夜に紛れた愛しい嘘は、どこまでも儚く弱々しく。

私はこの世に生を受けたときより『異質』でした。




当時は記憶を持つことなど難しいはずなのに、まるで海馬にこびりついているかのように、今でもはっきりと覚えています。


私が生まれ落ちた時の、両親の感情。


驚愕、落胆、絶望…



おそらく私がな新生児でなかった事に対する感情でしょう。





私は生まれつき、他人の感情の変化を感じ取ることができました。



それは色、温度、形、大きさ、音、匂い……その全てに当てはまらない、不思議な感覚でありながらも、私には余すことなく正確に伝わってくるのです。



両親は私の先天性白皮症アルビノについて「他の子と違っても気にすることはない」と言ってくれました。



『嘘をついた時の感情』が私に流れ込みました。



ですが、それは私の両親の性格が悪いわけではないという事はすぐにわかりました。



人間というものは簡単に嘘をく生き物だという事に気づくまで、それほど時間はかかりませんでした。




6歳の時、両親が小学校には行きなさいと強く勧めてきました。嫌な未来を予想しつつも、日に焼けないよう長袖と長ズボン身につけ、つばの大きい帽子を目深に被り、サングラスをかけ、日傘を差して登校をしました。





あの日の事は絶対に忘れられません。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜







「おい…あれ、うわさの白女しろおんなやぞ」


「俺初めて見たわ」


「サングラスに日傘までしとるぜ」


「なにあのダッセー帽子」


「なんか日に当たると死ぬんやって」


「それってやつと一緒やん!!」


「あ、俺も聞いたことある!!あいつ神様に呪われとるから白いんやってさ!!」


「うわあ、触ったら俺らまで呪われるやん!!」


「でもあいつランドセルしょっとるよ?」


「このままやと学校ごと呪われるやん!!」


3人の男の子が私を指差して何か騒いでる。年上なのかな?みんな私より全然大きい。


みんなからは『きもちわるい』『きらい』って気持ちがすごく伝わってくる。この感じ、本当に嫌だな…学校でもみんなにそう思われるのかな…?





腕に何かが当たった。





「いたっ!?なに!?」




ころりと、私の足元にが転がる。私の腕がジンジンと痛む。



石が…飛んできた…?




「来んなよ!!白女!!」


「呪い持ってくんなよ!!死ねよ化物!!」


「呪いなんか死んでまえ!!白女!!」



男の子たちが一斉に石を投げてくる。私は両手で頭を隠してその場でしゃがむ。



石といっしょに『きもちわるい』『こわい』『しね』って気持ちが飛んでくる。痛くて、辛くて、私はそのまま泣いてしまう。





…知ってた。最初から分かってた。こうなる事くらい……だから嫌だって言ったのに。






涙が止まらない。サングラスがベタベタに濡れて何も見えなくなる。




日傘で石から私を守れるかもしれない。だけど、お母さんが買ってくれた大切な日傘を壊したくない。






助けて…もう嫌だ……誰か助けて………








「……つまんねぇの。そういうつまんねぇの、ぼくのいないところでやれよ。だから弱いやつは頭悪いし、ムカつくんだよ」







私の後ろから新しい声が聞こえる。今までなかった『つまらない』『むかつく』という気持ちも、後ろから飛んでくる。




石がぴたりと飛んでこなくなった。




「おい…あいつ、1年生の…あ、もう2年生か。2年生のヤバい奴じゃね?」


「あいつ『地獄耳のツヅリビ』やん!!」


「それ5年生の骨折ったやつやろ?あいつなん?」


竹刀しないもってるし間違いないやろ」



前にいる3人の男の子たちから、後ろにいる新しい男の子に向かって『どうしよう』『こわい』という気持ちが飛んでいく。誰なんだろう?じごくみみのつづりび?


