渡された想いは終ぞ受け取れず。

夏の香りが漂う双神村の『御前通り』は、年間を通して最高とも言える人口密度と化していた。


年齢と性別の垣根を越えた、大勢の村人たちの喧騒。子供たちが無駄に吹きまくっている水笛みずぶえのピョロピョロという間抜けな音。全く繁盛していない屋台の、怒号と呼べるセールストーク。誰かが屋台で一等を当てたのか、どこからともなく聞こえてくる驚きや賞賛の声。絶えず鳴り響く、胸を打つかのような和太鼓のうちの音。カラン…カラン…という、俺の隣を歩く少女の下駄げたの音。



俺の腕に自らの腕を絡ませてくる、はるかの心音。



一度に全ての聴覚情報を迎え入れ続けた俺の耳は既に疲弊し始めていた。




「…もう少し静かにして欲しいものだな。どいつもこいつも不必要に大声を出しやがる」


少なくとも、全員もれなく日常の1.5倍以上の声量で会話をしているのは間違いないだろう


「ふふ、自分も五月蝿うるさくしないと、周囲の騒音に掻き消されてしまうからね。騒がしいからこそ、今宵はお祭りなのさ。ほら、やぐらの上にいる彼をみたまえ。祭りに生きる人間のかがみだとは思わないかい?」


クスクスと、可笑しそうに笑う遙が指差す先には、上半身裸の状態でよくわからぬ踊りを披露し、やはりよくわからぬ事を叫んでいる若い男がいる。やぐらのふもとでは、それを見ている何人かの男たちが腹を抱えて爆笑している。笑う者も笑われている者も、顔が真っ赤だ。


「こんな時間から酔っ払えるとはいい身分だな。馬鹿と煙は高い所が好きで仕方ないらしい」


「祭りにおいて、馬鹿になれると言う事は十分なステータスだよ。彼らはさぞや、今この瞬間が幸せで仕方ないだろうね」


酔いが醒めたら死ぬほど後悔するだろうがな。


「羨ましいのならお前も交ぜて貰えばいいだろう」


「まさか、ボクは尊厳を捨ててまで楽しみを探求するつもりなどないよ。それに、ボクはキミとこうして共に居られる。馬鹿にならずとも、この上ない幸福を感じているよ」


基本的に遙は常に上機嫌だが、今宵は特別上機嫌だ。どこか達観したような節がある彼女にとっても、祭りというものは特別なものかもしれない。




不意に歩みを止めた遙が、俺の作務衣の袖をクイクイと引っ張る。食いたい物でもあったのか?


「詠水。今年も『真夏のサンタクロース大作戦』と行こうじゃないか」


悪戯を思いついた童女のような笑みを浮かべる遙の視線は、ある屋台へと注がれている。



下手くそな字で殴り書きされた『しゃてき』の文字。



子供相手に怒鳴り散らすおっさん…絹羽きぬばたけると、子供相手にコルク銃の扱い方を必要以上に優しく教える青年…石光いしみつりょうの姿が見える。



両名に声をかけられる前に、トレイ代わりにしてある鉄製の灰皿の上に、五千円札を1枚乗せる。


500円で3発なので、計30発分となる。十分だな。



「いらっしゃ………やれやれ。親父、終わりの始まりだよ」


ようやくこちらに気づいた石光はそのイケメン爽やかスマイルを、絶望と共に歪める。お前もたまには良い表情をするじゃないか。


「あ?何わけ分かん………お前らは出禁だ。詠の字」


俺たちの姿を捉えるなり、おっさんは凄まじい表情になる。とても子供たちに見せて良いような顔じゃねぇな。


「こちとら既に金を払っている。今更出禁と言われても困るんだがな」


「ふふ…祭りというものは、万人に楽しむ権利があるものだよ。まさか、絹羽商店の主人あろう者がボクたちに怖気付いているのかな?」


おっさんの出禁命令に従う義務などこれっぽっちも無いので、遙と共にコルク銃を手にする。


「詠水、去年とは方針を変えて下から順に攻めて行こう。いきなり目玉を取ってしまうと、後半が盛り上がりに欠けてしまう」


「おっさん、石光と一緒に店じまいの準備でもしておけ。お前らの赤字は確定した」




俺と遙は、同時に銃を構え、同時に引き金に指をかけ、同時に不敵な笑みを浮かべる。





「「悪夢の続きを始めようか」」





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





結論から言うと、目玉である景品は全て獲得した。



最上段の的は倒れ難いようにおもりがしてあり、とても子供たちを相手にして良いとは思えない細工が施されていた。このおっさんやる事が本当にエゲツないな。畜生にも程がある。


