夜に映える白き者たちは、どこまでも儚く美しく。

「…!!……いくん………す…くん………詠水くんっ!!」



体が大きく揺さぶられるような感覚とともに、キンキンと耳に響く女の声が聞こえてくる。もう少し穏やかな目覚めが良かったんだがな…起こされてしまっては仕方がない。


重い瞼を開くと、顔面を蒼白にして今にも泣き出しそうな…いや、既に半泣きの葵が何やらまくし立てている。


「………やかましいぞ。一体何の嫌がらせだ」


「詠水くんっ!!いいいいいまいまいま今!!幽霊が!!私のほっぺを!!幽霊が!!!!!痛みを伴いましたっ!!!!!!悪霊ですっ!!!!!きゃあああああぁぁぁあああ!!!!!ぎゃああああああああああ!!!!!!!」


葵は目をグルグルと回し、叫び散らかす。こいつはもう少し静かにできないのか。起き抜けにこのやかましさはなかなかに辛い。


「うるせぇぞ馬鹿野郎。耳元で騒ぐなクソッタレ」


ほっぺだの幽霊だの訳の分からん事を宣いやがって。クッソ、耳がキンキンする……


葵の両頬を観察してみると、まるで誰かにかのように赤く腫れていた。




……………いや、まさかな。




「なあ、葵。俺はずっとお前の膝の上で寝ていたか?」


「……はい?今の今までぐっすり寝てたじゃないですか?」


おい、さっきまでのパニック状態はどこへ行った。急に落ち着くな。高低差が激しすぎてこっちが不安になってくる。


「……そうか」


「急にどうしたんですか?大丈夫ですか?私が誰か分かります?ここがどこか分かります?頭は痛くないです?大丈夫ですか?キスしましょうか?大丈夫ですか?」


「この通り通常運転だ」


俺は不必要な煽りを入れてきた事を後悔させるべく、葵の脇腹をくすぐる。


「あっ…ちょっ…んっ!!くすぐらないでくださ…やっ……あっ………って、どさくさに紛れてどこ触ってるんですか!!??」


「胸」


「ちょっと、私の胸に触ることに対して抵抗なさ過ぎじゃないですか!!!?」


キシャーという人間から発せられてはならないような奇声が聞こえてきたので、葵から距離をとる。


ふと窓から外を一望すると、すでに陽が傾き初めていた。


「そんなにガッツリと眠るつもりは無かったんだがな…」


「時間にしたら3時間も経ってないと思いますし、ごく一般的なお昼寝の範疇ではないでしょうか?」


まあ時間というものは今更どうこう言ったところで戻ってくるものではない。気にしても仕方のない事か。


「葵」


「はい、なんでしょう?」


「お前は里狐についてどう考えているんだ?」


「え?どう考えているって言われましても…」


「そんな不確かな存在のために、こんな辺鄙な場所で、独りで、数十年も暮らしていくんだぞ。何も思わないという事はないだろ」


葵は一瞬キョトンとした顔になるが、やがて静かに目を伏せ、クスッと破顔する。


「まず最初に、私はここに居て孤独を感じたことなんてないですよ」


葵はゆっくりとした口調で言葉を紡いでいく。


「不確かな存在だなんて言い方をしたら里狐様に失礼です。里狐様はいつだって私たちを見守ってくださっています。…こんな言い方をしたらバチ当たりかもしれませんが、神繋の巫女にとって里狐様は、いつも側にいてくださる母君のようなお方です。私にとってそれだけ里狐様は近く、暖かい存在なんです」


彼女の嘘偽りのない双眸がこちらを見据える。


「だから私は決して独りではありません。いつも側に里狐様がいらっしゃいます。それに詠水くんが必ず会いに来てくれます。土を穿つような豪雨の中でも、凍えるような豪雪の中でも、詠水くんは必ず来てくれますから」


葵は俺の手を両手で優しく握りしめる。



ミツキは神繋の巫女を我が子のようだと言い、神繋の巫女はミツキの事を母君のようだと言った。



「ふん…相思相愛と言う事か」


今頃ミツキは安堵と喜びで小躍りすらしていそうだな。


「…………え?相思相愛……え?あ……え?」


当然、葵には俺が見た夢の内容など知る由もないので、相思相愛などと言う熟語を持ち出されても何の事やらさっぱりだろう。失言だったな。


固まっている葵から両手を引き剥がし、神棚の元へと向かう。処理に困ったからというふざけた理由で供えたみたらし団子の姿はなく、その代わりとばかりに一本の絢爛なかんざしが横たわっている。


