農協おくりびと (95)行者さん
わらしべ長者のパンフレットを、ちひろが読み終えたころ。
光悦がようやく、土産物屋の軒先に姿を見せた。
肩で息をしている。よほど慌てて坂道を駆け下りてきたのだろう。
息を切らしたままの光悦の剃髪に、店の女将が、ははぁと合点の笑顔を浮かべる
「あら、行者さん。息を切らして、綺麗なお嬢さんのお出迎えですか。
うふふ、羨ましいですねぇ、ご苦労様。
お嬢さん。お待ちの人が到着したようです。よかったですねぇ」
「修行中の人のことを行者さん呼ぶのですか?、このあたりでは?」
「参道に、昔からの床屋さんがあります。
寺へ修行に入る人たちが、青々とした頭に変えて山門に向かいます。
数日前に切ってくるのは、しのびないのでしょうね。
最後の最後。寺を目前にして、断腸の思いで剃髪にする。
そんな修行者がいまでも、たくさんいます。
あ、すでにお坊さんの資格を持っていても、修行中は等しく行者さんと呼びます。
お迎えに見えたお方は、テカテカの青坊主。
誰がどう見ても正真正銘の、修行中の行者さんですねぇ」
「ありがとうございました」と頭を下げて、ちひろが土産物屋を出る。
久しぶりに見る光悦は、なんだか顏に風格が備わって来た。
肩を並べた途端。光悦が「今日は一日、付きあえるぞ」と小さな声でささやく。
「それには及びません。時間はたぶん、それほどかからないと思います。
疑問が消えればわたしはその足で、また群馬へ戻ります」
「もうひとりのちひろと、双子の中学生のことかな。お前さんが聞きたいのは」
光悦が正面から、ちひろを見つめてきた。
「それしかないだろう。こんな遠くまで、わざわざお前がやって来るのは」
そのくらいは容易に分かる、と光悦がちひろの瞳を覗き込む。
「それにしても、いいなずけのちひろです、と言い切った呼び出しには驚いた。
近親者しか呼び出してくれないから、ある程度の方便は予測していた。
だがまさかお前の方から、いいなずけを名乗るとは、想定していなかった」
「近親者以外は呼び出してくれないと、聞いていたもの。
迷惑をかけてしまったかしら。わたしがいいなずけと名乗ったことで?」
「別に支障はないさ。
あと半年で2年間の修行が終わる。終了すれば、晴れて僧侶の有資格者になる。
資格が取れれば、群馬へ戻れる。
だが、そこまで待てない事情が発生したようだな。
電話で突然会いたいと言い出した。その日のうちにお前は、夜行バスに飛び乗って
次の日の朝には、長谷寺駅へ着くと言い切った。
絶対ただ事じゃない。そのくらいのことは俺にも察しがつく。
何か有ったんだ、おまえに?」
「別に」とちひろが、かぶりを振る。
「1度。あなたが修行している長谷寺を、見ておきたかったの。
わたしが予想していた通り、綺麗で素敵なところです。
澄んだ空気といい、谷あいにひろがる参道の風情といい、とても素晴らしいところです。
よかった。夜行バスに乗ってはるばる、奈良までやって来た甲斐がありました」
「境内が見たいなら、案内してもいいぜ。
ここには国宝級の伽藍や重要文化財の建物が、数えきれないほど並んでいる。
だがそんなものをいくら見学したところで、お前は感動しないだろう。
突然、訪ねていくと電話をもらった時から、それは分かっていた。
疑問を解き明かすために、はるばる此処までやって来たんだろ。
いいから全部、正直に質問しろ。
俺に聞きたいことがあるんだろう。疑問にはぜんぶ答える」
ちひろはこの先の覚悟を決めて、夜行のバスに乗って来た。
同じように迎える光悦もまた、電話をもらった瞬間から、覚悟を決めていたようだ。
「全部、正直に語る」と言い切った光悦が、涼しい瞳で真正面から、
自称いいなずけの顔を覗き込む。
(96)へつづく
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