壊れきった隻眼は世界を嗤う。

終われ。






『滑稽だろ?屈辱だろ?許せないだろ?信じられないだろ?結構結構…お前ら二人とも、かつてないほど最高な顔をしているぞ』







止めろ。







『…………くや…まれる…な……おまえ……に……なにひとつ………との………ろを……おしえ…………」







覚めろ。







『殺す…殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す死ね死ね!!死ね!!死ね死ね死ね!!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね殺す殺す死ね殺す死ね死ね殺す死ね死ね死ね!!殺すッ!!死ねッ!!クソが!!クソがああああぁあああああああああああああ!!!!!!!!!』









終われッ!!!!









〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜








「……………チッ」



重い頭を持ち上げ、ベッドから降りる。寝相が悪かったのか、ベッドの下で掛け布団が揉みくちゃになっている。


なまりのように重たい体を引きずり、カーテンを開ける。容赦のない夏の朝日が俺の視界を真っ白に染めあげ、俺は敗残兵のような呻き声をあげてしまう。ちっとも爽やかでない目覚めだと言うのに、スズメたちは心地よさそうに囀りまくる。




クソみたいな夢を見てしまったものだ。これならまだ、みたらし団子に舌鼓を打つロリ狐が訳の分からんことをペラペラと喋り続ける夢の方が数倍マシだな。




「呼んだかの?」




振り返ると、遊女のようなはだけた着物を身に纏った狐耳の幼女が、9本の尻尾をワサワサと振りながら俺のベッドに腰掛けていた。



「呼んでない。帰れ。ベッドに座るな。毛がつく。エキノコックスが付着する」


「おお…寝起きの主様は随分と気が立っておるのう。あと、次抜かしよったら噛むぞ」


「噛むな。エキノコックスに感染する」


「神罰!!」


ミツキがクワッと口を開き、俺の腕に噛み付いてくる。神罰とは名ばかりの甘噛みじゃねぇか…


「むふ〜、ぬひひゃまのはひはふふのぬし様の味がするのじゃ〜ひゃ〜」


「おい馬鹿やめろ。口を離せ………おい!!舌を動かすな!!気持ち悪いぞ!!………やめろと言っているだろっ!!」


「きゃん!!!??」


ミツキの頭を思いっきりぶっ叩くと、ようやく甘噛みを中断する。いきなり現れるなり何がしたいんだこいつは。


「か弱き乙女の頭をはたくとは…ぬし様はとんでもなき男じゃのう。わらわは知っておるぞ。これはというヤツじゃろう?自分のつがいとなる女性を傷つけるという、なんとも罪深き行為なのじゃ」


頭をさすりながら目尻に涙を溜めたミツキが悪態をついてくる。


「抜かせぎつね。お前みたいなちんちくりんをつがいにした覚えなどない。さっさとそこをどけ。お前ら神ごときとは違って人間の朝は忙しいんだよ」


「化け狐だの神ごときだの散々言いよるのう。神を怒らせると後が怖いのじゃぞ?」


「ふん、天災など起こしてみろ。村人全員を集めて、お前を祀る神籬ひもろぎ糞尿こやしを投げつけさせて、高笑いしてやるぞ」


「やる事が小さい上にとうのぬし様は見ておるだけなのかの…」


「後が怖いからな」


「調子の良いヤツじゃ」


呆れ顔のミツキを引き剥がし、打刀・朧紫乃月を拾い上げてから洗面所へと向かう。冷水で乱雑に顔を洗い、歯を磨きながら寝癖を直す。


粗方身なりが整ったところで洗濯機を回し、台所へと場所を移す。バリスタを起動させ、カップを設置する。


「そやつはとやらを作るからくりとかの?」


「音もなく現れるな。心臓に悪い。…お前はコーヒーを知っているのか?」


「人の子らが嗜んでおるところは幾度となく見てきておるが、妾自身が口にした事はないのじゃ。漆黒の液体なんぞ、とても人類が口にするような物には見えぬがのう…」


「…あるフランスの政治家はコーヒーのことをこう評した。『カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い』…とな」


シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール。敏腕政治家にして天才外交官。そもそも俺は政治や外交の事などさっぱり分からないが、メートル法を提案したと言われているコイツはきっと凄い奴なのだろう。多分。知らんけども。