が、倒れ難いのならば遙と同時に的を撃てば良いだけなので、倒せぬ的などなかった。



PS4などのゲーム機はその辺にいたガキどもに寄付し、人形など女子が好みそうな物はその辺にいた女児に寄付した。俺たちが取った景品をめぐって、ジャンケン大会が勃発する始末で、子供たちは当然の事、子供たちの父兄まで集まり始め、気づけば辺りは尋常ならざる人だかりが出来ていた。




裁花たちばなさん、マジでFS4なんて貰っちゃっても良いんすか!?」


「詠水は既に持っているだろうし、ボクはゲームをしないからね。遠慮することはないよ」


「あざす!!めっちゃ嬉しいっす!!裁花さんマジ天使っす!!」


「ふふ、勉強を疎かにしないよう、ゲームもほどほどにしたまえ」




「あの…遙さん。これ、貰っても良かったんですかね?」


「む…特大ルッキー人形を選ぶとは、君もなかなか良いセンスをしているじゃないか」


「はい、ルッキー可愛いです!!」


「ルッキーの可愛いさが分かっている君になら、安心してそのルッキーは任せられるよ。大事にしたまえ」


「はい!!ありがとうございます!!」




「あなた、久山先生のとこの遙ちゃんよね?」


「はい、裁花遙と申します。いつもお世話になっております」


「いえいえ、こちらこそいつも先生のお世話になっております。…これ、本当に貰っても良かったの?」


「ふふ、ここまでお子様に期待をさせておいて、やっぱりお預け…ではあまりにも酷でしょう。受け取っていただいて構いませんよ」


「ありがとうね。ほら、紗世もお姉ちゃんにお礼を言いなさい」


「おねえちゃん、ありがとう」


「ふふ、どういたしまして。ちゃんとお母さんのお手伝いをするんだよ?」


「うん!!」





遙は四方八方から礼を述べられ、絶えずその対応に追われている。




…………………………。




「おい、遙」


「ん、どうしたんだい?」


「なぜ、誰も彼もお前に礼を言い、俺の所には礼を言いに来ないんだ?」



未だ、誰ひとりとして俺に話しかける者はいなかった。この差はなんだ。納得いかん。



「ふふ…他の人たちにとって、キミからは威圧感のようなものを感じるらしいからね。キミには話しかけ辛いのだろう」



………別に辛くなどないし、悲しくなどない。



しかしだ。なんなんだこの敗北感は……



ほんの少しだけセンチメンタルになってると、俺のすぐ側に幼女が一人、チョコンと立っている事に気づく。幼女は『シルヴィアファミリー』と書かれた大きな箱を抱えている。


「かよわせのおにいちゃん。これ、ののがもらってもいいの?」


自らを「のの」と称した幼女は、目を宝石の如くキラキラと輝かせて聞いてくる。子供にそんな顔をされて、駄目と言えるような神経を持ち合わせていないぞ俺は…


「俺みたいなじきに20歳を迎えるような男がそんな物を持っていたところで、真性の変態ではないかと疑われるだけだ。お前の好きにしろ」


「ほんとにもらってもいいの?」


「好きにしろと言っただろ」


「ありがとう、おにいちゃん」


幼女はパァっと顔を輝かせると、遠巻きで見ていた母親の元へと駆けていく。こちらを一瞥した母親は、申し訳ないと言った表情で俺に軽く会釈をすると、幼女から抱えていた玩具を預かり、幼女と共に人混みの中へと紛れ込んでしまう。あれほどのサイズの箱を持ち歩いて屋台を回るのは、さぞやしんどいだろうな。


「あえて万年仏頂面の詠水に礼を言うとは、なかなか見どころのある少女じゃないか。将来有望とも言えよう」


「誰が万年仏頂面だって?」


「現在進行形で仏頂面になっているよ、詠水」


「面と向かって仏頂面と言われて、イラつかない奴などいないだろ」


「どんどん悪化しているよ詠水。そこにいる赤ん坊が今にも泣きだしそうだ。その世紀末覇者のような顔はやめたまえ」


こいつ、一回軽く殴っても良いよな?




