青く、蒼く、水を詠みあげる。

綴火つづりび詠水えいすい



彼は昔から聡明で、無口な男だった。



誰よりも器用で、誰よりも不器用な男だった。






彼に出会えていなかったら、私はきっと朽ち果てていた。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




「おーし、それじゃあ昨日のテストを返していくぞー。石光から取りに来い」



担任の先生がそう呼びかけると、教室はクラスメイト達の呻き声で包まれる。学年末テストが返ってくるのだ。




私の鼓動が落ち着きを無くしていくのが自分でも分かった。




「流石は石光。全教科トップクラスだぞ。だが今回一位は逃してしまったな。まあ来年は一位目指して頑張れよ」


「ありがとうございます。…あいつには中々勝てませんね」



名前を呼ばれた石光いしみつりょうが、その整った顔に渋面を浮かべながら先生からテストを受けとる。文武両道に秀でた彼の事だ。きっとどの教科も満点に近い数字を叩き出しているのだろう。



それに比べて私は…きっと……



「あ…りょ、涼くん。点数を教えてもらってもいいかな…?」


クラスメイトの佐山さやま玲加れいかが、席へと戻る石光涼を呼び止め、わずかに頰を赤らめおずおずと尋ねる。その周りでは他の女子もキャーキャー言いながら、興味深々と言った様子で聞き耳を立てている。ここまで異性にモテると、彼にはきっと私たちとは違った世界が見えているんだろうなぁ…


「うーん…恥ずかしいからあまり見せたくないんだけどね。国語と理科と道徳は満点だったけど、算数と社会でいくつか間違えちゃったよ。算数は小さなミスばかりだけど、社会は普通に漢字を間違えていたからね。勉強が足りなかったよ」


100。92。100。96。100。


彼の持っていた5枚の用紙には、とても勉強不足とは言い難い点数が記されていた。


今年の教科担当は難易度の高い引っ掛け問題をふんだんに散りばめてくると評判だ。にも関わらずこの高得点を叩き出す彼は、他の子たちとも比べて地力が違うのだろう。私たちの代で高校へ進学するのは彼だと誰もが思っている。



私は……私は………



「おーい、裁花たちばな。次お前だぞ。なにをボサッとしているんだ?」



点数のことでワイワイと盛り上がるクラスメイト達の喧騒のせいか、あるいは私が呆けていただけか……呼ばれていた事に全然気が付かなかった。




ああ、呼ばれている。




脈拍の加速が止まらない。




今すぐにでも逃げ出したくなる両足を教卓の方へと運ぶ。




結果なんて、だいたい察しがついている。




「…今回もお世辞にも良い点数とは言い難いな。裁花は学業奨励生徒を目指しているんだろ?確かに今回のテストは難しかったが、全教科でもう少し…せめて平均以上は取れてないとなぁ。小学校の勉強でつまづいていては、この先も思いやられるぞ。裁花はちゃんと宿題も自主学習もしているし、努力はしていると思うんだがなぁ…少し学習方法を変えてみた方が良いかもしれないな。まあ来年から頑張れ」




58。48。52。67。98。




酷い数字。




一度受けとってしまうと、もう諦めるしかなくなる。




お家、帰りたくないな。




私が落胆しているのが表情に出ていたのか、席を戻るまでの間、友達が声をかけてくる事はなかった。友達にまで気を使わせて、ほんと情けない。これで進学を目指しているなんて話にもならない。




「……次、綴火つづりび




先生のその一言でクラスが静まり返る。先ほどまでの喧騒が嘘みたい。好き勝手に喋りまくっていたクラスメイト達は、ただ一人の男を黙って見ていた。



まるで教室に混ざり込んだ異物を見るかのような目で。



「まったく…一切宿題を提出しないというのにこの点数。さぞや教科担当は血涙を流している事だろうな。かく言う俺も流した。…まあよく頑張った。一位はお前だ。綴火」


「…………」



男は先生の軽口に何の反応も示さず、無愛想にテストをひったくる。そんな態度にクラスメイたちはより一層、眉を顰める。



「ちょっと詠水くん?みんなはクラス一位の点数が気になって仕方ないんですよ!!ささっ、包み隠さず見せてください!!」



そんな中、黒髪をツインテールにした少女…神繋かんなぎあおいが場違いなくらいに明るく笑い、綴火からテストを奪い取る。が、たちまちその笑顔が分かりやすく歪む。


「ちょっと!?オール100点ってなんですか!?先生、不正はなかったかちゃんと調べたんですか!?絶対にカンニングしてますよコレ!!」


神繋葵は完全に難癖とも言える抗議を唱える。




全部……100点……ッ!?




教室がわずかにざわめく。



「馬鹿かお前は。ぼく以外に満点がいないのに、どうやってカンニングで満点をとるんだよ。そんなんだから葵は馬鹿なんだよ。阿呆。里狐さっこさんにお願いして頭治してもらえよ。馬鹿」


綴火はムスっとした顔で葵からテストを奪い返すと、そのまま席へと戻ってしまう。


これでもかと言うほど煽られた神繋葵は、顔を真っ赤にして綴火の元へと直行する。葵は綴火に中指を突き立ててギャーギャーと騒いでいる。相変わらず賑やかな子だなぁ…


当の綴火は、すごく嫌そうな顔をして両耳に指を突っ込んでいる。と呼ばれる彼は、うるさくされるのが苦手なのだろうか?







言うまでもなく神繋葵は廊下に立たされた。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






「ごめんなさい、お父さん。今回もすごく点数悪かった」



ランドセルから5枚の紙を取り出し、丁度仕事から返ってきたばかりのお父さんに渡す。



「謝る必要はないじゃないか。遙が毎日しっかりと勉強している事は私も知っている。今回できなかったところを、できるようにすれば良い。お疲れ様」


答案用紙を返してきたお父さんは優しく微笑み、私をねぎらい頭を撫でてくる。


私はすっかり慣れてしまった作り笑いを浮かべる。お父さんが帰ってて良かった。こんなの、一時しのぎに過ぎないかもしれないけど。


修司しゅうじさんの言う通りよ。次から頑張れば良いのよ、遙ちゃん」


「………はい、お母さん」



夕食の支度をしている麗子れいこがそう呼びかけてくる。




震えが、止まらない。




「修司さん、夕食が作り終わるのはもう少し後になりそうだから、先にお風呂に入ってきたら?」


「ああ、そうするよ」




お父さんが風呂場へと吸い込まれていく。




「…はやく出しなさい」




いつの間にか私の目の前まで来ていた麗子さんが手の平を上へ向けて、右手を突き出してくる。



私は震える手で5枚の答案用紙を麗子さんに渡す。



麗子さんは無表情で5枚の紙に目を通す。そして、それらを床に捨てる。





麗子さんの左手が私の口を押さえ、拳を作った右手で私の腹を殴りつける。




「んぐぅッッッッッ!!!!!!????」




一度では終わらない。何度も。何度も。




「ねぇ…なんであなたはそんなにも無能なの?修司さんがどれだけ頭を悩ませているか分かっているの?『私の教え方が悪いのだろうか…』って、自分を責めているのよ彼は?あなた、本当に最低ね」




