小さな紙に紡ぎし恋物語は、時を超えて。

「綴火様はご存知でないでしょうか?」


「にゃぁ……」


「…お腹が空いたのですか?」


「にゃぁ……」


「そうですか…」


「にゃぁ……」




私は一体何をしているのでしょうか…




母から通わせ人綴火様のご自宅の場所を教えてもらい足を運んだものの、綴火様は留守にしていらっしゃったようで、インターホンを鳴らしても反応がありませんでした。


そこに、一匹の猫が通りかかったので、彼(彼女?)に尋ねてみた所、猫に人語が通じるわけもなく、猫はただひたすらに『お腹が空いた』という感情を飛ばしてきます。


村の人たちが『紙渡し』で盛り上がっているというのに、この暗がりの中で独り、無意味に猫に話しかけていたと思うと、虚しさと恥ずかしさが込み上げてきます。本当、何をやっているんでしょうね、私……


綴火様も祭りを楽しむべく、御前通りへと赴かれたのでしょうか?もしそうであれば、いつお帰りになられるかも分かりませんね。


日を改めた方が良さそうですね。猫を撫でながら、そろそろ帰ろうかと思い始めた時、少し離れた位置から、とても強い警戒心が伝わってきました。鋭利な刃物の如く研ぎ澄まされた警戒心…きっと綴火様でしょう。


少しばかりの緊張感を覚えながらも、私はゆっくりと振り返ります。やはり綴火様です。


以前にお会いした時、綴火様は腰に大小の刀を二本、背に大きな刀と大きな弓を携えていましたが、今は二本の刀を帯刀しているだけです。仕事帰りではないのでしょう。



「……人様の家の前で何をしているんだお前は」



綴火様は怪訝そうな表情で訊いてきます。申し訳ございません、私もよくわかりません…



「こんばんは、綴火様」


「にゃぁ…」



私が挨拶をすると同時、猫が私の手元を離れるなり、綴火様の元へと直進していきます。


綴火様は一瞬、鬱陶しがるような表情を見せますが、足元にすり寄ってきた猫を慣れた手つきで撫で始めました。


猫はとても喜んでいました。現に、猫は綴火様にもっと撫でろとお腹を見せています。私よりもはるかに猫の扱いがお上手です。


「そちらの猫は綴火様が飼われていらっしゃるのでしょうか?」


「ただの野良猫だ。大方、飯をたかりにきたのだろう。祭り真っ只中の今なら、通りに行った方がありつけるだろうに」


「とても綴火様に懐いていますね。私が撫でていた時よりも喜んでいます」


「こいつはオスだからな。女のお前に撫でられるのが照れ臭いだけだろ」


いつもの如く、綴火様はぶっきらぼうな物言いをされていますが、この猫に対する確かな愛情を感じます。綴火様は動物がお好きなのでしょうか?


「…で、お前は見知らぬ猫を愛でるために、わざわざこんな所に足を運んだのか?」


そうでした…私はまだ本来の目的を果たせていませんでしたね。


「私は綴火様に感謝の言葉と、その気持ちをお伝えしに参りました」


私は巾着の中から、白い生地に金の紗綾形を織り込んだ財布を取り出します。綴火様への感謝の印と、私がしている印です。


「綴火様、先日はご厚意を賜わりありがとうございました。私は綴火様より頂いたお金で、和裁わさいを勉強する事にしました」


和裁とは、読んで字の如く和服を裁縫する事です。私に和裁のご指導をしてくださっているにしきさんの話では、日本は洋服が主流となっており、和裁は数を減らしつつあるそうです。この村にも洋服を着用されている方は多いですが、未だ和服を普段着にされている方も多いです。


「この村は和服を着用される方が多いですからね。現に、私も普段からつむぎを着ておりますし、綴火様も作務衣をお召しになられてますよね?和服の仕立てや修理ができるようになれば、より多くの人のお役に立てると愚考いたしました故、ミシン屋のにしきさんに教えを請いました」


「ミシン屋のババアに教えてもらっているのか?あの頭が石でできているようなババアに、よくそんな話を持ちかけようと思ったな」


「流石にババア呼ばわりは些か礼を欠いているかと……錦さんは気難しそうに見えて、とても親切な方です。厳しいお言葉も貰い受けますが、親身になって頂いているからこそのお言葉ですから、とてもありがたく存じております」