サングラスをごしごしと拭いて、後ろを振り返る。



黒いランドセルを背負って、長い棒みたいなものを持った男の子が眠そうな顔をして立っていた。『ねむい』という気持ちがすごく伝わってくる。


「おい、2年生。そいつ呪われとるで触んなよ」


「というか、お前ツヅリビなんやろ?強いんやろ?その白女ぶっ殺してくれよ」


「そうやそうや、お前白女倒したらになれるねけ!!」


男の子たちがこのツヅリビくん?を仲間にしようとしている。どうしよう、この棒で叩かれるの、すごく怖い…



ツヅリビくんが男の子たちに飛ばしている『つまらない』『むかつく』という気持ちがもっと強くなる。


ツヅリビくんは私の近くにちらばっている石を拾う。棒じゃなくてまた石を投げられるのかな…



「なに?この女は呪われてんの?だから石投げてたの?」



ツヅリビくんが男の子たちに訊く。



「そうやさ!!やでお前もしろよ!!」


「そんな白女に近いと呪いがつくぞ!!こっち来いよ!!」




早くおとなの人が来てくれないかな。お父さん、お母さん…助けて…




「へぇ…そうなんだ」



ツヅリビくんはしげしげと石を見つめると、いきなりその石を投げた。



「っつ!?いってぇえええええええ!!!!!!」


「おい、リュージ!!大丈夫かよ!?」


「おいツヅリビ!!いきなり何すんだよ!!白女に投げろよ!!」


「ふざけんなよお前!!なんで俺に投げるんやさ!!」



私は突然の事に何も言えなかった。



「…ムカつく…ほんとムカつく。よわい奴が集まって、よわい奴いじめてんじゃねぇよ。自分が石投げられて怒るくせに、に石投げてんじゃねぇよ。よわい奴は外でえらそうにしてないで、お家でママのおっぱいでも吸ってろ、馬鹿が」


ツヅリビくんはそれだけ言うと、学校に向かって歩き出してしまう。また『ねむい』という気持ちが飛んでくる。


「おい…2年生がチョーシのんなよ!!」


「リュージ、やめとけって!!あいつめちゃくちゃ剣強いんやぞ!?」


「うるせぇさ!!なんでお前らそんなビビっとるんや!!俺たち4年生やぞ?3人もおったら勝てるに決まっとるやろ!!」


リュージという子がツヅリビくんに向かって石を投げ始める。他の2人も慌てて投げ始める。


でも、石はツヅリビくんに当たらない。ツヅリビくんは少し体を動かしているだけなのに、全然当たらない。



「はぁ…めんどうくさ。父ちゃんの言ってた『弱いやつは頭が悪い』っての、よくわかったよ」



そう呟いたツヅリビくんは、もうそこにはいなかった。




すごく、はやかった。




気がつけばもうツヅリビくんはリュージって子の前にいる。まばたきをする間もなく、リュージって子はツヅリビくんお腹を蹴られて後ろにとんでいく。


他の2人が持っていた石でツヅリビくんを殴ろうとするけど、その前にツヅリビくんが持っていた棒で2人の頭を叩いていく。




ツヅリビくんはすごく強かった。




ツヅリビくんは私の事を振り返ることなく、そのまま行ってしまいそうになる。ちゃんとありがとうって言わなきゃ…



「あ…あの……」



勇気を出してツヅリビくんに声をかけようとした。でも、すごく小さな声しか出なかった。これじゃ聞こえない。



「…ん?」



聞こえると思っていなかったのに、ツヅリビくんにはちゃんと聞こえていた。こんなに離れているのにすごいな…耳がいいのかな?



「助けてくれて……ありがとう」



助けてくれて、本当に嬉しかった。



「……お前が勝手に助かっただけじゃん。ぼくはよわい奴が嫌いなんだよ。あのまま石を投げられてても、自分でなんとかできないお前が悪いんだぞ」




ツヅリビくんは顔も向けずにそう言うと、すぐに行ってしまった。








でも、私はしっかりと受け取った。








出会ってから初めて、彼がいたを。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜







「…この道を歩いていると思い出しますね」



誰に語りかけるわけでもなく、独り言ちる。独りでいる時間が多いと、どうしても独り言が多くなってしまうものなのでしょうか?