無表情のまま麗子さんは私の腹を殴りつける。口を塞がれ嗚咽する事すら許されない。耐え難い痛みに、涙が滲み出る。




「何泣いてるのよ。馬鹿じゃないの?」




麗子さんは殴る手を止め、私の髪を掴みあげる。



痛い。すごく痛い。でも声をあげてはいけない。絶対に殺される。殺されてしまう。



「私もね、修司さんの新しい嫁として頑張ってるのよ?医者の激務で疲れて帰ってくる修司さんの支えになろうと頑張ってるのよ?それなのに修司さんは口を開けば遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙遙ァ……!!あなたは……何もしてないのに………あなたは修司さんの期待にも応えられていないのに………いつもいつも遙遙遙遙遙遙遙って………ッ!!」



怒りで声が大きくならないよう、必死で抑える麗子さんの手と声は震えに震えていた。


不意に掴まれていた髪を離されたと思いきや、腹を蹴られた。私は鈍い呻きをあげて、吹き飛んでしまう。



「あなた、本当に要らないわ。修司さんの娘というのだから優秀なんだろうと思っていたけれど、とんだ穀潰しじゃない。医者の子供が勉強できないだなんて、修司さんの顔にどれだけ泥を塗るつもりなの?消えて。消えて欲しいわ、あなた。お願いだから死んでくれないかしら?ねぇ、死んで?私は殺すわけにいかないから、自分で死んで?お願いだから、死んで?適当な理由見つけて死んで?遺書とか残さなくていいから、早急に死んで欲しいの」



麗子さんはもう一度私に蹴りを入れる。



「修司さんが帰ってくるまでに泣き止みなさい。泣き止まなかったら、私があなたを殺してあげるわ。さっさと泣き止んで、美味しい美味しいタダ飯を食べたら、潔く死んで頂戴」






何回も死のうとしたに決まっている。こんなの生きてても辛いし、怖いだけ。







でも、死ぬのはもっと怖かった。私は死ねなかった。









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「綴火、ちょっと良い?」


「………裁花か。なんか用?」


綴火詠水が昼休みに、校庭の片隅にある古びた木造の稽古場『練武館』で竹刀を振っていることは有名だったので、そこへ足を運ぶと果たして彼はそこにいた。


「その、お願いしたい事があるんだけど」


「……ぼくはお前にお願い事をされるような間柄でもないだろ」


相変わらず遠慮のない人だなぁ。綴火は人と仲良くしようという気はないのだろうか?


「それは分かってる。でもあなたにしかできない事だから…」


「ふん、ぼくにできる事なら石光にだって大概はできるじゃん。そっちを当たれよ。お前としてもそっちの方が良いんじゃないのか?みんな大好き石光くんとの会話を楽しんでこいよ」


綴火は竹刀を振る手を止めず、こちらを見向きもしないでぶっきらぼうに答える。



…この態度はさすがに無いでしょ。なんなの?性格悪すぎじゃない?



でも、こっちはお願いをする立場だから抑えなくてはいけない。我慢、我慢…



「涼だと変な噂が立っちゃうし、常に人に囲まれてる涼に相談なんて無理だよ」


「肝心な時に使えない男だな。だからイケメンは嫌いなんだよ」


ただでさえ不機嫌そうな綴火の眉間に、新たな皺が加わっていく。涼の事をここまで悪く言う人は初めて見たな……涼は何も悪くない気がするけど。


「…で、何?お前がいると素振りが捗らないから早くして欲しいんだけど」



「私に勉強を教えて欲しい」



「…………は?」



「私に勉強を教えて欲しいの」



「…………あ゛?」




ようやく綴火の竹刀が止まった瞬間だった。





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「ふざけんなよ…なんでぼくがこんな面倒な事を……」


「ごめんって言ってるじゃん。でもあなた頭良いんでしょ?」


「勉強ができるからと言って、誰かに教える能力も備わっているわけじゃないんだぞ」


「それが分かっているという事は、あなたにはできるという事ね。これ、私の授業ノートと自習ノート。直した方が良いところがあったら教えて」


「お前めちゃくちゃマイペースだな。絶対B型だろ」


「全国のB型に謝りなさい。いいから早く、昼休みが終わっちゃう」


「ったく、なんでぼくに話かけてくる奴は面倒臭いやつしかいないんだよ…」


すごくイライラしながらも、綴火は私のノートに目を通していく。この人、すごく口は悪いけど、実は優しかったりするのかな?


「…なんだよお前の授業ノート。黒板丸写しじゃねぇか。よくこんなんでテスト受けれるなぁ」


綴火はため息混じりにノートをめくっていく。


「…なによ。あなたなんてノートすら取っていないじゃない」


「ぼくはノートなんて取らなくても覚えれるから良いんだよ。でもお前はそうじゃないんだろ?だったらノートの取り方を変えろ。いいか、先生が黒板に書いていく事はどれも要点ばかりで、教科書にも書いてあるような事ばかりだ。そんなものをノートに書いても意味がない。黒板に書かれない、先生が言っていた事をノートに書いていけ。別に綺麗にまとめる必要は無いから、とにかく書け」


「…なぜ?」


「聞くという行為と同時に、書くという行為を行った方が記憶に残りやすいからだ。それと、人間が何かを思いだす時は『関連付け』が大きく関係してくる。そうだな…例えばあるお菓子を食べて『昔によくおばあちゃんからこのお菓子をもらったなぁ』と懐かしんだとする。これは『お菓子』と『おばあちゃん』が関連付けられていると言える。つまり、『お菓子』がきっかけになり『おばあちゃん』を思い出した事になる。それまでおばあちゃんの事なんて考えてもいなかったのにだ」



気づけば私は彼の話を黙って聞いていた。



「勉強だって同じように海馬を使ってんだ。授業でも関連付けを行えばいい。たとえば『海津市かいづし輪中わじゅう』……まず輪中という物は低地にある集落を洪水から守るための堤防、あるいはそれに囲まれた集落の事を意味する言葉だ。だが、先生の話がもたらす情報量はそれだけじゃない。45分もかけて、輪中に住まう人々がどれほど水害に苦しめられたとか、オランダから来たヨハネス・デ・レーケの主導の元で木曽三川きそさんせんの分流工事が行われたとか、幕府の命令で薩摩藩がはるばる治水工事をしにやってきて沢山の死傷者が出たとか、色々聞かされただろ?ここまで聞いてお前も当時の授業を思い出さないか?」



すごい……その時の授業が鮮明に思い出せる。たしかビデオも見たんだよね。



「…でも、そこまで覚えられるのなら、普通に輪中だけ覚えた方が早くない?」


「お前は教科担任が『輪中』という単語だけをテストに出してくると思っているのか?それに関わる『三川分流工事』『ヨハネス・デ・レーケ』『薩摩藩』。三川工事に伴って植えられた『千本松原』。輪中の内容一つでいくらでも問題は出せる。学年末テストなんてどれが出てもおかしくないんだぞ。それと情報量が少ない方が覚えやすいというのは間違いだ。お前は漢字を覚える時に『誰々の名前に使われていた』とかいう回りくどい覚え方をした事はないか?」