「ますます想像がつかなくなったのじゃが…」


「だろうな。コーヒーを飲んでいる俺からしてみても、変態の妄言にしか聞こえん。前の二つだけならまだしも、後の二つは理解に苦しむ」


タレーランはもしかすると、あのMAXコーヒーが世に送り出されることを予言していたのかもしれない。


昨日の夕飯の残りである白味噌汁を火にかける。汁が温まるまでの間に、ネギを切っておく。タンブラーグラスに牛乳を注いだところで、初めて炊飯器の蓋を開ける。


熱気を帯びた蒸気とともに、米の甘い香りが漂う。御飯茶碗に白米をよそい、一旦は食卓の上に置く。次いで、良い感じに温まった味噌汁も椀に装い、切っておいたネギを味噌汁にかける。


終いには、冷蔵庫から納豆を取り出しパックを開封する。


「むう!?主様よ!!もしかするとそれは納豆ではないかの!?」


無駄に偉そうな態度で椅子に座り、黙って俺の炊事を見ていたミツキだったが、俺が納豆を練り始めたところでいきなり水を差してくる。


「もしかしなくても納豆だ。食いたいのか?」


「戯け!!妾がそのようなものを口にするか!!」


醤油をかけ、食指を動かされる香りを放ち始めた納豆をパックからかき出すと、納豆は糸を引きながらボトボトと白米の上へ落ちていく。その光景はミツキにとってショッキングな物だったのか、「ひっ!?」という短い悲鳴をあげてる。


「きもっ!?ちょーきもいのじゃ!!そのような禍々まがまがしき物を食すなど、ぬし様は狂気に取り憑かれておるぞ!!」


「納豆は日本のソウルフードだぞ。日本の神がその納豆をこき下ろしてどうする」


戯言たわごとを抜かすでないぞ!!なにがじゃ!!事実じゃとしたら日本人の魂はけがれきっておるのじゃ!!どこからどう見ても腐っておるではないか!!」


「仮にもお前は五穀豊穣をつかさどる神だろ…大豆の神秘醗酵を腐敗と一緒くたにしてんじゃねぇぞ。神のくせに食わず嫌いすんな。つべこべ言わずに食ってみろ」


納豆を白米と共に箸で掴みあげミツキの方へと突き出してみると、ミツキの顔がみるみるうちに青ざめていく。


「なっ!?や、やめんか愚か者!!神への冒涜かの!?おい、糸を引いておるぞ!!きもいぞ!!ちょー美しくないのじゃ!!というかくさっ!?めっちゃ臭いのじゃ!?香りまで美しくないとは、もはや食物としての範疇を軽く逸脱しておるぞ!!」


「うるさいぞ。食事中に騒ぐな。幼狐ようこエキノコックス」


「誰が幼狐えきのこっくすじゃっ!!噛むぞ!!」


ミツキがクワッと口を開いて威嚇をしてきたので、彼女の口腔内に納豆かけ御飯をぶち込む。


「むぐっ!?んぐぅううう!!!??!んんんぅうううう!!!!!!…………あれ?普通に美味くね?」


「おい、口調が変わってるぞ」


納豆を咀嚼するミツキは「美味うまっ!!くさっ!?」と、笑顔と渋面のワルツを繰り広げ、9本の尻尾をフリフリと振ったり、ピタリと止めたりを繰り返している。まるでぶっ壊れたメトロノームのようで非常に滑稽である。


コイツが長きに渡って双神村の守護神をつとめてきたと思うと、なんとも言えない脱力感にさいなまれる。とりあえず葵にだけは絶対に伝えない方が良い気がしてきた。




朝食を取り終えた俺は、食器を食洗機にぶち込み、もう一度歯を磨きに台所へと向かう。


「また歯を磨くのかの?ぬし様は意外と几帳面じゃのう」


ふふへぇうるせぇははひほんはんはお歯は資本なんだよ


人が歯を磨いている時に話しかけるな馬鹿野郎。だいたい納豆を食って歯を磨かないとか口臭テロにしかならないぞ。


「『好きだ、お前だけを愛しているよ』…じゃと?むふ〜、朝から大胆じゃのう、ぬし様よ?それほどまでに強く求められては、流石の妾も照れてしまうのじゃ。…では、これから妾と共に寝床へ入り直すかの?妾は子孫繁栄を司っておるからのう…ぬし様の熱き欲望を受け止めるなぞ造作もなき事じゃ。にゃっはっはっはっは!!」


