医務室の魔女と魔術学院狂騒ディズ

猫屋ちゃき

第1話 狂騒デイズのはじまり

「――結婚して」


 換気のためにと開けていた窓から、ふっと風が吹き込んだ。その風は、突然のことに思考停止に陥っているフィオーネと、そのフィオーネに至近距離で甘く囁いた青年の髪を揺らした。

(わ……心臓に悪っ……)

 顔の半分を覆っていた前髪がそうして揺れると、彼の隠されていた美貌がフィオーネの眼前に晒される。

 秋の麦穂を思わせる金茶色の髪に、晴れの日の空のような薄青の瞳。その瞳がおさまっている形の良い目は、繊細な睫毛に縁取られている。おまけにくっきり二重。まごうことなき美形男子イケメンだ。

 初対面の美形の異性に唐突に結婚を申し込まれるというのは、なかなかに稀有な体験にちがいない。そのレアな出来事のせいで、フィオーネの脳内は混乱を極めていた。

(ここは魔術学院の医務室。そしてこの人は、生徒さん。それで、えっと、えーっと……どうしてこうなったんだっけ?)

 フィオーネは何とか落ち着くために、ここまでやってきた経緯を思い出そうとした。



 フィオーネがここ、ウーストリベ魔術学院にやってきたのは、空席になった“医務室の先生”の席に就くためだ。

 先生といっても何かを教えるわけではないから、必要とされるのは薬や看護の知識と、健康な体だけ。だから、叔母の営む薬屋で幼い頃からバリバリ手伝いをしているまだ若く元気なフィオーネには、まさにうってつけの求人だった。

 フィオーネの元にその求人情報がもたらされたのは、今からひと月ほど前のこと。



「魔術学院の医務室? ヘンデルさん、辞めちゃうの?」

「そうなの。辞めて、娘さん夫婦のいる南部地方に引っ込むんだってさ。それであたしに後任を頼みたいって手紙が来たの」

「へぇー」

 ある日の昼食どき。

 ハムを挟んだだけの簡単サンドイッチで食事を済ませたフィオーネは、叔母のクララが読み終えた手紙を受け取って目を通した。

 季節の挨拶や南へ行く経緯、娘さん夫婦の近況などをザッと読み飛ばすと、肝心の求人詳細について書かれていた。

 職務内容は、魔術学院の医務室で生徒たちの日々のお世話をすること。親元を離れ、寮で生活をする生徒たちは怪我をしてもひとり、風邪をひいてもひとり。そんな彼らを健康面で支えるのが仕事なのだという。

 住居は医務室隣の風呂トイレつきの部屋を使ってもいいし、希望するならば学院の近くに部屋を借り上げてもらうこともできる。

 食事は学院内の食堂で三食無料。

 そしてお給金は、お屋敷勤めの家庭教師や侍女並みだ。

「はぁ、どうしよ……」

 サンドイッチをかじりながら、クララは盛大に溜息をついた。

「どうしよって、これ、めちゃくちゃ良い仕事だと思うけど」

「ちがうちがう。仕事を受けるか受けないかの『どうしよ』じゃなくて、ヘンデルさんが学院の医務室を辞めちゃうことへの『どうしよ』よ。お得意さんだったから」 

「あ、そっか」

 医務室の仕事の中には薬の在庫管理も含まれ、ヘンデルさんは不足した薬をクララから仕入れてくれていた。主に町の老人たちを相手に商売をしているクララにとってヘンデルさんは上客で、彼女からの注文がなくなるのはかなりの痛手だ。

「ヘンデルさんじゃなくなったら、ちがうところから注文するかもってことか」

「そうよー。もっと人手がある店なら、『迅速に配達します』とか、そういうのを売りにできちゃうから、大きな店に注文とられちゃうかもなー」

 クララの眉間に深い縦皺が一本刻まれる。おそらく、ヘンデルさんからの注文がなくなったあとの経営状況について試算しているのだろう。

 金勘定のことまで深く知らされていないフィオーネでも、今後まずいことになるのはわかった。良い薬を良心的な価格で提供できるのは、ヘンデルさんのような上客の大口の注文があってこそだ。それがなくなると、どうしても薬の価格を上げざるを得ない。