「…あるかも」


「それと一緒だ」



……綴火の話、めちゃくちゃ分かりやすい。お父さんよりも分かりやすい。



綴火は私のランドセルから理科の問題集を取り出し、自習ノートと一緒に私へ手渡してくる。


「お前のやり方でやってみろ」


私は鉛筆と下敷きを取り出し、綴火の言う通りいつもお父さんに見てもらっている時のようにやってみせる。


「あー…もういい。わかった。そこで止めろ」


まだ三問しか解いていないのに綴火に止められる。


「お前時間かけすぎ。効率悪すぎ。こんなん1時間勉強しても大した勉強量にならねーよ」


「…でも綴火は全然自習してないじゃん」


「口の減らない奴だな。ぼくは必要ないからやってないんだよ。お前はそうじゃないんだから黙ってぼくの話を聞け」


綴火の物言いにはすごくムカついたけど、私のためにやってくれている事だし、何より今の私が綴火に何か言ったところで負け犬の遠吠えにしかならなかった。


「いいか、まず問題文を読んでから10秒以上考えるな。それ以上かかるなら飛ばして次の問題に入れ。合っている自信のない回答は絶対に書くな。このやり方で1ページだけやってみろ」


綴火の言われた通りのやり方で、1ページだけ問題を解く。当然、悩む間も無く設問を飛ばしたりしているので、すぐに終わってしまう。


「終わったか。じゃあ答え合わせをするが、できるだけサクサクと丸つけをしろ。間違っていた所や空欄だったところに正しい答えを書く必要はない。深く考えずに合っているか否かだけを見ろ」


答え合わせをすると、結構な量の誤解答が有った。空欄の量もかなりの物だ。


「じゃあ次のページも同じように」



次のページで同じ事を繰り返す。



「よし、じゃあさっきのページをもう一回やってみろ」


「……え?そんな連続でやって、意味あるの?」


「いいから黙ってやれ」


当然、一度答えを見ているので空欄や自信のない回答は減った。ただ、空欄や誤解答はゼロにはならなかった。


「………ねぇ」


「分かっている。今から説明する。今、お前はこのページを少しの間隔を空けてからもう一度解いた。にも関わらず、解けない問題があった」


「うん」


「だが同時に、一回だけ…たかが一瞬だけ正解答を見ただけで解けるようになった問題もある」


「うん」


「これはお前の理解度を意味している。2回とも解けた問題は、しっかりと理解できている内容。2回目で初めて解けた問題は、習ったという記憶はあるものの理解が不充分、あるいはさっき言った『関連付け』が足りなかった内容。2回とも解けなかった問題は、まるで理解をしていない内容。……と言う事になる。2回目で解けた内容に関しては、その時点で大分記憶できていると思うが、次の日にもう一度やればより記憶に残るだろう。2回とも解けなかった内容は根本から勉強し直す必要がある。お前の父ちゃんに聞くなり先生に聞くなりして学び直せ。今回は時間がないから2ページだけだったが、家でやる分にはもっと広範囲に渡ってお前の理解度をチェックできるだろう」



言葉が出なかった。それほどに綴火の教えてくれた内容は、私にとって革新的な物だった。



同時に新たな真実も見えてくる。



綴火は勉強をしていない訳ではない。自習をしていながら提出していないだけ。でなければ、こんな独自の勉強方法を知っているはずがない。



天才肌に見せかけて、きっと綴火は努力家なのだろう。



「お前は1から10の全てを理解していないわけじゃないんだ。すでに理解をしている所を勉強したところで時間の無駄だ。だが逆に理解をしていない所は手厚く勉強をしなくてはならない。勉強に限らず、手を抜く所と腰を据える所をうまく見極めるのが重要なんだよ。全部に全力を注げるほど人間は立派にできていない」


彼がそう言い終わると同時にチャイムが鳴り響く。昼間の終わりを告げる物だ。


「掃除の時間か……色々と喋ったが、お前にはこの学習方法が合っていない可能性もある。そん時は悪いが他の方法を模索してくれ。医者を目指しているなら、医者の父ちゃんに聞いた方が良いことも多いだろうしな」


「ちょっと待って。私が医者を目指してる事、先生にしか言ってないんだけど?」


「…お前テスト返してもらう時に先生と話してたじゃん」


…嘘でしょ?あんなに教室うるさかったし、先生も気を使って声量落としてたよ?しかも綴火の席って後ろの方でしょ?


「綴火って、本当に耳が良いんだね」


「詠水」


「………え?」


「…お前に賜名で呼ばれるの、ムカつくんだよ」


「逆じゃないの?綴火はどうでもいい人に名前で呼ばれるの嫌なんじゃないの?実際に、綴火のこと名前で呼んでるのって、あの倣神野ならしのの子と葵だけだし」


「…ぼくには良く聞こえる耳があるからな」


綴火は急に立ち上がり、私に背を向けドアの方へと歩き出す。


「お前が周りの連中と一緒になって、ぼくの陰口を叩いた事が無い事くらい……知ってんだよ」


向こう側を向いてしまっている綴火の表情は見えない。でも、彼の耳は少しだけ赤くなっていた。




私は彼の事を勘違いしていたのかもしれない。



興味もない人に嫌われても気にしない。それが綴火詠水だと思っていた。でもそれは大きな間違いだった。



彼も私と同じ小学5年生。







彼だって、人恋しくて当然だった。






「詠水」





すんでのところで教室から出ていってしまいそうだった詠水が、足を止める。





「勉強、教えてくれてありがとう。すごく分かりやすかった。こんなに丁寧に教えてもらえると思ってなかった。ごめん、詠水の事を誤解していたかもしれない。詠水はすごく優しいんだね」




彼は振り向かない。




「…どうせお前が一回で理解しなきゃ、またぼくの所に来るんだろ?そんなの…面倒臭くて敵わないんだよ」




詠水はとても優しくて、とても恥ずかしがり屋だった。




詠水はとても器用で、とても不器用だった。




他の人が見抜けなかった詠水の魅力を、私は垣間見ることができた。




そんな彼の魅力を独り占めしたいと思った。




私より先に彼の魅力を見出みいだしていた倣神野の子や葵が羨ましいと思った。




そんな独占欲や嫉妬心が、何に起因しているかなんて子供の私には分からなかった。





「詠水。私の事もお前じゃなくて遙って呼んで欲しい」




詠水の小さな溜息が聞こえる。




「はぁ、面倒臭い女3号の誕生か。分かったよ…………遙」




そう溢した詠水は、足早に掃除場所へと向かってしまう。




ランドセルへと勉強道具を片付けていく私の感情は複雑な物だった。





彼の近くに立てることが凄く嬉しかった。





彼の近くに立つのが3番目だった事がちょっぴり悔しかった。





今日からもっと頑張ろう。彼に新しい未来を与えて貰ったのだ。





結果を出せば、みんなに認めてもらえる。




詠水にも、お父さんにも。






………………………麗子さんにも。







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短かった春休みが終わり、私たちは6年生になった。新学期に入ってからも、私はたくさん詠水に話しかけた。詠水はすごく鬱陶しそうな顔をするけど、そんな彼も私は好きだった。詠水に話しかけるようになってから、私は周りの子たちから距離を置かれるようになったけど、そんな事はどうでも良かった。むしろ、彼ら彼女らは私と違って詠水の魅力に気づいていないんだと、優越感に浸ってすらいた。