目玉の景品を根こそぎ持って行かれたおっさんは真っ白な灰と化していたが、石光は子供がキャッキャと喜んでいる様子を見て、嬉しそうに微笑んでいた。石光はきっと、おっさんを超える商人にはなれんだろうな。



あらかた獲得した景品が無くなりつつあるのだが、あるひとつの景品が俺の目にとまる。



「おっさん、これは一体…」



俺がおっさんに差し出した物は、無色透明のガラス細工のようなもので、花の形をしている。かなり精巧な造りをしており、屋台の電球が放つオレンジ色の光を美しく反射している。そういった類の物に明るくない俺でも、ただのガラスの塊ではない事くらいは分かる。



「あー…そいつぁ仕事の取り引き先からお近づきの印に…っつって貰った奴だ。クリスタルの専門店が製作したみてぇだが、俺も嫁も別段そういうモンには興味ねぇからな。しかも、そいつぁタチの悪い事に一品モノな上に非売品だ。横流しするとバレちまうかもしれねぇから、こうして祭りの景品として処分したわけだ。欲しけりゃ持ってけ」


こいつ真性のクズだな。人の厚意で貰った物を、要らないからと言って祭りの景品にするか?人様の贈り物を、タチの悪いだの処分だの言わんぞ、普通だったら。


最上段の的は、遙と同時撃ちで倒しているので、どうしたもんかと遙に視線で問いかける。


「とても綺麗だね。これほどの代物ともなると、その辺にいる子供では価値を理解できないだろう。けれど、ボクは宝石や水晶といった類には全く興味がないからね…詠水の好きにしたまえ」


こんな簡単にぶっ壊れてしまいそうな物は持ち歩きたくないんだがな……仕方ないか。家に帰ったらトイレにでも飾っておくか。これを贈った人物は血の涙を流しそうではあるが。


今にも泣き出しそうな顔で店じまいをするおっさんを背に、俺たちは再び立ち並ぶ屋台を物色する。


「少し人が減ってきたな」


通りへ来たばかりの時は、人とぶつかりながら移動していたというのに、今現在は程よくいている。


「そろそろ集会所で姫女様の舞が始まるのではないかな。詠水は見に行かないのかい?」


「先刻に何度も練習風景を見てきたから、諫奈の舞は腹一杯だ」


「ならば、このまま屋台を楽しもう。通りを見て回るには今が潮時だからね」



歩き続けていた俺たちは、食い物を売っている屋台が密集している区画に突入する。焼きイカたこ焼き、牛串、ケバブなどの濃い匂いや、ベビーカステラやクレープなどといった甘ったるい匂いが混ざり合い、何か食べずにはいられない気分にさせられる。