決していい思い出ではありません。むしろ最悪な思い出です。私が日中に外に出なくなったのは、あの日を境にしての事ですし…


ふと、これ以上の思考を遮るように私は目を伏せる。心地よい夏の虫たちの声が聞こえてきます。



「とても心が落ち着きます…」



ただし、これがヒグラシだと哀愁の色が少し強くなってしまいますが…




伏せていた目をゆっくりと開くと、道の先で誰かが畦道にしゃがみ込んでいます。こんな時間に一体何をしているのでしょうか?


近くまで行くと、その方は何やら色々な物を身につけた殿方で、路傍に咲いた一輪の白い花を覗きこんでいます。一見、細身の男性に見えましたが、半袖から覗く両腕にはガッシリとした筋肉がついてます。


彼からは『好奇心』や『美しい』といった感情がひしひしと伝わってきます。お花がお好きなのでしょうか?それにしても、あの花はもしかして…




「見たことの無い花だな……見た目良し匂い良しとは上等じゃないか」




あの美しい花弁、間違いありません。




あの日から10年ほど経った今でも、家族以外の人と話すのは抵抗を覚えます。ですが、これほど珍しい花を前にして何も喋らないとなると、なんだかウズウズしてしまいます。どうしてもその花について語りたがる自分がいます。これほどお花が好きだったとは、自分でも驚きます。





月下美人げっかびじん……年に一度だけ、人知れずその花を夜に咲かせます。とても美しく、とても儚いお花です」





意を決して私が声をかけると、男の人からは「驚愕」と尋常ではない「焦り」の感情が伝わってきます。悪い事をしてしまいましたね…



男の人がこちらを振り返る。



さてはて、大人になった今、私はどんな感情を向けられるのでしょうか…





『美しい』





「…こんな時間に女ひとりでうろつくとは、まるで危機管理がなっていないな」



その感情は押しとどめられるかのようにして、すぐに霧散してしまいました。しかし、一瞬とは言え、しっかりと感じ取りました。



『嫌悪』でも『不吉』でも『不快』でもありません。ただ『美しい』とだけ。



私は動揺のあまり、目を見開いてしまいます。彼からは少しばかり『疑い』の念が伝わってきます。怪しまれてしまいました。すごく警戒心の強い方ですね。私が言えた事ではないでしょうが…



「…驚かないのですね」


私は誤魔化すようにしてそう彼に投げかけます。


「は?いきなり背後を取られたら驚くに決まっているだろ」


やはりいきなり後ろから声をかけたのは良くなかったみたいですね。


「急に声をおかけしてしまった事につきましては申し訳ございませんでした。でも、今の驚かなかったのかと言う質問は『私の容姿に』驚かなかったのか、という意味合いを持たせたつもりです。言葉が足りませんでしたね」


「随分と異質な奴がいるなとは思ったが、取り敢えず人間で安心した。熊だったら少なからず肝を冷やしていたところだ」



………熊?



「何故ここで熊という単語が出てくるのでしょうか?」


「なんだ、お前のところには連絡が行っていないのか。熊の目撃情報が出たらしい」


先週も熊が出たという広報がかかってましたね。


「…露ほども知りませんでした。広報はかかっていなかったように思えますが…」


「機器の調子が悪いらしい。分家の連中が甲斐甲斐しく一軒一軒まわって呼びかけているらしい」


「そうだったのですか…では、早めに帰らなくてはいけないですね。教えてくださりありがとうございました」



私はできるだけ丁寧にお辞儀をする。とにかくこの場を離れられる流れをつくりたいです。分家の連中…と、彼は他人ごとのように言っていましたが、この方は一体こんな時間に何をしているのでしょうか?