友達が減っていく代わりに、葵と仲良くなった。


葵はいつも詠水に食ってかかっていき、逆に泣かされてばかりいた。葵が泣くと詠水は口では悪態をついているものの、見るからにたじろいでおり、ついつい頭を撫でしまったりと素の優しさが出てしまっている。葵もそんな彼を目敏く見抜き、ここぞとばかりに詠水に甘えまくる。


私なんかよりも詠水と付き合いの長い葵は、私以上に彼の事を理解していた。そんな彼女が羨ましくて仕方なかったし、友達としてすごく尊敬していた。


3人で過ごす毎日は、とても心地よい物だった。








でも、そんな日常は嘘のように消え去った。










詠水は学校を辞めた。









担任の先生は詳しい事を一切説明してくれなかった。倣神野分家が大きく関係しているらしく、倣神野分家に所属している先生の口からは言えないそうだ。








葵もその日は学校を休んでいて、彼女からは何も聞けなかった。







しかしながら瞬く間に、学校内だけに留まらず村全体にいくつかの噂が飛び交う事になった。







第五十三代目『通わせ人』の死去。



倣神野分家総統の死去。



綴火詠水の第五十四代目『通わせ人』就任。









そして、『人斬ひときり詠水』という蔑称。







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それ以来、私は詠水に会えることなく中学生へと上がった。詠水の教えを元に勉強方法を改善した私はメキメキと力を付け、入学後の学力テストではあの石光涼を抑え学年首位の点数を叩き出す事ができた。



嬉しさ以上に感謝の気持ちがいっぱいだった。



詠水…あなたは今、その年齢に似合わぬ大役を任されている事でしょう。


心配。とても心配。


会いたいよ、詠水。


もっと大きくなった詠水を見てみたい。ちゃんと成長できた私を見て欲しい。




そして、ありがとうって伝えたい。




でも、まず先に私の成長を伝えなくてはならない人達がいる。








「すごいじゃないか遙…!!どれも満点に近い点数じゃないか!!よく頑張ったな!!おめでとう!!」



お父さんは自分の事のように喜んでくれ、私を満面の笑顔で抱きしめてくれた。こんなに感情を表に出したお父さんは初めて見るかもしれない。


ちらりと麗子さんの様子を伺うと、同様に「よく頑張ったね」と笑顔で私の功績を労っていた。





ああ、地獄のような日々はもう終わったんだ…



「私はね、とても辛かったんだよ」


「……え?」



お父さんはポツポツと言葉を紡ぎ始める。



「辛そうにしている遙を見るのが、とても辛かった。遙はいつも一生懸命だったから、結果が出ずに落ち込んでいる遙を見るのがとても辛かった。でも、遙は諦めずに頑張った。そして、こうして結果を出してとても嬉しそうな顔をしてくれた」


「…大切な人の期待に応えたいと思ったから。一生懸命頑張ったの」


「遙……君のような娘を持てて私は果報者だよ。親として誇りに思う。になれて、私は幸せ者だ」



お父さんがこんなにも喜んでくれている。私自身もこんなにも喜んでいる。きっとこれは、私ひとりだけでは辿りつけなかった未来。




ありがとう、詠水。







ふと、不意に鳴り響く着信音。お父さんの携帯だ。






「もしもし……なに?下出しもでさんが…!?分かった、今すぐ向かう」



綻んでいたお父さんの顔が強張っている。



「修司さん…仕事ですか?」


「ああ、急患だ。いつ帰ってこれるか分からないから先に食べていてくれ。すまない麗子、遙…留守を頼んだよ」


「う、うん……」


「ええ、お気をつけてください」



お父さんは脱ぎかけていたスーツを乱雑に広いあげると、すぐに家を出て行く。




ドアが閉まった瞬間、私の首に




「ゥ……ァァ………カハッ!?」





息が………苦しい………




一体何が……………?




「ねぇ?なんでなの?意味が分からないわ。意味が分からない。何なの、あなた。ねぇ、私は修司さんの何?なぜ彼はあなたしか見ていないの?なんなの、あなた。憎いわ。憎い。死んで頂戴。死ね。死ね。あなただけが認められて、私は何なの?ただ家事をする機械じゃない。死ね。死ね」





麗子さんが………私の……首を……?




「くる…………し………やめ………おか…さ……」



「お母さんですって?あなた本当に私の事を母だと思ってるの?不愉快だから止めて頂戴。馬鹿にされたものね。私はあなたを娘として見たことなんてないわよ。最初はね、あなたと上手くやっていけば修司さんも私の事をもっと見てくれる、認めてくれる、そう思っていたわ。何なの?馬鹿みたい。修司さんは最初から最後まであなたしか見ていなかったじゃない。とんだピエロよ、私は。ねぇ、今の笑うところよ?笑いなさいよッ!!死ねッ!!」





片町かたまち……麗子れいこ……




今のあなたの顔は………人間のそれじゃない…………




醜い……醜い憎悪…………なんて利己的で………非道…………な……







「私が愛した人は、あなただけを見ていた。私が私が私があなた修司さん見て私は愛した見てあなたは私はあなたが愛した見てあなた私あなた人は愛したあなた許せないあなた許せない愛した人を私は愛したあなた死ね愛した見ていた許せない私許せない死ね許せない死ね愛した死ねあなた死ね許せない許せない死ね許せない死ね死ね愛した人は私許せないあなた死ね許せないあなた許せない死ね修司さんを私は愛したあなた死ね愛した見ていた許せない私許せない死ね許せない死ね愛した死ねあなた死ね許せない許せない死ね許せない死ね死ね愛した人は私許せないあなた死ね許せないあなた許せない死ね」







視界が細くなっていく。





次第に音が聞こえなくなっていく。






片町麗子の呪詛など、もう何も聞こえない。





それなのに、時間だけはやけにゆっくりと進んでいる。







今の私は、片町麗子より速く動けそう。







でも、その前に死んでしまいそうだ。





このままでは死ぬ。





私は、死ぬ。





…しね………るか………











こんなところでッ!!!!!










吹き飛んでいく麗子。







供給される酸素。







巡っていく血流。







回復する視界。






アイスピック。






お父さんが晩酌に使っている、アイスピック。






麗子が妻だったからこそしっかり準備されていた、アイスピック。






刺せる。あれなら勝てる。相手は素手。打開、できる。この状況。







私はアイスピックを手にした。








私の中で、何かがハズれた。











鈍い衝撃。生温かい何か。鉄臭い熱気。








刺した。








片町麗子を、私は刺した。







「ガッ………ァ………ハル…カ………オマ……エ…………」






極限にまで開かれた、片町麗子の眼孔。





とめどなく鮮血が流れ出る、片町麗子の動脈。






私が……人を殺した……





「……ぁ……うそ………そんな…………私は………私は…………」



自分より大きな体躯を持つ片町麗子を吹き飛ばした力はどこへ行ったのか。私は自分の体すらも支えられない。



尋常ならざる出血をしながらも、私ににじり寄る片町麗子。



血反吐を吐き、眼を赤くし、獣のような声を震わす彼女は、とても人間には見えなかった。



片町麗子が己の喉からアイスピックを抜く。マグマのように噴き出す彼女のあかは、私を容赦なく染め上げる。



もう、何が何だか分からない。



私の体はとっくに言うことを聞かない。



盛大に尿を垂れ流している事に気付かないほど、全身が麻痺している。



顔がベタベタしているのは彼女の返り血なのか、私の涙と鼻水か。








突如、視界の半分が消えた。







左目が熱い。痛い。痛い。






痛い!!痛い!!!!痛いッ!!!!!!