「む…いい匂いがするね。詠水、そこのたこ焼きが少し気になるんだけれども…」


「ん?たこ焼きの屋台など今までにあったか?」


クイクイと袖を引っ張る遙が指差す先には、確かにたこ焼きと銘打たれた屋台がある。だが、あの店主は…


「去年までお好み焼きをやっていたジジイじゃねぇか。絶対地雷だろ、これ」


「おや、あまりオススメできないのかな?」


「あのジジイが作るお好み焼きはゲロマズだったからな。とても客から500円も取れるような味ではない。むしろ客に500円払わなくてはいけないくらいだ」


「凄まじい酷評っぷりだね。ならば、たこ焼きは美味しいかもしれないという可能性にボクは期待してみようかな」


「変な所で探求心が旺盛なやつだな。失敗しても知らんからな。不味かったらお前が完食しろ。…おい、ジジイ。ひとパックくれ」


「あいよ、毎度あり」


おい。作り置きのたこ焼きとかもうこの時点で地雷確定じゃねぇか。


遙がやけにふやけているたこ焼きに爪楊枝をぶっ刺し、それはそれは素敵な笑顔でたこ焼きをこちらへ差し出してくる。


「ふふ、詠水。あーんしてごらん」


マジかよ。俺から食うのかよ。どう考えても罰ゲームを食らっている構図だろこれ。


「…………………」


「どうだい?」


「クソ不味い。冷えているという時点でクソ確定だが、そもそも中にちゃんと火が通っていない。半分はなまだ。もう一度言う。クソ不味い」


出来ることなら今すぐこの場でペッしたい。


「そうかな?まあお世辞にも良い出来とは言い難いけども、祭りで食べる分には十分だと思うよ。500円という価格設定が妥当ではない事は確かだけどね」


俺に倣ってたこ焼きをモグモグと食べ始めた遙がそう評する。要するに不味いって事じゃねぇか。回りくどい表現で誤魔化してんじゃねぇぞ。



「詠水、久しぶりにアレを食べてみないかい?」


見事、ゲロマズたこ焼きを完食した遙が、またしても作務衣の袖をクイクイと引っ張ってくる。食欲旺盛だな。その細い体のどこに食った物が入っていくんだ?


遙が興味を示した屋台には、えらく懐かしい文字が見える。


「りんご飴か…」


子供の頃に何度か買った事はあるが、アレを完食した試しが一度もない気がする。内部のりんごに到達する前に飽きるか、到達しても内部のりんごの味は、とても食えたものではないので、途中で捨ててしまう事が大半だったな。更に言えば、あのサイズの物を割り箸にぶっ刺しただけという不安定極まりない構造をしているせいか、バランス良く食べないとりんご飴が割り箸から離れ、地面へ落ちてしまうのも完食の難易度を引き上げる要因とも言えよう。


「いらっしゃい。S、M、Lの三つの大きさがあるけど、どれにする?」


屋台を運営している小綺麗な女性がサイズを訊いてくるが、これはSサイズ一択だろ。だが、一応は遙が食いたいと言い出した事なので、遙に判断を仰ぐ。


「そうだね、Sを二つお願いします」



俺の分もあるのか……



店主からりんご飴を二つ受け取った遙が、片一方のりんご飴を俺に差し出してくる。こんんなものを食べるのは何年ぶりだろうか?


りんご飴は作る過程でてっぺんが平らになるのだが、その周囲にでっぱりのようなバリができる。この歳でペロペロと舐めるのは些か恥ずかしいので、そこの部分を砕くようにして齧りつく。


「……甘ったるいな」


もう既に飽きたんだが。


「ふふ、この単調な甘さが懐かしいね」


小さく出した舌先で、りんご飴をチロチロと舐める遙はご満悦のようだ。


「昔も、こうしてりんご飴を舐めて舌を真っ赤にしたものだね…………おや?詠水…りんご飴はどうしたんだい?」


「…………その辺の子供にくれてやった」


「まったく、ほとんど食べていないのに捨ててしまうとはキミは罰当たりな男だ」


「捨てとらんわ。相手が人じゃないだけで、あくまで譲渡だ。廃棄ではない」


「ふふ、詠水はたまによく分からない事を言うね」


「その時は基本的に、分からせるつもりがない時だ」


「相変わらずキミは意地悪だね」


天邪鬼あまのじゃくのような笑みを浮かべた遙は、チロリと舌を出してあっかんべーをしてくる。


小さな舌を鮮やかな真紅に染めた彼女は、あどけなさの残る子供のようにも見え、艶めかしい雰囲気を醸し出す大人の女にも見えた。



「あれ?遙さんと詠水さん…ですか?」



不意に後ろから声をかけられたので、遙共々振り返ると、村一番と称しても良いほどに浴衣がよく似合っている少女がいた。元が美人である事に加え、浴衣を身に纏った事でさらなる付加価値が加わり、その佇まいは芸能界でも通用するのでは、といったレベルまできている。事実、彼女に見惚れて歩みを止める野郎共が何人もいる。そんなアホ面を晒して鼻の下を伸ばしているようでは、この浴衣がよく似合う少女…甘桜あまざくら香乃子かのこから柳包みを貰えるような日は永遠に来んぞ。


「やあ、甘桜あまざくら。今年も浴衣美人は君が一強のようだね。暴力的なまでによく似合っているよ」


「そんな事はありませんよ。遙さんもお人形さんみたいで…」


まーたこの流れか。女同士は挨拶代わりに互いを褒め合うみたいな慣例でもあるのか?