「…お前は何故こんな時間に歩き回っていたんだ?」



先に聞かれてしまいました…



「目的のあるものではございません。ただの散歩にございます。日が落ちてからこの畦道を歩くのが私の習慣です。あなたは何故このような時間に?」


「ただの仕事帰りだ」


そんなにたくさんの武器を身につけて、一体どんなお仕事なのでしょうか?帯刀しているといったら、やはり倣神野分家の人…という印象がとても強いです。


「とても重装備をしていらしてますが、倣神野の方でしょうか?」



彼は訝しむような表情を見せる。彼はまたしても私に『疑い』の感情を持つ。ちなみに彼からは出会った時からずっと『警戒心』を感じています。それは私だけに向けられたものではなく、360°全方位に絶え間なく向けられています。これは職業柄に起因するものなのでしょうか?それとも、私のようにこの人も…



「俺は『通わせ人』だ。人によっては分家の連中と同一視する輩もいるが、俺は倣神野の人間でも神繋の人間でもない」







第五十四代目『通わせ人』・綴火つづりび詠水えいすい






あなたが…あの時の……





いえ、あなたは憶えていないのかもしれませんね。当時のあなたにとって、あの出来事はそれほど大したものではなかったのかもしれませんね。





なぜなら、きっと綴火様は……





「通わせ人…という事は、貴方は綴火つづりび様ですか?馴れ馴れしい口を聞いてしまい申し訳ございませんでした」




綴火様はあの頃と比べて、とても大きく、とても逞しくなられましたね。




どうしてもあの日の事を思い出してしまい、ごちゃ混ぜになった感情が溢れ出してしまいます。それを隠すように、またしても私は深く深くお辞儀をする。




「大袈裟だな。別にそこまで馴れ馴れしい語調でもなかっただろ。それに、見た感じ俺とそれほど変わらないように思えるが?」


「綴火様は神繋の巫女様と同い年にあられますよね?私は今年で17歳なので、綴火様のひとつ下にございます」


「…お前は学校には通っていなかったのか?」



やはり、綴火様はあの日の事を憶えていないようです。あの時すごく眠そうにしていましたしね。綴火様は朝に弱いのでしょうか?



「はい。日光を避けながら学校生活を送るのは現実的ではありませんし、何より私の容姿は他の子供たちに不快感を与えてしまいますからね」



これは嘘にはならないです。実際、あの日はそのまま家にUターンし、二度とランドセルを背負う事はありませんでしたから。



「お前のそれは先天性白皮症アルビノか」


「ご明察の通りです。別に病弱というわけではありませんが、私の肌は日光に弱いですし、日中に外に出ると光が眩しくて何も見えなくなってしまいます」


「…ただ外へ出るのに一苦労を強いられるというだけで、倣神野の人間にされるもんなのか?」


「父が私の分の税を滞りなく納めてくださっているので『贄』にされるような事は無いと思います。しかしながら、良い印象をお持ちでない事は確かでしょう。私は穀潰し・・・の身でありますから」



生産性のない人間は住まう価値など無いとされるのが、この村の常ですからね。



「サングラスやUVカッターなどを用いれば、対策としては十分じゃないのか?」


「もちろん、それらは効果的な紫外線対策になります。ですが一番の対策は、やはりできるだけ日光に暴露されないことです。日中、外に出ないだけでも発がん率は段違いに変わってきます。…何も役に立てていない私が早死にしたくないと思うのは、些か虫が良すぎる話かもしれませんね。私を見捨てる事なく養ってくれている両親には頭があがりません」



当然、私が避けているのは日光だけではありません。あらゆる異常を抱えた私が、外の世界と調和を成すことができないのは、私の甘えもあるのかもしれません。ですが、私にはどうしようもない事に見えて仕方がないのです。



私は綴火様のすぐ傍まで近づき、優雅に花弁を開いた月下美人を覗き込むようにしゃがみます。



「先ほど月下美人は年に一度しか咲かないと言いましたが、環境によっては2、3回は開花することもあります。逆に、養分が足りていなければ一度も開花させない事もあります」


