第8話

「Ehi,Che fa!」

 その時、誰かの声がした。

 賀藤を拘束する腕の力が、一瞬弱まる。

 賀藤はハッとした。恐怖で弱っていた心が、息を吹き返す。

「くらえ!」

 がむしゃらに、賀藤は足を振り下ろす。足下に、うまく敵の足を踏みつけた感覚があった。

「――つぅッ!」

 耳元で、男のうめきが聞こえ、拘束がゆるんだ。咄嗟に、賀藤は前方へと走り出す。

 顔を覆っていた布を引きはがした。

「……ヴィク!」

 賀藤の正面に、ヴィクが息を切らして、立っていた。

 走ってきたのか、白磁のように白い肌が、血潮に染まっている。

 ヴィクが近寄ってきたかと思うと、腕を掴まれ、力強く抱きしめられた。

「ガッティーノ!」

「……っ」

 賀藤は、一瞬何が起こっているのか、わからなかった。

 ヴィクがここにいるということは――オレは、ヴィクに助けられたということなのか。

 急激に頬が熱くなる。さっきまで、ヴィクが自分をさらいに来たのだと――いや、殺しに来たのだと思っていたのだ。

「大丈夫? 怪我はない!?」

「あ……ああ」

 わけもわからぬオウムのように、ただ言葉を返す。

 ふと、背後で車のドアを閉める音がする。

 賀藤は振り返る。だが、すでに車は走り出し、あっという間に常闇へと姿を消していった。

 せめてナンバーだけでもと思ったが、やはり外されていて、確認できない。

「あ、逃げた――」

「今はいいよ。どうせ逃がしはしない」

 車の消えた闇を睨みつけながら、ヴィクが淡々と言い放つ。

「それよりガッティーノ。ひとまずどこかで落ち着こう。歩けるかい?」

「ん? そりゃ、歩くぐらい――」

「震えてるよ」

「……え?」

 言われて、初めて気がついた。指先が、細かく震えているのだ。

 その瞬間、足腰から力が抜けて、崩れ落ちそうになる。

 慌てて、ヴィクに抱えられた。

「おっと! やっぱりまだ歩くのはキツそうだね。すぐそこに車を用意しているから乗っていくといい」

「……でも……」

 今、車で連れ去られそうになったのに、また他人の車に乗り込むのは幾分の抵抗があった。

 だがそれを察したヴィクは、賀藤の手を引いて、落ち着かせるように両手を優しく包み込む。

「大丈夫。近くのホテルで休むだけ。あなたを無理矢理、アジトにつれていくようなマネはしないよ」

 甘いマスクで、ヴィクが優しく微笑んだ。

 邪気のなさそうな表情に、賀藤の気もかすかに緩む。

(……オレの考え過ぎか)

 ヴィクに抱えられたまま、賀藤はうなずいた。

「そう、だな。じゃあ、お言葉に甘えて」

「Si、もちろん。これくらいじゃ、賀藤に恩は返しきれないからね。もっと甘えてくれてもいいよ」

「年下に、そこまで甘える気はないが……」

「そう? 残念。甘やかすのは結構得意なんだけどな。気が変わったらまた言って」

 ヴィクがウィンクをしてみせる。気障なポーズだが、不思議とヴィクがやると、嫌味は感じない。

 外国人だからか、それともヴィク個人の資質なのか。  

(それとも、オレの気の持ちようか――)

 いずれにしても、つい先ほど水をかけて堂々とケンカを売った相手を、ヴィクは文句一つ言わず介抱してくれているのだ。

 賀藤の中で、感謝と罪悪感が、同一の質量で交わり始めていた。

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