「え、え…ぇぃ…ぇぃすいさん…こんばんゎ…」


なにやら急にもじもじとし始めた香乃子が、顔を真っ赤にして蚊の鳴くような声で挨拶をしてくる。こいつ、最近こんなんばっかりだな。


「あ、あの…以前から気になっていたのですが…」


「む、なんだい?」


「その…遙さんと詠水さんはお付き合いをされているのですか?」


「お付き合い…と言うと、男女交際の事を言うのかな?」


「はい…」


…まあ、確かに『紙渡し』という男女の縁結びのような祭りを、男女二人で居たらそう思われるのも至極当然か。


「安心したまえ。今現在、詠水は特定の女とそういった関係は構築していない。ボクらは単に、友達がいない者同士で身を寄せ合っているだけだよ」


最後のは別に言わなくても良かっただろ。香乃子がすげえ反応し辛そうな顔してるぞ。


「そう…ですか…」


香乃子はまたしても俯き加減になり、もじもじとし始める。こんな自信なさげな彼女はあまり見た事がないように思えるが…少なくとも、店の手伝いをしている時とは大違いだな。


「ほう…なるほど。いやはや、気づいてあげられなくて申し訳なかったね。ふふ、初めての時はボクも緊張したものだよ。何はともあれ、ボクはお花を摘み行ってくる。頑張りたまえ、甘桜」


何やら一人で勝手に察したような表情をし始めた遙は、訳のわからぬ事を言い残し、そのまま人混みに紛れてフェードアウトしてしまう。



「………」


「………」



気まずい。よく喋る奴が急にいなくなると、こうも場が持たなくなるのか。


「…もうすぐ神籬ひもろぎで神繋の舞が始まる。お前も見に行くか?」


たまには葵の舞も見てやらないと、あからさまに拗ねるからな、あいつは。


「は、はい!!ご一緒させていただきましゅ!!」


…そんなガチガチになってくれるな。余計話しづらくなるだろ…


「ですが…遙さんにはお伝えなくても宜しいのですか?」


遙が俺たちを探し続けて通りを徘徊し続ける事を考慮したのであろう、おずおずとと言った感じで訊いてくる。


「知らん。勝手に消えたのならば自分でなんとかするだろ」


あいつはおそらくトイレに行くつもりなどなく、そのまま家へ帰るつもりなのだろう。相変わらずマイペースな女だ。


「ふふ…そうですか」


笑いどころのあるような内容でもなかったのに、香乃子はなぜか笑みを浮かべている。


「遙は先日に、詠水さんの事を殆ど知らないと仰っていましたが、お互いの事をよく分かり合っているのですね。私の勘違いでなければ、遙さんはそのままお帰りになられた…と言うことですよね?」


知らん…と俺は答えただけだぞ。こいつ察しが良すぎないか?普段から人と関わる仕事をしていると、会話の先の先まで見えるようになるのかもしれないな。会話力ゼロの俺に是非ともご教授願いたいところだ。



一応は同意を得たので、彼女と共に神籬へと歩みを進める。人混みの中を進んでいる際、若い男のみならず女までもがこちらをチラチラと見てくる。女どもは興味深々といった様子だが、男たちの視線は明らかに香乃子の浴衣姿に見惚れているものであり、同時に俺に対する死ねというメッセージも載せられていた。鼻の下を伸ばしたり殺気立ったりと忙しい連中だな。男ならそんな陰気な事をしていないで、とりあえず俺を一発ぶん殴るくらいの気概は見せろよ。当然、本当にそんな事をしてきたら半殺しにするが。



人混みを抜け、仄暗い閑静な細道を二人で歩いていると、無言だった香乃子が不意に口を開く。


「神繋の舞…と言うと、葵さんですか?」


「そうだ。神繋の敷地は御前通りから結構離れているからな…毎年、あまり見に行っていないし、たまには…と思ってな」


あくまで神繋の巫女が里守之稲荷に対して、村の子孫繁栄と無病息災を願うというのが、この紙渡しのメインとも言える内容なのに、なぜ里狐の神籬からあんな遠いところに屋台を展開するのだろうか。不便にも程がある。まあ、あれだけの人数を許容できるのは御前通りくらいなので、仕方ないと言えば仕方ないのだが…


「詠水さんは葵さんと同い年でしたよね?やはり葵さんとは昔からの仲なのですか?」


「ああ、あいつとは言葉も喋れんような頃からの腐れ縁だ」


お互いの親同士の交流が盛んだった故、小さな頃は諫奈や葵と時間を共有する事が殆どだった。


「そう言うお前は、葵との交流はないのか?」


「小学校や中学校の時に何度か話す機会もありましたし、全く無いというわけではありません。今でもよく休日に甘味をお買い上げになられますからね」


あいつどんだけ甘い物が好きなんだ。そろそろ血糖値を気にした方がいいんじゃないのか?


