第3話 偽りの恋
すっかり痩せ細ってしまった手を、雪乃さんが伸ばします。
いたたまれない気持ちを押し殺し、その手を握るわたくしに、微笑みかけてありがとう。と、消え入りそうな声で言うのです。
見れば、雪乃さんの目から、涙が一粒零れ落ちています。
「恋をするって、いけないことなのかしら。彼女も私も、ただ、自分に正直だっただけなのに」
いけないことなんて、断じてありません。誰が何と言ったって、私は雪乃さんの味方でございます。
ただ、出会う順番とか、タイミングとかを、少し外してしまっただけ。誰が悪いとか、そんなのないと、、わたくしは思うのでございます。
「飽きたから……、捨てるなんて、誰が納得するのよ。院長娘との縁談がきたからって、何?」
「酷い話ね」
「本当は、躰なんか売りたくはなかったの。それなのに、身も心もボロボロになっていた彼女を前にして、愛しているなんて、軽々しく言って欲しくはなかった。一番の理解者になってあげようなんて、よく言えたもんだわ」
過呼吸を起こしてしまった雪乃さん、今日のところはこれ以上、話すのは、無理のようでございます。
看護師さんに、くれぐれも頼みます。と頭を下げて、わたくしは病室を出ました。
身寄りがない雪乃さんの連絡先は、我が家にしてあります。
わたくしと雪乃さんは、女学校時代からの知り合い。友人とは程遠い関係でございました。
彼女は、造り酒屋の一人娘で、いつでも近寄りがたい雰囲気を持っておりました。女子には、鼻もちならない人と扱われておりましたが、男性から見た、彼女はとても妖艶で、たまらない存在だったようでございます。
彼女に交際を申し込む男性は、後を絶ちません。
引っ切り無しに男性を替えて歩く彼女は、いつしか公衆便所と言うレッテルを張られるようになっていったのでございます。
それはそれは酷いものでございました。
そんなとある日、町で彼女がわたくしの弟と歩いているではありませんか。それも楽しそうに、手など繋いで。
ふしだらな。
古い考えかも知れませんが、相手はあの男たらしの雪乃さんでございます。姉としては、黙っておられません。二人を引きちぎって、わたくしは、雪乃さんに言ってやりましたの。
「あなたが、どこで何をしようが構わないけど、この幸之助にだけは、手を出さないで」
人目も憚らずに怒鳴るわたくしに、雪乃さんときたらあっさりとしたものでございました。
「ごめんなさい。あまりに優しくしてくださったものだから、つい甘えてしまって」
ぺこりと頭を下げた雪乃さんは弟に、お姉さんを大切にしてあげてね。と言って、そのまま行ってしまったのでございます。
その後、言うまでもありません。わたくしはこっぴどく、弟に怒られたのでございます。
「姉さんは彼女の何を知っているの? 姉さんは何も分かっていない。今日だって、僕が執拗に頼み込んで、断る彼女を無理無理、一日だけのデートして貰ったんだ」
二人で映画を見て食事をしてくれたら諦めるという、弟の言い分を汲んでくれたのだと知り、わたくしは初めて愚かな自分に気づいたのでございます。
恥ずかしさと情けなさでいっぱいになったわたくしは、もうどうしていいものやら、ともかく彼女に会って、謝らなくてはいけません。
わたくしは、慌てて雪乃さんを探し回ったのでございます。
日も暮れてしまい、諦めて帰りかけの道なりにあるお寺の階段を、上がって行く雪乃さんを見つけたわたくしは、大慌てで、後を追いかけました。
境内の前、雪乃さんの妖艶さはなく、しょんぼりした様子で座っておりました。
急に現れたわたくしを見て、ふっと、雪乃さんは笑みをこぼしましたのでございます。
やはり、元気がありません。
「さっきはごめんなさい。私、早とちりをしてしまって」
「いいわ。そんなの初めてじゃないし」
どうしてそんなふうにしたのか、自分でも分かりませんでしrた。
気が付くと、わたくしは雪乃さんの横に、座わっておりましたの。
「でも、あなたもいけないのよ。あなたの評判が、悪すぎなのよ」
口を尖らせて言うわたくしに、雪乃さん、ゲラゲラとそれはそれは愉快そうに笑うのでございます。
「何もおかしくないわ。あなた、もう少し秩序を養うべきだわ」
笑われて、急にバカにされたような気分になったわたくしは、顔を赤らめて行ったのでございます。
「何も知らないお嬢さんに、そんなこと言われたくないわ」
雪乃さんの反撃でございます。
「大体、男にだらしなさすぎなのよ」
「自分がモテないからって、ヤキモチを妬かないで」
「そんなもの妬いてないわ。女性として、はしたないって、忠告をしているだけよ」
「あなたに、私の何が分かるって言うの?」
もうとっ掴み合いのケンカでございます。誰にも見られていないのをいいことに、髪を引っ張り合い、爪で引っかきあいをしたのでございます。
こんなケンカをしたのは、後にも先にもこの一度きりでございます。
あちこち痛くて、わんわんと泣き出してしまったわたくしに、雪乃さん、はいってハンカチを寄こし、ごめんねと謝ってきたのでございます。
もう本当にバカみたいな二人でございますでしょう。
だけど、これが素敵な二人の友情が生まれたのは、確かでございます。
名残惜しく、もう一度病室を振り返り、摂理をつくづく考えさせられてしまったのでございました。
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