バイオリンで超絶魔法奏でます~クラシック無双~
神田未亜
異世界転生
自分の全体重を支え、窒息するより先に、首があっけなくぽきりと折れる。
それが最後の記憶だった。
その歳の冬、僕の人生は二十二年で終わりを告げた。
死因は首吊りによる頚椎骨折。
――自殺だった。
*
湿度の低い、からりとした冷涼な風が頬を撫でる。
明らかに現代日本とは異なる空気に包まれ、しばらく呆然と佇んだ。
「ここ……、どこ?」
僕は、死んだはずだった。心臓がコトリと最期の拍を刻んだのをまざまざと覚えている。
なのに二つの足は今、しっかりと大地を踏んでいる。
これはどうしたことだろう。
(――何、これ。ひょっとして、臨死体験ってやつ?)
浮かんだ想像に、うんざりとする。
死んだら無に帰せると思っていたのに、やっかいなことだ。どうやらまだ意識を保たないといけないらしい。
(自殺したからには地獄にでも行くんだろうか。いやだな。めんどくさい。これ以上死ぬにはどうしたらいいんだろう……)
考えながらも、ひどく空虚な思いが心を占めていた。
(――どうでもいい)
何もかもどうでもいい。
早く消えてしまいたかった。
と――。
「――……、――……」
かすかに、何者かの声が聞こえた。
風に乗って流れる、その音。
途切れ途切れな、空気の振動。
「誰か、いるのか……?」
そのとき、反応してしまったのはなぜなのだろう。
茫洋とする頭で、どうしてか僕はその音の源を探していた。
辺りを見渡してみて気付いた。自分の後ろは崖である。
覗き込めば地面は遥か底にあり、切り立った岸壁が低く低く底に続いている。
(ここから飛び降りたら消えられるかな)
一瞬脳裏をよぎった考えは、かすかに聞こえる声にかき消され、気付けば自分は一歩を踏み出していた。
崖とは反対方向の、声の聞こえる方へと。
「……ら……、――……」
声は続く。
会話ではない。それはたった一人の発する音。
話し言葉ではない。それは連続する単語ではない。
荒涼とした景色の中、僕は歩む。
「らー……、……ら……」
声が近づく。
(歌だ)
そう思った。
そう思った自分を、不思議に思った。
なぜならそれは、到底歌とは呼べないものだったからだ。
コードもない。メロディもない。
ただ異なる音が、ゆっくりと、断続的に続くだけの、鼻歌とも呼べないもの。
何故かそれを、歌だと思った。
「らー……。らー……。らー……」
声の主が、そこにいた。
うずくまり、膝をかかえながら。
空を見上げて。
脈絡のない音を羅列する。
「…………!」
唐突に。内腑を突き上げる衝動がこみ上げ、僕は声にならない声を上げた。
身体が震える。
いつの間にか溢れた涙が頬を伝う。
(何だ……これ……)
その「歌」は、たとえようもなく美しかった。
「らー……。らー……。らー……」
天上から降り注ぐ眩い陽光のように。
純白に煌く新雪のように。
深く紺碧に澄み渡る海原のように。
ありとあらゆる自然界の美しいものに覚える感動を、僕はその「歌」に見ていた。
「あ……」
涙が止まらない。
絶望に満ちた心に、温かく染み渡っていって。
感動に胸をかきむしりながら、僕は思わず感嘆の声をもらしていた。
「……!?」
その瞬間。
ぱっと声の主が振り向いた。
目に飛び込んで来たのは、鮮烈な紅。
驚愕に見開かれた、大きなその瞳。
長い髪がふわりと宙を舞う。
小さな、その身体。
「どうして……」
「歌」の主は、十二歳ほどの、年端も行かぬ少女だった。
「……」
声の余韻に絡めとられ、僕は言葉を発することができない。
そんな僕を見て、少女は言った。
「どうして……泣いているんですか……?」
鈴を転がすような澄んだ声。
水晶のように透明で。
そんな声は、突然現れた見ず知らずの僕のことを、純粋に案じていた。
「泣いてる……。僕……」
今更ながらそれに思い当たり、袖で涙を拭く。
そのとき気付いた。
自分がその手に、あるものを抱えていたことに。
「バイオリン……」
とうに捨てたはずのそれ。
死んだはずの今になっても、なぜこんなものを持っているのか。
とっさに放り捨てようとしたが、その手はどうしても動かすことができなかった。
「……」
少女が自分を見つめている。
自分が少女の質問に、まだ答えていなかったことに気がついた。
「歌が……」
「……?」
そう。今も、心に残っている。
「君の歌が、とても、素晴らしかったから」
そういうと、少女は、驚いたような顔をした。
そして言う。
「ウタとは……なんですか?」
「え……」
僕は言葉を失った。
「歌は……歌だよ。メロディがあって、リズムがある」
「めろでぃ……。りずむ……」
少女はまるで初めて聞いたかのように、単語を繰り返す。
「歌を……知らないのか?」
「はい……。知りません。ごめんなさい……」
少女は悪いことをしてしまったようにへにゃりと眉を寄せ、頭を下げた。
歌を、知らない。
そんな常識すらも知らない少女に驚いた。
それでも、頭を下げて欲しいわけじゃない。
「いや、いいんだ。謝らないでくれ。歌じゃなくてもいいんだ。君の声――今君が出していた、声の波……。それが、途方もなく美しくて――、感動、して」
恥ずかしくなって、途中で言葉を切る。
「美しくて……感動した……」
少女は呆然と、その言葉を繰り返す。
「そうだ」
途端、少女はぽろぽろと涙をこぼした。
「えっ! ど、どうしたんだ!?」
「嬉しい……」
少女は泣きながら、途切れ途切れに言葉を発した。
「嬉しいんです……。そんなこと、初めて言われたから……」
「初めて? でも、君の声はすごく綺麗だ。誰だって……」
少女は首を振る。
涙と共に言葉がこぼれる。
「声を出すのは……無意味なことだから……。いつも、気味悪がられます。……あいつは、おかしなやつだって……」
僕は気付いた。少女が、髪も、顔も、服も、薄汚れていることに。
泣きじゃくる顔は黒くこすれてひどいことになっている。
その汚れは、少女が日頃受けている仕打ちを想像させた。
「でも、私は……声を波に乗せるの、好きなんです。だから、いつも、こうやって、誰もこない『丘』の端っこで、発しているの。……だから今日はお兄さんが来て、びっくりしました」
「きみは……生きているのか?」
あまりにも唐突な質問だった。
怪訝に思われてもおかしくない。
それでも、少女が死後の世界の住人だとは、どうしても思えなかった。
少女は目を見開きながらも、頷いて答えた。
「はい。私は生きています。――お兄さんは?」
当然のように聞き返してきた少女に、だから僕は正直に答えられた。
「僕は、死んだ。少なくとも、一度は」
「そうですか」
少女はさらりと言う。
「……嘘だって、言わないのか?」
「お兄さんは、『崖』の方から来ましたから」
少女は立ち上がって、僕が来たほうを指し示す。
「『崖』の外には、人は住んでいません。人は皆、この『最後の丘』に閉じ込められている。だから『崖』から来たお兄さんは、きっと『何か』なんだろうな、って思ってました。……それが『何』なのかは、わかりませんが……」
「僕にもわからない」
「そうですか」
少女はまたさらりと言う。
「冷静なんだな」
「そんなことはありませんよ。……ただ、例えお兄さんが何であっても」
少女はにこりと微笑んだ。
「私の声で、涙を流してくれたお兄さんを、私は信じることに決めました」
そう言って笑う少女を。
僕もまた、信じてみようと思った。
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