第3話 医務室の魔女、誕生

「何これ! 棚、倒れちゃったし、ドアは吹っ飛んでいったし!」

 地団駄を踏みながらフィオーネが指差す先には、倒れた棚と散乱した中のもの。衝撃で割れたものもあったようで、薬がこぼれている。それを見て、フィオーネの頭には血がのぼったのだ。

「ああ、もう……何でこんなことするの……薬、もったいないじゃない……」

 顔を真っ赤にして、体を震わせて、フィオーネはその怒りを今にも爆発させるかに見えた。

 けれど、しばらく震えてから、ぴたりと動きを止めた。

「……めんどくさ」

 フィオーネは、途端に面倒くさくなったのだ。怒ることも、散らかった部屋を片づけることも、ここでこれから働くことも。

 面倒で、面倒で、面倒くさくて、その面倒くささが振り切れた。

「流れ星!」

 突然そう叫ぶと、フィオーネの元に一迅の風が吹いた。それは、よく見ればホウキだった。名を呼ばれ、ホウキはフィオーネのところに飛んできた。

 フィオーネはカイザァを抱いたまま、猛然とそのホウキにまたがった。そしてそのまま、空気を巻き上げ、つむじ風とともに飛び立つ。

「もうっもう! こんなところ出ていってやるー!」

 そう言って、フィオーネは窓から出て行った。

 あわてたダリウスが窓から身を乗り出してフィオーネの姿を目で追ったけれど、それは中庭の上空を勢いよく飛び出していき、見えなくなった。

「べルギウス先生、あの子、魔女ですよね?」

「確か、そうだと聞いているが」

 焦った様子のダリウスの質問に、べルギウスは戸惑いながら答える。けれど、少し考えてからハッとした。

「そうか! 裏山は一部瘴気が濃くて、魔女や魔法使いには毒なのか!」

「そうです! それに、ホウキが落ちるかも。――助けなきゃ!」

 言うや否や、ダリウスとべルギウスは医務室を飛び出して行った。

「なになに?」

「どういうこと?」

「よくわかんねぇけど、俺たちのせいでフィオ先生は裏山に飛んでってピンチってことだろ? 行こーぜ!」

「だな」

 グリシャたち男子も、よくわからないままあとに続く。



「きゃあっ!!」

 びゅんびゅんと速度を出して飛んでいたフィオーネだったけれど、鬱蒼と木々が生い茂る山の上空までやってきたところで、突然ホウキから振り落とされそうになった。

 正確にはホウキが目を回したかのように震えだしたため、またがっていられなくなったのだ。

 精霊の力を借りて飛ぶホウキは、瘴気の影響を受けやすい。

 魔女や魔法使いといったものは行うことすべて精霊の力を借りているから、それらの力が弱まる場所では、当然何もうまくできなくなってしまう。それが魔法と魔術、もっといえば魔女や魔法使いと魔術師の違いだった。

 フィオーネ自身もめまいを覚えて、ぶるりと頭を振った。

「流れ星、とりあえず落ち着いて。ゆっくり、下におりましょう」 

 柄の部分をさすってやり、努めて優しい声をかけてやると、ホウキの震えはいくらかおさまった。腕に抱いたカイザァを落とさぬよう、ほとんど両脚だけでホウキを支え、フィオーネは少しずつ地上を目指す。

「ここ、どこ……?」

 枝や葉に引っかかりながら何とか地に足をつけると、周りは見たこともない景色だった。

 黒々とした幹の木ばかり生えているからか、山全体が暗い。それにどことなく枝ぶりが異様だ。何らかの力の流れに歪められ、ねじれている。それに、空気も淀んで不気味だ。薬草採取のためにこういった森には馴染みがあるつもりだったけれど、知っている森とは違い、清涼な感じはしない。

