夜に織り成された純白の綾は。

神繋の敷地に聳え立つ、巨大な神木。依り代を取り囲む注連縄しめなわに取り付けられた紙垂しで木綿ゆうが夏の夜風にはためく。



掛巻かけまくかしこ里守之稲荷大神さともりのいなりおおかみ大前おおまえかしこかしこみも をさあしたゆうべいそしつとむいえ産業なりわい緩事無ゆるぶことな怠事無おこたることな彌奨いやすすすすたま彌助いやたすけ助賜たすけたまひて 家門高いえかどたか令吹興賜ふきおこしたま堅磐かたは常磐ときは命長いのちなが子孫うみのこ八十連屬やそつづきいたるまで いか八桑枝やぐはえごと令立槃賜たちさかえしめたまいえにもにも 枉神まがかみ枉事不令有まがごとあらしめず 過犯あやまちおかことあらむをば 神直日かむなおひ 大直日おおなおひ見直聞直座みなおしききなおしましまもりまもり守幸まもりさきはたまへと かしこかしこみも もおす」



祝詞を奏上する少女の澄み渡った声は、静まりかえった夜を寝かしつけるかの如く落ち着き払っている。


観衆が位置取る神木の正面からでは、この祝詞を奏上する巫女…神繋かんなぎあおいの顔は見えない事だろう。しかし、立ち入り禁止のロープより内側に腰掛けている俺には、横顔ではあるものの葵の表情がよく見える。その愛嬌のある顔立ちからは、余裕の色がひしひしと感じとれる。


「ねぇねもだいぶ板に付いてきましたね。これもにぃにによる日頃の調教の成果でしょうか?差しつかえなければ、よもぎの事も調教していただきたいです」


葵の妹である神繋かんなぎよもぎが場違いなどころか、女子中学生として些か問題が見受けられる発言をする。お前の姉貴が依り代の前で頑張っていると言うのに、何を言い出すんだお前は。揚げてもいない俺の足を取るな。


「蓬のあねさま、あにさまの調教は激しいのですか?」


俺の膝の上に座っているおかっぱの少女、撫霧なでぎりいろはが首をこてんと傾げて疑問を挟む。お前も訊かんでもいい事を訊くな。


「いろはが受けたら秒殺で悶絶しますよ。ちなみに蓬は視界ににぃにが入っただけでも悶絶します。当然、今も現在進行形で悶絶しています。替えの下着を用意していないので危ないですね」


「蓬のあねさまは淫乱なのです。大和撫子とはほど遠いのです。きもち悪いのです」


「いろは、追い打ちをかけないでください」


女子小学生に罵倒されて悦んでんじゃねぇぞ。


「蓬、いろはくん、君達は依り代の前でなんて会話をしているんだ……おい、詠水くんからも何か言ってくれないか」


白衣と浅葱の袴を身に纏い、人の良さそうな顔をした、葵や蓬の実父…清水きよみずしげるが、困った表情で俺に少女らの猥談を止めるよう促してくる。


「親の教育が行き届いていない結果がこれだぞ。自分を棚に上げておいて他人の助けを当てにするのか?」


「とほほ…綴火くんは相変わらず容赦がないね。まったく、蓬はどうしてこんなにはしたない娘になってしまったんだろうか…葵とは似ても似つかないよ」


「葵は葵で悲惨だろ」


「親の前で娘の事をボロカスに言えてしまうところがすごいのです。あにさまはきちくなのです」


いろはが無表情のまま、キラキラと目を輝かせて俺を見上げてくる。今のは間違っても見習って良い所じゃないぞ。相手が清水のおっさんじゃなかったら普通にブチ切れているからな。


「ちょっと、詠水くん!!絶対、今私の事バカにしてましたよね!?あの陰気なほくそ笑みは、私の事をバカにしている時の顔でした!!謝罪を要求します!!」


祝詞を奏上し終え、いつの間にか神籬の前を後にしていた葵が、戻ってくるなり頰を膨らませて俺に突っかかってくる。葵のそのマイナスな事に関してだけ勘が鋭いのは一体何なんだ。


