2033年8月20日午後6時30分

 番組制作部に坂巻龍之介が現れた瞬間、周囲はざわつき始めた。彼のスーツは白く汚れている。顔も汚れている。真っ先に駆けつけたのは、パートナーの青野祐一である。

「おい、どうした坂巻」

「アララギ社で会議している時、天井が落ちてきたんですよ」

 青野はしばらく沈黙したあと、唐突に坂巻に抱きつく。

「よく無事だったなおい!」

 そして坂巻から離れ、全身をジロジロと眺め回す。

「怪我はないようだな・・・良かったあ」

 そしてまた青野は坂巻に抱きついた。坂巻はキョトンとしている。感情を一通り爆発させた青野は

「おーし!今日は休め!まずは飯だ!・・・いや、スーツの汚れが先かな」

 青野は坂巻の手を握り、そのまま男子トイレへと引っ張っていく。洗面台の前に坂巻を立たせた青野は、自分のスーツのポケットを探す。ハンカチを出そうとしたが、持っていなかった青野は、ポケットテッシュを取り出し、少し濡らして、坂巻の顔を拭いてやる。坂巻はスッキリしていて、落ち着いている気持ちになった。青野は更にスーツを拭こうとするが、白いホコリの代わりに、ティッシュの丸まったカスが付く。青野はそれをつまんで取ろうとするが、細かい上にたくさんあるので苦戦している。見かねた坂巻は

「もう良いですよ、青野さん。状況が落ち着いたらクリーニングに出します」

 といって青野を止めた。

「そうか・・・しっかし、本当に死ななくって良かったなあ!」

 そしてまた坂巻に抱きつく青野である。気持ちも状況も落ち着いた坂巻にとって、三回目のハグは流石にきつい。彼は青野を振り払った。青野は黙った。坂巻はそのまま自分のデスクに歩いていく。青野もついていった。

「休まなくて良いのか?」

「いや、まあ、報告だけさせてくださいよ」

「そうだったな」

 坂巻はメモを見ながら、アララギ社での会議の内容を報告する。自粛を望む企業に対し、どういった配慮をするかという内容だったことを復習した。空気を読んだという理由には触れず、番組の最初と最後に、生産設備等の状況により、商品が入手できない可能性がある旨をテロップで示す、という案に落ち着いたことを話した。

 二人で社員食堂に向う。夕食は、どこかしっとり感のない五目ご飯である。非常食だった。食器にはラップが敷いてある。青野は現実を見せつけられている感覚を強く感じた。水を備蓄しているとは言え、節約したい状況は変わらないということなのだろう。坂巻も、22年前のことを思い出して重い気持ちになっている。

 青野は異常に無口だった。青野には懸念があった。今回の放送内容についてである。マニュアルに従うなら、大幅に変えないといけないところがあったのだ。青野と坂巻が担当する番組では、多数のCMを取り上げる。明日取り上げるCMの中に、原発のCMがあるのだ。あろうことか、今から30分ほど前、あることが報道された。伊方原発が冷却不能に陥っていること。全電源喪失は回避したものの、原因が未だに分かっていないこと。どう考えてもこのCMを取り上げるのはふさわしくない。しかし、1時間の番組の内15分ほどを、このCMへのツッコミ―と、いうよりも、議論に費やしていた。そんなことを少しでも坂巻に教えたら、命の危険に晒されたばかりだというのに、彼は無理をするだろう。冷静になってそんなことを考えると、青野祐一は迂闊に口を開けなくなった。二人の食器が空になると青野は、

「今日はもう休め!あとは、俺がなんとかする!」

 と命令した。坂巻は食事中から違和感を感じていたが、この一言で、ついにその正体を突き止めたくなり、自分のデスクに直行する。

 パソコンを坂巻は起動する。グーグルを開こうとするが、まだ使えないようだ。昼間から震災情報を集めるために使っていた、テレビ局のネット配信を集めたアプリを起動し、5秒ほど眺めた後、絶句の表情を浮かべる。隣にいない青野を探して周囲を見渡し、社長のデスクの前に青野を見つけた坂巻は、そのまま青野の方へと走った。社長がちらりと見る。秋元ひかり社長は

「よく無事だったね!」

 と声をかけた。

「青野、俺も」

「今日は休みなさい!」

 社長が坂巻の言葉を止める。

「しかし、明日の朝10時放映ですよ。やるべきこと終わってないと寝つけないんですよ、僕は・・・CM差し替えないといけないんでしょう」

 坂巻は反論する。

「そういうところ直した方がいいんじゃない」

「そうだよ、休めよ」

「でも僕は無傷です」

 坂巻は粘った。今の体の感覚は、まだ動けそうなものだと思っていた。

 青野祐一は

「確かにあんたと一緒に作業しようと思ってたよ。でも、あんたがあんなんで帰ってきたら、そんなんできるわけないじゃないか」

 社長は

「そのことについて話し合っていたというのに」

 と、ぼやく。坂巻龍之介は

「心配をかけて申し訳ございません。でも、私は、すべてを終わらせてから眠りたいのです」

 と言った。社長はただ

「そう、無理しないでね」

 とつぶやくだけだった。青野祐一はしばらく戸惑った様子を見せていたが、坂巻の表情が本気だったので

「今度、有給取れよ」

 と言って、ついてくる坂巻をチラチラ見ながら、編集室へと歩いていった。




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