「……ほうほへひほほっふふ」


「誰が幼狐エキノコックスじゃっ!!噛むぞ!!」


ちゃんと聞き取れてるじゃねぇか。ぶっ飛ばすぞ。


十分に口をすすぎ、口の回りに歯磨き粉が付いていないか確認をしようとした時、ふと違和感を覚える。違和感の正体は程なくして判明した。


「ミツキ、お前は鏡に映らないのか?」


俺の隣には和装ロリ狐がチョコンと立っているのにも関わらず、鏡には俺しか映りこんでいなかった。


「むう?今の妾はぬし様にだけ見えるし、ぬし様だけが触れられるのじゃ。当然、声もぬし様にしか聞こえておらんよ。妾が鏡に映らんで当然じゃ」


「なるほど、全くわからん」


俺にだけコイツが存在しているように見えるという事か?人前でコイツと会話をしたら、確実に俺の精神になんらかの異常をきたしていると思われるだろうな。


ミツキをしげしげと見つめていると、ミツキは「?」という顔になり、狐耳をピコピコと動かす。ミツキの狐耳は立派な毛並をしており、すごくモフモフしていそうだ。



……………………。



なんとはなしにミツキの耳を弄り倒してみる。




「ぅんにゅう!?ぬししゃまぁ…しょこは妾の性感帯なのじゃぁ………んみゅぅ……ふわぁ…………あっ………んっ…………」




こ れ は い け な い 。




よだれを垂らしてアヘ顔を晒すロリ…という構図はあまりにもアウトすぎる。児ポ的なアレで。


とろけきった表情でその場に崩れるミツキを放置して、部屋へと戻る。1日全体で見てみればさほどタイトなスケジュールではないと言うのに、朝だけは無意識的に慌ただしくなってしまうのは何故なのだろうか。


寝巻きを脱ぎ捨て、黒の作務衣さむえに袖を通す。こいつもそれなりに草臥くたびれてきたな。こいつは作務衣でありながらも現代に寄せたデザインとなっており、お気に入りの一着ではある。しかし、ところどころほつれたような服を着て外を出歩けるほど無恥ではない。まあ今の所は恥をかくレベルにまでは至っていないので、年内は持ちこたえてくれるだろう。


残る装備を整え、台所へと戻るとバリスタが唸り声をあげており、コーヒーの芳醇な香りが充満している。


カップを手に取りチビチビとコーヒーを口に含んでみるが、別に天使のような純粋さなど毛ほども感じられないし、恋のような甘さもない。ブレンドの風味と、眠気覚ましに丁度良い苦味があるだけだ。


コーヒーを飲み終えカップを洗っていると、家の外から僅かな足音が聞こえてくる。


足音はこちらに近づいてきており、若い女の足音それだ。諫奈いさなか?


玄関へと向かい、ドアを開けてみるも、果たしてそこにいた人物は諫奈ではなかった。




俺の肩ほどまでの背丈せたけ


少しウェーブのかかった亜麻色の髪。


俺と同い年でありながらも、少し幼く見える童顔。


左目にあてがわれた眼帯。


白と黒が基調のやたらフリフリとした俗称『童貞を殺す服』を身に纏った少女……裁花たちばな はるかが、俺を見るなり嬉しそうにその右目を細める。




「やあ、詠水………久しぶりだね」


「…こちらから会いに行くつもりだったんだが、まさかお前の方から来るとはな」


「おや?どうやらボクは勿体無い事をしてしまったようだね。キミの方から会いに来てくれるという素敵イベントを逃してしまうとはね……でも、ボクはキミに逢いたくて仕方がなかったのさ」


そう言うなり、遙がふわりと俺に抱きついてくる。諫奈ほどではないが、葵とは比べ物にならない確かな弾力性を備えたソレが押し付けられる。


「当たっているぞ」


「当てているのさ」


「けしからん奴だ。続けろ」


「…詠水は出会った頃と比べて本当に遠慮がなくなったね。ボクとしては嬉しい限りだよ。ボクの心も体も、全てキミのモノだ。詠水が喜んでくれるのならば、それらは全てボクの悦びに繋がるのさ」


「よくもまあそんな歯の浮くようなセリフを真顔で言えるものだな」


「本心だからこそ言えてしまうのだよ」


「口の減らない奴だ」


不意に遙は言葉を切る。その隻眼を伏せ、背伸びをして俺に



…こうなると梃子てこでも動かなくなるからな、こいつは…



身長差を埋めるために、俺は僅かに姿勢を落とし彼女の要求に応える。


遙は貪るようにして俺の唇をついばみ、欲望のままに舌をねじ込んでくる。



「んっ…ふ………えい…すい…」



淫靡な水音を鳴らし、熱っぽい唾液と吐息を送りこんでくる彼女は、そのあどけなさの残る容姿には不釣り合いなほど妖艶だった。


彼女の両腕が俺の後頭部を掴んで離さず、俺の方からまぐわいを中断する事を物理的に許さない。



「……んっ……はぁっ!!」



ようやく唇を離した彼女は息えと言った様子で酸素を求める。深淵のように黒い彼女の瞳が僅かにうるおっているのは息苦しさゆえのものなのか、或いはもっと別の感情が起因となっているのか。