「おい、誰に向かって物申していると思っている。葵の分際で謝罪しろだと?身の程を弁えろクソッタレ。今すぐ謝罪しろ馬鹿野郎」


「詠水くん、ちょっとマジ泣きしてもいいですか?」


「泣いてなんとかなるのは小学生までだぞ。いつまでも通用すると思うなよ貧乳駄目巫女。早く謝罪しろ」


「私は貧乳じゃないです!!発展途上なだけです!!意地でも謝りませんからね!!」


「自ら罵られようとするあたり、葵のあねさまはやはりドMなのです。きもち悪いのです」


「いろはちゃん、前々から思っていたんですが、私いろはちゃんに何かしましたかね!?」


「いろは、あれがにぃにの手腕ですよ。ちなみに、今のセリフが蓬に向けられていたらと思うと………あっ、やばいです………んっ」


「蓬!?里狐様の御神木の前でメスの顔にならないでくださいよ!?親の顔が見てみたいです!!」


「お前の目の前にいるぞ」


「娘にすら存在を忘れられるとは……僕も泣きそうになってきたよ」


「中年のおっさんの泣き顔なんて気色が悪いだけだ。需要がないからやめろ気持ち悪い」


「あにさま、清水のおじさまが泣いてしまったのです」


「にぃに、まだ蓬を罵ってくださらないのですか?焦らしですか?切ないです。早く蓬を罵倒しながらブチ犯してください」


「ちょっと、私が1人で片付けてるって言うのに、あんた達さっきから何遊び散らかしてんのよ!!」


葵と蓬の母親にして清水の妻である神繋かんなぎあざみが鬼の形相でこちらへ向かってくるのを皮切りに、神繋親子は蜘蛛の子を散らしたかのようにして、四方八方へと逃走を始める。神に祝詞を奏上した数分後にしょうもない鬼ごっこが始まるとは、つくづくこの家庭の残念さが顕著に表れていると言えよう。




主催者も見物人も居なくなり、神籬ひもろぎには俺といろはだけが残される。少しばかり涼しさを感じる風が、夜も次第に更けつつある事を報せる。


いろはがストンと俺の膝の上から降りると、浴衣と帯の間から数十センチ四方の紙を取り出す。


「あにさま、ようやくふたりきりになれたのです。これを受けとって欲しいのです」


俺は、いろはが差し出してきた『折られていない柳包み』を受け取る。


「俺ではなく、いつ死んでもおかしくない一刀斎のジジイに渡してやった方が喜ぶんじゃないのか?」


無垢な瞳でこちらを見上げてくるいろはの髪をくしゃりと撫でつけつつそう切り返すも、いろはふるふるとその短く切り揃えられたおかっぱを揺らす。


「じいじは『ワシは絶対に死なんぞ』と言っていたので、いらないと思ったのです」


年寄り特有とも言える、その根拠のない自信はどこから出てくるんだ。正月に餅を詰まらせて死んだら、棺桶かんおけの前で爆笑してやるからな。


「あにさま」


「なんだ」


「この前、わたしはあにさまのおよめさんになって、あにさまの子どもを産みたいと言いました」


「…言っていたな」


あの日は少し大人気おとなげない対応をしてしまったものだ。しかし、あの場面において全面的に悪いのはジジイだ。俺は決して悪くない。悪いのはジジイだ。


「考えのいたらぬ発言だったのです。わたしではあにさまの一番近く…あにさまの隣を並び歩くことはできないのです。志して、努力して、研鑽して、継続して……初めてあにさまの後ろに追いつけるのです」


「剣の腕についての論評であるならば、それは過大評価だ。俺はお前よりも積み重ねてきたものが圧倒的に多いだけであり、それはただの物量差にすぎない。成長速度や吸収速度等々、全てお前の方が上回っている。今の時点でお前の剣は完成されつつあるが、これからの身体の成長に付随して運動能力も向上する事は言うまでもないだろう。お前の取り組み次第では、俺から一本取ることは非現実的な事ではない。勿論……こちらとてお前に一本を取られるような鍛錬を重ねるつもりはないがな」


