みおつくしてや
真夜中 緒
第1話 託宣
その身を捧げよ。
その声が澪子に聴こえるようになったのは、いつのころからだったろう。澪子の居間からも見通せる海原から潮騒にのって、その声は響いてくるようにも思える。
澪子は海辺で育った。
生まれたのは京らしいのだが、澪子の記憶にはない。父の任地であったここ、明石に下り、それからずっとここで暮らしている。京生まれの母は明石を寂しい場所だと言うが、澪子はそうは思わない。むしろ京の方が、よほど得体の知れない場所に思える。
夜の海には時に明りがたつ。
「そなた、あれが見えるのか。」
その話をすると父は驚いて、それから澪子に琵琶を教えてくれるようになった。
澪子が年頃になり、縁談が舞い込むようになってきても、父は決して首を縦には振らなかった。なんでも「適当な縁など結ぶくらいなら娘にはいっそ海に飛び込んでしまえと言っている。」とかいったそうで、世の人は澪子のことを龍宮王の后になるとか言っているらしい。澪子としてはそれで別に構わなかった。
その身を捧げよ
声は折々に澪子に届く。
いずれ、時が来れば声に応えることになるだろう。
その身を捧げよ
その身を捧げよ
京から貴人が落ちてきたらしいという噂は
、たちまちの内に広がった。先ごろ亡くなられた院の、臣下に降された第二皇子。あまりに麗しく輝くようなので、光る君と呼ばれておいでだったとか。
女房たちの噂話を、澪子はただなんとなく聞き流した。琵琶の弦を確かめ、撥をあてる。
ベン
べべべべベン
独特の揺らぎのあるびわの音が澪子は好きだ。ゆらぎの中に何とも言えない哀愁がある。それは例えば海の彼方や海底のような、異界から響いてくるような哀愁だ。
ベン
ベン
べべべべべベン
その源氏の君の従者の某が澪子に求婚して来たとかで、女房たちはますますかしましいのだった。
女房などと呼んではいても、結局のところは近在の女たちだ。京から来たものはなんで珍しく思えるらしい。
べベン
ベベン
べべべべべベン
ビィィン
鋭いおとをたてて、弦が切れた。
驚きに一瞬訪れた静寂に、呼び声が響く。
「ひめさまぁ、御前さまがおよびでございますぅ。」
澪子の父は官を辞したあと出家して、入道どのとか御前さまとか呼ばれている。澪子が行ってみると父は気に入りの場所である釣り殿にいた。
「嵐になりそうじゃの。」
父の言うとおり、海の上には灰色の雲が分厚く広がりはじめている。風も出てきているようだ。
「おや、その手はいかが致した。」
澪子の右の親指に目敏く小さな傷を見つける。
「先程、琵琶の弦が切れてしまいました。その時に弾けた弦でかすってしまって。」
父は澪子の手をとってしばらく見つめ、瞑目し、頷いた。
「ひめや、わしは源氏の君をお迎えに行こうと思う。」
いつにない厳しい目で澪子を見る。
「ひめも心して、準備をしておくように。」
「え。」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
「さり気なく身辺を整えておきなさい。見苦しいものは取り片づけておくように。」
「待ってください、お父さま。」
今まで、自分の身辺にいかなる男も近づけまいとしていた父のいきなりの変心に、どうしたらいいのかわからない。なぜ、源氏の君を澪子に迎えようなどということを、考えついたのだろう。
「よいかひめや、これはさだめというものなのじゃ。きちんと支度をしておきなさい。」
声が聴こえる。
その身を捧げよ
その身を捧げよ
嵐があけるのを待ちかねるように父が出かけていっても、驚くほどの速さで源氏の君を連れて帰ってきても、澪子には父の話が本当になるとは思えなかった。
海からの声は相変わらず聴こえていたし、その声に応える事こそが自分のさだめであろうと思っている澪子にとって、京の貴公子を婿取るなど、想像もつかない。
そんな澪子の気持ちをよそに、澪子の部屋は着々と整えられていった。
畳も褥も几帳も御簾も、全てが新しいものに取り替えられた。高価な香が燻らされ、澪子の髪にも焚きこまれる。
「たしかに京の貴公子には違いないけど、何も罪を得て流された方など迎えなくても。」
母はこの縁に乗り気ではないようだが、とにかく父がどんどん話を進めてしまうので止める事もできないようだ。
もともと母は父とは違い、澪子に普通に婿取りをさせたがっていた。この機会を逃すともう、澪子の婿取りの機会はなくなるのではないかという気持ちもあるようで、そのくらいならとにかく婿を取るほうがいいかと迷っているようでもある。
そうこうしているうちに、源氏の君からの文が届けられた。
流石に美しい文字でさらさらと歌が書きつけられている。
「見事な手蹟だわねえ。」
この文には母の心も動いたようだった。
澪子は相変わらずの現実感のなさに戸惑うばかりだ。
「雛育ちの身にございます。なまじお目にかかったばかりに、涙にくれることにもなりましょう。野の花は野にお捨て置きくださいませ。」
そんなようなことを使いにことづけたが、それから毎日のように文は届いた。
声は相変わらず聴こえてくる。
その身を捧げよ
その身を捧げよ
夜更けの事だった。
慣れない気配に澪子は目を覚ました。
上質な衣なりの音。これは長袴の歩き方ではない。
褥から起き上がり、単の前をかきあわせる。
まさか、こんな風に踏み込まれるとは思っていなかった。
「どなたですか。」
本当はわかっている。上質な衣に高雅な香。何よりここに踏み込めたこと。
源氏の君その人の他にはありえない。
「名乗る必要はありますまい。」
涼やかな声だった。新しい紗のように女心をくすぐる声。
でも
あの声が聴こえる。
低く澪子にさだめを告げる。
「どうぞお捨て置き下さい。私は」
最後まで言えなかった、几帳をかきあげるようにして、人影が入り込んできたので。
「野の花と仰るが、これほど可憐な花に心動かされぬ者はおりますまい。捨て置けとはむごいことをおっしゃる。」
手を取られ、抱き寄せられる。それほど力を入れているとも思えないのに、振りほどくことができない。
身を捧げよ 身を捧げよ 身を捧げよ
不意に悟る。
声はこのことを告げていたのだと。
褥に押し倒される。
息ができない。
その身を捧げよ
澪子は源氏の君を受け入れる。
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