2033年8月20日午後4時30分

「えっと」

 坂巻龍之介は、向かいのビルに到着後、後ろを振り返る。やはり、青野祐一に言われたことは気になった。―あんたに釣られるように、他の人が出てきたらどうするのだ―しかし、それは杞憂らしい。ホッとして、そろそろと古びたビルに入る。この一角で最も古く、この界隈では最も揺れていたビルだ。少し怖い。

 受付で、進藤弥太郎を呼ぶ。アララギ社の広報部社員であり、今回の番組に向けて、何度か交渉してきた相手だ。受付嬢が階段室に向かったので呼び止めると、5階だから大丈夫だという返事が帰ってきた。坂巻は格差を感じる。しかし、アララギ社は大企業のはずだ。

 そんなことを考えているうちに、進藤弥太郎がやってきた。息を切らしているので、坂巻龍之介は少し待つ。

 進藤弥太郎はようやく切り出した。

「ご用件は」

 坂巻は答える。

「貴社は、CMワンダーランドにCMを提供するのを取りやめたいそうですね」

「そうです。申し訳ございません」

 坂巻は告げる。

「残念ながら。それはできません」

「そうですか」

 紳士じみた雰囲気の進藤弥太郎が、悲しそうで悔しそうな表情を見せる。しかし、坂巻にとっては、ここからが本題だった。

「ですが、何か、配慮できることがあると思います。なぜ、自粛をしたいのか、教えて頂けますか」

 進藤弥太郎は

「とりあえず座りましょうか」

 といって、受付の前にある椅子を指差す。

「でも、あそこの椅子は社外ですよね」

「だが、企業秘密ということでもあるまい」

「そうですか、では、お言葉に甘えて」

 二人は椅子に腰掛けた。ふわふわしたソファーが、二人の尻を受け止める。思わず息をつく二人だった。

 坂巻龍之介は切り出す。

「では、CMを自粛したい理由を、伺いましょう」

 進藤弥太郎は話しだした。

「まず、勘違いしていただきたくないのは、空気を読んだだけではないと言うことです」

「ほう」

 坂巻は少し驚いていた。と、いうのも、人々にとって、空気というものは、極めて恐ろしいものなのだ。インターネットを介して、あらゆる人も企業も空気の中に放り込まれるようになってしまった。しかも、空気には実態がないくせに、実害を及ぼすことがあるのだ。いや、一月に1回位は、その被害者が出ている。おかげで、ありとあらゆる人に空気を読むことが強いられるようになっていた。空気を読んでの判断というだけでも、かなり大きな理由なのだ。

 しかし、進藤弥太郎は

「主な理由は、生産ラインだ」

 と言った。

「まだ、状況は全くと行っていいほど把握できていないが、相当の被害が出ただろうと思う。我々が引いてきた防災体制だけでは、太刀打ちできない可能性が高い。おそらく、生産量は当面、大きく落ちるだろう。我々広報部は、CMを見て買いたくなった商品が、売っていなくて入手できないなどということは避けたいのだ。それだと・・・お客様がかわいそうな気がしてしまって、な」

「そうかもしれませんね。顧客だって、ある程度は分かっているだろうとは思いたいですが、ね。・・・それでは、生産ラインの停止等により、製品が販売されていない事があります、みたいなことを、冒頭でアナウンスいたしましょう」

 進藤弥太郎は

「それだけでは無いだろう」

 と言った。

「自粛したいと言ってきた会社は、我が社以外にもたくさんあるのだろう」

「はい」

 よくわかったな、と坂巻龍之介は思った。進藤弥太郎は、

「こんな状況だからな」

 と言った。

「他の会社についてはどうするのだ」

 坂巻龍之介は答える。

「基本的には貴社と同じような状況だろうと考えております。そこで、貴社に聞いたことを参考に、番組全体でどういった配慮をするか考えようと思って、ここに来た次第です。」

「なるほどな。だが、インターネットでソフトウェアを販売している会社についてはどうなのだ。我が社と同じ状況だと言えるのか。」

 坂巻は唸る。そして

「しかし、商品の提供に不安があるということについては、変わらないと思います。サーバーがやられたとか、社員が出社できないとか」

 と、答えた。進藤弥太郎は

「それなら良いだろう」

 と、いった後

「もう一つお願いがある」

 と言った。

 坂巻が

「なんですか」

 と聞くと、進藤は

「途中から観る人にも、そういったことが伝わるようにして欲しい」

 と言った。切実な顔だった。本気のお願いだと、坂巻龍之介は思った。そこで彼は

「それならば、一緒にどんな配慮をするのが良いか、考えましょう。青野さんには、後でこちらから伝えておきます」

 と切り出した。

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