「葵さんはとても優しく、とても明るい方ですね。あまり歳上という事を感じさせず、とても話しやすいです」


香乃子は微笑みながら葵の事をそう評したが、それは単にあいつが子供っぽいだけなのでは…?


「あいつとお前との会話か…まるで想像が付かんな」


せいぜい、この甘味が美味しいとか、こう言う甘味を作って欲しいとか、そんな所だろうか。


「葵さんはいつも嬉しそうに、楽しそうに詠水さんの事を話していますよ」


「…再教育の必要があるな」


「いや、変なことは話してないですよ!?…葵さんはいつも仰っています。詠水くんがいつも来てくれるから寂しくない、詠水くんがいつだって側にいてくれるから私は幸せ者です…って。神社に詠水さんが来るのが楽しみで仕方がないのと同時に、詠水さんが中々来ないと、何かあったのではないかと不安で仕方がないそうですよ」


…無用な心配をしやがって。野生の習性にただ従うだけの畜生ごときに、俺が殺されるものか。


「…詠水さんはどなたに対してもお優しいのですね」


いきなりお前は何を宣いだすんだ。お前でさえ諫奈のような事を言い出すつもりか?


「優しさなどと言うものは、他人から見える自己をより良く見せようとする欺瞞と、自分を人格者に仕立て上げるための自己満足に過ぎん。何を勘違いしているかは知らんが、俺はそんなものを振りいているつもりなどないぞ」


損得を度外視した慈善など、胡散臭くて仕方がない。常に対価と利益を求め続ける、岳のおっさんの方がよっぽど理解を示せる。


「自分のために誰かに優しくするのは優しさとは言いません。詠水さんの優しさは、それが優しさだと意識しないうちに滲み出ていますから」


彼女は僅かに頰を紅潮させ、こちらを見てくる。


「あの日…遙さんと一緒に甘味をお買い上げになられた日に、詠水さんは私を…その…すいーつきんぐだむ…でしたか?そこへ連れて行ってくださると言ってくださいましたよね?正直のところ、普段そこまで会話を交わしていない詠水さんにそんな話を持ちかけられ、最初はとても驚きましたし戸惑いました」


…確かに、今思えば「お前いきなり何言いだしてるわけ?」って話だな。これ…


「…悪いな。あれは勢いで言ってしまったようなものだ。だからと言って一度言った事を撤回するつもりはないが、嫌なら嫌で断ってくれても良いんだぞ?」


「い、いえ!!嫌と言うわけではないですよ!!」


香乃子はいきなり俺の手をガシッと掴み、その整った顔をずいっと至近距離まで寄せてくる。こいつ、割とアグレッシブに来るな…


「決して自慢ではありませんが、今まで接客をしていて男の人にお茶のお誘いを受けた事は何度もあります。恐縮ながらも、店が忙しいという取って付けたような理由で断ってきましたが…」


村に一つしかない茶屋の娘をお茶に誘うとは、そいつらは一体どう言う神経をしているんだ?みちくさ茶屋でお茶をしようものなら、こいつの親父が黙っていないだろうよ。


「ですが、村の外へ連れて行ってくださるだなんて、一度も言われた事がなかったので、とてもビックリしました。…父に話をした時に一つ気になる事が出てきたのですが、絹羽商店の人と学業奨励生徒以外の人間が村の外へ出る時には、必ず姫女様の許可が要ると聞き及んだのですが…」


「俺は許可なく村の外へ出ても何の問題もないが、お前は話をつける必要があるな。まあ諫奈に名古屋まで行ってくると言えば、それで済む話だがな」


そんな事よりも、高速を走るともなると一度車の点検をする必要があるな。ノーマルタイヤに履き替える必要もあるし、そろそろオイルの交換もしなくてはならない。それに……あれ?なんだか色々と面倒臭い事になってないか?