「ぎゃああああああぁあぁぁぁぁあああぁぁぁああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」







刺さっている、私の、左目、刺さって………





痛い。熱い。痛い。痛い。痛い。熱い。




引き抜かれるアイスピック。




私の顔を伝う血液は、もはやどちらの物か分からない。




「…………ォ…………ァ………ア」




声にならぬ声をあげる片町麗子の顔は、生気の欠片も残されておらず、ただただ蒼かった。



それなのに、執念で腕を振り上げる。






なんて、美しくない最期なの。





あなたも、私も。




こんなに汚れて、こんなにも醜い。




思い残しの多かった人生。




せめて、彼だけには会いたかった。




言葉なんて要らないから、会いたかった。







それなのに、目の前にいるのは真紅の化物。






もう終わり。





何もかも、終わり。


















「随分と血生臭い再会だな、遙」
















吹き抜ける風圧。










片山麗子だったモノから、頭部が失せる。








新たに加わるシルエット。








「えい……………すい………………」



「お前の声が聞こえたと思えば…何なんだこの状況は?こいつはお前の母親か?」



「えいすい……詠水ッ!!」



固まっていた体を詠水の元へと移動させようとするも、自由に体が動くわけもなく血みどろの床に倒れこむ。体液にまみれたまま床を這いずり、詠水の元へと向かう。



「詠水……詠水……」



「これでは何も分からんな。どうしたもんか…」



異常なほどに落ち着き払っている彼は、汚物にまみれた私が纏わりつこうとも、顔色ひとつ変えない。その筋肉質な腕が、今にも崩れてしまいそうな私の体を支える。



「詠水……私は……人を殺した……人を刺した…………殺してしまった………私は……私は…………ッ!!」




乾いた音が鳴り響く。




ジンジンと痛む、私の頰。




「え………?」






「馬鹿野郎。お前みたいな自分の身すら守る力も無い奴に、人を殺せると思うな。思い上がるなクソ雑魚が。俺が女を斬っていなければお前は死んでいた。あの女を殺したのは俺だ。……お前は覚えが悪いからもう一度言う。お前みたいなクソ雑魚が、人を殺せると思うな」






冷え切った声。



凍てつくような眼光。



考えを悟らせない表情。





あなたは…詠水なの……?




誰よりも優しくて、誰よりも人間味に溢れていた………詠水なの…………?






詠水は急にスマホを取り出し、通話を始めた。





「………俺だ。諫姉いさねぇ、分家のカス共に召集をかけてくれ。ああ、それと病医者の……名前は知らんが裁花遙の父親って言えば分かるか?……流石だな。そいつも呼んでくれ。……違う。ある意味では近いがな」





私を抱きとめる彼の手に、少しばかりの力が加わる。







「人を斬った」







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜








私はただひたすらに混乱し、動転し、真っ白だった。







声を発する事など、到底不可能。





初めて入った、倣神野本家の拝殿。




おびただしい数の燭台が神前の間を明かり照らす。




奥に見えるのは犬神様の本殿だろうか。




拝殿には帯刀した男たちがずらりと並び、その全員が五体投地をしている。




拝殿のすみには私の父親である久山ひさやま修司しゅうじの姿も見える。彼も同様に五体投地をしていたが、その目はずっと私を見ている。今にもこちらへ駆け寄ってきそうな顔をしている。理性で押しとどめているようだ。




五体投地をしていないのは4人いる。



唯一、犬神様に背を向けている姫女ひいな様こと倣神野ならしの諫寧いさね


分家の人たちの最前列でちょこんと座っている少女、姫女様の一人娘である倣神野諫奈いさな


表情ひとつ変えず直立している、綴火詠水。


そして、介護されるかのようにして詠水にしなだれかかる私。




「皆さん、お顔を上げてください」



姫女様がそう声をかけると、ひれ伏していた者たちは皆、一斉に面をあげる。



「夜分遅くにご足労を賜わり申し訳ございませんでした。殺人行為と捉えられる事案の報告がありました故、双神村を統治する上での規範となっております『律界目録』に基づき、倣神野分家の皆さん、並びに当事者とその親族の方に召集をおかけ致しました。なお、これより私が執り行ないますのは、此度の事案における事実確認と殺人行為を行ったとされる綴火詠水の処遇の裁決です」



姫女様はそこで言葉を切り、拝殿を見渡す。声を発する者は1人としていない。



「まず最初に、此度に殺害された片町麗子の配偶者、及び裁花遙の保護者である久山修司にも足を運んでいただきましたが、あなたをお呼びしました真意とは、他でもなく事実を認知していただく事にございます。あくまでも傍聴者という立場になります故、許可なく発言する事は控えてください。心中はお察し致しますが、何卒ご理解をよろしくお願い致します」


「はい……承知しております……」



父は深く頭を下げる。



「では聴取に入りたいと思います。……綴火詠水。あなたはは何故、片町麗子を殺害したのですか?それは故意的なものですか?真実だけを述べてください」



姫女様の鋭い眼差しが詠水の双眸を捉える。



「遙が殺されそうだったからだ。俺に殺意がなければ剣など抜かないに決まっているだろ」



全く顔色を変えず、詠水は端的に答える。



「綴火詠水。あなたと片町麗子の間に確執はありませんでしたか?」


「あるように見えるのか?間抜けな質問が続くようなら俺は帰るぞ」


「……綴火、先ほどから貴様の姫女様に対する態度…看過できるものではない。不敬などという表現に収まる愚行ではないぞ。村民としての在り方を完全に軽視している。人を斬るだけに留まらず、罪を重ねるのが貴様の……」


「北里震。口を慎みなさい。以降、許可なく発言をした場合、私が執り行う公務を妨害する行為とみなします。今一度、省みなさい」


「短慮にございました。大変なるご無礼を働きました事を心よりお詫び申し上げます」


「てめぇは一生そのまま五体投地してろ。木偶でくぼうが」


分家の人たちが殺気立っているのにも関わらず、詠水はどこ吹く風だった。


「裁花遙。綴火詠水の発言に虚偽はありませんか?また、あなたの認識と相違はありませんか?補足説明でも構いません」


「…………………」


「おい、勘弁してやれ。母親に殺されかけ、それどころか目の前で母親の斬首を見せられて、まともな精神状態でいられると思っているのか?」



違う。あれは私の母親なんかじゃない。



「お前ぇ…よくいけしゃあしゃあと…っ!!」


「久山修司。お気持ちは分かりますが抑えてください。我々は今、罪喰之犬神様の御前にいるのですよ」


「ッ!?も、申し訳ございませんでした!!」



何故だろう。たたみひたいを擦り付ける父の姿を見ても、何も感じない。


「裁花遙に話を伺えないとなると少し困りましたが…仕方がありませんね。…綴火詠水。あなたは裁花遙を保護するために片町麗子を殺害したと言いましたね?あなたも当然ご存知かと思いますが、この村の基本的な理念として『より優れた者』或いは『より村に益をもたらとす者』を優先して生かし、『双神村の地を穢す者』或いは『村に不利益を齎す者』を排除する…というものがございます。仮にあなたの証言が真実だとして、片町麗子を殺害しなければ裁花遙は絶命していたとしましょう。あなたは、裁花遙の命を『重き』と判断したのですね?片町麗子の生よりも、裁花遙を生かす事の方が、この村に益を齎す。そういった正当な理念の元で取捨選択をしたのですね?」




待って欲しい。





姫女様、あなたは何を仰っているのですか?