少なからずはジジイの遺伝子を受け継いでいるいろはには、確かなセンスと潜在能力が備わっており、村の子どもの中では比較対象がいない程に抜きん出ている。加えて、第二次性徴を残しているいろはには、基礎体力や身体能力の伸び代もある。


「あにさま。わたしの目標はあにさまに打ち勝つ事ではないのです。あにさまは一本取れたら嫁にもらってくださると言いましたが、わたしはあにさまから一本をとる事はできないのです」


「…それは、お前が俺を超えられないと判断し、諦めたという事か?」


「諦めたわけではないのです。あにさまの『剣』は『確実に他を殺し、確実に己を生かす剣』です。あにさまは生き残る為なら、わたしをためらいなく斬る事ができるのです。でも、わたしはだいすきなあにさまを斬る事はできないのです。だから、わたしはあにさまにはない『剣』を目指すのです」


「俺にはない剣…だと?」


「わたしは『己を殺してでも、他を守る剣』を目指すのです」





それは自己犠牲だ。





自己犠牲など……自己犠牲など……ッ!!





落ち着け。





怒りに任せて筋の通っていない罵声を年端もいかぬ少女に浴びせるなど、冷静さを欠いた脳無しのやる事だ。





「己が死んだ先に何がある?命を散らして何かを守ったとして、両者には何が残される?屍と化した虚無と、自責を繰り返す死にぞこないがそこにあるだけだ。己を殺すという事の愚かさを、お前は知らないだけだ。未熟故に誰かを死なせた罪を、お前は知らないだけだ」




「なにものこらなくても良いのです。おろかでも良いのです。わたしは背中を預けてもらえるようになりたいのです。その身一つで、全てのやいばを受け止めるその背中を、いっしょけんめいにささえたいのです」




小学生のものとは思えぬ、強い意思を宿したつぶらな瞳。



その奥底で静かに燃え広がってゆく、闘志の炎が見えた気がした。




「わたしは待ち続けるのです。あにさまがわたしを『信頼』してくださるその日がくるまで……わたしは剣を振り続けるのです」




いろはは「おやすみなさいなのです」と一言残し、蓬が逃走していった方へと駆けていく。




夏の夜空の下には、俺と神木だけが残される。ふと見上げてみれば、神木から伸びる大きな枝に、九本の尻尾とキツネ耳を生やした幼女が腰掛けており、幼女は上部の欠けたりんご飴を舐めている。


互いの視線がぶつかり合うが、別に話すような事もない。


含みのある笑みを浮かべる幼女を背に、俺は自宅へと向かう。






信頼など、ありえない。





誰かの支えを求めるなど、言語道断。





俺は一人でも生きていける。





俺は一人で生きていく。





死ぬわけにはいかない。





無力である事の罪深さを……俺は忘れるわけにはいかない。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜







人気の無い所にひっそりと建つ我が家が見えてくるも、予想だにしていなかった展開が待ち受けていた。






もしかしなくても家の前に誰かいるんだが。






暗がりで良く見えない。俺ん家の前で何してんだアイツ?


俺がより一層警戒心を強めたのと同時に、そいつはこちらを振り向いてくる。



近づけばその人物が明確となり、いつかに出会った先天性白皮症の女だった。



女はしゃがみ込んだ姿勢で何かを抱きかかえている。あれは……猫か?いつもこの近辺で見かける野良猫だ。


「……人様の家の前で何をしているんだお前は」


「こんばんは、綴火様」


「にゃぁ…」


俺が声をかけると、女は丁寧な所作でお辞儀をすると同時に、猫が女の手元を離れ、こちらへトコトコと歩み寄ってくる。


少し首周りを撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めると、だらしなく仰向けに倒れ、腹を見せてくる。もっと撫でろってか?厚かましい奴だな。