「……神を自称する割には、随分とひねりの無い事をする」


葵が呆けている内にすばやく簪を回収し、立ちついでに装備と空になったバックパックも拾っていく。


「そろそろ良い時間だ。俺は帰るぞ。『紙渡し』が近いんだから先週末みたいに怪我をしてくれるなよ」


「ひゃっ……ひゃい!!お気をつけてお帰りくだしゃい!!」


噛み噛みじゃねぇか。本当に大丈夫かこいつ。いたずらに頬を引っ張ったのはさすがにやりすぎだったのかも知れないな。


明らかに様子がおかしい葵を部屋に残し、俺は神社を後にした。









「は…はっきりと言ってましたよね…?相思相愛って……わ、、って事ですよね!?ふにゃあぁぁ……い、一旦落ち着きましょう……まだ慌てるようなあわわわわわわわわわ時間あわわわわわわわわわわわ」







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






山の中腹を下ったあたりで、俺のスマホが振動する。何事かと取り出してみると、画面には『倣神野ならしの 諫奈いさな』の文字と共に、顔を真っ赤にして両手を前に突き出している少女の画像が表示されている。たかが写真を撮られるくらいで、なぜこうも恥ずかしがるのだろうか。まあ俺が同じ事をされたら相手のスマホを叩き切るだろうから人の事も言えないか。


画面をタップして受信に応じる。



「俺だ」


『あ、詠くんお疲れ様。まだ神社に居るのかな?』


「いや、もう下山し終わるかと言ったところだ。お前が電話を寄越すなんて珍しいな。どうした?」


『うん、くまの目撃情報があったからそれを詠くんに伝えようと思って』


また熊か。先週に目撃されたばかりじゃないか。勿論この熊とは、鎧熊の事ではない。あんな奴が村に降りてきたら大惨事どころの騒ぎじゃないぞ。


「ここのところ頻繁に下りてきているな…分家の連中は動いているのか?」


『とりあえず外出を控えるように村を回って呼びかけて、猟銃が扱える人達に警備巡回してもらってるよ』


「一軒一軒伝えているのか?効率もクソもないな。広報を使った方が確実だし、段違いに早いだろ」


『私もそうしようと思ったんだけど、北里さんが言うには機械の調子が悪いらしくて、うまく作動しないみたいなの』


「おい、それでは意味がないだろう。有事の際に使えないでどうするんだ。本末転倒どころの騒ぎじゃないぞ」


『ご、ごめんなさい…明日にでも杉崎すぎさき電機さんに見てもらうようお願いした方がいいのかな?』


「広報が使えないとあっては村人も不安を抱くだろ。早く対応するに越した事は無い。そうしろ。…まあ熊に関しては俺も見つけ次第斬り伏せるが、今日はもう真っ直ぐ家に帰るだけだ。期待はするな」


『うん、ありがとう。詠くんも気をつけてね』



通話の終了を告げる音が聞こえたので、俺はスマホをポケットにしまう。完全に日が沈み切った今、外を出歩くような奴は居ないと思うが、広報を使っていない以上伝わりきっていない可能性もあるだろう。熊ともなると、一般人では鉢合わせになっただけでもかなり危険だ。まあ熊も相手を殺さなければ殺される、という思いで襲いかかってくるわけだが…





夏の虫たちが気ままに歌う、普段は通らない畦道あぜみちをひたすらに歩く。夏限定ではあるが、宵闇の中こうして独りで黙々と歩くのは不思議と気分の良いものだ。コオロギやヒメギスの鳴き声をやかましいと感じた事はなく、むしろ心地良さすら覚えるくらいだ。


ただしせみ、テメーは駄目だ。




ふと、視界の端に目を引く物が写り込む。この薄暗がりの中、よく映える白色だ。




俺の足元に位置するそれを観察するべくしゃがみこむと、そこには一輪の純白の花が咲いていた。


顔を花弁へと近づけてみると、甘く、優しい香りがする。悪くない匂いだ。


「見たことの無い花だな……見た目良し匂い良しとは上等じゃないか」


果たして『美しきモノ』を好むミツキも、これを美しいと言うのだろうか?





