風立つ。

綺麗なフォームと無駄の無い手の振りで駆けてくる彼は線が細く、中性的な顔立ちでやや色素も薄い儚げな感じ。


一見すると陸上選手のようだが色が白いのでその可能性は捨てている。


あまり外に出ない、それこそバレーだったりバスケだったりのインドアスポーツを連想させる色白さ。


顔は間近で見ていないのでなんとも言いがたいが、すれ違い様に見る限りではモテる口の作りをしている。


なので一の彼に対するイメージも勝手に作られていくわけだが、それはそれで毎日の楽しみともなっていた。


おにぎりをかじりつつ、ちらちらいつもの方へ視線はを向ける。


ほら、


来た。


軽やかに地面を蹴って、一糸乱れぬ淡々とした所作でリズムを崩すこと無く走ってくる。


その姿を見て、おにぎりをかじって...


見て、かじって、マラソンマンが通りすぎるのを見ていることを気付かれないようにして見送って。


おにぎりをかじる...


「あっ...!」


寸前で、うっかり意識を奪われてしまっていた一の手の中からおにぎりが地面へ転げ落ちた。


太ももで弾んで、膝でも弾んだおにぎりが絶妙なタイミングで地面を走り、止まること無くマラソンマンの足元までコロコロコロ...。


「危ないっ」


慌てて立ち上がり、おにぎりを拾おうと追いかける。


「え...っ!」


一の声に驚き、それどころか一がこっちに向かって慌てた様子を見せていることに気付いたマラソンマンが、びくっとなって一をみやる。


が、


「.....あ」


一一歩及ばず、おにぎりは見事マラソンマンのスニーカーと一体化してしまっていた。


「ひやぁぁっ、やってもたっ!うそやんっ!最悪やっ、ごめ、すんませんっ、ほんますいませんっ!!」


顔面真っ青、取り乱すを辞書で引くと同じ行動で目の前の現状に慌てふためいている。


この標準語圏内で飛び出したまさかの関西弁に、度肝を抜かれたマラソンマンが唖然としているのも目に入らず。


おにぎりを踏んだことで立ち止まらずを得なくなったマラソンマンの足元に駆け寄り、あわあわと挙動不審に手を動かす姿はすでに周りが見えていない。


履き慣らされていても綺麗に使っているスニーカーに付着した、自分のおにぎりに集中だ。


かぶりついていたとはいえ、特大おにぎりだったため残っている部分が多い。


それがマラソンマンの足の裏で見事に潰されている状態だ。


一の血の気は足元まで引いている。


「や、大丈夫なんでそんな狼狽えないでくれる?」


頭上から声がして、初めて聞く声にまたまた驚いて顔を上げた。


あ、喋った...というのが正直な反応。


喋らないなんて思ってはいなかったけれど、すれ違うだけの人だったためいざ声を聞いてしまうとそれだけでびっくりだ。


相手は腰を折るでもなく、イヤホンを耳から外して上から見下ろす状態で一を見ている。


表情は走っているときと変わらず冷静で崩れはなく、言い表すなら無表情に近い顔をしていた。


それが逆に怒りや苛立ちを予感させて何もしないなんてあり得なくなる。


「脱いでくださいっ!!」


立ち上がった一が、自分より遥に背の高いマラソンマンを見上げて腕を掴んだ。


脱げと言われて一瞬思考が止まり、反応が出遅る離マラソンマン。


「は?」


まさかこの場で服を脱げとでも言うのか、痴女なのかと一瞬頭を過るマラソンマンが答えるより早く、一が自分の座っていたベンチへ引きずっていく。


「ちゃんと掃除しますから、その靴脱いでくださいっ。ちょっと、こっちへ来てっ」


服ではなく靴だったのでひと安心


何て言ってられない。


「え、ちょっ、いや、いいよ別に」


「ええから来て下さい」


関西弁に耳を傾けすぎたため出遅れたのか、それとも勢いに飲まれたのかしっかり気圧されているマラソンマン。