「随分と難儀な花だな」


「そうですね。それ故に『儚い美』という花言葉を与えられたのでしょう」


そっと月下美人を触れてみると、僅かに揺れたこのから優しい香りが漂います。


「人知れず咲き誇るこのは、その美しい花弁と芳しい香りで私たちをここへ呼び寄せたのかもしれませんね。こうして綴火様と月下美人に出会った奇跡に、どことなく必然性のようなものを感じずにはいられません」




これはきっと偶然などでありません。またこうして同じ畦道で、あなたと出会いました。しかし、今回は石が飛んでくることなどなく、綺麗なお花をあなたと共に愛でる事ができます。




「…ここにつどったのが俺たち二人だけだったならば、随分と秀逸かつ詩的な感想になっていただろうな」


「……?」



綴火様のおっしゃる事の真意を測りかね、つい表情に出してしまいます。



「情緒もヘッタクレもないお客様がいらしたみたいだ。花をでに来たわけではないだろうよ」



綴火様が顎で畦道の先を指し示すと同時に、その方向に向けて綴火様からは『おろか者が』『帰れ』『虚しい』という感情が飛んでいきます。




黒い体に三日月のような白の首。




ツキノワグマです。




「ッッッ!!!!???」



私は綴火様にしがみつく。



「うおっ!?」




綴火様が驚きの声をあげると、熊も驚いたようにしてこちらへ向かって走ってくる。




『殺される』『殺す』




熊から強い感情が飛んでくる。




「おい、お前がまとわり付いていると剣が使えん。さっさと離れ……」





熊が、近づいてくる。




アレは、私を殺してしまうのでしょうか?






死にたくない。






いやです……嫌っ!!死にたくない!!死にたくないッ!!!!!!嫌ぁああぁああああああああッ!!!!!!!!」






私の感情が爆発してしまいます。





誘発されるようにして別のナニカも爆発します。





綴火様の、感情。





『美しい』






『美しい』『美しい』『美しい』『美しい』『愛おしい』『素晴らしい』『泣き叫べ』『求めろ』『吠えろ』『もっと』『もっと』『生きろ』『生きろ』『求めろ』『美しい』






「はっ…はははははははははは!!!!そうだッ!!泣け!!鳴け!!号け!!啼け!!哭けッ!!!!!もっと恐怖しろ!!死を拒絶しろ!!生を渇望しろ!!!!生き延びる事だけを考えろッ!!!!!!」




止まらない、ドロドロに溶け合ったような綴火様の感情。




綴火様から伝わってくる、圧倒的な物量と熱量をはらんだ感情のうずに呑まれ、私の感情は掻き消されます。先程までの恐怖が嘘のように霧散していき、私は急速に冷静さを取り戻していきます。




私は一体、彼に何をしてしまったのでしょうか?




綴火様の豹変ぶりにただただ呆ける事しかできません。綴火様にしがみついていた両腕から力が抜けていきます。それと同時に綴火様が私の体を乱雑に振りほどいた事により、私の体は吹き飛ばされその場で尻餅をついてしまいます。




私は口を半開きにして綴火様を見上げる事しかできませんでした。彼は帯刀していた刀を抜き、構えをとります。朧げな月明かりを刀身が反射し、ゾクリとするような鋭い銀の光を放ちます。




『美しい』『殺せ』『生きろ』『求めろ』『殺せ』『逃げろ』『生きろ』『殺せ』『殺せ』『殺せ』




『生きろ』




「死にたくないか?殺されたくないか?…ならば俺を殺せ…殺せぇええええ!!!!!死にもの狂いで俺を殺せよおおぉおおおおお!!!!!!!それこそがだろうがああぁぁああぁぁぁああああああああ!!!!!!!!!!」