月下美人げっかびじん……年に一度だけ、人知れずその花を夜に咲かせます。とても美しく、とても儚いお花です」





花の美しさと香りに集中しすぎていたせいか、足音、吐息、その他諸々の音に全く気づかなかった。その透き通った女の声が俺の聴覚を刺激し、ようやく気づく。簡単に背後を取らせるとは俺らしくもない。これがくだんの熊だったらシャレになっていなかったな。



声の主を確認するべくゆっくりと振り返った俺は、思わず息を呑む。



白磁のように白い肌。限りなく白に近いプラチナブロンドの長髪。白兎の如くあかい双眸。華奢な人形のように整った顔立ち。俺より少し低いくらいの背丈。不自然さを感じさせない淡い色の和服。



その佇まいはひどく神秘的で、美しいとさえ感じてしまった。



「…こんな時間に女ひとりでうろつくとは、まるで危機管理がなっていないな」


女は一瞬だけ目を見開くが、それが何を思っての挙動かまでは分からない。


「…驚かないのですね」


「は?いきなり背後を取られたら驚くに決まっているだろ」


「急に声をおかけしてしまった事につきましては申し訳ございませんでした。でも、今の驚かなかったのかと言う質問は『私の容姿に』驚かなかったのか、という意味合いを持たせたつもりです。言葉が足りませんでしたね」


ああ…そういう意味か。それについても驚いていないという訳でもないんだがな。


「随分と異質な奴がいるなとは思ったが、取り敢えず人間で安心した。熊だったら少なからず肝を冷やしていたところだ」


女はキョトンとした表情を見せる。


「何故ここで熊という単語が出てくるのでしょうか?」


「なんだ、お前のところには連絡が行っていないのか。熊の目撃情報が出たらしい」


「…露ほども知りませんでした。広報はかかっていなかったように思えますが…」


「機器の調子が悪いらしい。分家の連中が甲斐甲斐しく一軒一軒まわって呼びかけているらしい」


「そうだったのですか…では、早めに帰らなくてはいけないですね。教えてくださりありがとうございました」


女は丁寧な所作でお辞儀をする。その白い顔は柔和な表情であるが、俺の目は誤魔化せない。あれは警戒…いや、人から距離を置こうとしている目だ。まるで他人との間に分厚い壁を設けているようにすら見える。