私がどれだけ錦さんのお世話になっているかを話したところで、なおも綴火様から『あんな無愛想な奴はやめておけ』という感情が伝わってきます。


……愛想が無いという点に関しましては、綴火様もあまり人の事は言えないように思えますが……


「こちらの財布は謂わば習作のような物です。錦さんのご助力を無しに作りましたので、拙さが散見される事かと思います。ですが、初めの一歩となる作品は、綴火様への感謝の印にしたいという一心で作りました。あの日、綴火様よりお金を手渡された時、綴火様は財布を使われていらっしゃらなかったので、お役に立てていただければと思います」


私が新たな事を始めたという事は、とても大きな事です。あの日、綴火様にお会いした事で、私の人生が大きく、大きく変わった気がしてならないのです。


私が作った物は、そのお返しとしてはあまりにも小さく、あまりにもつたない物です。綴火様はこのような物を受け取って、喜んでくださるのでしょうか?


「綺麗な紗綾形さやがただな。和裁を始めたてとは思えんぞ」



綴火様は、私が織った綾を綺麗だと仰ってくださいました。そこにお世辞はなく、心でも同じ事を思っていました。綴火様は嘘をつかない方です。


私の気持ちを受け入れて貰えた嬉しさが半分、真っ直ぐに褒められてしまった気恥ずかしさが半分で、自分の顔が赤くなってしまうのが、自分でもわかりました。その感情を綴火様に見抜かれてしまっていると言う事実が、より一層私の羞恥心を弄びます。


「あ、ありがとうございます…自分が手がけた物を渡すのは、なんだか気恥ずかしいですね」


ですが、私はまだまだ未熟です。始めて一カ月も経っていません。ここで褒められて有頂天になってしまっては、錦さんのご指導と綴火様のお褒めの言葉を無駄にしてしまいます。


「最初は何度も失敗をしてしまい、いくらか素材を駄目にしてしまいました。私の…と言うよりも、にしきさんのご指導の賜物です」



綴火様は私の発言を受け、少し不機嫌になりました。



「謙遜のつもりかは知らんが、自分の成長はしっかりと受け止めろ」


「え……?」


「ババアの教え方が上手いのか下手くそなのかはどうでも良い事だ。重要なのは、お前がそれをきちんと吸収しているかだ」


綴火様は真っ直ぐに私の目を見据えます。


「失敗は悪ではない。一番怖いのは、失敗を経験せずして次の段階へと向かってしまう事だ。失敗は建設工事の基礎にもあたる。見習いという立場で習作を作っている時点での失敗など何の問題にもならないが、人様から金をもらって作るようになるとそうも行かない。今のうちにありとあらゆる失敗を経験しておけ。大事なのは失敗をしない事ではなく、同じ失敗を繰り返さないようにする事だ」



同じでした。錦さんが私に仰った事と全く同じことを綴火様は仰ったのです。



「…やはり、玄人と呼ばれる方々は皆、同じような事を仰るのですね」



綴火様も錦さんも、その道のプロフェッショナルである方々も、最初は私と同じように数え切れぬ失敗を重ねてきたのでしょう。


その失敗を真摯に受け止め、確固たる向上意識を持って研鑽していくからこそ、人は何かを極める事ができるのでしょう。



「…どう言う事だ?」


にしきさんも同じような事を仰っていました。先日、錦さんに『失敗して謝るくらいなら帰りな。最初からできるような子に教えるつもりなんてないよ』と言われてしまいましたから」


「あのババアと一緒にしてくれるな。少なくとも俺は剣を教えていて『帰れ』などと言ったことはないぞ…」


綴火様は誰かに剣を教えていらっしゃるのですね。村の子どもたちに教えているのでしょうか?


綴火様はもう一度、私が作った財布に視線を落とします。…なんだかじっくりと観察されますと、自信が無くなってきますね…


「お気に召されたでしょうか…?」


「ああ。白地に白の柄を入れるとは、なかなか粋な事をするな」


そう答えた綴火様は、何かを考えるかのようにして目を細め、その口元を僅かに綻ばせます。今日、会って初めて綴火様が柔らかい表情になった気がします。


一体何を考えているのでしょうか?気になった私は綴火様の心を覗き込むようにして、より強く綴火様に意識を向ける。




『真っ白な絹に薄い金の紗綾形。…まるでお前のようだ』





ふぇっ?





「…ん?どうした、顔が赤いぞ」


「い、いえ…お気になさらないでください」




うわぁ………つ、綴火様!!不意打ちは止してくださいっ!!