「そちらの猫は綴火様が飼われていらっしゃるのでしょうか?」


「ただの野良猫だ。大方、飯をたかりにきたのだろう。祭り真っ只中の今なら、通りに行った方がありつけるだろうに」


「とても綴火様に懐いていますね。私が撫でていた時よりも喜んでいます」


「こいつはオスだからな。女のお前に撫でられるのが照れ臭いだけだろ」


おとなしく撫でられていた猫だったが、急に俺の手元から離れると、フラフラと何処かへ行ってしまう。動物というものは何処までも自分勝手な連中だな。


「…で、お前は見知らぬ猫を愛でるために、わざわざこんな所に足を運んだのか?」


女は、純白の睫毛まつげをそっと伏せると、静かに首を横に振る。


「私は綴火様に感謝の言葉と、その気持ちをお伝えしに参りました」


女は手に持っていた、なかなかに趣きのある柄をした巾着の中から、白い生地に白みがかかった薄い金の模様が入った小物を取り出す。


それは絹のような生地で出来た、がま口財布だった。


「綴火様、先日はご厚意を賜わりありがとうございました。私は綴火様より頂いたお金で、和裁わさいを勉強する事にしました」


和裁か……またニッチな分野に手を出したものだな。


「この村は和服を着用される方が多いですからね。現に、私も普段からつむぎを着ておりますし、綴火様も作務衣をお召しになられてますよね?和服の仕立てや修理ができるようになれば、より多くの人のお役に立てると愚考いたしました故、ミシン屋のにしきさんに教えを請いました」


「ミシン屋のババアに教えてもらっているのか?あの頭が石でできているようなババアに、よくそんな話を持ちかけようと思ったな」


「流石にババア呼ばわりは些か礼を欠いているかと……錦さんは気難しそうに見えて、とても親切な方です。厳しいお言葉も貰い受けますが、親身になって頂いているからこそのお言葉ですから、とてもありがたく存じております」


俺だったらあんな無愛想なババアと師弟関係を結ぶくらいなら別の仕事を選ぶぞ。


「こちらの財布は謂わば習作のような物です。錦さんのご助力を無しに作りましたので、拙さが散見される事かと思います。ですが、初めの一歩となる作品は、綴火様への感謝の印にしたいという一心で作りました。あの日、綴火様よりお金を手渡された時、綴火様は財布を使われていらっしゃらなかったので、お役に立てていただければと思います」


女が自らの手で作りあげたと言う、がま口財布を受け取る。素人目から見た感想ではあるが、とても拙作であるとは思えない。規則正しく線が並び、見事な和柄を織り成している。


「綺麗な紗綾形さやがただな。和裁を始めたてとは思えんぞ」


俺が率直な感想を述べると、照れ臭かったのか女はその白い頰を朱く染める。


「あ、ありがとうございます…自分が手がけた物を渡すのは、なんだか気恥ずかしいですね。最初は何度も失敗をしてしまい、いくらか素材を駄目にしてしまいました。私の…と言うよりも、にしきさんのご指導の賜物です」


私は大したことはしていないとでも言いたげな顔で、女はそう返す。


「謙遜のつもりかは知らんが、自分の成長はしっかりと受け止めろ」


「え……?」


「ババアの教え方が上手いのか下手くそなのかはどうでも良い事だ。重要なのは、お前がそれをきちんと吸収しているかだ」


いくら剣の達人が素人に極意を伝授しようとも、その本質を理解し、実践で使えるレベルに体得しなければ、ただ格好をつけて剣を振り回しているのと同じだ。


「失敗は悪ではない。一番怖いのは、失敗を経験せずして次の段階へと向かってしまう事だ。失敗は建設工事の基礎にもあたる。見習いという立場で習作を作っている時点での失敗など何の問題にもならないが、人様から金をもらって作るようになるとそうも行かない。今のうちにありとあらゆる失敗を経験しておけ。大事なのは失敗をしない事ではなく、同じ失敗を繰り返さないようにする事だ」


