第7話 幸せの代償

 「給料が出たから映画でも見に行くべ」

 智蔵さん、顔を真っ赤にして誘ってくれたのは、二人が意識し始めて半年してからのことでした。

 映画は何を観たのかしら。すっかり緊張してしまったわたくしは、映画どころじゃありません。

 食堂の前での立ち話とは、訳が違います。

 ましてや、男の方と二人っきりなど、考えただけで頬が火照って来てしまいます。それが、智蔵さんとなりますと、尚更のこと。

 隣に居らっしゃる智蔵さんに、心臓の音が聞かれてしまうんじゃないかと、冷や冷やとしたものでございます。

 今のように、ビルや店などそうたくさんなかった時代でございます。

 当然、都会の空にも、無数の星たちが瞬きを見せておりました。

 それはそれは美しいものでございました。

 帰り道、智蔵さんいきなり立ち止まって、空を見上げたのでございます。

 冬の初めのことでございます。

 わたくしもつられて、空を見上げておりました。

 「星が綺麗だ」

 「はい」

 「ぼくと、結婚してくれませんか」

 「はい」

 えっ? 驚いたわたくしが聞き返しますと、嫌だべかと言うのでございます。

 あまりに唐突で、おかしくなってしまったわたくしは、笑ってしまいましたのよ。物のついでのように言うプロポーズ。それでも、智蔵さんの不器用さは、わたくしが良く知っております。

 わたくしは慌てるように首を横に振り、もう言葉は出ませんでした。

 こんな幸せがあるんだと、実感した瞬間でございます。


 挙式は、半年ほど後でした。


 一年、二年とあっという間に過ぎ、子供もポンポンと男の子と女の子の二人を授かり、三人目がわたくしの中に宿り、幸せの絶頂期を迎えていたのでございます。

 食堂の評判が上がり、賄だけではもったいないと、叔母夫婦の計らいで独立店を持つほどになっておりました。

 最初は反対していた母も協力してくれましたし、思い切って雪乃さんにも声を掛けたのでございます。

 彼女も、人並み以上に苦労を重ね、大変な時期ではありましたが、わたくしの申し入れを快く引き受けてくださいました。

 三人寄れば文殊の知恵。

 女手だけの店ですが、それはそれは毎日が充実しておりました。何より、雪乃さんに笑顔が戻って来ていたのは、大変うれしゅうございました。

 

 叔父から、重役を任せられ智蔵さんも、大変張り切って毎日を充実させているさなか、不幸は訪れてしまったのでございます。


 ある日、智蔵さんが妙な咳をし始めたのでございます。微熱もあるようなのですが、それでも仕事を休まずにおりました。

 どうも気になる咳だからと、強引に叔父が病院に連れて行ってくれたのでございます。

 診断は、もしやと思っておりましたが、やはり結核でございました。

 お医者様の診断は、わたくしたち夫婦には、あまりにも残酷なものでございました。

 もう手の施しようがないと言われ、それからが大変でございました。

 身重であるわたくしにうつすことだけは避けたいと、智蔵さんは、その日のうちにわたくしの目の前から消えてしまったのでございます。

 一目だけでもと、頼むわたくしに、誰ひとり居場所を教えてはくれませんでした。

 

 運が良かったのか悪かったのか、その頃の智蔵さんは、今までにたまった書類の片づけで、一人で狭い部屋にこもる仕事が多かったようで、余所様にうつしていなかったのは、せめてもの救いでございました。


 半狂乱で泣くわたくしに心を折され、居場所を教えてくれたのは雪乃さんでございました。

 障子越しで聞く智蔵さんの声はとても弱弱しく、涙がこぼれるほどでございました。

 

 涙を堪えるのがやっとで、何も言えないわたくしに智蔵さんは、自分の躰が辛いはずなのに、

 「おいのことは心配いらでねがら。躰、大事さしなさい。まめな子、産んでけれよ。名前は」

 ゴホゴホと咳き込む声に、わたくしは障子に手を掛けました。

 「なもだ。今日は疲れた。寝ます」

 こんな時でさえ、話すのはわたくしを気遣うことばかりで、もっと弱音を言って下さればいいのにと、歯がゆい思いをぶつけましたが、申し訳ないと、声を詰まれせて言うのでございます。

 その翌日、智蔵さんは静養所へと身を移されたのでございます。

 すべてはわたくしの為だったのでしょう。

 その頃のわたくしは、体力もなく寝たり起きたりの状態だったのでございます

 泣き崩れるわたくしを支えてくれたのは、雪乃さんでございました。

 そう考えてみますと、わたくしと雪乃さん、形は違うけれど、運命共同体なのでしょう。

 わたくしは、その悲しみに耐えきれず、次第に正気を失って行ってしまったのでございます。

 寝ても覚めても、見る夢は智蔵さんと過ごした楽しい日々ばかりでございます。

 今自分が、何をすべきでどこに居るのかさえ、さっぱり分からなくなってしまったのでございます。

 まったくひどい話でございます。

 母親である自覚など、微塵もなくなってしまったわたくしの代わりに、二人の子供たちの面倒を見てくれていたのは、雪乃さんだったでございます。

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