「…お前は何故こんな時間に歩き回っていたんだ?」


「目的のあるものではございません。ただの散歩にございます。日が落ちてからこの畦道を歩くのが私の習慣です。あなたは何故このような時間に?」


「ただの仕事帰りだ」


女は俺の風体を一瞥する。その視線は帯刀した朧紫乃月おぼろしのづきや背負った黒椿くろつばきなどに注がれている。


やがて女は恐る恐るといった感じで口を開く。そこから捻り出される声はわずかに震えている。


「とても重装備をしていらしてますが、倣神野の方でしょうか?」


こいつ、俺の事を知らないのか?決して自惚れているわけでは無いが、通わせ人をやっている以上、知名度自体は姫女や神繋の巫女と遜色はないと自負しているのだが…


「俺は『通わせ人』だ。人によっては分家の連中と同一視する輩もいるが、俺は倣神野の人間でも神繋の人間でもない」


女は一瞬、驚いたような表情をみせるが、あからさまにその表情を取り繕う。


「通わせ人…という事は、貴方は綴火つづりび様ですか?馴れ馴れしい口を聞いてしまい申し訳ございませんでした」


女は深く、ゆっくりと頭を下げる。そんな態度を取られると、まるで俺が偉くなったかと錯覚してしまうから止めていただきたい所だ。


「大袈裟だな。別にそこまで馴れ馴れしい語調でもなかっただろ。それに、見た感じ俺とそれほど変わらないように思えるが?」


「綴火様は神繋の巫女様と同い年にあられますよね?私は今年で17歳なので、綴火様のひとつ下にございます」


一個下か。だが一個下にこんな奴いただろうか?途中までとはいえ俺も小学校には通っていたので、これ程目立つような奴は記憶に残っててもおかしくはないと思うんだがな。


「…お前は学校には通っていなかったのか?」


「はい。日光を避けながら学校生活を送るのは現実的ではありませんし、何より私の容姿は他の子供たちに不快感を与えてしまいますからね」


たかが白いというだけで嫌悪感を抱くものなのか?まあ当事者がそう言っているのだから俺がとやかく言うような事ではないな。


「お前のそれは先天性白皮症アルビノか」


「ご明察の通りです。別に病弱というわけではありませんが、私の肌は日光に弱いですし、日中に外に出ると光が眩しくて何も見えなくなってしまいます」


「…ただ外へ出るのに一苦労を強いられるというだけで、倣神野の人間にされるもんなのか?」


「父が私の分の税を滞りなく納めてくださっているので『にえ』にされるような事は無いと思います。しかしながら、良い印象をお持ちでない事は確かでしょう。私は穀潰し・・・の身でありますから」


女は別段、自嘲する風でもなく、ただ事実を述べるかのようにサラリとそう答えた。確かに、家の外へ出ずに家事の手伝いだけをしていいるだけでは、この村を支えているとはお世辞にも言えないだろうな。


「サングラスやUVカッターなどを用いれば、対策としては十分じゃないのか?」


「もちろん、それらは効果的な紫外線対策になります。ですが一番の対策は、やはりできるだけ日光に暴露されないことです。日中、外に出ないだけでも発がん率は段違いに変わってきます。…何も役に立てていない私が早死にしたくないと思うのは、些か虫が良すぎる話かもしれませんね。私を見捨てる事なく養ってくれている両親には頭があがりません」


そう溢す女の表情は、形容しがたい複雑なものであった。自嘲でもなく、悲観でもなく、諦観に近いものだ。


女は俺のすぐ隣まで来ると、先ほどまで俺がそうしていたように月下美人を覗き込むようにしゃがみ込む。闇夜の漆黒と、月下美人と女の純白とが、えも言われぬコントラストを生み出す。


「先ほど月下美人は年に一度しか咲かないと言いましたが、環境によっては2、3回は開花することもあります。逆に、養分が足りていなければ一度も開花させない事もあります」


「随分と難儀な花だな」


「そうですね。それ故に『儚い美』という花言葉を与えられたのでしょう」


女は、白く華奢な指先を花弁にチョンと触れさせる。


「人知れず咲き誇るこのは、その美しい花弁と芳しい香りで私たちをここへ呼び寄せたのかもしれませんね。こうして綴火様と月下美人に出会った奇跡に、どことなく必然性のようなものを感じずにはいられません」


「…ここにつどったのが俺たち二人だけだったならば、随分と秀逸かつ詩的な感想になっていただろうな」


「……?」


アルビノの少女は俺の発言の意味するところを図りかねているのか、首をかしげて白銀の髪を揺らす。


「情緒もヘッタクレもないお客様がいらしたみたいだ。花をでに来たわけではないだろうよ」


俺が顎で指し示した先には、暗がりに紛れ込むような黒の巨体がこちらを睨んでいた。


「ッッッ!!!!???」


不意に女の体が跳ねる。


「うおっ!?」


ようやく熊の存在に気づいた女が、急に後ろから俺に抱きついてきたので思わず声をあげてしまった。俺の背中からは女の小刻みな震えがダイレクトに伝わってくる。


…ついでにその柔らかな何某なにがしの感触もダイレクトに伝わってくる。





こいつ、着痩きやせするタイプか…





などと場違いな事を考えている場合ではないな。俺が声をあげてしまったせいで、驚いた熊がこちらめがけて疾駆している。図体に似合わぬ速さだ。


「おい、お前がまとわり付いていると剣が使えん。さっさと離れ……」






いやです……嫌っ!!死にたくない!!死にたくないッ!!!!!!嫌ぁああぁああああああああッ!!!!!!!!」








先ほどまでの美麗な少女の微笑などそこにはなく、死の恐怖に歪んだ表情。




先ほどまでの透き通るような美声などそこにはなく、閑静な夜をつんざく悲痛な叫び。




先ほどまでの花を愛でる優しい指先などそこにはなく、俺を盾にせんと力強くしがみつく両腕。








俺の心拍数が異常な程に跳ね上がる。










この白き少女が、どうしようもなく美しかった。









この世の全てが霞んで見える。未だかつてない『美』に呼吸を忘れてしまいそうになる。









曇天に浮かぶ朧月の下で、もう一輪の月下美人が開花した。









「はっ…はははははははははは!!!!そうだッ!!泣け!!鳴け!!号け!!啼け!!哭けッ!!!!!もっと恐怖しろ!!死を拒絶しろ!!生を渇望しろ!!!!生き延びる事だけを考えろッ!!!!!!」






