第9話
「……スイートルームなんて、人生で初めて入ったぞ……」
急遽宿泊することになったホテルだ。部屋が空いていればラッキーくらいに思っていたのだが、まさか最上階のスイートに泊まることになるとは。
駅からほど三つ星ホテルの屋上階からは、都会の夜景が煌めいている。
磨かれた汚れ一つない窓ガラスには、外をのぞき込む賀藤の目のクマまでしっかり映り込んでいた。
女であれば、『ロマンティックね』と喜びもできただろうが、男の身とあっては、会計にいくらかかるかの方が気になって落ち着かない。
一方、ヴィクは慣れているのか、ベッドに腰掛けながら、優雅にペリエなどたしなんでいる。
「ここの支配人とは知り合いなんだ。それにスイートって、普通の部屋とは逆に空いてることも多いらしいよ」
「そ、そうなのか……」
庶民の自分には、そもそもスイートに泊まるという選択肢が存在しないので、そういう事情があるとは知らなかった。
「悪いな。お前には、大人げない態度をとった」
賀藤はヴィクの方に向き直ると、深く頭を下げる。
「お前の善意を疑った。許して欲しい」
「ちょっと、やめてよガッティーノ! 悪いのは僕の方だよ」
ベッドから降りて近づくヴィクが、賀藤の肩をつかんで、頭を上げさせる。
「あなたのことが心配で、ついことを急いてしまった。ガッティーノにも、ガッティーノの生活があるのに、いきなり言われてもうなずけないのは無理ないよ。僕の方こそ、ごめんね」
「いや、ヴィク」
「それに、僕はマフィアだ。疑って当然だ。あなたは悪くないよ、ガッティーノ」
ヴィクが賀藤の頭をぽんとなでる。
まるで子どもをあやすかのような動作に、賀藤の頬に朱が走った。
「ヴィ、ヴィク、こういうのはちょっと……」
「こういうのって?」
「あ、頭をなでるのはやめてくれ……ただでさえ、お前には情けないところばかり見られているんだ」
「ガッティーノに情けないところなんてないよ」
ヴィクがさらに、頭をなでる。髪をすり抜ける指が、耳たぶをかすってくすぐったい。
「いや、オレは過信していた。多少の荒事なら対応する自信はあったんだが、いざさらわれそうになったら、このザマだ」
「ああ、空手やってたんだっけ?」
「多少は強いつもりだったんだが……情けないな」
「そんなことないよ」
ヴィクが賀藤の右手を取る。
その手の甲を、じっと見つめた。
「ガトーの手、殴りダコが出来てる。修練をたくさん積んだ証、でしょ?」
「それでも、お前が来なければ、今頃は……」
すると、ヴィクが右手に愛おしそうに口づける。
「ヴィ、ヴィク!?」
「胸を張って、ガッティーノ。僕は何もしてないよ。あなたが自分で敵を引きはがして、僕の元まで抜け出したんだ」
そのまま、ヴィクが恋人に捧げるように、何度もキスの雨を降らす。
賀藤の背筋に、小さな電流が走った。
悪寒のような、羞恥のような居心地悪さが、賀藤の心臓を跳ねさせる。
「ヴィ、ヴィク、待て! おま、なんか、雰囲気、変だぞ」
「変? どこが? 愛しい人にキスを捧げるのは、そんなにおかしいこと?」
「愛しい――!? ま、まさか、お前、その、そういう趣味が――!?」
「そういう趣味って、どういう趣味?」
中指の根本にあるタコに唇を触れながら、ヴィクが上目遣いに問う。
サファイアブルーの瞳が、情欲に潤んでいた。
「そ、それは、その、男が、男に――その」
「男色ってこと? さあ、どうだろうね」
「どうって――ッ!?」
言いよどんでいる隙に、ヴィクのキスがどんどん、手首、肘、二の腕と上がっていく。
たとえ服越しだとわかっていても、賀藤の動揺は止まらない。
「ま、待て! 待て待て待て! オレは、男はダメだ! ヴィ、ヴィク――!」
「ガッティーノ」
肩口まで来たヴィクの吐息が、耳にかかる。
「ガッティーノ・ミオ《僕の子猫ちゃん》」
「うぅ……っ!」
逃げようとしても、右手をしっかりと掴まれ、背後には夜景の映った高層階の窓ガラスと来た。
せめて視線をそらすが、逆に首元を見せる形になり、べろりとなめられる。
「ひゃあっ……!」
思わず、女みたいな声が出てしまったが、もはやそれどころではない。
ヴィクの愛撫は続いていく。
「ねえ、こっち見て」
「い、嫌だ!」
「お願い……ガッティーノ」
「だって、そっち見たら、キスする気だろ……!」
「ふふ、そうだよ」
「そうだよ、じゃないっ! オレは――」
叱りつけるつもりで、うっかり賀藤はヴィクの方を向いてしまう。
だが、予想に反して、ヴィクの表情は、真剣そのものだった。
思わず、賀藤は言葉を失う。
「ガッティーノ……」
視線が絡み合う。
ヴィクの唇が、すぐそこまできていた。あと数センチ、少しでも動けば触れてしまう。
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