第5話 愛しても愛しても
それからは時代の波に押し流され、自分を守るのが精いっぱいで、とても人のことを気遣う余裕などございませんでした。
容赦なく落とされる爆弾から逃げ惑い、怯える毎日を過ごしてまいりました。
多くの知り合いの方をなくし、虚しい戦いは幕を閉じたのでございます。
街の様相も変わり、新しい一歩を踏み出さなければなりません。
そんな矢先でございました。
あの日からどのくらい経ったのでしょう?
ひょっこり顔を見せた雪乃さん、真っ赤なドレスにお化粧もしております。羽振りが良く、世話になったお礼だと言って、百円もの大金を置いて行ったのでございます。
てっきり落ち着いた暮らしをしているものと思っていましたから、姿を見て困惑したのは言うまでもございません。
とっさの判断でございました。
出て行く雪乃さんを追いかけ、わたくしは連絡先を聞きだしたのでございます。
なかなか教えてはくれませんでしたが、そこはあの神社の一件のように食い下がったのでございます。
終戦して、しばらくしてからのことでございます。
わたくしもその頃には勤めておりましたので、心配でしたが、そうそう様子を見に行くわけにはまいりません。
あの装いから考えても、普通の暮らしじゃないことはわかります。どうやら、男性とのお付き合いも相変わらずで、ますますひどくなっているような気がしたのでございます。
人並みに忠告はしたものの、もう学生の頃とは違います。大人のすること。ただただ見守ることしか出来ないまま、月日は流れて行きました。
それからどのくらいしたのでしょう、再び我が家を訪問した雪乃さん、すっかり見違えて、以前のようなけばけばしい化粧もなく、私に話があると、もじもじと話しにくそうにしておりました。
時代は高度成長期真只中。
いろんなものが復旧し、自動車が街を駆け巡るようになり、わたくしも、その助手席に座ることがしばしば増えだしておりました。
とてもよくしてくれる方で、一緒に居て楽しくて仕方がない人、そうでございます。愛することを止まない夫である、智蔵さんその人でございます。
不器用な優しさで、わたくしを支えてくれる大切な人。
この時も、私の我侭を聞いて下さり、何度も雪乃さんが務めているキャバレーへ連れて行ってくださいました。
わたくしに代わり、話をしてくださったこともあったそうです。
今では笑い話だけどねと言って、話してくれた雪乃さんの穏やかな笑顔を見て、どれほど安堵したことか。
わたくしどもはお互いの幸せを実感しながら、再び交流を深めて行ったのでございます。
しかし、運命というものは残酷なもの。
雪乃さんからの連絡は、わたくしの心臓を止まるものでございました。
時たま会う雪乃さんは、どんどんきれいになって、良い人がいるのと、本当に嬉しそうに笑って教えてくれておりました。
どうやら今までとは違う様子。
雪乃さんも、こんな気持ち初めてと言いっておりましたし、何より服装が変わったのでございます。煙草も辞めたと言っておりました。わたくしは、婚礼も近いのではないかと、密かに思っていたのに、皮肉なものでございます。お相手の方、奥様がいらっしゃったのでございます。
何も教えられていなかった雪乃さん、奥さんに自宅に押し入られて、初めてその存在を知ったそうでございます。
半狂乱の奥さんは、手に包丁を握っていたそうです。
「すまん。この女に騙されていたんだ。俺は嫌だって言ったのに、強引に言寄られて」
すっかり震え上がったお相手の方は、雪乃さんの背中を押して、こんなひどい言葉を言ったそうです。
何てことでしょう。最低な男でございます。あろう事か、雪乃さんを自分の盾にしてしまうなんて。
呆然となった雪乃さんを見て、奥さん、ケラケラと笑い出したそうです。それはそれはおかしそうに。
「この包丁で、旦那の大事な所、ちょん切ってやろうと思ったけど、気が変わった。もっと面白いことしてあげる。ねぇ、秀治さん、私のこと愛している?」
「も、も、もちろんだよ。みつだけだ。ほ、他は、目じゃねぇ」
「じゃあ、今、ここで、私を愛してよ」
「なな何を言っているんだ」
「愛しているなら、出来るでしょ」
じりじりと攻め寄る奥さんに、お相手の方はすっかり震え上がってしまっていたそうでございます。
もし万が一の時は、自分が盾になる覚悟をこの時、雪乃さんはしておりました。
満を持している雪乃さんを嘲るように、奥さんは不気味な笑顔で尚をも、続けたのでございました。
「それじゃ、家に帰ってから」
「それじゃ意味がないんだよ。今、この女の前でしなきゃ。ほら、お食べよ。あんたが三度の飯より好きなもんだよ」
奥さんの迫力は素様強いものだったそうでございます。
勝ち誇ったように見る奥さん。ついさっきまで雪乃さんがそこで横たわっていたはずの場所で、吐息を漏らし始めのでございます。挑発的に時折見られた雪乃さん、居た堪れなくなり裸足のまま部屋を飛び出し、ふらふらと踏切に向ったそうです。
電車を見た瞬間、私の顔が浮かんで、思いとどまったと言っておりましたが、それはどうでしょう。雪乃さんは、もともと芯が強い方。しっかり自分の意思で、踏みとどまったのでございましょう。
本当に、どうしてと聞きたくなるほど、彼女の愛はことごとく踏みにじられてしまうのでしょう。
掛ける言葉も見つけられず、わたくしはただただ、雪乃さんと抱き合い、泣いておりました。
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