跳ね上がった心拍数を落ち着かせようと念じますが、依然としてトクトクと胸打つ音が私の頭に響きます。…綴火様は恐ろしい方です。



「……お前はやたら花について詳しかったが、花が好きなのか?」



私から受け止った財布を仕舞い込んだ綴火様が、不意にそんな事を尋ねてきました。真意はわかりません。



「…そうですね。花を見ていると不思議と心が落ち着きます。花はそれぞれ異なった形をし、それぞれ異なった色をし、それぞれ異なった香りがし、それぞれ異なった季節に咲きます。それぞれ異なった美しさを見せてくれるこの子たちには、いつも安らぎと力を与えてもらっています」


私はちょうど近くに生えていた、背の高い姫昔蓬ひめむかしよもぎに触れます。姫昔蓬はよく見かける花ですが、私はその可愛いらしい名前がとても気に入っています。


「……そいつは花なのか?いつも雑草だと思って引っこ抜いているが…」


「ふふ、雑草という名の植物はありませんからね。この子には姫昔蓬ひめむかしよもぎという名があります。そろそろ白い小さな花をたくさん咲かせる頃ですね」


ですが、一般的には雑草と認知されているのもまた事実です。庭に生えていたら綴火様のように引き抜いてしまう方が大半でしょう。


それにしても、何故いきなり綴火様は花が好きかなどと訊いてきたのでしょうか?私がついつい語ってしまう花に関する蘊蓄を、不快に思っていなければ良いのですが…


「…成り行きで手に入れた代物があるんだが、俺には無用の長物だ。気に入ったのであれば、お前が貰ってくれても構わん」



唐突に、綴火様は透明に輝く何かを取り出しました。


これは…はすの花ですね。蓮のガラス細工です。


「まあ……とても綺麗です。触っても宜しいのでしょうか?」


「好きにしろ」


綴火様はこのガラス細工にそこまで興味がないのか、かなりぞんざいな手つきで私に手渡してきます。


「細部まで繊細に作りこまれていて、蓮の花の清廉な美しさを見事に体現しています。泥より出でて泥に染まらず……蓮の花の魅力をとても的確に言い表している言葉だと思います」


清らかな心。神聖。沈着。淀みなく透き通るこのガラス細工は、本物の蓮と同じくらい…いえ、それを上回るほどに美しいです。


「より濃い泥水で育つと大輪の花を咲かせ、綺麗な水で生育すると小さな花しか咲かせない……か」


…驚きました。綴火様がこの言葉をご存知だと思いませんでした。綴火様は花に造詣が深いという風でもなさそうですが…単に綴火様は博識なのかもしれませんね。自分にとってそれほど興味があるわけでもない分野の知識を持つということは、なかなかできる事ではありません。私も見習わなくてはいけませんね。


「…はい。それを人間の人生に置き替え、受難があって、初めて幸せになれる…といった考え方が、仏教にはあるそうですね」


苦しみ無しに人は悟ることはできないと、釈迦は言ったそうです。苦しみを知っているからこそ、真の幸せに気づけると…


「ですが…このような物を頂いてしまってもよろしいのでしょうか?」


邪推ではありますが、お金にするとこのガラス細工はかなりの高級品でしょう。こういった工芸品に明るくない私でも分かります。そんな物を、まだ綴火様とお会いして一カ月も経たないような私が受け取るのは、なんだか烏滸がましいように思えます。


「構わん。俺の周りの連中は、誰も彼も興味がないの一辺倒だし、俺が持ち帰ったところで埃をかぶった置き物になるだけだ。少なからず価値を見いだせる人間の手に渡った方が、そいつを造った人間も喜ぶだろう」


綴火様ニコリともせず、淡々とそう仰いました。ですが、私にはわかります。


綴火様から僅かに伝わってくる『羞恥』。綴火様は照れていました。


私に不要物を押し付けるつもりならば、綴火様が照れる事などないでしょう。


私の勝手な決めつけに過ぎませんが、私に『贈り物』をしたという自覚があったからこそ、綴火様は照れ臭く思っているのでしょう。



その大きさまではわかりませんが、これは紛れもなく綴火様のご厚意の形です。だからこそ、綴火様は私に『花は好きか』とお尋ねなさったのでしょう。



話せば話すほど…覗けば覗くほどに見えてくる、綴火様の優しさに私の中の何かが温まっていくような感覚を覚えます。



同時に、綴火様の優しさが見えれば見えるほどに、綴火様の事が分からなくなります。




なぜそんなにも常に、全てに、強く警戒をしていらっしゃるのでしょうか。




なぜあなたは、心からの笑顔を見せてくれないのでしょうか。




「ありがとうございます。綴火様に贈り物をするつもりが、それ以上の物を頂いてしまいましたね」


「気にすんな。俺からしてみればそんな石ころよりもお前が作ってくれた財布の方が価値のある物だ」


綴火様は再三、私が作った財布をしげしげと観察します。…やはり、まじまじと見られてしまうと自信が無くなってきますね。綴火様のお褒めの言葉を疑うわけではありませんが、少しばかり不安に思ってしまいます。


…意を決した私は、綴火様の心により強く意識を向けます。



『こいつを嫁に貰ったら、家事に困る事はないだろうな』




……………ふぇ?