「…はぁ……はぁ………んっ……すまない…キミの意思もみ取らずに接吻を所望してしまった。キミと会えない期間が長いと、こうして再会した時にどうしても抑えられなくなってしまう……ボクは面倒臭い女だね」


「謝るなら最初からするな。それと、俺の知り合いから面倒臭くない女を探す方が困難だ」


「ふふ、それだけ詠水が寛容かんよう面倒見めんどうみが良いという事さ」


「他人事みたいに言いやがる」


「他人事だからね」


まったく、どこまでもマイペースな女だ。この村の若い女どもはもう少し大和撫子のなんたるかという物を学び直すべきだ。


「…遙、納豆臭くなかったか?」


「やれやれ…流石は詠水。ボクたちの熱烈な口付けが生み出した桃色空間を一瞬にして木っ端微塵してくれたね」


遙はふるふると首を横に振りながら「誠に遺憾だよ」と溢す。いや、いくら歯を磨いているとはいえ、納豆食った後って結構気にするだろ。口臭。


「安心したまえ。キミとの接吻はほのかにコーヒーの味がして、とても甘美なものだったよ。まるで天使のように純粋で…」


「恋のように甘い……ってか?」


「…これは驚いた。キミがタレーランを知っていたとはね」


「つい最近、話題に出たからな」


というか、ついさっきの話だ。


「おや…?そんな洒落た会話をするような女性が君の交友関係にいただろうか?」


勘の鋭い奴だ。こいつを嫁に貰った男は、浮気を隠し通せる確率が絶望的だろうな。まあ遙が誰かと結婚するなんて事は天地がひっくり返ってもあり得ない話だが。


「あえて腑に落ちない点をあげるならば、なぜ相手が女であると断定されているのだ」


「キミが同性と会話したのならば、コーヒーの話題へと行き着く前に、相手を怒らせて喧嘩になっているだろう」


「好き勝手言ってくれるじゃねぇか。昨日は普通に石光と会話できていたし、それは流石に言い過ぎだ」


「それは単純にりょうが人格者なだけさ。キミの理不尽な暴言を優しい笑顔で受け止めてくれる彼にはもっと感謝をすべきだよ」


ぐうの音も出ない程に、遙のおっしゃる事は正論だった。仕方ないだろ。あいつと喋ってるとイライラしてくるんだよ。別に何かされたわけではないけども。イケメンだから腹が立つんだよ。別に石光は悪くないけども。




完全に俺が悪くて草。




「ところで、呼び鈴を鳴らす前にキミがお出迎えしてくれたわけだが、格好からしてこれから『通わせ』に行くつもりだったのかい?もしそうだったのならば日を改めた方が良さそうだね」


口では事も無げにそう言った遙ではあるが、少し寂しげな表情をしている。


葵や石光を始めとした他の同級生たちは、基本的に遙は無表情で何を考えているか分からないとよく言うが、遙は表情の変化が小さいだけで別に無表情というわけではない。まあコイツといる時間が長いヤツにしか分からない程に、微々たる変化なのかもしれない。


「いや、菓子でも買ってお前の家に行くつもりだったから仕事はもう少し後でも良い」


あまり遅くなると葵が涙目になるが、根拠0%のいろはの発言によれば葵はドMらしいので、放置プレイも甘んじて受け入れてくれる事だろう。


「それは素晴らしいプランだ。『みちくさ茶屋』に連れていってくれるのかい?」


「ああ、俺は独身貴族だからな。金だけは腐るほど持て余している。遠慮は無用だ。なんでも買ってやる」


今、洗面所の方からガタッという、幼狐が跳び起きるような音が聞こえた気がしたが、特に気にしない事にした。


「…キミは絶妙なタイミングでを見せてくるからね。女をとりこにする腕は一級品だよ」


「抜かせ。を振るった事など一度もないぞ」


「よく言ったものだね。キミは葵が相手だとムチ9割、アメ1割じゃないか」


「馬鹿野郎。葵にアメなんぞ与えるか。ギリギリまで期待させてから、目の前で粉々にするに決まっている」


「そこまでいくともはやサイコパスだね……いや、好きな女の子ほどイジメてしまうのは男の子ならば至極当然な心理現象か。ツンデレ免許皆伝のキミともなれば尚更かもしれないね」