(でも、そうなるとおじいちゃんおばあちゃんたち、困っちゃうよねぇ……)

 体の痛みや不調を訴えつつも、薬を飲んで日々やり過ごす働き者たちのことを考えて、フィオーネも眉間に皺を寄せた。

「仕方がない!」

 しばらくの熟考の末、クララがそう叫んだ。

「仕方がないって、値上げが? だめだよ」

「ちがうよー。大事な人手を手放すのは厳しいけど、仕方がないって話」

「人手? 手放す?」

「フィオ、あんたが医務室で働きなさい。そうすれば、魔術学院からの注文がなくなる心配も、それに伴う値上げの必要もないってこと!」

「やったー! ……ん?」

 おじいちゃんおばあちゃんを値上げという世知辛さから守ってやるぞということしか頭になかったフィオーネは、一瞬クララの言っていることがわからなかった。でも、徐々に理解が追いついて、ようやく驚きがやってくる。

「えー。やだやだ。面倒くさい」

 フィオーネがまず思ったのは、それだった。不真面目ではないけれど、面倒くさがりなのだ。

 全力で何かをしたくない。余力を残して生きていたい。

 それが、フィオーネという人間だった。

「そういうこと言わないの。面倒くさいって言い出したら、何もかも面倒よ」

 そう言ってたしなめるクララの口調も、どことなく雑である。クララもフィオーネ同様、面倒くさがりなのだ。

「えー? 私が医務室の先生? ムリムリ! 私、今年で十七歳よ? 下手すると生徒より年下だもん」

 “先生”といえば立派な大人が思い浮かぶフィオーネは、ぶんぶんと手を振って否定する。

「心配しなくても大丈夫。薬とか手当てとか看病のこと知ってて、健康ならいいって書いてあるもん」

 憂いのとれた顔で、「あっはっは」とクララは笑う。もう完全に、フィオーネが働くものだと決め込んでいるのだ。

「フィオも、外で働くいい機会じゃない。いくらあたしのところで一生懸命働いても、世間的には“働いた”経験とはみなされないわよー」

「う……そうだよね。しょせん、“お手伝い”だもんね……」

 痛いところを突かれ、フィオーネの顔に途端に迷いが浮かんだ。

 もし今後新しく職探しをしようにも、親元同然のところでしか働いたことがないのと、どこかで雇われた経験があるのとでは、後者のほうが断然有利だ。今のままでは、未経験より少しマシ、くらいの扱いだろう。それはずっと、フィオーネも気にしていたことだった。

「それにさ、医務室勤めなら毎日薬をゴリゴリ煎じる必要もないでしょ。あんた、働くにしてももう少し楽なところがいいって言ってたじゃない」

「う……」

 フィオーネの心の迷いに気づいたクララは、ニヤリと笑う。

「元気で若い魔術学院の生徒たちは、きっと怪我も病気もそんなにしないわよ。らくらくポイポイな仕事ね。どう? やりたい?」

「うぅ」

「やってくれる?」

「うー……」

「そっかぁ。やりたいわよねぇ!」

「…………」

 最後のほうは、クララは笑顔で脅していた。そのクララの笑顔の凄みに、フィオーネはつい頷かされる。

 さすがは、海千山千の業者を相手に、日々値段交渉に勝ち抜き、店を切り盛りしているだけのことはある。

 そんなわけで、フィオーネは半ば強引にこの仕事を引き受けさせられたのだった。



 そしてひと月後、ヘンデルさんとの手紙でのやりとりで引継ぎを終え、魔術学院までやってきた。

 馬車に乗って、半日以上の時間をかけて。住んでいた町を出発したのは朝だったのに、市街地を抜け、魔術学院の敷地の広い広い森を通り、校舎にたどり着いた頃にはもう夕方だった。

