妹の自転車

平野武蔵

天鼓~妹の自転車

能に「天鼓てんこ」という演目がある。


中国、後漢時代、王伯と王母の間に天鼓は生まれる。

天鼓は、王母が天から舞い降りてきたつづみを体内に宿す夢を見て、懐胎かいたいした子供だった。


後に、天から本物の鼓が天鼓のもとに降ってくる。

彼がその鼓を叩くと、何とも妙な音がして、聴く者すべてを感動させた。


その噂を伝え聞いた皇帝は、鼓を献上するよう勅令を発するが、天鼓は応じず、堤を持って山中へ隠れてしまう。

結局、天鼓は捕えられ、呂水という川に生きたまま沈められる。


鼓は宮中へと運ばれ、ありとあらゆる楽師が妙鳴る音を鳴らそうと叩いてみるが、一向に音を発しない。


そこで皇帝は、天鼓の父、王伯なら音を発することができるにちがいないと考え、勅使を遣わし、宮中に参上するよう申し付ける。


我が子の死を嘆き悲しんでいた王伯は、勅令に背いた息子の父親だから共に殺されるのだろうと邪推する。我が子のために命を失うのならこれ本望、息子の形見に帝の姿を一目拝ませていただこうと、王伯は勅使とともに宮中へと参る。


皇帝より、鼓を叩くよう命じられた王伯は、老人の身であることを理由に辞退するものの断り切れず、鼓を叩く決心をする。


誰が叩いても音を発しなかった鼓であったが、父王伯が叩いたとき、心澄み渡る音が宮中にこだまする。

その音は親子の絆を示すものであった。

皇帝は心を打たれ、涙を流し、天鼓の菩提を弔うよう、勅令を下す。


弔いの儀では、皇帝自ら呂水へ赴き、管弦講がとり行われる。

すると、天鼓の亡霊が呂水から姿を現し、弔いに謝意を表して踊りを舞い、鼓を叩く。


妙なる鼓の音が初秋の涼しい風に運ばれ、夕月照り返す呂水の上を響き渡る…


*     *


妹の自転車について書く。

全て事実である。


もう20年前の事になるが、妹は高校に入学したとき、通学のために母に自転車を買ってもらった。

変則ギアなど付いていない、ピンク色のいわゆるママチャリというやつだ。

雨や雪が降らないかぎり、妹は毎日その自転車で高校に通った。


休みの日には、ハンドルやサドルの他、スポークについた汚れまで一本ずつ雑巾で丁寧に拭き落とした。パンクしたり、ブレーキの効きが甘くなると、購入先の近所の自転車店で修理してもらった。


「きれいに乗ってるね」


妹が自転車を持ち込むたびに店主はうれしそうに言った。

彼は個人経営でなければとっくに定年しているぐらいの年齢だった。


「これだけ大切に乗ってれば、お姉ちゃんが俺ぐらいの歳になってもまだ使えるね」


確かに妹の自転車は、私の目から見てもいつも新品同様に輝いていた。


妹が自転車で高校に通うようになって三度目の冬を迎えたとき、確か一月だったと思うが、彼女の大学進学が決まった。都内の大学だった。私たちきょうだいは、東京から200キロ離れた北の街で生まれ育ったので、通うのは無理だった。妹は一人暮らしをするため、大学近くのアパートを借りた。


高校の卒業式を待ちながら、妹は引っ越しの準備を着々と進めた。何を持っていくか、あるいは置いていくかのリストを作り、一人暮らしに必要なものを買いそろえた。

3年間大切に乗ってきた自転車は置いていくことにした。

大学には歩いて通えるし、駅もスーパーもコンビニエンスストアもすべて徒歩圏内だった。それにアパートの駐輪スペースは階段の下だけで、すでに他の入居者の自転車でいっぱいだった。引っ越しのトラックも小さめのものを手配していたので、そんなにたくさんの荷物を積むことはできなかった。もし自転車が必要になったら、そのとき改めて考えることにした。


「お父さん、お母さん、私の自転車乗っていいからね」


父は、ピンクの自転車なんか恥ずかしくて乗れるか、と言い、母は自転車なんてもう何年も乗ってないから、たぶん無理だろうと言った。


卒業式の日、妹はいつも通り自転車で学校に向かった。自転車で学校に行くのは、これが最後だった。

卒業式を終え、家に帰ると、私服に着替えて、仲良し五人と高校最後の夜を楽しむために、再び自転車で家を出て行った。


駅で待ち合わせをしていたので、妹は駅前の駐輪場に自転車を停めた。駐輪場と言っても屋外に設けられた、ただのスペースで、大量の自転車がいつも無秩序に駐められていた。


妹と友人たちは、駅周辺をぶらつき、ピザレストランでピザとアイスクリームを食べ、コンビニエンスストアでアルコール入りのカクテルを買い込んで、カラオケボックスにこっそり持ち込み、ほろ酔い気分で歌ったり、おしゃべりをしたりして四時間を過ごした。


カラオケボックスを出たときには夜の十一時を回っていた。

普段なら、門限を過ぎて親に怒られるのを心配するところであるが、今夜は誰もそんな不安を口には出さなかった。

高校最後の夜、地元に残るものもいれば、去る者もいた。当然、これまでのように毎日会うことはもうない。あるいは、これから何年も会うことはないかも知れない。あるいは2度と・・・。大人たちはそれをよくわかっていた。だから、子供たちが別れを惜しんで夜遅く帰ってきたところで、怒ることなどあろうはずがない。