「……気が変わった。甘味処は無しだ」


「おおっと、それは愚策というものだ。ボクの好感度が120下がると同時に、他のヒロインの好感度も20下がるよ?」


いつから双神村はギャルゲーの世界になったんだ…


「噂の流布るふは反則だぞ。というか120は下がりすぎだろ」


「安心したまえ。ボクが持っている詠水への好感度は1秒間に3000近く上がっているからね。120なんて大した数字ではないさ」


「インフレが激しいな。尺度が全く見えないんだが」


「好感度1000で『柳包み』を渡すレベルだね。好感度2000でキミはヒロインに愛され過ぎて殺されるだろう。ちなみにボクの好感度は既にオーバーフローを起こし、もはや悟りの境地に到達している。キミの事があまりにも好き過ぎて逆に冷静でいられる状態だよ」


最終的に殺されるとか随分と物騒な数字だな。上げない方が良いじゃねぇか。オーバーフローの下りは意味不明すぎるのでスルー安定。そんな簡単に悟りを開けるのなら医者なんか目指してないで開教した方が良いだろうよ。


遙は再び小さく笑うと、俺の袖をクイクイと引っ張ってくる。彼女の童顔もあいまって、こちらを見上げる遙は移動販売車のたい焼きを要求する童女のようにも見える。


「さて、貴重なキミとの時間をこんなくだらない会話で消費してしまうのは本意ではない。早くボクをデートへ連れて行ってくれないか?」


「ふん、そもそも人間がする会話の9割はくだらない内容だろ。……行くか」


靴を履き終えた俺は遙と共にに外へ出る。早朝だと言うのにも関わらず、既にだるような熱気が澄み渡った外気を支配しており、暑苦しさを感じる。


そんな中、遙は涼しげな表情でそっと右目を伏せ、数多の樹木によって浄化された空気を大きく吸い込む。


「こうして木々に囲まれた道を歩いていると、愛すべき故郷に帰ってきたという実感が湧いてくるね」


「ふん、すっかり都会の色に染まったみたいな口ぶりだな」


「ふふ、岐阜は別に都会ではないよ。ここが田舎すぎるだけさ」


「村の外での生活なんて想像もつかんな」


「住めば都…とまでは行かないにしても、3年も一人暮らしを続けていれば慣れるものさ。この村には無い魅力も山ほどあるしね」


「まあこっちには大した娯楽も無いからな。どこと比較しても双神村ここは最弱クラスだろ」


「そんな事はないさ。やはり居心地が良いのはダントツでこの村だからね。それに、人間は自分が生まれ育った地でその生涯を終えるべきだとボクは思っているしね」


「お前がアホみたいなしきたりや風習が多いこの村に、それほど思い入れがあったとは意外だな」


「ふふ、アホみたいなしきたりだなんて物言いをしては、倣神野の関係者はさぞや憤慨する事だろうね。早い話、ボクがこの村を愛してやまないのは、何よりキミと共に居られるからさ」


そこで言葉を切った遙が俺を見上げてくる。俺を縫い付けるかの如くその右目で見つめてくる。


「…この村にいるのは何も俺だけではない。葵や他の連中はに含まれていないのか?」


「もちろん、葵や諫奈…いや、もう姫女ひいなさまと呼ぶべきだね。葵や姫女様を始めとした他の村人たちが居るからこそ、双神村は双神村でいられるのだろう。だが、彼ら彼女らはボクの心を満たす存在ではない」



こちらから視線を外さない、遙の瞳。どこまでも深く、どこまでも黒く、どこまでもくらい右眼。



「ボクの心を満たしてくれるのは詠水だけだ。ボクの心を埋めてくれるのは詠水だけだ。ボクの心の支えになっているのは詠水だけだ。キミが居てくれれば、ボクはそれだけで良い。ボクはキミに愛されなくても良い。ボクがキミを愛する事を許してくれれば、それだけで良い。……ボクはどうしようもなくキミに依存しているのさ」


「…何度も言ってきているが、俺がお前を拒む事はない。だが、決して信用はしないし、特別視もしない。それだけは覚えておけ」



途端、遙はふるると身震いをすると、俺の腕へと絡みついてくる。



彼女はどこまでも恍惚こうこつとした表情をしていた。



「構わない。十分すぎるよ。ボクを拒まないというキミの言葉だけで、ボクは無限の活力源を得る事ができる。キミからの愛など求めてはいないさ。そのあまりにも強く、あまりにも大きすぎる幸福はボクの許容限界キャパシティを優に超えてしまっている。そんなものを受け取った日には、ボクは完全に壊れきってしまうだろう」