えっ……えええぇぇええええ!?




なっ……よ、嫁!?綴火様っ!!そのような不意打ちはやめてくだい!!変な声が出てしまいそうでした!!うゎぁあ……


わぁあああぁあああ……にゃあああぁぁあああ……!!



「…おい、また顔が赤くなっているぞ。体調が悪いのならさっさと帰った方がいいんじゃないのか?」



綴火様は心から私の事を心配してくださっています。そ、そんな…このタイミングで優しさを見せるのですか!?波状攻撃はお止しくださいませっ!!



「い、いえ…お気遣いをありがとうございます。体調が悪いわけではありません。少し、こういったものには慣れていないだけです」


「こういったもの?」


「ふふ、内緒です」



余裕がない時こそ、余裕を見せるのができる女だ…と、いつかの母が言っていた事を思い出します。一生役に立つことのない知識だと思っていたのですが…


私は人差し指を立て、それをそっと唇に触れさせ、悪戯っぽく微笑んでみせます。


いうまでもなく、ただの虚勢です。未だ恥ずかしさが止まりません。


ですが…綴火様はご自身の方から話を振ってくる事は少ないです。なので、私の方から話を振れば、自ずと私のペースで会話を進めることができます。こちらから話題を変えていけば、さらりと流すことができるでしょう…!!



私は一体何と戦っているのでしょうか…



「そうでした。綴火様にお渡ししたい物は財布だけではありませんでしたね」


綴火様より賜った蓮のガラス細工を丁寧に仕舞い、今日のためにと準備したもう一つの物を綴火様に手渡します。


「これは……づるか?柳包みを折り鶴にする奴は初めて見たぞ」


す、凄いですね…これをすぐに柳包みだと見抜かれるとは思いませんでした。


「ええ、私も初めての試みですからね。家族以外の殿方を相手に、折らずにお渡しする時は『君健やかなる事の喜ばしきに感謝せん』。三角に折ってお渡しする時は『君想う程に君欲する心を君に捧げん』と言う決まり文句が添えられるそうですが、折り鶴にする場合はどのような句を詠みあげればよろしいのでしょうか?」


「さあな。そもそもこの風習の起源すら知らん」



そうなのですか?紙渡しの起源はそれなりに有名だと思っていたのですが…



紙渡しは、昔の『神繋の巫女』と『通わせ人』の間で繰り広げられた恋愛話がルーツになっていると言い伝えられております。




当時の通わせ人を務めていた男は、歴代において『最弱』と呼ばれ、彼に通わせ人としての責務を果たせるのかと、村人たちは難色を示していたようです。



通わせ人は血筋や師弟関係によって伝承されるものではなく、純粋にその村で最も腕の立つ人間が務める事になっています。山の中にある里守神社に物資を届けなくてはならないのは勿論、村の外から来た人間から姫女様をお守りするのも、通わせ人の仕事です。


通わせ人は『剣頂の儀』という儀式によって定められます。その儀式は真剣で行われる剣の試合で、相手を降参させるか、相手を『殺した』者が、通わせ人を務める事になります。


当然、儀式に参加する者には死のリスクが伴います。相手を殺すつもりで戦わなくては、真の実力という物が測れないからです。


故に、明らかに自分の剣の腕が、この村の中で『頂点』ではないと自覚する者は、儀式に参加しません。誰も儀式に参加しなかった場合は、通わせ人が不在という事になり、神繋の巫女は下山する事になります。


実際、当時の現職だった通わせ人が病に倒れてしまい、急遽『剣頂の儀』が行われたのですが、参加する者は誰一人としていませんでした。


通わせは、おぞましき怪物『鎧熊』に襲われる危険性を孕んだ役割です。この役割を率先して果たそうとする者は稀有だったのです。


しかし、一時的にでも通わせを果たしてくれる者が出て来なければ、神繋の巫女は神社に一人、取り残されてしまう事になります。急を要する事態でした。


ですが、自分の身が一番かわいいのは誰しも同じです。村の要である神繋の巫女が取り残されているとあっても、剣の達人たちはなかなか名乗り出れずにいました。



そんな中、一人の男が『剣頂の儀』に参加しました。



その男は剣の扱いに関しては「まあまあ」といったところで、達人と呼ばれる方々には到底及びませんでした。周りの人々も「鎧熊どころかツキノワグマにすら勝てない」と、口を揃えてお前には無理だと説得したそうですが、男は全く耳を貸さなかったそうなのです。