「学院には、戻れないみたいね」

 プルプルと震え続けるホウキに、フィオーネは問いかけた。

 このホウキには魔法がかかっていて、日頃は命じればどこにだって飛んでいけるのだ。だから、フィオーネは基本的に迷子知らずだった。

 でも今は、頼みの綱であるホウキは目を回しており、フィオーネを乗せて飛び立つ意志は見せない。本来はよく言うことを聞く、良いホウキなのに。

「ごめんね。私、ちゃんとした魔女じゃないから、こういうときどう対処してあげたらいいかわからなくて……」

 なだめるように柄を撫でてやりながら、フィオーネはちょっぴり悲しくなった。叔母のクララもフィオーネも、せいぜい薬草に詳しく、ちょっとした薬を作るための“力”があるだけだ。魔法と呼ぶにはほど遠い。魔女と呼ぶにふさわしい立派な魔法が使えたフィオーネの母は、もういない。おそらく彼女が、フィオーネの一族の最後の魔女だったのに。

「あとでいい匂いのする草のお布団に寝かせてあげるから」

 ホウキは長く飛ぶと疲れる。疲れたホウキには魔力を充填してやる必要があるのだけれど、それができないフィオーネは、代わりに香草などに宿る生命力を移してやるのだ。気休めのようなフィオーネのその言葉を聞いて、ホウキは少しだけ落ち着いた。

「ニャ」

「そうだね。カイザァもごめん。……朝ご飯、結局まだだもんね」

 腕の中で愛猫が抗議の声をあげたことで、フィオーネの気分はいよいよ落ち込んだ。

 何もかも面倒くさくなって飛び出したのに、より一層面倒くさいことになってしまっている。こんなの、予定にないことで、フィオーネが何より嫌なことだ。

「とりあえず、下り続ければどこかに出るよね?」

 頼りにならないホウキを抱きしめて、フィオーネはひとまず歩き始めた。

 迷子になるのなんて、うんと小さな頃以来だ。だからフィオーネはまるで小さな子供に戻ったみたいに、心細くなって歩いていく。

「…………?」

 そのせいだろうか。どこからか、足音が聞こえてくるような気がしてきた。自分以外の誰かの、落ち葉や小枝を踏みしめる音が。その音は徐々に近づいてくるように感じられて、フィオーネは不安になった。

 不安が恐怖に変わり、我慢できずに走り出したそのとき、その足音はあきらかに速度を上げた。

「待って! 走っちゃダメだ!」

 追いかけてきたその足音の主は、ガシッとフィオーネの腕を掴んだ。

「ごめん、ごめんね。怖がらせてごめん、フィオ」

 腕をつかみ、落ち着かせようと後ろから抱きしめてきたその声には、聞き覚えがあった。身をよじって振り返れば、そこにはとんでもなくきれいな顔がある。

「……ノイバート君?」

「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど、走って行かせたら危ないと思って……本当にごめんね」

 抱きしめていた腕をほどき、心底申し訳なさそうにダリウスは言う。

 その顔を見て、フィオーネはホッとした。心細いとき、知っている顔を見ると落ち着くものだ。たとえそれが昨日会ったばかりで、突然プロポーズしてきた変な人であっても。

「ホウキが突然言うこと聞かなくなっちゃって……それに、何だか悲しくなっちゃって……」

 言いながら、フィオーネはダリウスの焦げ茶色のローブの裾を掴んだ。本当は手を握りたかったけれど、さすがにそれはできなかったから。

「瘴気除けにあわてて着てきたんだけど、よかった。はい、これ着ていいよ。フィオがそんなふうに悲しいのは、瘴気にあてられて気持ちが不安定になったからだよ」

 フィオーネのほうからそうして触れてきたことが嬉しかったダリウスは、そのきれいな顔に極上の微笑みを浮かべる。そして、着ていたローブをそっとフィオーネの肩にかけた。

「いたいた。よかった……ノイバートの足が速くて、危うく見失うところだった。お前、突然走り出すから」

 ダリウスのローブのおかげかフィオーネが少し落ち着いたところに、ややボロボロになったべルギウスが現れた。知った顔がまたひとつ増えてフィオーネは嬉しかったけれど、ダリウスは露骨に嫌な顔をした。