 それでも、十分早い到着だった。

 本来なら、丸一日かけての移動になるか、どこかで一泊するほどの距離だ。

 でも、学院が手配してくれた馬車は普通の馬車ではなく、魔術機構で動く金属の馬が引いていた。そのため疲れ知らずで、驚くほどの速さで走るのだ。

 速い代わりに振動が結構あるのが、今のところの問題点だ。慣れないフィオーネは、半日ずっと機械の馬が引く揺れの激しい馬車に乗っていたというわけだ。

 だから、疲れてヘトヘトになっていたフィオーネは、医務室にたどり着いてまず窓を開けた。新鮮な空気を吸えば、少しは楽になるだろうと思って。

 そのとき、誰もいないはずの室内に気配を感じた。その気配の在り処は、カーテンで仕切られた、いくつかあるベッドのうちのひとつ。

 おそるおそるそのカーテンを開けると、そこには生徒と思しき青年が寝ていた。鍵はかかっていたし、基本的には休日には生徒の出入りはないと聞かされていたのに。

 驚きつつも、フィオーネはそのままにしておこうと考えた。でも、その意思に反して、その青年はムクっと起き上がった。そして、おもむろにポケットから取り出したビー玉越しにフィオーネを見てきたのだ。

「……前髪切らなきゃ、目が悪くなっちゃうわよ」

 長すぎる前髪を邪魔そうにしているのが気になって、フィオーネは持っていた髪留めで彼の前髪を結ってやろうとした。

 そのことに驚いたのか、それともビー玉の中に何かを見つけたとでもいうのか。青年は目を見開いた。

 その後、冒頭に至るというわけだ。



「け、結婚って、あなた何を言ってるの!?」

「結婚っていうのは、俺と君とが夫婦になるってこと」

「いや、そうじゃなくて、初対面のあなたと、何で結婚って話になるのって言ってるの!」

 距離を取りつつ、フィオーネは思いきり拒絶する。ナンパとか冗談ではない様子なのが、怖い。小首を傾げて不思議そうにしているのが、本気で怖い。

「あ、そっか。俺はダリウス。ダリウス・ノイバート。君は?」

 ダリウスと名乗ったイケメンは、にこやかにそう尋ねてきた。

「……フィオーネ・リッツェルよ」

「フィオーネ! 君が新しい医務室の先生か。うんうん。こうして名乗りあったことで、俺たちは知らない者同士じゃなくなった」

 そういうことじゃないんだけどなとフィオーネは思ったけれど、ダリウスは笑顔で頷いている。一体、何に納得したというのだろう。

「フィオか……フィオーネ・ノイバート。うん、すごくいい」

「えー……」

 ダリウスの顔半分は再び長い前髪に覆われてしまった。でも、口元を見れば笑っているのがわかる。それに本気で恐怖したフィオーネは、腹に力をこめ、気合を入れた。

「あのね、ノイバート君。いい? よく聞いてね。私は、あなたと、結婚しないの!」

 ここは“先生”としての威厳を見せなければと、腰に手を当てて言ってやった。けれど、ダリウスはまた首を傾げるだけ。

「大丈夫だよ。さっきビー玉の中で見たんだ。君が俺の奥さんになってる姿」

「は?」

「未来視だよ。俺の特技なんだ」

 妄想がか? というツッコミが口をついて出そうになったけれど、フィオーネはそれをグッとこらえた。

「私ね、占いとかそういうの信じないの」

「占いじゃないよ。魔術学院で働くなら、そのへんはちゃんと理解しとかなきゃ」

「そういうことじゃ……」

 何を言っても通じないのかと、フィオーネは脱力した。それにはまるで気づかないかのように、ダリウスはフィオーネの手から髪留めをひょいと奪った。

「とにかく、いずれフィオと俺は結婚するんだよ。だから、これからよろしくね」

 そう言ってダリウスは、ベッドから立ち上がる。ササッと前髪を結って、つるりとした形の良いおでこまであらわにして。

 そしてその麗しい顔に素敵な笑顔を浮かべ、医務室を出ていった。

「……何だったの?」

 しばらく経って、それでもフィオーネが口にできたのはたったその一言だけ。

 フィオーネの魔術学院医務室での仕事は、こうして面倒くさい感じ――いや、波乱の予感をぷんぷんさせながら幕を上げたのだった。

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