第8話 運命の歯車
夢の中を彷徨うわたくしは、時間の観念などもうどこにもありません。
愛おしい人に会いたいという衝動だけが、胸を締め付け、フラフラとで歩いては、連れ戻される始末で、なんて情けない妻なのでしょう。母親なのでしょう。
もし、わたくしのような女に出会わなければ、智蔵さんはもっと幸せな人生を送れたのではないでしょうか。
大事な旦那様が苦しんでいるというのに、わたくしは自分の苦しさにかまけて、その瞬間にさえ、そばにいてあげられなかったのでございます。
とてもとても短い、智蔵さんの37歳の生涯は閉じられてしまったのでございます。
夏の暑い盛りのことでございました。
誰が信じれると言うのでしょう。ついこの間まで、元気だった人がいなくなってしまったのでございます。
言葉を選び、そのことを伝える雪乃さんの声が、まるで何かにふさがれたように聞こえ、ぼんやりとしたまま見詰めていたのでございます。
この世に神様はいるのでしょうか。どうして私だけが、こんな思いをしなくてはいけないのかさっぱりわからない。女手一つで、まだ幼い子供二人を、どう育てろと言うのでしょう。わたくしの心はすっかり取り乱してしまい、何もかもが分からなくなってしまったのでございます。
こんな情けない妻に子は任せられないとでも、智蔵さんは思ったのでございましょう。
49日の法要も蒲団に伏せていたわたくしから、小さな命を奪って行ってしまったのでございます。
辛いという気持ちはありましたが、その事実がどんなことなのか、その頃のわたくしには理解できないでいたのでございます。
ただ、何を口にしても紙を食べているようで、味がなく、何を話されても、ぼんやりと聞こえるだけで、まるで正体を失くしたままだったのでございました。
ようやく正気に返った頃には、二人はもう土の中でございました。
本当に、ダメなわたくしでございます。
本来なら、わたくしがきちんと葬ってあげなければならなかったものの。
随分と長い時間がかかってしまいました。
すっかり、智久は臆病な子になってしまい、外にあまり出ずに本ばかり読む子になっておりました。娘の洋子は線が細く、よく熱を出す子になってしまったのも、わたくしがしっかり、外で日光浴をさせてやれなかったせいでしょう。悔やんでも悔やみきれない思いがこみ上げて参ります。
夕映えが綺麗な日、智蔵さんの死を受け入れられたわたくしは、墓参りを済ませ、幼子の手を引きながら、誓ったのでございます。
智蔵さんが残してくれたこの子たちを、しっかりと育てて行こうと。
甘えたい盛りに甘えることも許されずに、本当に不憫なことをしてしまいました。
智久は、今では立派な銀行員でございます。
娘の洋子は、親の悪いところを受け継いでしまったのでしょう。体が弱く、寝たり起きたりを繰り返しておりましたが、ついに昨年亡くなってしまいました。結婚をすることもなく、本当にかわいそうなことをさせてしまいました。
何の因果なんでしょう。
人の運命というのは、残酷なものでございます。
それでもくじけてはいられません。まだまだわたくしにはやるべきことがありますもの。
店は雪乃さんに譲り、わたくしは、隠居の身になったのでございます。
仕事を辞めずに子育てをしたいという、和華子さんの力になりたいと考えたのでございます。和歌子さんにとって、姑が口を出されるというのは、複雑なものでございましょう。だからわたくしは考えましたの。一緒に暮らさず、近くに部屋を持ち、そこで和歌子さんの託児所を設ける。もうこの際だから、お友達の子も、必要な時だけ預かってあげてもいいと、考えたのでございます。幸い、わたくしは長年、食堂を営んでおりました。そこそこのネットワークは持ち合わせております。困った時、頼れるより所を心得ているつもりでございます。
渋顔をしたのは息子である、智久の方で、和華子さんは涙を流して喜んでくれましたの。
そして、他所で暮らすなんて水臭いと怒ったのでございます。
お互い、やり辛いこともあるでしょうと言って、二世帯住宅にしたのですが、玄関口が違うというだけで、ほとんど意味のない扉になってしまっているのを見て、孫の愛梨はいつも不思議そうに首を傾げております。
でもそれはそれ。
親子喧嘩をした時の避難場所になると言って、わたくしの部屋に訪問して来ては、開けっ放しのドアを閉めますの。
笑ってしまうことに、和華子さんもこの扉を有効に使っておりますのよ。
気難しい智久と意見がぶつかった時、逃げ込んでくるのでございます。
キッチンやお風呂も兼ね備えたわたくしの部屋は、何でございましょう。家族の息抜きの場所になっておりますの。
お友達も遊びに来て下さって、寂しい思いなどしておりませんのよ。
これもきっと、智蔵さんが残して行ってくれたものなんでしょう。
あの方に出会わなければ、今の幸せはなかったと思いますの。
わたくしもようやっと、そう思えるようになったのは、何よりも傍にいつでも雪乃さんがいてくださったからなのでしょう。
すべては人との巡り合わせ。
きっと意味があるものなのだと、最近、つくづく思うのでございます。
あの大喧嘩をしなければ、雪乃さんとわたくしはこんなにまでも、親しくならずにいたのでしょう。
二人の子供にとっても、同じことでございます。
第二の母として、彼女の存在は大きなものなのでございます。
だからわたくしが、雪乃さんの最期を看取るということに、誰も反対はしません。
弱って行く雪乃さんを見舞う智久の目に、光るものがあるのも頷けます。
バリアフリーにしたのも、わたくしの為と言っておりますが、すっかり病状が進んでしまっていた雪乃さんを、自分が面倒見るつもりだったのでしょう。
堅物で融通が利かない子ではありますが、そこは智蔵さんの子でございます。
受けた恩は、忘れてはおりません。
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