『殺す』





銀の一閃がツキノワグマの首を通過する。




断面からは大量の鮮血が吹き出る。





熊から飛んでくる感情がピタリと無くなりました。




混沌とした綴火様の感情の嵐も、余韻のようなただ一つだけの感情へと成り代ります。




ただ、『虚しい』とだけ。




納刀した綴火様は、先程までの鬼気迫る表情をしておらず、私と会話をしていた時のような仏頂面に戻っています。



綴火様はスマートフォンを取り出し、なにやら操作をしていましたが、すぐにポケットへしまいます。



「無意識に突き飛ばしていたみたいだな…悪い」


「い、いえ……大丈夫です。助けてくださってありがとうございました。大変お見苦しい所をお見せしてしまいましたね…お恥ずかしい限りです」


柄にもなく取り乱してしまいましたからね。さりげなく綴火様の様子を伺うと、僅かな『怒り』の感情が伝わってきます。なにか気に触るような事を言ってしまったのでしょうか?


綴火様がしかめっ面のまま手を差し出してくださったので、それに掴まり立ち上がりますが、うまく力が入らずふらついてしまいます。



不意に綴火様が私を抱き寄せます。



綴火様の凛々しい御尊顔が私のすぐ目前に…



「え………?あ、あの……綴火様?」



私の顔が上気していくのが自分でもよく分かりました。


綴火様から伝わってくる感情はいまいちよく分かりません。一体何を思ってこんな大胆な事を……ぅゎぁ…もっと顔が熱くなってきました……



「お前は花が好きだと思ったんだがな…足元をよく見てみろ」


綴火様の言葉にハッとなった私は足元に視線を注ぎます。私がふらつき踏みしめそうになった場所には、満開になった月下美人が私たちを見上げていました。


「すみません、危うくこの子を踏んでしまうところでした……先刻までは八分咲きでしたが、今になって満開になりましたね。とても綺麗です」


美しく咲くこの子は、一体私たちをどのような気持ちで見上げているのでしょうか?


私は人間や動物の感情を読み取る事ができても、この子みたいな植物の感情を読み取る事ができません。植物は感情を持っていないのでしょうか?


「人間は花を愛でますが、果たして花は私たち人間をどう思っているのでしょうね」


「さあな、花には脳みそが無いから何も考えていないだろ。少なくとも俺たちをでるような事はしないだろうな。いつだって生き物は自分より弱い者を愛でるもんだからな。人間が猫を愛でる事はあっても、猫が人間を愛でる事はない。生き物の頂点に立つ人間は、万物を愛でる事ができるが、それら全てが人間を愛でる事などできない」


感情は心臓こころではなく、あたまに宿る…という事なのでしょうか。


「…とても独創的な考えですね。私たちが愛でられる事は無いという事でしょうか?」


「どうだろうな。だが、俺たち人間を愛でることができる存在をひとつだけ知っている。と言うかつい最近知った」


「それは一体…?とても気になります」


それだと人間をも超える存在がいるという事になりますが…


「教えん。これは墓まで持っていくつもりだからな」


綴火様からは、馬鹿正直に質問をした私を小馬鹿にするような感情が伝わってきます。綴火様の仏頂面がわずかに綻び、口元には細やかな笑みが滲み出てています。彼から初めて『楽しい』という感情が伝わってきます。



…………。



「……綴火様は意地悪ですね」



綴火様は嗜虐癖しぎゃくへきをお持ちなんですね。明らかに私の反応を見て楽しんでいました。


少し面白くなかった私は、綴火様からそっぽを向いて月下美人を弄ります。しかし、そんな私の反応は逆効果だったのか、またしても綴火様を『愉快』にさせてしまいます。



……面白くないです。



ふと、冷涼な夜風が吹き抜け、月下美人の花弁と私の髪がサワサワと揺られます。



綴火様から漂う、少しばかりの『哀愁』



「…一夜限りなのが悔やまれるな。やがてしぼんでしまうのだろう?」



綴火様も、やがてこの子の美しさが損なわれる事を惜しんでいらっしゃるのでしょうか?