男は、当時の神繋の巫女である、神繋かんなぎやなぎに恋をしていました。


小学生の時に一目惚れし、それ以来は気持ちを伝える事が出来ずにいました。そして、とうとう告白する事ができないまま、神繋柳は神繋の巫女の役割を果たすため、神社へと行ってしまったのです。


ですが、男は新しい恋を見つける事なく、姿の見えない神繋の巫女に、未だ想いを寄せていました。


通わせ人が病に倒れ、神繋柳が物資を受け取れずに山の神社で孤立していると聞き、男は血相を変えて、倣神野の集会所へと駆け込んだそうです。ですが、この時点で通わせ人が病に倒れてから一週間が経とうとしており、神繋柳の健康状態が不安で不安で仕方なく。男は気が気ではありませんでした。


こうして、現職の通わせ人の病が治るまでの間、神繋の巫女を下山させるためだけに現れた『歴代最弱』の通わせ人。その男の道のりは険しいものでした。


男は山を歩き慣れておらず、何度も急斜面を滑落しました。また、不用意に音を立ててしまい、何度も狼に襲われました。


残りあと僅かで神社というところでツキノワグマと鉢合わせになり、我武者羅に熊を屠りました。




一方で、神繋柳は全てを察していました。



突然、通わせ人が来なくなったのです。現職の通わせ人の身に何かがあったのは明白。神繋柳はただただ通わせ人の無事を、里守之稲荷様に祈りました。


通わせ人は来ません。一週間が経とうとしています。病気こそ患ってはいませんが、神繋柳はやせ細っていました。それでも自分が仕える神に、ただただ祈り続けました。


祈りが通じたのか、拝殿の戸が何者かの手によって開かれます。神繋柳は通わせ人は無事だったのだと安堵しました。



しかし、彼女が振り返った先に立っていたのは、通わせ人ではありませんでした。



頼りない一本の刀を片手に、土に塗れ、ボロボロの服を身に纏い、あちらこちらから血を流している、かつての同級生が立っていたのです。



一瞬、状況の把握ができなかった神繋柳は固まってしまいましたが、すぐに傷だらけの男の元へと駆け寄り、何があったのかを男に問いただします。


男の口から全てを聞かされた神繋柳は、男に聞きました。なぜこんな無茶をしたのだと。



男は泣いていました。



男は嬉しさのあまり、涙したのです。神繋柳が無事だった事、ただそれだけが嬉しくてしかたなかったのです。



男は拝殿に上がるなり、里守之稲荷の御神体が眠る本殿めがけて五体投地をし、こう言ったそうです。



『君健やかなる事の喜ばしきに感謝せん』



神繋柳は全てを悟りました。この男はただ自分の無事だけを考え、ただ自分を救うためだけに、その命を危険に晒してまでここまで来たのだと。男が持っている実力に見合わぬ責務を、果たして見せたのだと。


そして、己の怪我など気にも留めず、ただただ自分の無事だけを喜んでいるのだと。それほどまでに、自分の事を想っているのだと。



神繋柳は心の奥底に、未だ経験のした事のない、大きな衝撃を覚えました。



神繋柳の頭の中は既に男の事でいっぱいでした。



下山する時、村の誰しもが頼りないとこき下ろしたその男の背中が、神繋柳にとって誰よりも心強く、そして、誰よりも愛おしく思えたそうです。



下山後、正式な通わせ人が決まるまでの間、神繋柳はその男の治療に付きっ切りでした。一秒でも長く、この男と共に居たかったのです。一番近くで触れ合っていた二人は、急速に惹かれ合っていきました。



時が少し経ち夏になり、当時では恒例となっていた『夜這い』が盛んになり出した頃、神繋柳にはある感情が芽生えました。


この男に、他の女を抱いて欲しくない。


そう、嫉妬と独占欲です。神繋柳はどうしようもなくこの男を愛していたのです。


ですが、それはこの男も同じで、神繋柳以外の女を抱くつもりなど毛頭無く、逆に神繋柳を抱きたいという気持ちで一杯でした。しかし、この人生で神繋柳だけを愛し続けた男には、当然女性に対する経験などなく、夜這いをかけることが出来ずにいました。