最高潮まで昂ぶっている俺が何をペラペラと喋っているかなど知らないし、気にもならないし、どうでもよかった。




既に俺にしがみついている女を更に抱き寄せ、強引に位置をズラす。先ほどまで俺たちがいた位置に熊の巨体とその鋭利な爪が通過する。




華奢な女の腕を振り解く事など造作もなく、己の身から強引に女を引き剥がし、打刀うちがたな朧紫乃月おぼろしのづきを抜く。






地鳴りのような熊の怒号が夜の静寂をふるわす。






攻撃を躱された熊は半狂乱の状態で振り返る。ヤツは狂っている。俺も狂っている。女も狂っている。生きながらえる事に狂ってやがる。どいつもこいつも狂ってやがる。





そんな狂気の沙汰が、狂おしいほどに愛おしい。





「死にたくないか?殺されたくないか?…ならば俺を殺せ…殺せぇええええ!!!!!死にもの狂いで俺を殺せよおおぉおおおおお!!!!!!!それこそがだろうがああぁぁああぁぁぁああああああああ!!!!!!!!!!」






白銀の残光。真紅の鮮血。






宙を舞う、漆黒のこうべ






激しく燃え盛った命はどこまでも美しく、それでいてついえてしまった命はただの虚無へと成りかわる。






過熱状態にあった俺の精神が、急速に温度を失っていく。俺に取り憑いていた激情は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。





朧紫乃月にへばりついた熊の体液を充分に振り払い、納刀する。


おもむろにポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。まずは諫奈に報告だな。


『熊は斬った。役立たずな分家の連中を帰らせてやれ』


次いで、石光いしみつりょうという名前をタップする。


『山麓近くの畦道に熊の死体を置いてある。蛆虫うじむしが湧く前にたけるのおっさんと一緒に回収しておけ。祭りの酒代だ。釣りは要らんから最高の酒を準備しろ。と伝えておけ』


まあ大体はこんな所か。熊は食肉としてだけではなく、剥製にもなるからな。しかしながら、別に俺は金に困っているわけでもないので、こっそり絹羽商店に譲ってしまった方が手っ取り早い。


スマホをしまい、アルビノの少女の方を見やると、彼女は尻餅をついたまま呆然と俺を見上げていた。


「無意識に突き飛ばしていたみたいだな…悪い」


「い、いえ……大丈夫です。助けてくださってありがとうございました。大変お見苦しい所をお見せしてしまいましたね…お恥ずかしい限りです」






恥じるな。それは誇るべき物であり、決して手放してはならない物だ。





女は気丈に振る舞おうとしているが、その声はまだ震えている。実際、女を引っ張り起こしてみるも、腰が抜けてしまったのかその足取りは覚束ない。


俺はふらつく女を手繰り寄せる。


「え………?あ、あの……綴火様?」


急に俺に抱き寄せられた女がその白い頬を朱に染める。


「お前は花が好きだと思ったんだがな…足元をよく見てみろ」


女の足元には月下美人が依然として咲き誇っている。心なしか以前と比較して更に美しく見えるのは気のせいなのだろうか。


「すみません、危うくこの子を踏んでしまうところでした……先刻までは八分咲きでしたが、今になって満開になりましたね。とても綺麗です」


弱々しい月明かりに照らされ、遺憾無くその存在感を発揮する月下美人に、女は偽りなき愛を注ぐ。


「人間は花を愛でますが、果たして花は私たち人間をどう思っているのでしょうね」


「さあな、花には脳みそが無いから何も考えていないだろ。少なくとも俺たちをでるような事はしないだろうな。いつだって生き物は自分より弱い者を愛でるもんだからな。人間が猫を愛でる事はあっても、猫が人間を愛でる事はない。生き物の頂点に立つ人間は、万物を愛でる事ができるが、それら全てが人間を愛でる事などできない」