別れ難い友人たちは妹が自転車を停めた駐輪場まで一緒についてきてくれた。

そこが別れの場所となるだろう。


駐輪場についたとき、停めたはずの場所に、しかし、妹の自転車はなかった。

邪魔だから誰かが移動したのかもしれない。そこに停まっている自転車を全員で片っ端から三度繰り返し見て回ったが、妹の自転車はやはりどこにもなかった。そこで、初めて盗まれたという結論に達した。


「盗難届だしたら?」


友人の一人が言った。


「今行ったらお酒飲んでるのがばれて補導されるわよ」


別の友人が言った。


妹は落胆していた。三年間、大切に乗り続けてきた自転車だった。


「まあでも、置いていくつもりだったし。もうしばらくは使う予定ないから」


自分に言い聞かせるように妹は言った。


「じゃあ、みんな元気でね」


しばらくして、お互いに一人一人と抱き合いながら、別れの挨拶を交わした。

妹は涙が止まらないかもしれないと前々から予想していたが、自転車が盗まれるというハプニングのために、何となく悲しみが削がれて、涙は滲みもしなかった。


次の日、妹は駅近くの交番に盗難届を出した。


「鍵はかけてありました?」


警官が聞いた。


かけました、妹は答えた。


「見つかるでしょうか」


「そうですねえ。恐らくは何処か近くに行くのにちょっと拝借したんじゃないかと思うんですけどね。だとしたら、乗り捨てるから見つかると思うんですけど。ま、見つかったらすぐに連絡しますから」


警官は明るい声で言った。彼らにとっては所詮、毎日何件も起こる軽犯罪に過ぎなかった。


そのようにして、妹は生まれ育った街を離れ、東京で一人暮らしを始めた。

新たな土地、新たな仲間、新たな生活。すべてに慣れるのに必死で、故郷での日々はあっという間に遠くへと追いやられた。自転車が盗まれたことなどすぐに忘れてしまい、その後思い出すこともなかった。


大学生活の4年間、彼女は人並みに勉強をし、サークル活動に励み、アルバイトをし、恋をした。

そして、卒業と同時に再び故郷へ帰ってきた。

地元の新聞社に就職が決まったためだ。


帰ってきたその日のことだった。

アパートから引き揚げてきた荷物を実家の、妹が以前使っていた部屋にすべて運び終えたとき、家の電話が鳴った。

電話に出たのは母だった。

何やら驚きの声を上げているのが聞こえてきたが、なぜ驚いているのかは見当もつかなかった。


「見つかったって!」


母が妹のところに来て、唐突に言った。

当然、何のことかはさっぱり分からなかった。


「自転車! ほら、あなたが東京行く前に盗まれたじゃない。それが、見つかったんだって。今、警察から電話があったのよ」


母がそこまで言うと、妹はようやく思い出した。

卒業式の夜に駅前の駐輪場を友達と一緒に探した光景が蘇った。

妹は引き取るために早速、警察署へと向かった。


「どこで見つかったんですか?」


受け取りのサインをしながら、妹は窓口の担当者に聞いた。

えーと、駅前の駐輪場です、と担当者は書類を見ながら答えた。


盗難自転車は建物の外にまとめて保管されていた。

担当者が抱えて、運んできてくれた。

驚いたことに、自転車にはちゃんと鍵がかけられていた。つまり、鍵が壊わされた形跡はなかった。

ハンドル、サドル、ボディ、タイヤのスポークまできれいに磨き上げられ、埃や泥などは一切付着していなかった。ブレーキの効きもよく、タイヤには空気がしっかりと入っていた。

要するに盗まれたときと全く同じ状態で、今、彼女の目の前にあった。


警察の方が手入れしてくれたのか、と妹が聞くと、まさか、と担当者は答えた。


「それにしても、こんなきれいな盗難自転車は見たことないね」

と彼は言った。


盗まれたときと同じ場所で鍵がかかった状態で見つかったということは、実は盗まれていなかったのだろうか。自分があのとき見つけられなかっただけだろうか、妹はそう尋ねてみた。


「そんなはずないよ。あの駐輪場に盗難自転車がないかは我々も毎日チェックしてるからね。昨日まではなかった。でも、今日はあった。だから、今日、あなたに電話した」


妹は黙った。担当者の言葉を理解するのに時間がかかったが、いったん腑に落ちると、問いただしたい事はこれ以上なかった。

妹は担当者に礼を言った。


「おつかれさま。気をつけて」


そう言って彼は立ち去った。


妹は自転車に跨り、ブレーキを二、三度確かめるように握った。

夕暮れの空気を大きく吸い込む。

春の匂いがした。


妹の自転車は、盗んだ誰かが四年経って同じ場所に返しに来た、あるいは盗まれることを繰り返し、最後の自転車泥棒がたまたま最初に盗まれた場所に放置した。そして、その日がたまたま妹が故郷に戻ってきた日と重なった。

驚くべき偶然であるが、おおよそ事実はそんなとこだろう。


しかし、大事なのは、妹がそう考えなかったことだ。


彼女はこう考えた。

妹が故郷を離れたとき、彼女の自転車もまた、この街を離れ旅に出た。

四年間旅を続け、妹の帰郷と同時に舞い戻った。

妹の自転車に乗れるのは妹だけだ。

自転車がそのスポークの一本一本まで光り輝くのは妹が乗るときだけだ。


おかえり。


ただいま。


妹は漕ぎ出す前に一度だけベルを思い切り鳴らした。

初春の夕暮れに、大きく、澄んだ音が響き渡った。

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妹の自転車 平野武蔵 @Tairano-Takezo

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