ですが、不思議な事に二人の気持ちはより一層強くなるばかり。痺れを切らしたのは神繋柳でした。


神繋柳も男性経験などあるわけもなく、とても初心うぶでした。


そんな彼女が、一世一代の決心と勇気と共に、ある一枚の紙を男に渡しました。


紙は三角に折られており、中に何か書かれているのか?と、不思議に思った男でしたが、紙を開くより先に、神繋柳は顔を真っ赤にして走り去ってしまいました。


疑問が深まる中、首を傾げた男が紙を開くと、そこにはこう書かれていたようです。




『君想うほどに君欲する心を君に捧げん』




その夜、男と神繋柳はお互いの愛を確かめ合ったそうです。




この話が人々に伝わった以後、ただ一人に注ぐ愛の美しさが高く評価され、女性の間では『心から愛した一人の男に抱かれる事こそが美』とされました。愛しの人にその感情を伝える為に、夜這いの時期に『紙で柳を包んだ物』が渡されるようになり夜這いの文化は現在のような姿に変遷していったそうです。


勿論、その柳は神繋柳の名前になぞらえた物で、今でこそ実際に柳を包む事はなくなったそうですが、一部の女性は、紙に『柳』の文字を書いたりもするようです。




この話を母に聞かされた時、私は布団の中で悶絶しました。こう言うのを、巷では『むねきゅん』というそうですね。母も初めて聞いた時は『むねきゅん』したそうです。


この話は村の女性たちの間では伝説と呼ばれても遜色ないほどに語り継がれているそうです。



……と、双神村ではそれなりに有名なお話があるそうですが、綴火様はご存知でなかったそうです。


…あまりそう言ったことに興味無さそうですしね、綴火様……



今回、そのエピソードに準え、折り鶴にした柳包みに文字を書いてみました。…流石に『柳』とは書いてないですよ?


折り鶴の羽の部分に、私の名前を書いてみたのです。綴火様もそれを見つけたようで、不思議に思われています。


「不躾ながらも、未だ綴火様には名乗っておりませんでしたので……賜名たまな折鶴おりづる系名かかりな綾華あやかと申します。気軽に綾華あやかと呼んでいただければ嬉しく思います」



基本的に私の名前を呼ぶのは家族くらいしかいません。父も母も『綾華』と系名で呼んでいるので『折鶴』と呼ばれても直ぐに反応できる気がしないのです。



「…折鶴とは、また変わった賜名を与えられたものだな」


私の賜名は過去に一度も使われた事のない賜名で、このような賜名は『一名はじめな』と呼ばれているそうです。綴火様も『一名』だと、父から聞きました。


人々は必要以上にこの『一名』を有り難がるそうですが、名を授けてくださる姫女が仰るには、特に深い意味は無いそうです。むしろ、『一名』ではない人は、たまたま歴代の姫女が付けた賜名と被っただけだそうです。なので、一部では『より付けられた回数の多い賜名の方が神聖だ』と主張する人もいるよるで……これもう分からないですね。


「そうですね。賜名を考えてくださった諫寧様は、元気よく咲き乱れる折鶴蘭おりづるらんの如く、逞しく育つように…と、この名をくださったようです」


「親でもない奴が付けた名など、たかが知れている。だが、お前の系名かかりなは、それなりの意味を持って付けられたのかもしれんな」


含みの有る物言いをされる綴火様の心を深く覗き見れば、私の事を『綾を織り成し、華を愛でる者』と評されていました。


綴火様が時折みせる、その豊かな感性には驚かされます。普段、硬い表情をされている綴火様が紡がれるその世界観には、良い意味でギャップのようなものを感じてしまいます。


「名前という物は人生の始点で与えられるものです。ですが、こうしていくらかの歳月が過ぎた現在、私は紗綾織の財布を綴火様に贈り、はなを愛しております。きっと、私が華を愛しているのも、綴火様に巡り会えたのも、単なるちっぽけな偶然ではないのでしょうね」



そう、私の人生は間違いなく変わり始めているのです。



貴方と共に一輪の『月下美人』に見惚れたあの夜から、私の人生に新たな花が芽生え始めているのです。


「…知っているとは思うが、俺の系名は詠水だ。今後はそちらで呼べ」



…綴火様は村では姫女様や神繋の巫女に匹敵するほどの有名人です。ですので、綴火様にまつわる話はよく耳にします。



綴火様が系名で呼び合う者は、綴火様と懇意な間柄にある者だと聞き及んでいます。まるで興味もない相手に系名で呼ばれる事を嫌い、系名で呼ぶ事もしないそうです。


その話を知っているせいか、私は少し萎縮してしまいます。


「お名前でお呼びしてもよろしいのですか?」


「名前で呼べと言ったお前が、それを聞くのか?」


「そうですね、今後とも良しなにお願いいたします……詠水様」


私はこれまでの間、ろくに他人と関わってきませんでした。こうして家族以外の名前を呼ぶのは、初めてかもしれません。そう思うと、恥ずかしさと照れ臭さがそこはかとなく込み上げてきます。