「…とても独創的な考えですね。私たちが愛でられる事は無いという事でしょうか?」


「どうだろうな。だが、俺たち人間を愛でることができる存在をひとつだけ知っている。と言うかつい最近知った」


俺が勿体つけた物言いをすると、女は興味津々といった表情で食いついてくる。


「それは一体…?とても気になります」


「教えん。これは墓まで持っていくつもりだからな」


「……綴火様は意地悪ですね」


女は僅かに頬を膨らませると、俺から視線を外して月下美人を弄る。これまでの立ち振る舞いから、この女は歳の割に少し大人びて見えていたが、拗ねた顔をした彼女は年相応に見える。


月下美人は俺たちが繰り広げる中身の無い会話などどこ吹く風、ただひたすらに花弁を美しく開き、直立不動を貫いている。


ふと一陣の夜風に吹かれ、月下美人の白い花弁と、女の白い長髪とが静かに揺れる。わずかにただよう甘く、優しい香りは、月下美人の芳香ほうこうか。はたまた女の髪の匂いか。


「…一夜限りなのが悔やまれるな。やがてしぼんでしまうのだろう?」


「そうですね。この子が『あでやかな美人』でいられるのは、今この瞬間に限定されたものでしょう。……ですが」


女は月下美人から視線を外すと、こちらを見上げてくる。


「…綴火様は普段、焼酎しょうちゅうをお飲みになられますか?」


…随分と脈絡のない上に色気の無い単語が出てきたな。焼酎だと?


「飲むには飲むが、別に常飲するほどではない。…これを酒のつまみにしろとでも言い出すつもりか?」


おそらく俺の問いは見当外れだったのだろう、女はクスクスと静かに笑う。


「確かに月下美人はおひたしにしたり、酢の物などにしたりして食べる事ができます。しかし、見事なまでに満開なこの子を料理にしてしまうのは些か勿体無いと感じてしまいます。…この子を焼酎にけるのですよ」


「む…?」



花弁を焼酎漬けにする…?



興味深い。



「……続けろ」


「月下美人の花弁を焼酎に漬けると、咲いた状態のまま保存する事ができます。漬けた花弁は徐々に透き通っていき、異なった美しさを見せると言います。もちろん、月下美人を漬けた焼酎は花果酒としてお召し上がりいただけますよ」


なかなかに関心を集めるセールストークをしてくれる。女がもたらした豆知識は、俺の好奇心を刺激するのには充分すぎるものだった。


「…生憎あいにくと俺は花の扱いなど心得ていない。お前が摘んでくれ」


女はここへきて初めて嬉しそうな表情を見せる。肯定の意思表示をした後、その完成された美を壊さぬよう、優しく月下美人を摘み取る。


「…どうか、たくさん可愛がってあげてください」


女は、差し出した俺の手の平に月下美人をそっと乗せる。女の柔らかな指先が、わずかに俺の手に触れる。


細雪ささめゆきのように白い手。冷え切ったようにも見えるその指先からは、女のせいが確かな体温として俺に伝わる。


「あっ………」


女はまたしても頬を紅潮させると、恥じらうようにその手を引っ込める。初々しい奴だな。まあこれまでまともに人と付き合ってきた事がないのだろう。相手が異性ともなると殊更ことさらか。



「綴火様の……とても硬くて、逞しいですね。それに、すごく大きいです…」



おい、その言い方はやめろ。顔を赤らめて言う事じゃない。主語を入れろ主語を。わざとやってんのか?



「剣を握る者は大体こんな手をしているものだ。……無粋な野太刀を背負った男が、柄にもなく手の平に綺麗な花を乗せているとは、我ながら滑稽な構図だな」


あおいに見られたら3週間近くはネタにされそうだ。で、忘れた頃に掘り返してくれるだろうな。勿論、笑われたら確実にしばき倒すが。


「滑稽などではありませんよ。花を心から慈しむ殿方は決して多くないかと思いますが、私はとても素敵な事だと思います。…綴火様は植物がお好きなのでしょうか?」


「改めて好きだと主張する程でもないが、好きか嫌いかの二択で言えば前者だろう。俺たち消費者動物生産者植物なしでは生きていけないからな。植物様様さまさまだ」


地球上の生物は養分と酸素を供給してくれる植物にもっと感謝をすべきだろうな。




不意に女は目を伏せ、か細い声で何かを囁く。




「……やはり綴火様は…綴火様だけは……」




「ん?俺がどうした?」


気にしないようにしていたが、先ほど俺の何かを知っているかのような態度を垣間見せてくる。こいつは俺の事をどこまで知っているのだろうか?少なくとも名前は知っていたみたいだが…