「抜かせ。とうの昔に壊れているだろ……お前も、俺も」



俺の腕を抱きしめる少女の両腕が、僅かに強張こわばる。



「…それは、悲観すべき事なのだろうか?」


「知らん。壊れていようと、壊れていまいと、俺にはどうでも良い事だ。壊れていようが何だろうが、生きていればそれで良い。壊れてしまっているのならば……それに見合った生き方をすれば良いだけの事だ」



遙は嬉しいそうに微笑を浮かべると、更に強く抱きついてくる。



「…相変わらずキミの『優しさ』というものは非常に分かりにくいね。それはボクがキミを愛しても構わない…という発言と捉えても良いのかな?ふふ…愛おしいよ。素直じゃないキミが、優しいキミが、自分を探し続けるキミが……キミの全てが愛おしい。好きだ、詠水。狂おしい程にキミが好きだ。ボクはどうしようもなくキミに溺れているというのに、酸素すらもキミから求めようとしている。キミが居ないとボクは生きていけない」


そこまで言うと、遙は満足したのか俺の腕に頰を寄せる。




歩幅の違う二人が密着して歩いているせいか、俺たちの足取りはどことなくぎこちない。




だが、歩幅はたがえど俺と遙は本質的に同じなのかもしれない。





己を誤魔化し、己を直視できて……





「………くだらない」


「……?急にどうしたんだい?」


「間違ってなどいないのだ。生きる事以上に、正しい事などない。誰よりも強くある事以上に、理にかなった事などない」



遙は遮る雲なき蒼い空を見上げると「そうか」とだけ小さく呟く。



その表情はどこか寂しげに見えた。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





道中、世話焼きなババアどもや無駄に元気な子供たちに絡まれながらも『みちくさ茶屋』へとたどり着く。2日連続でここへ来るような事は初めてかもしれないな。遙とともに暖簾をくぐると、和服の上からエプロンをかけた少女…甘桜あまざくら香乃子かのこが俺たちの来訪に気づく。



「いらしゃいませ……あれ、遙さんですか?お久しぶりですね」


「やあ。君は会う度に綺麗になっていくね、甘桜あまざくら。女として嫉妬してしまうよ」


「もう…おだてても何も出ませんよ。遙さんも可愛いくて大人っぽいと、女の子の間では評判なんですよ」


おい、来て早々にガールズトークを始めるな。俺の気持ちも考えろ。


俺があからさまに居心地の悪そうな態度をとると、香乃子は目敏めざとくそれに気づき、こちらへと視線を移す。…こいつを合コンに参加させたらその卓越した気配きくばりスキルで、他の女との圧倒的な力量差を見せつけてくれる事だろう。まあ双神村に合コンなんてものは存在しないが。


「つづり……あっ。………ぇ、ぇ、ぇぃ…えいしゅいしゃんもいらしゃいませっ!!」


香乃子は顔を真っ赤にして俺の名前を盛大に噛む。さっきまでの余裕は一体どこへ行ってしまったんだ。


「…言いにくいのならば賜名に戻してくれて構わんぞ」


「あ、いえ!!言い難いなんて事はありませんよ。今後も詠水さんと呼ばせていただきます。…詠水さんが私の初めてですからね」


香乃子は爆弾を落とすだけ落として、またして顔を赤くして下を向いてしまう。言葉を選べ馬鹿野郎。もしかしなくてもわざとやってるだろ。


「おや?おやおや?ほほう…これはこれは…素晴らしいじゃないか」


…言わんこっちゃない。面倒臭い奴が嗅ぎつけやがったぞ。


「いやいや、恐れ入ったよ詠水。ボクの居ない間にまたしても純情な乙女を攻略してしまうとはね。しかも相手は攻略難度Sの甘桜だ。…いや、ガードが堅い分、彼女は不意打ちには弱いのかもしれない。きっとキミの天然ジゴロスキルがクリティカルヒットしたのだろうね」


「な、何を仰っているのですか!?私とつづ…詠水さんはそんな関係ではありませんよ!!」


ゆでダコの如く赤面させた香乃子はブンブンと手を振り否定をする。あの遙を口で納得させるには、言葉が少なすぎるぞ。


「恥じる事はないよ。詠水の魅力が分かる女性に悪い人などいない。君とは良い交友関係を築けそうだ。どうだい?幸いな事にこの村は重婚が認められている。共に詠水の嫁になるつもりはないかい?」