「そうですね。この子が『あでやかな美人』でいられるのは、今この瞬間に限定されたものでしょう。……ですが」



私は月下美人から視線を外し、ようやく綴火様へと視線を戻します。私が揶揄からかわれたお返しをするなら、今が好機ですね。



「…綴火様は普段、焼酎しょうちゅうをお飲みになられますか?」


綴火様は呆気あっけに取られたような表情になると『疑問』を抱きます。


「飲むには飲むが、別に常飲するほどではない。…これを酒のつまみにしろとでも言い出すつもりか?」


綴火様から『気になる』という感情が強く伝わってきます。先程の意趣返しに成功した私はついつい笑いを溢してしまいます。


「確かに月下美人はおひたしにしたり、酢の物などにしたりして食べる事ができます。しかし、見事なまでに満開なこの子を料理にしてしまうのは些か勿体無いと感じてしまいます。…この子を焼酎にけるのですよ」


「む…?」



綴火様の疑問に思う気持ちが更に強くなります。変化に乏しい彼の感情を私が揺さぶっていると思うと、少し嬉しく感じてしまいます。こんな事を綴火様に聞かれては、彼はさぞや怒る事でしょう。



「……続けろ」


「月下美人の花弁を焼酎に漬けると、咲いた状態のまま保存する事ができます。漬けた花弁は徐々に透き通っていき、異なった美しさを見せると言います。もちろん、月下美人を漬けた焼酎は花果酒としてお召し上がりいただけますよ」



次第に綴火様の好奇心が強くなっていきます。



…なんだか楽しくなってきました。



「…生憎あいにくと俺は花の扱いなど心得ていない。お前が摘んでくれ」


私は勝手に一人で、綴火様に勝ったかのような気分になっていました。知らず知らずのうちに笑みを浮かべてしまいます。



……私、とても性格悪いですね………。



「…どうか、たくさん可愛がってあげてください」



綴火様の大きな手の平に月下美人を乗せる際、私の指先が彼の掌底に触れます。



綴火様の手は、とてもゴツゴツとしていて、岩のように硬かったです。それでいて、彼の手の平からは私とは異なった体温を感じます。これが男の人の手なんですね。私は初めて…



「あっ………」



なんだかすごく恥ずかしい事を考えていたような気がして、慌てて手を引っ込めます。綴火様に『初々しい奴だ』と思われてしまいました。もっと恥ずかしくなりました。何か…何でもいいから何か喋って、早く気を紛らわせないと……



「綴火様の……とても硬くて、逞しいですね。それに、すごく大きいです…」



綴火様から『焦り』と『動揺』が伝わってきます。綴火様はとても微妙な表情をしていました。…何か変な事を言ってしまったのでしょうか?



「剣を握る者は大体こんな手をしているものだ。……無粋な野太刀を背負った男が、柄にもなく手の平に綺麗な花を乗せているとは、我ながら滑稽な構図だな」



自嘲気味にそう呟いた綴火様から『羞恥』の感情が伝わってきます。



彼は不思議な方です。心中と発言とが常に一致しています。意地悪こそしましたが、嘘は吐いていません。自らを偽ろうとしない彼との会話は、私にとってとても心地の良いものでした。



「滑稽などではありませんよ。花を心から慈しむ殿方は決して多くないかと思いますが、私はとても素敵な事だと思います。…綴火様は植物がお好きなのでしょうか?」


「改めて好きだと主張する程でもないが、好きか嫌いかの二択で言えば前者だろう。俺たち消費者動物生産者植物なしでは生きていけないからな。植物様様さまさまだ」



そんなスケールの大きな話を、にべもなくつらつらと述べた綴火様でしたが、彼からは植物に対する確かな『感謝』の気持ちが伝わってきます。



やはり、彼は嘘をきません。




「……やはり綴火様は…綴火様だけは……」




「ん?俺がどうした?」



決して綴火様に聞かれるように呟いたわけではありませんが、彼にはハッキリと聞こていたようです。そういえば、あの時もこのような事がありましたね。



綴火様の私に対する『不信感』が強くなっていきます。



「言いたい事があるならさっさと言え。これ以上夜が更けると帰りがままならなくなるぞ」







綴火様。貴方なら、嘘偽りの無い言葉を返してくれるのでしょうか?