女は二の句を継ごうとしているのか、口を動かしている。しかしそれは声の伴うものでは無く、まるで喉元で言葉がつっかかっているかのようだ。


「言いたい事があるならさっさと言え。これ以上夜が更けると帰りがままならなくなるぞ」


夜道に現れるのは、何も熊だけではない。意味も目的もなく深夜まで外にとどまるのはただの阿呆だ。



意を決したのだろうか。やがて女は壊れてしまいそうなほど弱々しい声を捻り出す。





「私は……本当にこのまま生きてても良いのでしょうか?」





俺の頭に、身体からだ中の熱と血液が集まっていく。





気づけば月下美人を持っていない左手で、女の胸倉を掴んでいた。





「ッ!?…綴火……様?」





女を引っ張り寄せると、互い鼻と鼻とがぶつかりそうなほど近くまでくる。人形のように可憐で整ったその顔は、突然の俺の狼藉に恐怖の色を示しているが、その赤い眼だけはまるで俺の心中を覗き込むかのように真っ直ぐと見据えてくる。





「…嘘だったのか?」



「え……?」



「死にたくないという言葉は嘘だったのか?俺に助けを請うたお前は嘘だったのか?己の死を断固として拒否したお前は……全て嘘だったのか?」



女は答えない。あるいは答えられないのかも知れない。だが、そんな事を知る術など持ち合わせていないし、どうでも良いことだ。



「お前みたいな自分の身も守れないような弱者が勝手に野たれ死のうとも、俺の知った事ではない。俺からしてみれば、最後には俺さえ生きていれば良いのだからな」



俺の言葉に、女は大きく目を見開く。



「だがな…生きたいと懇願するお前は、他の誰よりも、他の何よりも美しかった。愛おしさすら感じた。もの言わぬ月下美人など比較にもならない…それほどお前は美しかったのだ」



女の胸倉を掴んでいた手をゆっくりと放す。



「お前が何を思って生きる事に疑念を抱いたのかは知らん。タダ飯を食らっている事が情けないのならば、家の中でも出来る仕事を探せばいいだけの事だろう」



俺は左手をポケットに突っ込み、しわくちゃになった万札を十数枚取り出し女の胸元に押し付ける。



「そいつを元手に何か始めてみろ。決して多くは無いが、親に金をせがむのはお前も本意ではないだろうよ」


「そんな、こんな大金を……受け取れませんよ!!」


女は金をつき返そうと両手をグイグイと押してくる。


「馬鹿野郎。お前にあげる訳じゃないぞ。それはお前への投資だ。いい仕事が出来るようになったら存分に贔屓してもらうからな。その金を変な事に使ったり、一切使わなかったりしたらぶっ飛ばすぞ」


女は突然の事にたじろぐようにして手元のお金に視線を落とす。


「綴火様…なぜ私にここまでしてくださるのですか?」


俺は何と答えようかしばし悩むが、すぐにその無駄な思考を中断する。


「さあな、俺にも分からん」




何も動揺しているのはお前だけではないのだ。




俺は女に背を向け、右手に乗った月下美人を掲げる。


「…お前が大成した暁には、こいつを漬けた酒を飲ませてやる。お前よりも遥かに貧弱なこいつが枯れないで待っているんだ。お前がこいつより先に枯れるのは言語道断だぞ」


俺は何かから逃げるようにして、歩みを進める。


「綴火様…」


ひとちる女をその場に残し、月下美人と共にただただ畦道を進み続ける。




リィリィ…というツヅレサセの鳴き声、背負った弓と黒椿くろつばきがカチャカチャとぶつかり合う音、俺が地を踏み締める音など全く聞いていなかった。







俺の遥か後ろで、女が静かにすすり泣く声だけが、生暖かい夏の夜風と共に俺の身体に染み込んでくる。







女の胸倉を掴んでしまった理由など。女に発破をかけた理由など。女がどうしようもなく美しいと感じてしまった理由など。








そんなものは最初から分かっていた。








俺はきっと、ただ彼女を死なせたくなかっただけなのだろう。








俺の中の何かが、それを認めたくなかっただけなのだろう。









「……焼酎、まだ残っていただろうか?」








月下美人は優雅に揺れる。








お前を揺らしたのは、俺の溜息か。夏の微風か。







それとも………



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