和裁はまだ良い。失敗しても素材と時間を無駄にするだけだ。俺の場合は命を落としかねないからな。


「…やはり、玄人と呼ばれる方々は皆、同じような事を仰るのですね」


女は何かに思いを馳せるような表情で、目を伏せる。


「…どう言う事だ?」


ついでに言うと、俺は玄人などという呼ばれ方をした事などないぞ。


にしきさんも同じような事を仰っていました。先日、錦さんに『失敗して謝るくらいなら帰りな。最初からできるような子に教えるつもりなんてないよ』と言われてしまいましたから」


「あのババアと一緒にしてくれるな。少なくとも俺は剣を教えていて『帰れ』などと言ったことはないぞ…」


いろはに剣を教えていて、横槍を入れてくる一刀斎のジジイには何度も言っている言葉ではあるが。


なんであれ、わざわざ俺のために作ってくれた物だ。ありがたく使わせてもらおう。遙には耳にタコができるほど財布を使え使えと言われていて、いい加減に鬱陶しくなってきた所だしな。


「お気に召されたでしょうか…?」


「ああ。白地に白の柄を入れるとは、なかなか粋な事をするな」


真っ白な絹には、薄っすらと金色がかった白い絹糸で紗綾形の模様が織り成されている。まるでお前のようだ……などと、流石にそこまで臭いセリフは吐けないな。


「…ん?どうした、顔が赤いぞ」


「い、いえ…お気になさらないでください」


受け取ったがま口財布を一旦、作務衣にしまい込もうとしたが、指先に硬質な何かがぶつかる。


ああ、そういえば岳のおっさんの射的でよく分からんもんを獲得したんだったな…


「……お前はやたら花について詳しかったが、花が好きなのか?」


「…そうですね。花を見ていると不思議と心が落ち着きます。花はそれぞれ異なった形をし、それぞれ異なった色をし、それぞれ異なった香りがし、それぞれ異なった季節に咲きます。それぞれ異なった美しさを見せてくれるこの子たちには、いつも安らぎと力を与えてもらっています」


女はその辺に生えていた背の高い雑草にそっと触れ、穏やかな笑みを浮かべる。


「……そいつは花なのか?いつも雑草だと思って引っこ抜いているが…」


「ふふ、雑草という名の植物はありませんからね。この子には姫昔蓬ひめむかしよもぎという名があります。そろそろ白い小さな花をたくさん咲かせる頃ですね」


そんな言われ方をすると引っこ抜くに引っこ抜けなくなるだろ。どうしてくれるんだ。


…と、俺が知りたいのはそんな事ではなかったな。


「…成り行きで手に入れた代物があるんだが、俺には無用の長物だ。気に入ったのであれば、お前が貰ってくれても構わん」


俺は女に花の形をかたどったガラス細工を差し出すと、女は目を丸くする。


「まあ……とても綺麗です。触っても宜しいのでしょうか?」


「好きにしろ」


女はその小さな手にガラス細工を乗せると、目を輝かせてそれを観察する。


「細部まで繊細に作りこまれていて、蓮の花の清廉な美しさを見事に体現しています。泥より出でて泥に染まらず……蓮の花の魅力をとても的確に言い表している言葉だと思います」


「より濃い泥水で育つと大輪の花を咲かせ、綺麗な水で生育すると小さな花しか咲かせない……か」


「はい。それを人間の人生に置き替え、受難があって、初めて幸せになれる…といった考え方が、仏教にはあるそうですね」


苦しみ無しに人は悟ることはできないとは、釈迦が言った言葉か。


「ですが…このような物を頂いてしまってもよろしいのでしょうか?」


「構わん。俺の周りの連中は、誰も彼も興味がないの一辺倒だし、俺が持ち帰ったところで埃をかぶった置き物になるだけだ。少なからず価値を見いだせる人間の手に渡った方が、そいつを造った人間も喜ぶだろう」


こんな無駄に高そうな物を便所に添える花の代わりにされるとか、製作者がいたたまれなさすぎる。


「ありがとうございます。綴火様に贈り物をするつもりが、それ以上の物を頂いてしまいましたね」


「気にすんな。俺からしてみればそんな石ころよりもお前が作ってくれた財布の方が価値のある物だ」


今まで財布を使った事はないが、あったらあったで役には立つだろう。


…にしても、器用だな。始めたてだと言うのにも関わらず、自らの手だけで一品作りあげるとはなかなかできない事だ。さぞかし生活能力も高かろう。こいつを嫁にもらったやつは家事に困ることもあるまい。