「…その様付けは何とかならんのか?まるで俺が偉くなったかのような錯覚に陥るからやめて欲しいんだが」


「いえ…稚拙ではありますが、私なりの詠水様への敬意の形ですので」


綴火様……改め、詠水様には与えられてばかりいます。そして、教えられてばかりいます。あなたを、他の人たちと同じように扱いたくない自分がいるのです。



家族とも違い、他人とも違う、詠水様。



人はこれを『特別』と呼ぶのでしょうか?



いらぬ事を考えてしまい、またしても顔に熱が集まって行くのが自覚できました。何度も顔を赤くしてしまっていては、そろそろおかしな女だと思われてしまうかもしれませんね。話題を変えましょう。


「ところで、詠水様がお帰りなさったという事は、祭りは終わったのでしょうか?」


「神繋の稲荷祝詞が終わったからな。屋台自体はまだ畳んでいないだろうが、じきにお開きになるだろ。若い連中は柳包みを渡し渡され、気が気じゃないだろうからな」


そうですか…自分が想う相手と過ごす時間という物は、一体どれほど甘美なひと時なのでしょうか。私も年頃の女である以上、興味がないわけではありません。


もしかしたら、詠水様も……


「…詠水様も他の女の子たちから柳包みを?」


「誰それに渡されただの、人に言うような事じゃない」



………気になります。



野暮な真似だと自覚していますが、詠水様の心を覗いてしまいます。


口ではうまくはぐらかしている詠水様ですが、心の中ではしっかりと誰から貰ったか回想しているようです。


えっと…裁花遙さんという方、それに、撫霧いろはさんという方。それと、甘桜香乃子さんという方も…………え?



えええええぇぇえええええ!?



あ、甘桜さんと言いますと、みちくさ茶屋の娘さんですよね!?あ、あんな綺麗な方から詠水様は……えっ!?しかも柳包みを折ってるではないですか!!??


ななななななんですかこれは!?


少し調子に乗って柳包みを折り鶴にして、それどころか羽に名前を書いて、それを詠水様に渡して、私は一人で舞い上がっていたと言うのに、詠水様はすでに沢山の女性から柳包みを受け取っていたのですか…?




……………………面白くないです。




「…………おモテになられているのですね」



私ができる限りのジト目で詠水様を見つめると、訳がわからないといったご様子で詠水様は眉をひそめます。詠水様、もう少し女心を察してくださいませ…


それにしても、たった一夜の間に、様々なドラマが繰り広げられているのですね。今宵は沢山の村人たちにとって『特別な日』となり得るのでしょう。


「祭り…ですか。私にとっては未知の領域ですからね」


「お前は一度も行った事がないのか?」


「いえ、3つにもなっていない頃に、一度だけ連れて行ってもらった事があるのですが、すぐに気絶してしまいましたので…」


とても幼い頃の話ですが、あの時の事は今でも覚えています。


「私は人が密集した所が苦手でして、人混みに酔う…と言った感じでしょうか?祭りともなると、それが顕著に出てしまうのです」


あれほど人が密集していると、その全ての人たちの感情が私になだれ込んでくるのです。それも、祭りの賑やかさによってより高ぶった感情が、四方八方から絶え間なく流れ込んでくるのです。


筆舌に尽くしがたいほどの気持ち悪さを感じました。頭の中で数百種類の音楽が大音量で鳴り響くような…乱雑に心の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられるかのような…そんな気持ち悪さです。今でも鮮明に思い出せます。


「人混みに酔う…と言うのには、同意を示したいところだな」


「詠水様も人混みを避けていらっしゃるのでしょうか?」


「人が多いのと騒がしいのは苦手だからな。人が多いのと騒がしいだけが取り柄の祭りに至っては、疲れるなんてもんじゃない」


どこまでも無愛想にそう言い捨てた詠水様ですが、心の中では先ほどの柳包みを渡したと思われる遙という方と、共に屋台を見て回った事を思い出しているようです。


「そうなのですね。ですが…詠水様が苦手としている環境でありながらも、それを打ち消す程の楽しさが祭りにはあるのですね。烏滸がましくありますが、少し羨ましく思えます」