「分家の教員を通じて、裁花遙の突出した学力は聞き及んでおります。このまま学力を維持すれば、学業奨励生徒として選抜される事は間違いないだろうとも言われております。綴火詠水。あなたはこの少女のしたからこそ、彼女を選んだのですね?」





理解してしまった。





この村にとって有益か、無益か。





ただそれだけの基準で私たちの生死は定められているのだ。





だから、詠水は表情ひとつ変えずに片町麗子を斬れるのだ。





だから私の勘違いを嘲笑ったのだ。





『お前みたいなクソ雑魚が、人を殺せると思うな』





馬鹿げてた。私ごときが誰かの生殺与奪を握っているわけもなかった。







私たちが生きるか死ぬかを決めるのは、この村なのだ。






詠水はそれを知っていたのだろう。そして、村が私と片町麗子のどちらを選ぶのかも知っていたのだろう。





だからあんなに冷え切った表情をして、淡々と事を進めていたのだろう。









私の心まで、冷え切っていくのが分かった。








一人で夢見て、馬鹿みたいだった。






詠水は村に貢献できる優秀な人材を育成、そして保護をしただけだった。





彼が倣神野の娘と関わっている時点で、予想できた事じゃない。こんなの。







粉々になってしまいそうなほど辛いのに、涙は出なかった。






きっと私はもう壊れてしまったのだろう。





勝手に夢見て、勝手に失望され、勝手に勘違いして、勝手に努力して、勝手に成長して、勝手に殺されかけ、勝手に救われたと思えば、ただの駒でしかなかった。





この村は、きっと最初からこういう所だったのだろう。





もう、誰とも関わりたくない。誰も信じたくない。





だって、みんなただの人形じゃない。誰も彼も。私も。ただ生かされてるだけの人形。





こんなの、死んでいた方が良かったのかもしれない。










「正当な理念?命の重き?取捨選択?将来性の評価?」










詠水の声。







それは私が一度も聞いた事がない、強い強い感情が込められた、詠水の声。







人形が発するような冷え切った声ではなかった。









「…クソッタレが。人をおちょくるのも大概にしろよ。腹立たしい。だから倣神野はクソなんだよ。何が姫女ひいなだ馬鹿野郎めが」










……………………え?









「貴様ァアアアアアア!!!!!」


「綴火ィィイイイイ!!!!!」


「罪深い…罪深いッ!!」


「処す……お前は処すッ!!!!!」


「姫女様を愚弄した…姫女様を侮辱した……殺せ!!!綴火を殺せェエエエ!!!」


「姫女様を愚弄したッ!!!」


「姫女様を侮辱したッ!!!」


「罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い罪深い」


「罪ッ!!!」


「姫女様を…姫女様をッ!!」


「死ねッ!!!穢れがッ!!!!許さん!!!許せんぞ!!!!!!」


「アアアアアァアアアアアア!!!!綴火ィイイイイイイ!!!!!!!」




倣神野分家の男達が怒号と共に、一斉に抜刀する。




私と詠水が刀に囲い込まれたのは一瞬の事だった。




「綴火詠水。あなたはこの村が長年にわたり常としてきたあるべき姿を…くだらないと唾棄したのですか?それは著しくこの村のあり方に背く行為です。これ以上、双神村の『美』を蔑ろにしようものなら、分家の者があなたに刃を向ける行為が正当なものになりますよ?」



姫女様はすうっとその両目を細める。



「やれるものならやってみろ。お前らに俺は殺せない」





詠水が刀を抜き、私を強く抱きしめる。



怯む事などせず、今なお挑戦的な目をしている。



「多勢に無勢のお前らに俺は殺せない。死を恐れぬお前らに俺は殺せない。命を査定をするお前らに俺は殺せない。自らの意思で人を殺した事のないお前らに俺は殺せない。万物の声を聞かぬお前らに俺は殺せない」







「どちらが村に益を齎すかなど俺の知った事か。トチ狂ったお前らと一緒にしてくれるな」



















「遙は俺の友人だ。どうでもいい奴を斬るに決まっているだろ」
















ああ。








またしても私はあなたを勘違いしてしまった。








あなたの変わりない優しさを疑ってしまった。








詠水……あなたはもう、私の手に届かない所まで行ってしまった。






あなたは太陽。






私にとって、あなたは大きすぎる。





私にとって、あなたは遠すぎる。





私にとって、あなたはこんなにも暖かい。





自らを直視することを許さぬあなたは、誰にも理解されない。





そんなあなたは、枯れ果てた雑草に養分を与えてしまった。






もう私はあなたが居ないと駄目。






あなたは、誰にも死なせない。










「片町麗子はボクが殺したよ」







「遙………?」







ふふ、詠水。キミはそんな顔も見せるんだね。




もっと知りたい。私の知らないキミを。もっと知りたい。固く閉ざされたキミの内側を。





だからボクもを固く閉ざす。




強くキミを愛してしまったは、キミだけが知っていればいい。




壊れ果ててしまったは、キミだけが知っていればいい。




こんなくだらない世の中じゃ、ボクのようなくだらない存在で充分だ。




「詠水が片町麗子を斬ったのは事実だ。けれど、彼が斬っていようといまいと片町麗子は死んでいたよ。ボクはアイスピックで彼女の喉笛を貫いた。首を絞められ殺されそうだったからね。とはいえ、ボクは人を刺して正気を保てるほど精神が強くないからね…しばらくの間、茫然自失としてしまっていた。詠水が彼女にトドメを刺していなければ、左目どころか命まで持っていかれるところだったよ」




思い出したかのようにして、私の左目を激痛の波が襲いかかる。今更そんな痛み、どうという事もない。低品質な道化と化した私にはお誂え向きだろうね。




「麗子が……遙を……?なんで……そんな事が………」



久山修司は唖然とした表情でか細い声を漏らす。



「あり得ない…と言った表情をしているね、お父さん。彼女は良妻賢母を滑稽にも演じていたからね……ボクは彼女に憎まれていたよ。彼女は、あなたに愛情を注がれるボクを醜く嫉妬していたよ。何度、彼女に髪を掴まれ腹を蹴られた事か……親子愛と夫婦愛を混同するとは愚かな女だね。そんな愚鈍な存在にみすみす殺されそうになっていたボクも愚かだよ。人間とはどうしようもなく愚かな生き物なのさ。…ただ一人を除いてね」



「遙……なのか………?」



その問いは実に核心を突いているよ、久山修司。ボクはかつて裁花遙であったとも言えるし、新たに裁花遙となったとも言える。詠水以外の人間にどのような認知を持たれようとも、ボクは一向に構わない。それは一種の最適化に過ぎず、形式的に行われる調和なのだから。