「…おい、また顔が赤くなっているぞ。体調が悪いのならさっさと帰った方がいいんじゃないのか?」


「い、いえ…お気遣いをありがとうございます。体調が悪いわけではありません。少し、こういったものには慣れていないだけです」


「こういったもの?」


「ふふ、内緒です」


女は唇の前に人差し指を立てると、悪戯めいた笑みを見せる。この女は、ふとした拍子に年相応の茶目っ気が出る時がある。無駄に丁寧な言葉遣いと態度をしているため、どこか大人っぽく見える節があるが、根っからの堅物というわけでもないのかも知れない。


「そうでした。綴火様にお渡ししたい物は財布だけではありませんでしたね」


女は俺から受け取ったガラス細工を巾着にしまい込み、思い出したかのように別の物を取り出す。


「これは……づるか?」


女が取り出した物は数センチ程の小さな折り鶴で、1ミリのズレもなく綺麗に折られている。だが、この紙質は…


「…柳包みを折り鶴にする奴は初めて見たぞ」


女が折り鶴に使っている紙は、紛うこと無き柳包みだった。


「ええ、私も初めての試みですからね。家族以外の殿方を相手に、折らずにお渡しする時は『君健やかなる事の喜ばしきに感謝せん』。三角に折ってお渡しする時は『君想う程に君欲する心を君に捧げん』と言う決まり文句が添えられるそうですが、折り鶴にする場合はどのような句を詠みあげればよろしいのでしょうか?」


「さあな。そもそもこの風習の起源すら知らん」


葵あたりに聞けば知っているかもしれんが、別段興味をそそられるような内容でもないので、知る日が来ることはないだろう。


女に手渡された折り鶴に視線を落とすと、羽の部分に何か文字のようなものが書かれている。綺麗な楷書体だ。



書かれているのは『折鶴綾華』の4文字。これは一体…



「不躾ながらも、未だ綴火様には名乗っておりませんでしたので……賜名たまな折鶴おりづる系名かかりな綾華あやかと申します。気軽に綾華あやかと呼んでいただければ嬉しく思います」



折鶴おりづる綾華あやか…それがこの女の名前か。



「…折鶴とは、また変わった賜名を与えられたものだな」


俺が言えた事ではないのかも知れないが。


「そうですね。賜名を考えてくださった諫寧様は、元気よく咲き乱れる折鶴蘭おりづるらんの如く、逞しく育つように…と、この名をくださったようです」


「親でもない奴が付けた名など、たかが知れている。だが、お前の系名かかりなは、それなりの意味を持って付けられたのかもしれんな」


綾とは、絹などにあしらわれた織り目や模様を表す。最近、和裁を始めたこいつにとって、縁がないとは思えぬ一字だ。あやを織り成し、華を愛でる者……ていを表すと言ったところか。


「名前という物は人生の始点で与えられるものです。ですが、こうしていくらかの歳月が過ぎた現在、私は紗綾織の財布を綴火様に贈り、はなを愛しております。きっと、私が華を愛しているのも、綴火様に巡り会えたのも、単なるちっぽけな偶然ではないのでしょうね」