強引な力で引きずられているわけではないのに、拒否しながらも確実にベンチへ引っ張られるマラソンマンが、あれよあれよと言う間に一の座っていた場所へ座らされた。


「ランニング邪魔して悪いと思うけど、そんなご飯つぶまみれでほっとくわけにはいきませんので、ほんまにすいません」


マラソンマンの反応なんか知らぬ存ぜぬで靴を脱がせた。


自分もマラソンマンまんの隣に座り、素手で米粒を取り除いていく。


靴を脱がされたマラソンマンは仕方なく足をベンチに上げ、膝を立てて座り直した。


早朝の気持ちいい風が二人の間を通り抜け、微かに動かした空気が髪を撫でる。


鳥がさえずり木々がさわさわ音を立てるこの雰囲気は心地よく、気分も自然と穏やかになっていく。


なのに、靴の裏で無惨に潰れたご飯粒を取り除く一はミスマッチ。


「ほんまにすいません、靴こんなんしてしもて」


買ってもらったことの無い有名メーカーの靴を落とさないように掴み、粘りを出してはびこるご飯つぶと格闘していた一が未だ治まらない顔面蒼白で謝罪を口にする。


必死な姿の一を登頂部が見える位置から眺めていたマラソンマンが、事も無げに「いや別に」と返した。


そして鼻で笑う。


「てゆうか君、素手で見ず知らずの男の靴持ってそれ取り除くとか女子としてどうなの?」


軽く指で示し、頬杖をついたマラソンマン。


言われて初めてそういう考えもあるなと自分の手元に目を落とした。


首を傾げる。


「あー....んー、別に汚いものいじってるわけちゃうし、手入れされた靴やしご飯やし、...何て思えへんけど」


見るからに綺麗に整えられた靴は汚れめが目立つこともなく、使用中の必要最低限の汚れしか見当たらない。


汚れはあっても生活汚れ、大切に使われている事は一目瞭然だ。


一が汚した印象の方が強いほど。


「まぁ基本的には汚くはないけどさ、原型留めてないし手ももうぐちゃぐちゃでしょ。最早ご飯とは思えないそれを素手で触れるのってある意味凄いよね」


「そう、なん、かなぁ」


どんなに原型を留めていなくても、一にとっては元はおにぎりで。


腐っていないのであれば汚いとは思えず、こうなった経緯も目撃しているので手で触れないことの方に疑問があるといった感じ。


この会話だけで価値観の相違を早くも感じたマラソンマンが、一の考え方に更なる疑問を呈した。


「君に抵抗がないなら問題ないけど、その靴だって何踏んでるか分からないでしょ」


意地悪く、何を踏んでいるか相手に想像させる言い回しでやんわり“嫌なものを踏んだ設定”に誘導していく。


またまた考えもつかなかった指摘に、また靴をまじまじと見つめた。


何を踏んだのか、一番有名どころの想像が出来たらしく、若干口許がひきつっている。


「あっ、そっか...っ、それは、盲点やったわ。まぁでも仕方ないかな、落としたん私やし」


ここまで完璧に“責任”を被られてしまってはもう他に言えることもなく、一には汚してしまった責任が一番重要な事なのだと自分の中で結論付けた。


ねばつくご飯粒を地面に落ちた草や指で拭き、レジ袋に入れていく様子を観察する。


不器用な手の動きがもどかしく、実際自分でやった方が早い気がしないでもないマラソンマンだが結末がどうなるのか知りたくもあるので手は貸さない。


人の靴をこうも必死にもと通りにしようという姿勢が珍しく、どこまで綺麗に戻るか興味があったのだ。


「で?それは間食?朝食?」


「え、あぁ、このご飯?うん、朝ごはん」


指と靴に着いたご飯粒を交互に見せて、マラソンマンの反応を窺いつつ答えを返した。


「君最近いつもこの時間食べてるよね、ここ座って」


「....食べてますけど」


無表情すぎるので意図が掴めず予測も出来ず、何を言われるのかちょっとビクビクして身構えてしまう。


