第6話

 酔いのせいだけではないクラクラが、賀藤の脳みそを揺らした。

「……ちょ、ちょっと待て。決定事項? 何を言っているんだ、お前は」

「ガトー。僕の正体に気づかないでここに来た訳じゃないでしょう?」

 フフ、と何が楽しいのか、満面の笑みでヴィクが腕を組む。

 いきなり、空気が不穏になる。

 さっきまでの素直で純真無垢な少年は消え、代わりにいやらしい企みを抱えた正体不明の相手が、賀藤を絡み捉えようとしていた。

「お察しの通り、僕は……そうだな。日本人のガトーには、マフィアと言えばわかるかな」

「!」

 気づくと、ドア脇に控えていたボーイが姿を消している。

 その代わりに、後頭部に突き刺さる、殺気のような強い不快感。

 姿は見えないが、おそらく複数から監視されている。いや――命を狙われている。

「この一週間、ガッティーノのことをたっぷり調べさせてもらったよ。何せ、僕の命を救った人物だからね。あなたがどんな立場で、どんな思惑を持っているのか調べないわけにはいかなかった」

「……別に、オレは普通のサラリーマンだ」

「そう! ガッティーノ、あなたはびっくりするぐらい、僕らの稼業にはまったくもって無関係な一般人だった。正直言って、信じがたいよ。女神? それとも天使? ジャポネーゼはみんな神様なの?」

 大仰に手を組んで、祈ってみせるヴィクに、賀藤は警戒を強めた。

「だから――ガッティーノ、僕は決断した」

「何、を……」

「あなたをファミリーに入れ、今後、あなたに降りかかる一切の災厄から守り通す。それが、ガトーの意思に反してもね」

 ヴィクが立ち上がる。

 賀藤の肩が、小さく揺れた。

 側まで来ると、ヴィクは賀藤のあごを掴んで、無理矢理上を向かせる。

「あなたに拒否権はないよ、ガッティーノ。あなたはもう、僕を救ってしまった。それがあなたのどんな意思によるものかは知らないけれど、世の中は結果しか残らない。ユキオ・ガトーは、ヴィットーリオ・ジャンニーニの命の恩人。それは僕の味方にとっても、敵にとっても、紛れもない事実なんだよ」

「それはそうだが……」

「んー、その顔はまだわかってないね。つまり、あなたは僕の仲間、いや、大切な人になってしまったんだよ。――僕の敵にとって、あなたは格好の的になった。これから先、命の保証はない。あなたも、あなたの家族ファミーリエも」

「――っ」

 咄嗟にヴィクの手を振り払う。

 だが、特に気に障った様子もなく、ヴィクは話を続ける。

「弟さん、芸大目指してるんだってね。両親を亡くした後、男手一人で家計を支えるのは大変だったんじゃない」

「何が言いたい」

「簡単な話だよ、ガッティーノ。ファミリーに入ればいい。そうすれば、身の安全は手に入る。僕が、あなたも、あなたの家族も守ってあげられる。弟さんも、学費の心配をしなくて良い。僕も命の恩人に礼ができる。ウィンウィンの関係、っていうんじゃないかな、こういうの」

 賀藤の拳が震えた。

 何がウィンウィンの関係だ。こういうのを、脅迫というんだ。

「これがお前の礼なのか」

「そうだよ。ガッティーノ。もちろん、あなたに犯罪に手を染めろなんて言わないよ。最大限、今までと同じ生活を約束してあげる。ただ、安全のため、見張りをつけることくらいは許して――」

 気づいたら、賀藤はミネラルウォーターの入ったグラスを手にしていた。

 そして感情のまま、ヴィクに水をかける。

 びしょ濡れになったヴィクが、呆然として目をしばたかせていた。

「いいか、ヴィク。お前の行為を、日本じゃこう言うんだ。『恩を仇で返す』とな」

 そこまで言ったところで、何者かに無理矢理椅子から引きずり下ろされる。

 地面にうつぶせにさせられたかと思うと、後頭部に固い――おそらく銃口を突きつけられた。

「Stronzo!」

 かろうじて視線を向けると、浅黒い肌の大男がイタリア語で激昂している。

 おそらく、この野郎とか、くそったれ、とか、そう言った意味の言葉だろう。

「Fermarsi」

 それをヴィクが一言で制す。その後も幾度か会話のやりとりがあったが、賀藤には何と言っているのかわからなかった。

 しばしの軽い口論の末、大男が引き下がる。

 解放された賀藤は、大男を背にして、ヴィクの前に居直った。

「もう一度言うぞ、ヴィク。これがお前の礼なのか」

「……うーん。怒るとは思ったけど、こうも感情をむき出しにしてくるとは思わなかったよ、ガッティーノ。おかげでびしょ濡れだ」

 髪から滴る滴を、ナプキンでぬぐうと、ヴィクが苦笑する。

「でも、僕の意思は変わらない。言ったよね、ガッティーノ。これは決定事項だって」

「オレは承諾した覚えはない」

「それも言った。ガトーの意思を無視してでも、あなたをファミリーに入れる。それに、これが僕らにとって最善の手だって、ガッティーノも本当はわかってるでしょ。互いの利益を考えてよ」

 ヴィクが賀藤の目線を正面から捉える。

 意外なほど、ヴィクの視線はまっすぐだった。だから、賀藤も正直に応える。

「ああ、お前の言うことはわかる」

「なら」

「だが――オレは、お前ほど、大人になれないようだ」

「は?」

「オレは、お前を信用しない。今日オレたちには、いくつもの道があった。互いを信頼し、尊重する道もあった。それを先に絶ったのはお前だ、ヴィク」

 賀藤の中で感情がふくれあがっていく。

 久しくない気分だ。感情と意思が徐々に、距離を縮めていく。

 考えるより先に、言葉が出ていた。

「信じられない相手からの庇護は、愛じゃない。家畜のそれと同じだ。お前は、オレとオレの家族を、金と力で買い取ろうとした。オレは、それが許せない」

「それは……」

「違うとは言わせないぞ。ヴィク、オレが欲しいなら、本気で来い。金や脅しで買えるほど、オレは安くないぞ」

 それ以上、この場にいたくなかった。

 賀藤はすぐに踵を返す。だから、その後のヴィクの表情も様子も、知り得ることはなかった。

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