満足げな表情で提案をする遙。その提案に俺の意思は必要ないのか?おい。


「え、詠水さんのお嫁に……ですか……」


香乃子はチラチラとこちらを見てきたかと思うと、頰を紅潮させて目を逸らしてくる。そんなチープな煽りで揺らぐな阿呆。


「お前が嫁入りしたらこの店は終わりだぞ。遙もいつまでも巫山戯ふざけてないで、さっさと食いたいもんを選べ」


「そうだね、キミの機嫌を損ねてしまっては元も子もない。ふむ、こうも沢山並んでいると悩まざるを得ないね」


遙はむむむと呻き声を上げならカウンター下のショーウィンドウを覗き込む。普段は大人びた雰囲気を醸し出しているおかげで相殺されているが、こうしているとその幼い顔立ち故の子供らしさが滲み出ている。とても俺と同級生には見えないし、一個下の香乃子の方が遙よりもよっぽど大人びて見える。


「遙さんは、岐阜あちらでもこうして甘味をお召し上がりになられるのでしょうか?」


「そうだね…アルバイトで稼いだお金でしかそういった物は買えないから頻繁に…とまではいかないけど、よく友達と一緒に名古屋まで足を運び、『スイーツキングダム』で舌鼓をうっているよ」


「すいーつきんぐだむ……ですか?」


「その様子だと、御存知ではないようだね。スイーツキングダムは正にスイーツの王国さ。1500円程でありとあらゆる種類のスイーツが食べ放題、そして飲み放題なのさ。ケーキ、スフレ、ムース、チョコ、シュー、クレープ、パイ、プリン……数えるのも一苦労だ。ボクのおすすめはストローベリームースだね。とにかく、女の子なら夢のような世界だよ」


すげぇなスイーツキングダム。もはや体重を気にし始める年頃の女どもを、無慈悲に虐殺する為の施設じゃねぇか。


「ふわぁ……素敵ですねっ!!都会ってすごいですね…とても憧れますっ!!」


話を聞いていた香乃子は目をキラキラと輝かせる。こう言うのを典型的な田舎者と呼ぶのだろうな…


「そんなに物欲しそうな顔をするなら、一度行ってみれば良いだろ。この店も最近は洋菓子にも力を入れているのだろう?一度は村の外で食べてみるのもいい勉強になるんじゃないのか?」


「キミもたまにはいい事を言うじゃないか。ボクも一度足を運んでみる事を推奨するよ、甘桜」


俺と遙がそう提案するも、香乃子は少し残念そうな表情で苦言を呈する。


「そうしたいのは山々ですが、名古屋ともなると少し遠いですからね。毎日厨房に立っていて、休日にゆっくり休んでいるお父さんに無理を言うのも気が引けますし、電車で行くとなるとお金もかかります。そもそも最寄り駅まで行くのに車が要りますしね…私には少し敷居が高いです」


香乃子は見た目通り、とても家族想いな性格をしているようだ。少しこくな事をしてしまっただろうか。


「…ここから名古屋まで、高速道路を使えば2時間半もかからないだろ。なにも車を運転できるのはお前の親父さんだけじゃないんだ。………適当な日を見つけて暇を作っておけ」


「え?その……えっと………?」


香乃子はキョトンとした顔で首を傾げる。


一方で、何故か感極まった表情で遙が拍手をし始めた。


「素晴らしいよ、甘桜。君は今、これまで炸裂してきた中でもかなりレアな『詠水ツンデレ砲』を食らったのさ。これは中々お目にかかれないよ。さすがは双神村のアイドルと言ったところかな?もっと誇りに思いたまえ。これは3年に一度というレベルだよ」


「………はい?」


「詠水は君に、村の外でのデートのお誘いをしたのさ」


「デート…ですか。詠水さんが私にデートを……ふぇええええええええぇぇぇえええ!!!??!??!???!??」


香乃子が唐突に絶叫した為、座敷で甘味を食べていた客が何事かとこちらを見てくる。ああクッソ、耳が痛てぇ…


「そそそそんなっ!?デート!?詠水さんが!?私と!?デートですか!!?むむむ無理ですよそんな!!駄目ですよ私なんかがそんなっ!!」


香乃子が目をグルグルと回しながら早口でまくし立てる。


「おおっと、それは愚かな選択というものだよ。スイーツを嗜むどころか、人知れず詠水とイチャイチャできるという、そんな素敵イベントを回避してしまうのは愚昧以外の何物でもない。これを断ったら……分かっているね?君には払拭する事のできない後悔というもの味ってもらうよ。精神的にも…肉体的にもね……」