「何でこんなとこで登校準備万全な姿でおにぎり食べてるわけ?しかも毎朝」


毎朝と言われて、目が見開く。


「なんか意外。知ってたんや、私いるの」


目が合ったことはない。


こちらの様子を少しでも見た記憶もない。


誰か毎日居るなくらいの認識でしかないと思っていたのに、ここに毎日この時間に居るのが一だと認識されていたことにびっくりした。


「そりゃ気付くよね」


「いっつも颯爽と走っていくしイヤホン着けてるからこっちのこと見えてへんと思ってた」


イヤホンから聞こえるもののみに意識を傾けて、ただ黙々と走っている人物像しかなかった。


「いや分かるよ。一応このベンチ僕も途中休憩用にしてたから先約いたらより目に入る」


「あ、ごめんなさい。邪魔してたんやね」


そんな事とは露知らず、知らないからといって人の憩いの場所を少なからず奪う形になっていたので申し訳なさが大量に媒介される。


手を一旦止めて、ごめんなさいと頭を下げた。


「何で謝るの。僕のじゃないんだから誰が座ってたっていいでしょ。ただ見知らぬ女の子と突然相席できるほど社交性に優れてないもんで」


初めて大きく表情が変わった種類が“怪訝”。


眉を寄せた後、口元が渋く歪んだ。


「え、それも意外。引く手あまたって感じやのにね」


かっこいいから相席とかしょっちゅう日常茶飯事かと思ったなんて、何でも明け透け無くものを言う一でもさすがに口にできなかった。


「ん?あ、待って、でも今は普通に相席してますやん」


「...君言葉選びなよ。人をどんなイメージで見てるの。引く手あまたって...誉め言葉とはまた違うからね。それに相席してるのは君が無理矢理ここに座らせたからでしょ」


「あ、そっか。何から何まで、ほんますいません」


考えずに行動に移す悪い特性が出てしまい、またやってしまったと肩を竦める。


いつもこんな感じだ。


思い立ったが吉日、こうだと思ったことは衝動的に行動に移すきらいがあるので、指摘されないと自覚が遅れるのだ。


他人を巻き込んでいることを自分で認めるのが遅くなるため、やってしまった感も強くなる。


マラソンマンは全く気にしていない様子ではあるが。


「何でいつもこんな朝早く朝食摂ってるわけ?」


「あー、うち学校から遠くて。えと、私最近越してきたんやけど私の頭で転校できる高校限られてたから近くのとこ行けやんかったんです。毎日バス乗ったら恐ろしくお金かかるし...だから自転車にしたんやけど途中お腹空くから休憩がてらここで朝ごはん」


やっつけごとを早く済ませるべく手を動かす一は、やや早口にまとまり怪しく事情を話した。


全くの他人、今日初めて話をした人に自分の家の貧乏話を聞かせるとか複雑でしかないけれど、はしょる部分が分からないので洗いざらいに近くなってしまう。


家庭環境に不満がいっぱいあるわけでもないため、取り立てて気に病むところではないのが救いだ。


バスに乗って通学できない遠距離と経済環境というだけで卑屈になる人間も少なくないのに。


バイタリティーとメンタルが人より高いのか、逆境を高い壁としてぶち当たった経験がないのでいつも前向きだ。


「転校生か...でその関西弁」


「まぁ、そうなります」


関西弁についてはまだ暫く周りから面白がられると分かっているので、それについては少々冷たい反応になってしまう。


「ふぅん」


けれどマラソンマンからは、関西弁についてこれ以上の掘り下げをする気配も感じられない。


学校の連中のように不必要に絡んでくることがないので、こんなにあっさりしているのも落ち着かなかったり。


無駄な絡みをあしらう手間がないのは、ありがたいことに変わりはない。


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