第10話 それは痛い……
「……」
その姿を見送り、誰も居なくなった宿の一室で深湖は呆然と佇む。
暫く部屋の中で宙を見ていたが、突然その身体は糸が切れたように力が抜け、からりと小気味良い音を立てて握り締めていた弓が掌から落ちる。
「……はあぁあ〜」
壁に背中を預けてズルズルとへたり込み、座り込んだ瞬間天井を仰いで、詰めていた息を吐き出した。
まるで嵐のようだ。実感もない。
一瞬の出来事すぎて、現実なのかどうかの判断も放棄して、開け放たれたままのドアから見える廊下をぼーっと眺めて放心状態だ。
どれくらい時が経ったのか、人の気配と足音が聞こえる。その足音を聞いて、深湖はやっと立ち上がった。
そして側に転がっていた弓を拾い、ひょっこりと顔を出した見知った顔を目にしてホッと息を吐く。
「おいおい、気緩めすぎだぞ」
苦笑いをしたルプスに、深湖は疲れのため息を返す。
人の気配まで探っている余裕など今の深湖にある筈もない。
そしてドアから見えていない半身から、グッと何かを引きずり出した。
深湖にも足音がルプス1人のものだけではないことは分かっていた。なけなしの気力で弓を引き寄せた自分に拍手を送りたいと、深湖は内心ルプスに対して抗議めいた感想を抱く。
きっとまだ、ルプス1人ならへたり込んだままだっただろう。
そして現れたのは、脚を血まみれにした男だった。
「うぐ…」
痛むのだろう、一応立ってはいるが脚は引きずっている。ここまで引きずられるようにではあるが、歩いてきたこと自体が奇跡のように感じた。
数人しか出会っていないとは言え、深湖にとってはカルチャーショックな出来事ばかりだ。だがその驚きも、予想よりも随分と落ち着いた心境で受け止めていた。
「あ……」
自分が負わせた傷。
深湖は表情にこそ顕われなかったが、スッと視線を逸らした。
脚にはまだ矢が刺さっている。間違いなく、深湖が自分の意思で放った矢は、1人の男を傷付けた。動かせば、刺さっている矢尻が脚の内部を更に傷付けるだろう。
ルプスはあえてそれを抜いていないのだが、深湖にはどの状態が正解なのかわからない。
「別に連れてこなくても良かったんだがな、あんたに会いたいって言うもんで連れてきた。」
そしてルプスはポイッと室内に男を放り、自身も滑り込んだ瞬間扉を閉めた。
痛む脚でろくに立つこともできなかった男は床に転がり、脚を庇いきれず矢の刺さったままの膝を床にぶつけた。
「あぁあああッッ」
男は叫ぶ。
痛い、そりゃあ痛いだろう。
何せルプスに転がされた衝撃で矢が折れた。膝に深々と刺さったままの矢が、折れるほどの衝撃を受けたのだ。
皮膚を貫通し、皿を割り、その下の関節部分に矢尻は挟まるように滑り込んでいる。あと少しで貫通してしまえるのに、中途半端に刺さっているせいで何時までも鋭い矢尻がその内部を傷付けていた。
痛みで起き上がることもできなかった男は、憎悪の籠った瞳でルプスをギッと睨んだ。
「ほら、俺に熱烈な視線送ってねえで、さっさと用件を済ませたらどうだ」
そう口端を持ち上げるが、その瞳は暗く感情を映していない。男は憎悪を抱きつつ、その視線を深湖に移した。
「ーーーっ」
深湖の吸い込もうとした息が止まる。
憎悪の瞳、殺意の籠った視線、そんなもの日常生活で味わったこともある訳がない。
深湖が底知れぬ恐怖に固まっていると、男の瞳からは段々と憎悪の色が消えていった。恐怖に固まっている深湖は男の変化に気付く余裕もなく、その内に男の憎悪は完全に消え失せ、やがて救済を求める縋るような色を映しだした。
「頼むーー」
深湖はビクリと肩を揺らした。
「頼む……っ」
痛みに身体を引きずりながら、ズリズリと男は躙り寄る。壁際にいる深湖には逃げ場などないのに、気持ちが更に身体を後退させようと強く背中を壁に押し付ける。
恐怖に深湖が固まっていると、男が突然床にへたった。
「それ以上近付いたら殺すぞ」
憎悪も何もない、ただの威圧は声となって床を這った。それまでルプスに何をされたのか、ルプスの鶴の一声で男の動きが止まる。
男の動きが止まった事で、深湖は詰めていた息をはあはあと吐き出した。
「頼む、頼む……」
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