「先生、空気読んでよ……」

「リッツェルさん、無事でよかった。さぁ、我々も早く戻ろう。ここは普通の人間にもあまりよくない」

「あの、迎えに来てくださって、ありがとうございます。それと……すみません」

 教師であるべルギウスにまで追いかけてこさせてしまったことに気づいて、フィオーネは体を小さくした。

 こんなふうに大人の手をわずらわせるのは、未熟な子供のすることだ。そのことに気がついて、恥ずかしくなったのだ。

「謝る必要はない。むしろ、我々教師の指導が足りなかったばかりに迷惑をかけてしまったな。……ん?」

 謝るべルギウスの声にかぶさるように、恐怖に引きつった叫び声が聞こえた。それとともに、あわただしい足音も。

 不穏なその気配にダリウスとべルギウスが魔術の構えをとったそのとき、木々の向こうから必死の形相で走ってくるグリシャたちが見えた。

「助けてくれー!」

「噛まれてる! 俺、噛まれちゃってるよー!」

「沼に! 足がはまったら、ブーツがジュッて! ジュッて!」

「撃たれた! 何か花が撃ってきた!」

 何が起こったかわからないけれど、四バカたちはボロボロだった。

 ひとりは頭にトカゲが乗っていて、ひとりはトラバサミに噛まれていて、ひとりは片方裸足で、ひとりは体中に大きな種子のようなものを貼り付けていた。

「お前たち、とりあえず落ち着け! 命に別状はない!」

 うるさく叫び続ける四バカに、べルギウスが一喝した。すると今度は、えぐえぐと泣き始める。よほど怖い思いをしたらしい。

「……一体、何があったの?」

「この裏山って、生徒たちが改造に失敗した魔術道具や薬をこっそり捨てに来るんだ。そのせいなのか、瘴気が増して来てて、ここ最近は本当に危なくなってて」

 フィオーネの疑問に、ダリウスは苦笑いで答えた。それは呆れた笑いなのか、それとも自分も心当たりがあるのか。

「捨てられた薬が毒沼と化しているし、瘴気が濃くなっているせいか動植物が凶暴化しているしな」

 トカゲとトラバサミを引き剥がしながら、べルギウスが言い添えた。

「……そうなんですね」

 とりあえず、この裏山が非常に怖い場所であることはわかった。そして、そんな危険な場所であるにも関わらず、彼らが迎えに来てくれたということも。

「そろそろ、戻りましょう。……あなたたち、手当しなくちゃいけないし」

 えぐえぐと泣き続ける男子たちに、フィオーネはそう声をかけた。

 迎えに来てくれたことに感謝はしていても、そもそも医務室を飛び出した理由を考えれば、お礼も謝罪も口にしたくなかったのだ。

「フィオ先生……マジ天使〜!」

 それを聞いた男子たちは、今度は別の涙を流し始める。同じ年頃の女子の口から“手当”という言葉を聞いて、何らかのときめきを感じたのだろう。

 けれど医務室に戻ると、そのときめきは幻だったと彼らは思うのだ。


「ぎゃあーっ!! しみる〜!」

 廊下にまで響き渡る野太い悲鳴。次々と順番にのたうち回る四バカの姿。

 それらから、フィオーネが決して天使などではないことがわかる。

「動かない! しっかり塗らないと、治らないよ!」

 傷の大小の違いはあれど全員ボロボロで、それらの傷にフィオーネは念入りに薬を塗り込んでいった。

 クララの店でおじいちゃんおばあちゃんたちへ処方していたのとは違う、よく効くけれどとてもしみる薬を。

 暴れる男子たちを押さえつけて薬を塗るその姿は、まさに悪魔。

 ――いや、立派な医務室の魔女だった。

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