第二場面-セーラー服の殺意





恋と愛の違いを知っているだろうか。


恋とは、人が人に向ける好意であり、愛は、万物への好意である。恋は、破壊的で、愛は保守的だ。


例えば、人を好きになったとしよう。恋に落ちたとしよう。そして、その人と付き合いたい、その人を自分の者にしたい。そんな感情が心にある時、その人に話しかける人が自分と同性の場合、嫉妬を覚える。自身の中に沸々と煮え滾る何かを感じる。


傷つけたくなる。破壊したくなる。殺したくなる。


対して、愛はどうだろうか。


自分と同性の者が愛する者に好意を抱き近づいてきた場合、嫉妬するだろう。しかし、恋とは違い破壊てきな感情はそこにはなく、愛する者を守ろうとする保守的な考えが発生する。


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地球上の生物において、殺意は必要不可欠である。

殺意とは、殺そうとする意識である。


思い出して欲しい。過去、自分の歩んできた人生の中で殺意を感じたことは無いだろうか。否、どんな動物だろうと何かを殺さなければ生きる術はない。従って、そこには自然に殺意が顔をのぞかせる。


本能的な何か、理論的には説明できない殺意は何処か恋に似ている。


破壊的な恋は、破壊的な殺意は、何処か美しい。









明朝、まだまだ冷たい風に撫でられ、桜は自身の絶頂期を迎えていた。


満開である。

花弁は空を舞い、道路を所々薄桃色に染めている。


しかし、道路脇に立ち並ぶ桜木の中に一本だけ、蕾だらけの桜がある。まだ、咲いていない。まだ、目覚めていない。そんな桜木を見ているものは一人しかいない。


セーラー服を纏いスクールバッグを左手に持っている彼女は、ぼんやりと蕾だらけの桜木を見ている。まるで、鏡を見ているように。


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明咲 雪飴(みょうざき すすい)は本日、帝立日照高校の入学式があるためとぼとぼ歩いていた。


しかし、初めてのセーラー服に彼女の内心はブレイクダンスを踊っている。弾ける内心を覆っているのは、あまりにも分かりやすいキラキラした目と、自覚のないスキップであった。


そんな見た目も中身もテンション高めの彼女が一番楽しみにしているのことは、「新しい出逢い」である。


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彼女が通っていた中学校は、男子生徒全員が殺害されている。


明咲 雪飴に殺害されている。


それは、彼女の「狂愛」とも呼べる性癖が原因であった。「殺害フェチ」である。


人の恋愛は、まず恋をして、恋した相手と恋人同士になって、様々な経過を過ぎて、相手を愛する。相手から愛される。


しかし、彼女の場合は違う。

彼女の恋愛は、尋常じゃないほど自己中心的である。


まず、自分の半径10m以内に五分以上連続的に存在し、視認できる男性に恋をする。二人以上いる場合は、身長が高い人に恋をする。


いわゆる、背の順である。


この時点で彼女の中には、恋をした相手に対しての「殺意」が生まれている。そして、二人きりになった途端にその恋は成就する。


「殺意」が弾ける。


相手を殺す。


そうすることで、相手への愛を刻むのだ。撃ち放つのだ。ぶつけるのだ。叩きつけるのだ。締め上げるのだ。


そんな(可愛く言えば)sな彼女が初めて恋をしたのは小学生高学年の頃、いわば思春期である。


理科の先生に恋をした。

小学四年の秋、雪飴は風邪をひいた。

その日は理科の実験があり、風邪で休んだ雪飴は別の日に補習となった。当日、補習に来たのは彼女一人。それでも実験は始まる。五分経過、恋が成就。五秒後、先生の左目は、上手に焼かれたカラメルが突き刺さっており、右耳にはガスバーナーが根元まで押し込まれていた。


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日照高校は、明咲家本家から十分ほど歩いたところにある。


帝立日照高校は、現帝王の日輪 向日葵の弟君、日輪 朝顔(にちりん あさがお)によって約二千二百年前に創立した。


入学制限はただ一つ、受験者は「理解者」であること。これさえ満たしていれば、誰でもこの学校に入学することができる。たとえ、狂愛者でも、狂悪者でも、誰でも、何でも。


「帝立日照高校」とものものしく書かれた門前にたどり着いた雪飴は、立ち止まり深呼吸をした。新しい環境、新しい日常、新しい青春。覚悟を決めて門をくぐった。


美しい。そう感じた。


鳥肌が立つほど美しいその風景は、校庭の周りを埋め尽くすほど植えられた桜。暖かい風が桜木をさらさらと通り過ぎて行き、花びらを辺りに踊らせる。校庭の地面は可愛らしい薄桃色に染まり、彼女にはそれが花びらの湖に見えた。


周りには人の気配がしない。早く来すぎたのだろうかと思いながら、真っ白な校舎に取り付けられた大きな時計を見上げた。


雪飴は、立ち尽くした。


本日、雪飴は始業式が楽しみでしょうがなかった。


始業式が始まるのは八時、明咲家本家から帝立日照高校まで十分、多く見積もって七時四十分には家を出れば間に合うのところを、雪飴は七時に家を出ている。


だが、時計が示しているのは八時五分であった。


明らかに異常な事態である。十分で辿り着くところに一時間と五分もかけることができるだろうか。仮に、一時間と五分かかってしまったとしよう。その場合、一時間と五分かかったという感覚が残る。時計を見て立ち尽くすほどの衝撃を感じるはずがない。


衝撃を感じている主な理由は、雪飴が体感していた時間は二十分程度だったからだ。


そんな雪飴を物陰から覗いている者がいた。


風に揺れるセーラー服のスカートと今にも暴れだしそうな殺気を抑えながら、時折 雀(ときおり すずめ)は雪飴を見ていた。


ずっと見ていた。



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