遙から禍々しいオーラが漂い始める。なんでお前が感情的になってんだよ。だいたいイチャイチャなどせんわ。連れていってやるとだけ言ったんだぞ俺は。


「あぅぅ……はい………喜んでお受けします………次の日曜日でお願いします………」


「うむ、いいだろう」


遙が腕を組み、満足げに頷く。なんでお前が返事してんだよ。何様だよお前。


「うわぁ……服とかどうしよう?お化粧とかもした方が良いのかな?ぁぁぁぁ…こんなの初めてでどうしたら良いのか分からないよ…」


両手を頰に当て、ブンブンと顔を横に振りながら香乃子がぶつぶつと呟く。悪いがそれ、全部聞こえてるぞ。


「詠水ソムリエのボクから言わせて貰えば、詠水はあまり化粧を好まない。普段より少し、女らしく見える程度の薄化粧で良いだろう。君は元々が可愛いからね。服についてはボクがサイズを間違えて注文してしまったのがいくつかあるから、それを君に譲るよ。まあともあれ、相手は唐変木の詠水だ。そのまま夜の街へ突入できるよう健闘を祈らせてもらうよ」


遙がひっそりと香乃子に耳打ちをすると、またしても香乃子は顔を真っ赤にする。悪いがそれ、全部聞こえてるぞ。


「さて、十分に面白い物が見られて大満足だよ。ボクもそろそろ菓子の甘い香りに耐えられなくなってきた。このモンブランを頂こうかな」


「あっ、はい。かしこまりました。え、詠水さんはいかがなさいましゅかっ!?」


「鹿の子が欲しい」




あ、やべ。普通にミスった。




「…ふぇ?あ………え?え?あ……ふにゃぁあああああぁぁぁああ!!!??!!??」


「……詠水。キミ、実はわざとやっているんじゃないのか?」


これには流石の遙も呆れ顔だった。


「悪い。我ながら今のは酷いと思った。…鹿の子餅が欲しいと言ったんだ」


パニック状態だった香乃子がようやく理解すると、死ぬほど恥ずかしいといった表情でショーウィンドウからモンブランと鹿の子餅を取り出す。


「早とちりをしてしまい申し訳ございませんでした…合計で1,120円です。お持ち帰りでよろしかったですか?」


「ああ」


俺はポケットから千円札を二枚取り出し、トレイの上に乗せる。


「釣りは要らん。仕事終わりに好きなもんでも買ってこい」


「そんな!?申し訳ないですよ!!」


「詠水がそう言っているんだ。受け取った方が良いだろう。詠水は小銭を持って歩くのは好きじゃないからね」


「ああ、チャリチャリとうるさいからな」


「いい加減に財布を使えよとは思うけどね」


「金を入れるための道具に金を払う意味が分からない。ポケットで充分だ」


「変な所で頑固だね。さぞや伴侶となる女性は苦労を強いられる事だろうね」


「俺は嫁も子供も作らん」


「ふふ、結婚しないと言い張る男ほど、将来的には良きパパになるものだよ」


本当に口の減らない女だ。あの葵以上に売り言葉に買い言葉だからな。



頭の悪そうな議論を遙と繰り広げていると、モンブランと鹿の子を持ち帰りの箱に入れながら聞いていた香乃子がクスクスと笑いだす。


「…おい、笑うな」


「ごめんなさい、私の知らない詠水さんが見られたものでしたから……遙さんは詠水さんの事をよくご存知なのですね」



「そんな事はないよ」



甘味の入った箱を受け取った遙が口を開く。




「ボクは詠水の事などほんの一部分しか知らないよ。ボクはただ、詠水の事を知ったでいるだけさ。それが人間というものだよ。君同様に、ボクが知らない詠水だなんてたくさんあるのさ。ふふ…とても有意義な時間だったよ、甘桜。ボクは君の事がとても気に入った。また今度ゆっくりと話たいね。詠水とのデートの報告はちゃんとしてもらうよ?」



それだけ言うと遙はくるりと振り返り、俺の袖をクイクイと引っ張る。わずかに遅れて聞こえてくる「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」という定型文を背に、俺たちは再び外へと繰り出す。


家を出た時と比べて既に日は高く昇っており、空気を読まない蝉たちが大合唱を繰り広げている。



遙は何も言わず、箱を持っていない方の手で俺の手を握り、俺の指と指の間に己の指を絡ませる。








逃げ場のない熱気だけが自己主張を強めるこの真夏日に、遙の右手だけは少しばかりんやりとしていた。






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