家族でさえも、嘘に包んで私に答えた、この問いを。








「私は……本当にこのまま生きてても良いのでしょうか?」










燃え盛る業火のような『怒り』








彼は『激怒』しました。









私が言葉を発する暇もなく、綴火様に胸倉を掴まれる。








「ッ!?…綴火……様?」






顔と顔とがぶつかりそうなほど近くに引き寄せられる。心を読むまでもなく、綴火様は怒っていた。心を読んでみても、綴火様はとてつもなく怒っていた。




彼が先ほど感情を爆発させた時に『怒り』の感情は無かった。




遠い昔、彼が私を助けてくれた時も『ムカつく』という感情こそありましたが、これほど明確な『怒り』は見せませんでした。




私は何故、彼を怒らせてしまったのでしょうか。





「…嘘だったのか?」








彼から滲み出る『寂しさ』








「え……?」







「死にたくないという言葉は嘘だったのか?俺に助けを請うたお前は嘘だったのか?己の死を断固として拒否したお前は……全て嘘だったのか?」







彼はかなしんでいた。



彼はかなしんでいた。






彼はかなしんでいた。







痛いほど正確に伝わってくる、彼の心。









『死ぬべき命など、あってたまるものか』









「お前みたいな自分の身も守れないような弱者が勝手に野たれ死のうとも、俺の知った事ではない。俺からしてみれば、最後には俺さえ生きていれば良いのだからな」









綴火様が、嘘をいた。









あの時と全く同じ、嘘をいた。








「だがな…生きたいと懇願するお前は、他の誰よりも、他の何よりも美しかった。愛おしさすら感じた。もの言わぬ月下美人など比較にもならない…それほどお前は美しかったのだ」






再び彼を支配する『寂寥感』






綴火様が私を掴んでいた手を離します。






「お前が何を思って生きる事に疑念を抱いたのかは知らん。タダ飯を食らっている事が情けないのならば、家の中でも出来る仕事を探せばいいだけの事だろう」


おもむろに綴火様がポケットから何かを取り出し、私の胸元に押し付けてきます。


「そいつを元手に何か始めてみろ。決して多くは無いが、親に金をせがむのはお前も本意ではないだろうよ」



これは……お金!?しかもこんなに沢山の……!?




いいいいいい意味がわかりませんよ!?




「そんな、こんな大金を……受け取れませんよ!!」


私は何とかしてお札を押し返そうとしますが、綴火様の力に勝てるわけもなく、そのまま受け取ってしまいます。


「馬鹿野郎。お前にあげる訳じゃないぞ。それはお前への投資だ。いい仕事が出来るようになったら存分に贔屓してもらうからな。その金を変な事に使ったり、一切使わなかったりしたらぶっ飛ばすぞ」



……綴火様はとてもぶっきらぼうな言い方をされていますが、私を穀潰しの身から抜け出すための助け船を出してくださった…ということなのでしょうか?



「綴火様…なぜ私にここまでしてくださるのですか?」



「さあな、俺にも分からん」




そう答えた綴火様は心は、なぜか揺れ動いていました。




綴火様は背を向けると、静かにその右手を掲げます。



そこには朧月に照らされ、白く輝く一輪の月下美人。



「…お前が大成した暁には、こいつを漬けた酒を飲ませてやる。お前よりも遥かに貧弱なこいつが枯れないで待っているんだ。お前がこいつより先に枯れるのは言語道断だぞ」









『………死んでくれるな』









「綴火様…」









綴火様はまたしても、振り返る事なく行ってしまわれます。








あなたの背中はあの時と比べてもっと大きく、もっと優しくなりました。







私が家に閉じこもっていた10年間、あなたは一体何を見てきたのでしょうか。








涙が止まりません。







あなたの優しさがこんなにも温かいのだから。








私の弱さがこんなにも情けないのだから。









「私の名前………言ってませんでしたね」











決して戻ってくることのない私の涙は、花弁を失った月下美人を濡らし続けた。







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