「故に……本質的に片町麗子を殺害したのは詠水ではなくボクだ。ボクからは正当防衛であることを主張させてもらうよ」



拝殿に居るもの全てが、何か気持ち悪い物でも見るかのような目でボクを見ている。心的なショックで気が触れたとでも思っているのだろう。それは強ち間違ってはいない。


ただ、倣神野諫寧と倣神野諫奈からの視線だけは違った。まるでボクが隠し事をするのを許さないような、或いはボクの心中を無遠慮に覗き込むかのような目をしている。なんとも恐ろしい血族だね。諫奈に至ってはまだ小学生だというのに…可愛い顔をして末恐ろしいだ。


詠水はボクの事など見ていない。どことなく気怠げでありながらも睨みつけるような鋭さを秘めた両眼は、どこか遠くを見ているかのようだ。


微動だにしない彼の頰に、ボクの手を添える。あらゆる体液で汚れた手で触れる事を許して欲しい。しっかりと二つの眼でキミを望めない事を許して欲しい。



愛おしい。毅然としているキミも愛おしい。

十を超える刀に囲まれながらも物怖じしないキミには、それを裏付ける絶対的な自信があるのか。相手を退けるための虚勢なのか。



「綴火詠水。彼女の発言に相違や虚偽はありませんか?」


「遙が刺したどうかは知らんが、女はすでに喉をやられていた」


「では、綴火詠水が片町麗子を斬ったという行為は、片町麗子の死を伴うものではなかったと…裁花遙による刺殺行為であると見てよろしいのですね?」


「そう、彼女はボクが殺した。詠水はボクが殺したと認めてはいないが、彼は誰よりも優しいひとだからね。ボクのような脆弱な人間に、人を殺すという事を知って欲しくなかったのだろうね」


「…真にそのような意図があったのですか?綴火詠水」


「知るか。遙が憶測でモノを言っているだけだ。俺に聞かれても困る」


「…綴火詠水の意図は図りかねますが、事実だけを見れば、綴火詠水は単に裁花遙の護衛を果たしたという事になります。一方で自己防衛の為とは言え、裁花遙は片町麗子を殺害したという事にもなります。裁花遙、あなたに己が片町麗子よりも『村に益を齎す存在』だという自覚が有った上で、抵抗を行ったのですか?」



ふふ、倣神野諫寧……あなたは正気なのかい?いや、あなたほどの人物が正気を失うわけがないか。だとすれば正気の沙汰でこの発言か……やれやれ、ボクには到底理解のできない存在だよ。



「とんでもない質問の仕方をするね、姫女様。ボクが抵抗をした時にそんな事を考えていたと思うのかい?『このままでは殺される』『死にたくない』…ただ生き延びたいという一心で彼女を刺したよ。ただ、殺されそうだったから…では理由にならないのかな?ボクのような矮小な存在では、崇高なあなたの質問の意は図りかねるよ」



少し挑発気味にそう返すと、分家の者らが分かりやすく殺気立つ。まったく、恐ろしい集団だね。


ボクが話している途中、ボクを抱きしめている詠水の腕に力が入った。キミが感情の機微を表に出すだなんて珍しいね。何かキミの琴線に触れるような発言でも有ったのかな?



「裁花遙。あなたが生に執着していたか否かは、この場で必要な情報ではありません。先ほどの質問はあなたの個人的な感情を問いただす為の物ではありません。意図を図りかねるのであれば質問を変えましょう。あなたは片町麗子よりも、この村にとってなのですか?」



「感動したよ、姫女様。やはり貴女あなたはこの村を維持…いや、向上させていく統治者としては至高であり模範とも言える素晴らしいお方だ。私情や人情、感情といったものを完全に排除してしまえる人間など、村の外を探しても一人として存在していないだろう。貴女が唯一無二の象徴として扱われる所以ゆえんがよく理解できたよ」



「私に対する皮肉を述べるように指示した覚えはありません。姫女という存在をないがしろにする言動は、双神村そのものを蔑ろにする言動でもあります。この村の秩序と安寧を常なるものへせんと、計り知れぬ高みより罪喰之犬神様、並びに里守之稲荷様から身に余るお力添えを賜っております。即ち、双神村を蔑ろにする言動は、二柱の守護神を蔑ろにする言動に相当します。村民として、お忘れなきようお願い致します」



「失言だったね……ボクは卦体な道化なのだから、この村にも最適化しなくてはならない。改めて姫女様の問いに答えるのであれば、ボクは片町麗子よりも有益であると断言する。現時点で見れば、ボクは学生の身分であり収益性はない。だが、同時に片町麗子も『専業主婦』という大義名分はあれど、ボクと同じ久山修司の被扶養者だ。しかしながら、ボクと片町麗子には『将来性』という決定的な差がある。片町麗子は水準よりも高い収入を得ている久山修司の配偶者となった時点で、今後彼女が再就職して労働という形ある貢献をしていく可能性は極めて希薄だったと言えよう。突出した能力があるようにも見えなかったしね。だが、ボクは違う。ボクは必ず『学業奨励生徒』として選抜され、必ず高校へ進学し、必ず大学にも進学し、必ず医師免許を取得し、必ず倣神野附属の医者となる。病を患った村民を救い、傷を負った村民を救い、子を宿した村民の助産をし、目に見える形でこの村に大きく貢献する事だろう」



仮面のごとく不変であった倣神野諫寧の表情に、僅かではあるが初めて反応が見受けられた。



「……必ず、とあなたは言いました。罪喰之犬神様の御前に於いて、虚言や嘘は一切許されません。よろしいのですか?」



「構わない。万が一にもあり得ないが、ボクが医者になれなかったら、ボクをただの『穢れた穀潰し』として燃やすなり山に捨てるなり自由にすれば良いだろう。それが村民としてのあり方だからね」



感謝したまえ、姫女様。ボクは君たちが多くの血と屍で築きあげた『どうしようもない喜劇』に付き合ってあげるんだ。ボクも詠水のように、そのふざけ倒した世界に中指を突き立てたいところだが、君たち全てを敵に回せるほどボクは強くないからね。



「おい、遙……」



ボクは詠水の愛おしい唇に人差し指を当てる。本当は終わりなき口づけでキミの言葉を遮りたいところだが、TPOは弁えなくてはならないからね。ましてや、ボクが自分勝手な愛情表現に行動を移したことによりキミを不快にさせてしまっては、ボクはひとたまりも無い罪悪感に押しつぶされてしまう。



「キミに心配をしてもらえるという事が、これほどまでに多幸感を生み出すとはね……嬉しいよ、詠水。キミが愛おしくてたまらない。このも…ボクに存在し得る全ては、キミだけが好きにする事ができる。損傷してしまったボクの身体も、虚構で水増しされたボクの精神も、キミにとってまるで必要のない物かもしれないが、一滴たりともボクの血肉をこの村に捧げるつもりなどない」




喋っているボクでさえ聞こえないほどの小声で詠水にそう囁く。彼が聞き漏らすことなど無いだろう。









「遙。俺はお前を拒まない。完全に密着してしまう程に互いの距離を詰めようとも、お前ならば俺は一向に構わない。だが、それは俺のでもあるという事を忘れるな」









ああ、愛しき人よ。






貴方が何故そんなにも哀しい眼をしているか、今になってようやく分かったよ。





貴方は、人というものを信じられなくなってしまったのだね。





貴方もボクと一緒なのだね。





いや、貴方はボクなんかよりもずっと救いが無い。





ボクは、綴火詠水という人間だけを信じる事ができる。




一方でキミは、誰一人として信じるつもりがないだろう?




