第2話 後朝
澪子の婿取りは厳かに行われた。
三日夜の餅が支度され、正式な婚儀の形が整えられる。
あの海からの声は、もう聞こえなかった。
源氏の君と言う方が、ただ美しさだけで尊ばれているわけではなかったことは、澪子にもすぐにわかった。
源氏の君の周りは明るい。
暗い妖かしは払われて、明るい好もしいものだけが残るからだ。
澪子も、澪子の父の入道も、あやかしを見る。同時にこの父娘は神霊を見ることもできた。
例えば海にたつ明り。
例えば花咲く中に舞う小さな舞人。
神々は様々に日常の景色の中に滑り込んでくる。
源氏の君が滞在し、澪子の婿君として迎え入れられてから、海には明かりがいくつもたち、庭には小さな美しい者たちがいつでも詰めるようになった。
入道の話では、これこそが帝の尊い血筋に宿る力なのだという。
それは澪子にも納得できる事だった。
このような清浄をもたらす血筋であれば、国を治めるにおいても神霊の加護を得られる事だろう。
もっとも、京の宮廷には帝が住まわれるにも関わらず、多くのあやかしの影がたつという。そのあまりの業の深さを思うと 、肌の粟立つ感覚を感じずにはいられない。そもそもそのような深すぎる影とは無縁の明石だからこそ、源氏の君の周囲は一層明るいのだろうか。
それはとても穏やかで、けれども危うい日々だった。この日々が続かないことは、澪子にもよくわかっていた。
時に源氏の君に京からの文が届く。その返事を返す。そのやり取りの後には幾日か夜離れの続くこともある。
相手が京の本邸を預かる妻であることなど、誰に聞く必要もなくわかる。源氏の君には帰るべき場所があるのだと。
その事実は澪子の胸に、常に痛みをもたらした。源氏の君を慕うことはその痛みと親しむことに他ならない。それでも源氏の君を慕わずにいるのは、澪子には難しかった。
皮肉なことにその痛みが、源氏の君の澪子への寵愛を深くもした。
「あなたはいつも、後朝の別れのようにせつなげに笑うのだね。」
源氏の君の手が、そっと澪子の頬を包む。
「私はここにいるのに。」
澪子の笑みはいっそう深く、透明になる。
ーそれは嘘
声には出さずに囁く。
ーあなたはいつか、京に戻ってしまわれる。
京で源氏の君の隣に座すのは、決して澪子ではない。
その身を捧げよ。
久しぶりにその声を聞いた。
源氏の君との共寝の床で耳をすませる。
源氏の君はぐっすりと眠っている。澪子の身体に回された腕はしなやかだが、重く、澪子をしっかりととらえていて、抜け出すことはできない。
だから澪子は源氏の君の腕の中で、耳だけに集中する。
源氏の君の息遣い。
寄せては返す潮騒。
そこに密やかに滑り込む、告げる声。
その身を捧げよ
その身を捧げよ
源氏の君に京から帝の使者が訪れたのは、澪子の懐妊がわかってすぐのことだった。
澪子の懐妊のわかったときの手放しの喜びように比べれば、帰京を促す使者に見せた喜色は抑えたものだったが、喜びの大きさで言えばはるかに大きなものだった。
源氏の君の配下の動きはどことなく弾んで明るくなり、彼らがどれだけ帰京を待ち望んでいたのかを感じさせた。
反対に、明石の入道の家人の表情は冴えない。
せっかく澪子が懐妊したにも関わらず、このままでは見捨てられてしまうのではないかと、口には出さずとも誰もが懸念していた。
「決して見捨てるようなことはしないからね。あなたの胎内には私の子がいるのだから。」
澪子は素直にうなずく。
身を捧げよと声は告げ、澪子は子を授かった。だから澪子に課せられた役割は、きっと源氏の君の御子を産むことなのだろう。それがどういう意図のもとのものであれ、御子にはおそらくなすべきことがあるはずだった。
源氏の君は澪子の子を見捨てたりはしないだろう。
それは源氏の君の誠意や情の問題ではない。澪子にささやき続けたものが、源氏の君が澪子の子を忘れることを決して許さないはずだ。
源氏の君が自分の琴をさしだす。
「この琴の弦の弛む前に必ず。」
澪子の手が琴の胴に触れる。
「お便りをお待ちしております。」
澪子は静かに目を伏せた。
源氏の君の旅立ちの日は、見事に晴れ渡った。
澪子は精一杯晴れやかにふるまう。
源氏の君に明石で垂れ籠めて泣き塞いでるように思われるのはいやだった。
凛とした面影を抱いて帰ってほしいと思う。京の夫人のもとで、源氏の君に憐れまれたくはない。
その身を捧げよ
それ声は海ではなく、いまや澪子内側からこだまのように響いてくる。
その身を捧げよ
選ばれたのは澪子だった。
ならば必ず澪子のことを源氏の君は忘れない。
だから、泣きぬれた顔では見送らない。
源氏の君の記憶に刻まれるのは、断じてそんな惨めな女の姿ではない。
出来る限り晴れやかに
そして鮮やかに笑って
「旅のご無事をおいのりもうしあげます。」
自分に出来る一番綺麗な微笑みを浮かべて、澪子は恋しい人を送り出した。
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