プロローグB 歴史の授業①

開け放たれた窓から春の風が舞いこむ大教室。

ここは国と同時に建てられたという。


由緒ある教壇に立つのは初老の男性。

彼の話に耳を傾ける者は、全て5歳くらいの幼児である。


彼らには年相応のあどけなさも、不注意さも見られない。


幼い学生たちは隣同士でふざけ合うこともなく、それどころかほとんど微動だしないまま静かに講義を聴き、ときおり要点をノートに纏める。


鉛筆を走らせる音だけが、巨大な獣さえも収容できそうな空間に響く。


艶のある皮で張られた椅子と、厚みある木製机は全てオーダーメイドであり、幼児たちの手足の長さに合わせて作られている。


整然と並べられた座席と同様、背筋をしゃんと伸ばし、視線を前へと統一した子供たち。


彼らはその年にして、高貴な者が負う義務と責任を理解している。


しかし傾聴の姿勢に導くものは義務感だけではない。

彼らは単純に、教師の話に惹き込まれていた。姿勢の良い背筋や目線を維持しながらも話の展開に、つい鉛筆を握る手を強くし、頬を赤くする。


このような極めて関心の強い聞き手を前にして、教師はいささかも調子を変えず、柔らかな語り口を維持したまま、大教室の奥まで「物語」を届けた。


そう、今は歴史の授業であり、その内容は物語といっても過言ではないだろう。


「こほん」


軽い咳払いとともに、教師は物語を続ける。




◎●◎●◎●◎●




かつて、

世界は2つしかありませんでした。


「地獄」と「天海」です。


2つの世界の住人が、どのようにしてお互いを見つけたのか、今ではもう知る由もありません。


なので便宜上、彼らのなかで最年長の者が覚えているいちばん古い戦いのことを「第一次両界大戦」と呼びます。


天使と悪魔、神と魔神。


私たちから見れば、悠久とも思えるような時を生きている種族ですから、彼らの昔というのは我々には想像することさえもできません。


それがどのような戦いであったのか、どのような天使がおり、どのような悪魔が活躍したのか。知ることが叶うなら全ての富を差し出すといった一国の王もおりました。しかしそのような歴史書は人間界には残っておりません。


なぜなら第一次両界大戦のころは、まだこの地上なる世界は発見されておらず、われわれ人間族はこの世界に存在していませんでした。


よってしばらくのあいだ、物語にでてくる役者は天界と魔界の住人に限られます。





◎●◎●◎●◎●




あるとき、

2つの世界は繋がりました。

繋がってしまったといってもいい。


それまで存在も知らなかった新しい世界を見つけたとき、天使や悪魔たちが受けた驚きや喜びは如何程だったのでしょうか。


また、そうした資源と同時に、永遠なる宿敵も登場したのです。


こうして我々の知る歴史は始まり、動きだしました。

それは大いなる争いによって幕を開けたのです。


彼らのうち一方が相手方を圧倒するような力を持っていれば事態はそこまでこじれることはなかったでしょう。しかしなんの因果か、彼らの技術や魔力、力は拮抗していました。


偶然開いた接続ゲートを解析した両軍は、さらに様々な空間式を開発して、お互いの世界に転移し、侵略を仕掛けました。


接続ゲートを利用した大軍による奇襲がこのころの主な戦争方法です。

天海の城に悪魔の軍が現れ、地獄の砦に天使の群れが登場するという寸法です。


お互いに奇襲を防ぐことは叶わず、膨大な数の者が命を落としたと言われます。


ちなみに、少し話がややこしくなるので、先ほどまで便宜上そう呼んでいた部分ですが、


「天使」「悪魔」「神」「魔神」という呼び名はこのときに活躍した種族、そしてその血統を指します。


彼らは戦闘能力や生命力、魔術の理解や操法に優れていたため、意欲的に戦争に参加していました。

さらに長い年月が経つ間、彼らは己を磨き続け、特性を高め、やがて、今の天使や悪魔に繋がる種族へと変化していったのです。


一方で、このときの天海と地獄は、戦争に適さない者たちもおりました。


この「弱者」たちはどちらの界でも真っ先に戦争の犠牲になり、味方には奉仕や従属を強要され、敵には糧食や娯楽の道具として扱われました。


「弱者」のうち、ほとんどの種族は第一次大戦の終わりを待たずに消えてしまいましたが、中には戦争からの逃亡、隠遁を果たした者たちもおりました。


この弱者の中から、

はじめて地上にたどり着いたある少年少女の話をしましょう。



諸君らも知っての通り、天海の90%以上を構成するのは海です。


ある種族は逃げ場としてこの海に望みを託しました。

力は無いが知恵と技術に優れた彼らは、天海の底に潜る船を設計しました。


彼らは子供や老人そして家畜たちを船を乗せ海底を目指します。


途中、

得体の知れない魚たちに飲み込まれてしまった船が幾千。

海中まで届いた悪魔たちの攻勢魔術に焼き尽くされた船が幾百。

逃亡者狩りの天使船に吊り上げられ、拿捕された船が幾十。


結局、

ついにある家族を乗せた一隻の船が天界の底に辿り着いたとき、残っている同胞はおりませんでした。


一家は海底にたどり着くと、船を解体し、その部品を使ってコロニーを作ります。長たる母は優れた技術者でもあり、娘たちはその一番弟子でした。じつに効率的なコロニーを創り上げ、海底から汲み上げた水を利用して、食糧の栽培はおろか、温浴すら可能にしました。彼女たちは生活基盤を確かなものにすると、地上で起きている争いを忘れ、日々遊戯や読書に堕する、怠惰で快適な日々を送っていました。