女……綾華は、何か思いに耽るかのように目を細める。


「…知っているとは思うが、俺の系名は詠水だ。今後はそちらで呼べ」


「お名前でお呼びしてもよろしいのですか?」


「名前で呼べと言ったお前が、それを聞くのか?」


「そうですね、今後とも良しなにお願いいたします……詠水様」


「…その様付けは何とかならんのか?まるで俺が偉くなったかのような錯覚に陥るからやめて欲しいんだが」


「いえ…稚拙ではありますが、私なりの詠水様への敬意の形ですので」


さてはて、お前に敬われるような要素が、俺のどこにあるか教えていただきたいものだな。


「ところで、詠水様がお帰りなさったという事は、祭りは終わったのでしょうか?」


「神繋の稲荷祝詞が終わったからな。屋台自体はまだ畳んでいないだろうが、じきにお開きになるだろ。若い連中は柳包みを渡し渡され、気が気じゃないだろうからな」


奴らがこれからイチャイチャし始めると言うのに、俺はこれから仕事だと思うと無性に腹が立ってくる。


「…詠水様も他の女の子たちから柳包みを?」


「誰それに渡されただの、人に言うような事じゃない」


「…………おモテになられているのですね」


何だ今の間は。何だそのジト目は。おモテになるとかいう違和感しかない表現の仕方をするな。


「祭り…ですか。私にとっては未知の領域ですからね」


「お前は一度も行った事がないのか?」


「いえ、3つにもなっていない頃に、一度だけ連れて行ってもらった事があるのですが、すぐに気絶してしまいましたので…」



………は?気絶?



「私は人が密集した所が苦手でして、人混みに酔う…と言った感じでしょうか?祭りともなると、それが顕著に出てしまうのです」


難儀な体質のオンパレードだな。それでは引きこもりがちになるのも無理はない。だがまあ…


「人混みに酔う…と言うのには、同意を示したいところだな」


「詠水様も人混みを避けていらっしゃるのでしょうか?」


「人が多いのと騒がしいのは苦手だからな。人が多いのと騒がしいだけが取り柄の祭りに至っては、疲れるなんてもんじゃない」


遙が居なかったら、御前通りに着いた直後に帰る決断をしていただろうな。


「そうなのですね。ですが…詠水様が苦手としている環境でありながらも、それを打ち消す程の楽しさが祭りにはあるのですね。烏滸がましくありますが、少し羨ましく思えます」


綾華はまだ体感した事のない催しを想像するように目を細める。


「…俺はただ騒がしいと評しただけで、楽しいなどとは一言も言っていないぞ?」


「ふふ…詠水様は偶に、素直じゃない時がありますね」


「酔ったような言いがかりだな」


「そうですね。そういう事にしておきましょう」


綾華は可笑しそうに、またしても小悪魔のような悪戯めいた笑みを見せる。


遠くより響きくる和太鼓の音は既に途絶えており、祭りの終わりを告げるアナウンスが聞こえてくる。真夏日とはいえど、深夜が近づいてくると少し肌寒い風が吹き抜ける。




「くちゅん」




……………あ?




「おい…」


「仰らないでください。私です。私がくしゃみをしました。私です。見ないでください」


これでもかと言う程に頰を朱に染めあげた綾華が、早口に俺の指摘を遮る。また随分と可愛らしいくしゃみを…


「仰らないでください」


いや、まだ何も言ってないだろ。物騒だから、そのハイライトが仕事してない目はやめろ。


「まあ…来客を外で待たせた挙句、中にも入れずに立ち話とは、些か不躾な対応だったな。あがってけ、茶くらいは出せる」


俺がそう提案すると、綾華は目を丸くし、キョトンとした顔をする。


「…なんだ。俺がわざわざご足労いただいたお客様を、貰うものだけ貰って追い返すような恥知らずだとでも思っていたのか?」


「いえ、そんな事はありませんよ。詠水様はとてもお優しい方ですから」


ふん。どいつもこいつも随分と俺の事を知ったような口を叩きやがる。女という生き物は例外なく、思い込みと決めつけが激しいのか?



「少なくとも、私は詠水様のお気遣いを余すことなく受け取っております。とても嬉しく存じておりますよ」



どこか嬉しそうな表情をした綾華は、まるで俺の懐疑を見透かしたように、どこまでも優しく囁きかけてくる。


「…食えない奴だな」


「ふふ、思惑も腹心もございませんよ」


綾華はまたしても柔らかく微笑む。



一陣の夜風が、彼女の限りなく白に近いプラチナブロンドの長髪を静かに、穏やかに、優雅に揺らす。


夜という名の漆黒に織り成された純白の生糸のようで、病的な美しさがそこにある。







人形のように整ったその顔が、再び紅潮しているような気がした。




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