれたビームはまっすぐ窓際のカーテンまで届き、それに火をつけた。フィオーネはあわてて走って行き、どっしりとうたた寝を決め込んでいたカイザァをひとまず救出した。
「あわてんなよ。俺の熱いハートが燃えてるだけだって」
「ちがう! 燃えてるのはカーテン! 早く、魔術で消してよ! 誰かーっ!」
カイザァを抱えて、フィオーネは混乱していた。とにかく早く火を消さねばと考えたけれど、叩いて消そうにも燃えているのはカーテンの高い位置だ。簡単には手が届きそうにない。
火がついて気持ちが高まったのか、自称・愛と正義のヒーローは「カッカッカ」と笑っている。他の少年たちも大爆笑だ。この際、悪の怪人でも何でもいいから助けて欲しいとフィオーネは思った。
「何の騒ぎだ!?」
「フィオ、大丈夫?」
祈りが通じたのか、ドアと窓から人が入ってきた。ドアからは黒髪の青年が、窓からはあのダリウスが。
「またルルツか!」
「安心して。すぐ消すから!」
青年が手を突き出し、ダリウスが杖をひと振りすると、そこからそれぞれ氷と水が放出された。キラキラとした氷の粒が広がろうとする炎の勢いを削ぎ、薄い帯のように伸びていった水はクルクルと巻きついて、燃えるカーテンごと締め上げ、鎮火した。
「……すごい」
あっという間の出来事だったけれど、フィオーネはしばらく見惚れていた。それはあまりにも無駄がない、鮮烈な魔術。詳しいわけではないフィオーネにも、使い手の能力の高さがわかった。
「ルルツ、あれほど屋内で目から光線を出すなと言っただろう!」
火が無事に消し止められたのを確認して、青年はグリシャに向き直った。
「べルギウス先生、そんなに怒んなくていいじゃん。俺、もう少ししたらちゃんと消すつもりだったし」
「そういう問題ではない」
黒髪の青年は、どうやら教師だったらしい。魔術の技術がやたらと高かったことが納得だ。でも、怒ることがずれている気がする。
「……目からビームって、叱られないんだ」
フィオーネはつい、小声でツッコミを入れてしまった。
「ベルギウス先生、ちょっと変わってるから」
「ノイバート君、あなたも人のこと言えないわよ……」
窓から入ってきたダリウスは、颯爽とフィオーネを助け、当たり前のように隣に立っている。髪留めが気に入ったのか、今日も一角獣の角のように髪を結い、おでこと美貌をさらしている。
「フィオ、そんなよそよそしい呼び方はやめてよ。ダリウスって呼んで」
「そのなれなれしい呼び方やめてください」
フィオーネが少しにらみながら距離を取ると、ダリウスは「恥ずかしがりやだね」と笑った。どこまでも前向きだ。
「リッツェルさん。うちの生徒が失礼をした」
淡々とグリシャに説教をしていたベルギウスが、グリシャの首根っこをつかんでフィリーネのところに連れてきた。グリシャは「ごめんなさーい」と言いつつも笑顔で、まったく反省していなさそうだけれど。
「あの、先生、ありがとうございました。それから、ご挨拶が遅くなってしまって……はじめまして。フィオーネ・リッツェルです」
こんなふうにバタバタした自己紹介になってしまったのが申し訳なくて、フィオーネは急いで頭を下げた。腕の中のカイザァも一緒に「ニャア」と鳴く。
「いや、腰を落ち着ける前にお騒がせしてしまったこちらが悪い。私はモリッツ・べルギウス。そちらの猫の方も、昼寝を邪魔してすまなかったな、っくしゅん!」
カイザァを見て目を細めたベルギウスは、触ろうとしたのか一歩踏み出した。けれど、突然くしゃみが出て止まらなくなり、伸ばしかけた手を引っ込めるしかなかった。
「すまない。猫や動物は好きなのだが、近づくとどうにもくしゃみが出てしまってな。今度、マスクを着用して改めて挨拶させてもらおう」
「そうなんですか。あ、この子はカイザァっていいます」
「
猫好きというのは本当らしく、ベルギウスはカイザァから視線をそらさない。それを見て、フィオーネは少しホッとした。グリシャへの怒り方を見る限りややずれてはいるようだけれど、この中ではまともで優しそうだ。突然プロポーズしてくる青年や、目からビームを出す少年しかまだ知り合いがいないとしたら、新生活は不安すぎる。
「それにしても、ノイバートとリッツェルさんが知り合いだったとは」
不思議そうに見比べられ、フィオーネは再びダリウスから離れた。また気づかない間に距離をつめていたようだ。
「知り合いというか、昨日私が医務室に到着したら、ベッドで寝ていたんです。誰もいないと思ったのに」
「ああ、なるほど」
ベルギウスはダリウスとフィオーネを交互に見て、ふむ、と頷いた。
「なるほどって、納得しないでください……」
やっぱりずれてる……と、フィオーネはこけそうになった。
「俺たち、結婚するんだ」
ベルギウスがツッコミなしなのをいいことに、ダリウスはにこやかに宣言した。
「しないから! もー。話をややこしくしないで!」
「してない。説明が不十分だったから、必要なことを伝えただけ」
そんなダリウスとフィオーネのやりとりを、グリシャたちはつまらなそうに見ていた。
「何ですでにダリウス先輩とは仲良しなわけ? てか、べルギウス先生とダリウス先輩の魔術はほめたのに、俺のビームはノーコメントだった。んー、何か心外だ」
「そうだな」
「俺たちだって、それなりにすごいことができるよ」
「じゃあ、あれやっちゃいますかー」
フィオーネのちょっとした言葉を聞きもらさなかったグリシャが、子供のように頬をふくらませる。それに便乗して、他の男子たちも次々と抗議の声をあげ、例の構えを取った。
まさか、と思ったときにはすでに遅かった。
「
叫び声に合わせ、それぞれの目から違う色のビームが飛び出す。それらが合わさって、より集まり、長く伸びる渦状の風になった。
そしてそれは、すさまじい勢いで医務室の中を駆けめぐり、ドアを吹き飛ばして出ていった。
「どうだ! これが俺たちヒーローの力だ!」
グリシャが腰に手を当て格好をつけて言うと、残りの少年たちも高らかに笑った。
「お前たち、いい加減に……」
「ふざけないでよ!」
あまりのことにべルギウスがグリシャたちを一喝しようとした、そのとき。彼が言いきるより先に、フィオーネの怒号が飛んだ。
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