きっと、詠水様に柳包みを渡された方々は、これ以上になく満たされているのでしょう。



私も、名前を教えるためという、本来の用途とは違った目的で詠水様に渡しましたが、心のどこかで達成感のようなものを感じています。それなりに緊張しましたからね。



これが、想い人に『私を貰ってください』と伝える行為ともなると、達成感などという領域ではないでしょうね。まさしく女性にとっては『一世一代』の勝負です。



それは、とても美しく、とても素敵な事で、とても憧れるものでした。



しかし、詠水様は別に祭りを肯定的に捉えていると伝えるつもりなど無かったようで、あからさまに渋面をつくります。


「…俺はただ騒がしいと評しただけで、楽しいなどとは一言も言っていないぞ?」



詠水様は嘘をつきません。ですが『自分の心に嘘をつく』ことは、しばしばあるようです。



「ふふ…詠水様は偶に、素直じゃない時がありますね」


「酔ったような言いがかりだな」


「そうですね。そういう事にしておきましょう」



きっと、詠水様は昔からそうなのでしょう。とても優しい心を持ちながらも、そんな自分に素直になれない方なのでしょう。



詠水様に柳包みを渡した方々は皆、そんな詠水様を知っているのでしょう。



きっと、彼女たちは皆、素敵な女性なのでしょう。




私のように心を覗き見るなどという姑息な真似をせずとも、人の優しさを感じ、人の優しさを信じる事ができるのですから。




肌寒い夜風が吹き抜けます。その冷たさは、私の心の中まで染み渡ってくるようで……




「くちゅん」





……………あ。





「おい…」


「仰らないでください。私です。私がくしゃみをしました。私です。見ないでください」



変なくしゃみだという自覚はあるんです。親にも指摘されましたから。だから見ないでください。恥ずかしすぎて死んでしまいます。


どうせ心の中で思っているのでしょう、詠水様?心を覗けば分かりますから。



『随分と可愛いらしいくしゃみを…』



「仰らないでください」



そろそろ私の顔に火がつきます。やめてください。死んでしまいます。



「まあ…来客を外で待たせた挙句、中にも入れずに立ち話とは、些か不躾な対応だったな。あがってけ、茶くらいは出せる」



…………え?



今、上がっていけと仰いましたか?



「…なんだ。俺がわざわざご足労いただいたお客様を、貰うものだけ貰って追い返すような恥知らずだとでも思っていたのか?」



私の間抜け面を見た詠水様は、自嘲気味にそう尋ねてきます。



「いえ、そんな事はありませんよ。詠水様はとてもお優しい方ですから」



改めて思うと、あなたの優しさに私は何度救われたか分かりませんね。



「少なくとも、私は詠水様のお気遣いを余すことなく受け取っております。とても嬉しく存じておりますよ」



実は私、気づいてしまっているのです。



詠水様が、徐々に私に対する警戒心を緩めている事を。



あの夜に、かつてないほどに強い警戒心を叩きつけられたからこそ、こうして詠水様が距離を縮めて下さっている現状に、私は得も言われぬ嬉しさを感じてしまうのです。



「…食えない奴だな」


「ふふ、思惑も腹心もございませんよ」



恥ずかしくて、そんな事言えるわけありません。申し訳ございませんが、内緒にさせてもらいます。



私はずるい女です。



あなたに全てを見せない癖に、あなたの全てを覗きこんでしまうのです。最低ですね、私。




ですが、あなたの心は覗き込まずにはいられないのです。




あなたの心から伝わってくる全てが、心地良いのです。




嘘もなく、偽りもなく、言葉として出たものと全く同じ感情が伝わってくるのです。



そのくせ、一番気になる事だけは言葉にしてくれないのですから。



つい、気になってしまうのです。素直じゃないあなたは、私の事をどう思っているのか?と……



本来であれば、私は人の心など進んで覗き見ようとしません。いい思い出が全くないですからね。



でも、詠水様……あなたの心は覗き込んでしまうのです。何故でしょうか。やはり、詠水様は私にとって他とは非なる特別な存在なのでしょう。




だから、私はまたこうしてあなたの心を覗き込んでしまうのです。



何かに思いを馳せるかのように細められた詠水様の目は、私を見ています。




あなたの心の中では、私はどのように写っているのでしょうか。





抗えぬ誘惑に負け、覗き込んでみれば……






『一陣の夜風が、彼女の限りなく白に近いプラチナブロンドの長髪を静かに、穏やかに、優雅に揺らす。夜という名の漆黒に織り成された純白の生糸のようで、病的な美しさがそこにある』







ふにゃぁあああぁぁあああっ///!!???



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