「詠水さん…?険しい表情をされていますが、いかがなさいましたか?」


「…いや、何でもない」


「そうですか…。私、とても楽しみです。村の外なんて初めてですし…」


初めての遠出に期待を寄せているのか、香乃子は顔を綻ばせる。


…面倒臭いからやっぱナシとか言えんぞコレは…


「…詠水さんはそこまでスイーツといったものに造詣が深いわけではありませんよね?」


「全く食べないわけでも無いが、造詣が深いというレベルではないだろうな」


葵といい遙といい、俺の周りの連中がやたら甘いものばかり食うせいで、おのずと口にする頻度が高くなってはいるがな。それに、甘いもの自体は俺も嫌いではない。


「詠水さんはとてもお優しいのですね。誰かのために名古屋まで車を運転するだなんて、あんなにもサラリと言えませんよ、普通は」


「…そんなものはお前の憶測と決めつけに過ぎん。他の連中よろしく、下心ありきでお前を誘った可能性もあるだろ。男というものは意中の女に良く見られる為なら、大概の事は苦にも思わずやってのける馬鹿な生き物だぞ」


「ふふ、下心のある方はわざわざそんな話をしませんよ」


チッ…さっきまでモジモジとしていた奴が、随分と余裕を見せてくれるじゃないか。まあ、俺と香乃子の会話力など比較にもならないので、あちらに会話のペースを持って行かれるのは仕方ない事だ。十人十色の客を相手にしているような奴に口で勝てる気がしない。


「それに、つい先程に気付いたのですが、詠水さんは私の歩く速さに合わせてくださってますよね?」


「…お前は俺を聖人君子に仕立て上げたいつもりなのか?変な言いがかりはやめろ」


「言いがかりではありません。今の詠水さんの歩調は、いつか村で見かけた時と全然違いますから。それに、遙さんと一緒に歩いていた時とも違います。私の真横をぴったりと維持してくださっています。人によって歩く速さを変えるなんて、なかなか無意識にできることではありませんよ?」


「大した観察眼だな。自分でさえもそんな事に気付いていなかったんだがな」


「意識せずしてできてしまうのだからこそ、詠水さんは優しいのです」


「…俺の話はもういいだろ。俺には、人に揶揄からかわれる趣味などない」


そう突っぱねた俺は、少しだけ歩調を早めてしまう。その行動が稚拙なものだと頭で理解していても、何かを誤魔化すようにして歩幅を広げてしまう。



だが、唐突に俺の進行方向とは真逆の力が加わる。


振り返れば、僅かに距離をつけられた香乃子が、俺の作務衣を引っ張っていた。



「揶揄ってなどいません…私はそんな詠水さんを、もっと知りたいと思いました。そんな詠水に、もっと私を知って欲しいと思いました」




差し出される、三角に折られた柳包み。




「『君想う程に君欲する心を君に捧げん』……ぅゎぁ………熱いです……恥ずかしくて死んじゃいそう……ぁぅ……」



…柳包みを差し出す香乃子は顔を真っ赤にすてプルプルと震えていた。顔に火がつきそうとはまさにこの事だろう。



「どうしてだろう!?私こんな大胆に……ぁ……ぁぅ………でも、祭りが始まった時から既に、何故か詠水さんの事しか考えられなくて、詠水さんと………はっ!?い、今のは何でもないですっ!!あぁあああぁあああっ!!なんだか今日の私おかしいんですっ!!ご、ごめんなさい!!なんだか頭がどうかしちゃいそうですっ!!お、お…おやすみなさいっ!!」



何やら急にぶっ壊れだした香乃子が押し付けるようにして柳包みを俺に渡すと、彼女は来た道を走って戻っていってしまう。下駄でそんな走り方をしたら鼻緒が切れるぞ…



俺は丁寧に三角に折られた紙に視線を落とし、辟易する。





「…こっちの身にもなれ、クソッタレ幼狐めが」





俺にはこの柳包みが彼女の想いだと判断する事が出来ない。





人の好意など、受け取れるわけもない。





俺には彼女の口から出た言葉が、彼女の胸の内に秘められた想いを投影したものだと判断する事が出来ない。






人の心など、見えるわけもない。






見えた気になっているだけだ。











信用など、信頼など、できるわけもないのだ。










少女が履いていた桐製の下駄の音が、徐々に遠ざかって行くのが聞こえる。少女の姿は夏の闇夜へと消えたのだ。












心のどこかで孤独の再来に安堵を覚える自分が、酷く滑稽に見えた。










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