だからそんなにも勇ましく、凛々しく、弱々しく、そして哀しい眼をしているのだね。




「ありがとう詠水。ならばは取り繕う事なく貴方に近づき、貴方に触れ、貴方を愛します。愛して、愛して、愛して、愛し続けます。貴方が拒まない限り、貴方に枯渇する事なき愛を注ぎ続けます。その結果、貴方の刃に切り裂かれようとも、私は悔いも恨みも持ちません。私の死が貴方の喜びに直結するのであれば……それが私の喜びだから」



「遙。お前は狂っている」



「ええ、私は狂っている。あなたに狂っているの。私が抱える異常も狂気も何もかも、あなただけが知っていればいい。いびつゆがんだ私の精神すらもが、あなたの物だから」



あなたにこうして触れらていられる事が、どんなに幸福な事か。



私は生きていて幸せです。だって、あなたがこんなにも私のすぐ近くで生きているのだから。




「姫女様。簡潔に言えばただ一つ…ボクはこの村にとって失うべきではない存在となる。ただそれだけさ」



「誠見事な気概です、裁花遙。あなたの宣誓は村民としてあるべき姿を美しく形取り、賞賛に値するものです。村の象徴たる私が、この村の総てを以ってしてあなたの誇り高き志を讃えましょう」





姫女様が私に頭を下げた。




この拝殿に集いし者たちに、強い電撃が走ったかのような錯覚をする。




姫女様が頭を下げる…それは村全体の意思を以ってして表す最大の敬意。



あの詠水ですら面食らっている。



ボクとて例外ではない。



「いやはや…完全にボクの退路を断つとはね。貴女は本当に恐ろしいお方だよ、姫女様。けれど、もとよりボクは後に退くつもりなどない」




この命は最愛のひとが救済したものだ。ボクを自由にできる権利は彼にある。姫女様双神村如きに譲り渡せるものではない。




「さて、話が紆余曲折してしまいましたが、此度の集会の趣旨は、殺人行為と思しき事案の事後処理を行うものです。本題に倣って結論を出しますと、綴火詠水と裁花遙の片町麗子を殺害する行為は、村民として正当なものであったとみなします。両名及び村民の皆さん、その貴重な時間を割いていただきました事を改めて感謝いたします。ありがとうございました。これにて閉会と致します。一同、本殿に背を向けるに際して、罪喰之犬神様に今一度敬意を払いなさい」



ボクと詠水、そして倣神野諫寧を除いた人々が、五体投地へ移行する。









統治者としての役目を果たした倣神野諫寧の双眸からは、先ほどまでの万物を裁くような眼光など見受けられず、慈母のようなおっとりとした表情でボクと詠水を見ていた。







詠水はボクの頭の上に、その大きな手の平を優しくポンと乗せる。


しばしの間、ボクの髪を撫でつけていたかと思えば、踵を返して拝殿の出口へと歩き出してしまう。


彼の愛おしい体温が離れていく事に、全身をり下ろされるかのような痛みを覚えるが、それ以上に私は彼に見惚れていた。


五体投地をしている多勢を尻目に、その中央を我が物顔で縦断する彼の姿は、まさに強者の風格。未だ発達しきっていないその肉体には、精錬された技と力が秘められているのだろう。









キミの背中はこんなにも頼もしいというのに、何故そんなにも寂しげに見えるのか。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






その後、ボクは損傷した左目を父である久山修司に処置してもらい、そのまま父と共に自宅へと戻る。




片町麗子の亡骸は既に倣神野分家の人間が回収している為、尋常ならざる量の血溜ちだまりがそこにあるだけだ。



冷静になってみればよく分かるが、ひどい臭気だ。ここで繰り広げられた醜悪な惨劇と、充満する醜悪な臭いを、ボクは一生忘れる事などできないだろうね。



「遙………すまない………本当にすまない」



久山修司はただただ顔を青くしてこうべを垂れる。



「お父さん、あなたは一体何に対して謝っているんだい?これまでボクを嬲り続けたのも、ボクを絞殺しようとしたのも、ボクの左目を使い物にならなくしたのも、全て片町麗子によるものではないのかな?いったい、あなたに何の落ち度があると言うのだい?」


「それはそうなんだが……」


「片町麗子を再婚相手に選んだ事を詫びているのだとしたら、それは何の意味もない事だよ。人間の本質を見抜く力など、人間には備わっていない。ましてや片町麗子はボクという存在さえなければ、あなたにとって不足ない伴侶となっていただろう。故にあなたが如何にボクに対して罪悪感を抱こうとも、まるで意味のない事なのさ」


「それでも、遙が筆舌に尽くし難い苦痛を味わっている事に気づけないでいた事も事実だ。本当に、本当にすまない」


久山修司が顔を上げることはなかった。まさに『合わせる顔がない』とはこの事を指しているのだろうね。


「まったく、あなたはどこまでも生真面目で誠実な男だね。お母さんも片町麗子も、あなたのそんな所に惹かれたのだろうね。申し訳ないが、その謝罪は受け取れないよ。その代わりに…と言ってはアレかもしれないが、いくつかボクの我儘わがままを聞いてもらえないかな?」


「遙の我儘…?構わない、何でも言ってくれ」


「まず、ボクがこの家にいる間は綴火詠水以外の人間を老若男女問わず、この敷地内に入れないで欲しい。出来る限り家の中ではリラックスしたいからね。そうでもないとボクは発狂してしまう。ボクの部屋にはお父さんでも近づかないでくれると助かるよ。ボクの部屋には詠水以外の人間を入れたくない。出来る限り家事はボクがカバーするつもりだから、家政婦を雇わないで欲しい。高校へ進学してボクがこの家を出ている間は家政婦を雇っても良いけど、絶対に部屋には入れないで欲しい。…以上の事に力添えをしてもらえるかな?」


「あ、ああ……わかった。一緒懸命になって勉強を頑張っているお前に、家事を任せる事に関しては本当に申し訳ないと思う。俺も出来る限りの家事はしていくつもりだ。…それより遙、お前は綴火詠水という少年とは、どういった関係なんだ?無遠慮な上に場違いな質問をしている事は重々承知しているが、私は気になって仕方がない」


「彼はボクにとっての全てだ。申し訳ないがそれ以上の言葉が見つからない。では二つ目の我儘を聞いてもらえるかな?」


「あ、ああ…………」


「左目が少々寂しくなってしまったからね、まがものが欲しいよ」


「紛い物…?」


「義眼だよ。彼だけを見つめる義眼左眼が欲しいのさ。そうだね…どうせなら美しい物にしていただきたい」






あなただけは、二つの目で見ていたいから。
















「青が良い。ボクに冷たく染み渡る、汚れを知らない水をみあげるかのような…………そんな色が良い」











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