そんな母や姉たちと違い、末の娘だけは不安を忘れることができませんでした。


彼女は毎日潜水服を着てコロニーを飛び出し、天怪魚の餌食となる危険性を説く家族たちを尻目に、海の一番深い所まで行き、そこで穴を掘り続けました。


もっと深く、もっと遠くへ。

もっと危険から離れたところへ。




地獄の弱者たちは、天海の弱者とは逆に上を目指しました。


以前図解しましたように、地獄とは深い穴であり、階層式の逆擂鉢(ぎゃくすりばち)とでも呼べる形状をしています。


土竜蟻の巣のごとく、上にいけばいくほど狭くなり、逆に底ほど広く、深く、果てしないのです。


彼らは地獄の鉱夫とでも呼べる種族でした。

戦闘に使えるような技能や魔術的素養を一切持たず、穴を掘る技術と、建物を造る技術、そして地獄を囲む「壁」を登る技術のみに優れていました。


初期の計画では、地獄の天辺まで届く塔を建設しようとした彼らですが、その試みは見事失敗、作戦を変えました。


彼らは地獄の壁に挑戦することにしたのです。


彼らは小隊ごとに隊列を組み、異なる地点から登り始めました。


老若男女関わらず毎日壁にピッケルを突き刺しつづけ、睡眠の際には野営用の簡易足場を組みながら、どこまでも続く、地獄の壁を登攀しつづけました。


逃亡者に極めて残酷な天海の住人と異なり、地獄の悪魔たちは弱者にほとんど興味がありませんでした。

それでも面白半分に、壁を這う虫のような彼らを魔術で焼き尽したり、武具の試し撃ちに彼らを使う者たちは後を断ちませんでしたが、それでも彼らは登り続けました。




少年は気がついたら、自分たちが最も高い所にいることに気がつきました。

そして自分たち以外に壁を登っている同族が残っていないことを直感的に悟りました。


それから、まず母が墜ち、

それに続くように父が墜ち、

先ほど、少年に全ての食糧を託して、兄が墜ちました。


少年の意識が薄まり、自分が登っているのか下っているのかさえもわからなくなり、登攀用のピッケルを一度外せば、自分も墜ちていくのだろうかそれとも昇っていくのだろうか、などとぼんやり考えていたとき、頭に何かがぶつかりました。


というよりも、頭の方が何かにぶつかったというのが正しい描写かもしれません。それは地獄の天辺でしたから。


まさかあるはずがないと思っていた地獄の蓋。

それに自分は頭をぶつけたのだ。というと信じられない思いでした。


少年は目を覚まし、先ほどまでの弱気を振り払うと、手慣れた様子で簡易足場を組み、兄に託された最後の食糧と水を飲み干し、猛然とピッケルを振るいました。


事実はどうあれ、

まったく同じタイミングであったと伝わっています。


鹵獲した船を元に天海軍が作り上げた潜水艦が、一家の住むコロニーを発見したとき、少女はやはり穴を掘っていました。


天海軍の攻撃により破壊されたコロニーの破片が降り注ぐ海底で、少女は穴を掘り続け、ついに掘り当てた穴の底に、墜ちてゆきました。




同刻、

少年のピッケルが砕けると同時に地獄の天蓋に穴が空き、

穴の中に吸い込まれた少年は、昇っていきました。




星のある爽やかな夜だったといいます。




二人はもうへとへとで、

すっかり疲れ、

芯から怯えてきっていました。


生まれて初めて見る地上は虫の音や、オオカミの遠吠え、夜鳥たちの鳴き声など彼らには正体のわからないものでいっぱいでした。


そんな夜の森をおっかなびっくり歩いていた少年と少女は、

とつぜん樹々が途切れ、その中にぽっかり開いた泉に出ました。


二人は水を求めて駆け出し、お互いの姿を見つけました。


不思議なことに、目が合った瞬間、相手ががどこから来て、そこではどのような者だったのかわかってしまいました。


彼らは見つめ合ううち、双眸に涙が吹き出してきましたが、

二人ともそれを無視するように雄叫びを上げ、

お互いの元へ走り、

泉の中しぶきを上げながら、

感情をぶつけるように殴り合い、

それから抱き合いました。



この二人から生まれたのが地上人、のちのわれわれの先祖です。



その後、さまざまな種族が難を逃れるため地上にやってきて、そこは少しずつ賑やかになってきました。


彼らの大半は戦に心底疲れており、地上では一切の争いが起きなかったといいます。


彼らはそこを共に栄える理想の場所にすることを約束しました。


強者というものの存在しない、その存在すら知らなかった地上の空気は、両界の者がかつて味わったことの無いほど穏やかでした。


天使と悪魔がやってくるまでは。

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