出口へ向かって

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 十二月二十四日、クリスマス・イブ。

 欧米文化が浸透しきった真幌市で、とりわけ凄まじい聖夜を真幌市中央署の職員はおくっていた。


 喧嘩、痴漢、ひったくり等の犯人や被害者が次々とやってくる。


 午後九時。もはや人権損害なんのそのと警察官はろくに調書も取らず、確保した現行犯を留置所へ。

 牢の鍵を開けるや、どっと出て来る軽犯罪者とその予備軍。男性警官三人でスクラムを組み、タックルして押し止め、隙間から新たに連行された者を詰め込む。


 鍵を閉めると怨嗟の声が轟く。現場の警察官はそれを聞き流し、別件のために留置所を後にする。


 入れ違いに、今度は釈放を告げるために別の警察官が来る。その時も同じようにスクラムを組んで押し寄せる人波を押し止め……。


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 こうした処置をせざるを得ない理由は二つあった。


 一つ、街の人口に比例して犯罪者が多く、収容する施設も無い。

 二つ、余裕が無い。


 警察にこれらを解決できるはずも無いし、大胆な改革をするお題目にはならない。

 性質上、後手に回るしかない警察は常に〝万が一の事態〟を意識している。予想できない事態に陥っても混乱せず冷静に対処しなければならない。


 そのために必要なのは盤石な職場作りだと田伏たぶせはじめは考えていた。


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 田伏一は昔、東大卒のキャリア組として警視庁に勤務していた。しかし当時の上司の捜査方針に納得できず、口論の末に上司の頬に張り手をかましてしまった。

 たった一発の張り手が彼を、本庁勤務から地方署の平刑事にさせた。二十年もの前のことだった。年齢が四十を超えると笑い話にもならないし、この終戦直後の動乱さながらの職場にもすっかり慣れてしまった。

 現在の彼にとって気がかりなのは家のローン、一人娘の将来、そして禁煙化の進む世相。


 刑事課にある自身のデスクで泥酔したサラリーマン相手にもう二時間経つ。誰も彼を責めることは無いし、気に掛ける余裕も無い。


 田伏一の目が今年配属された新人を捉えた。署と街を走り回って疲れたのか、刑事課の入り口で、ごつい体格に不釣り合いな顔をして、口元を押さえている。

「吐くならトイレ。駆け足」

 そう声を掛けるや、新人は足早に去った。一は椅子にもたれかかって会話の続きを始める。

「俺は、クリスマスって楽しい思い出ばかりだよ。おたくは違うの?」

 サラリーマンは「うひゃひゃ」と甲高い笑い声を上げた。そして手に持ったワンカップ酒を一口飲んでいう。

「クリスマスは、あれです、キリストの誕生日です」

 一は何度も頷く。サラリーマンは続けた。

「キリストはね、マリアから生まれたんですねぇ。父親は……わからないっ!」

 ワンカップをぐいと飲むサラリーマンを見て、一は改めて思う。自分と彼の年齢が近い事と、彼の方が年上であることを。

「刑事さん、うちの娘はねぇ、マリアなんですよ」

「可愛らしいお名前だ」と一が答えると、

「違う!」

 サラリーマンが声を荒げた。

「うちの娘はリコ! 何べん言わすんですかぁ!」

 一は頭を掻きながら「初めて聞いたんだけど」と呟いた。

「孫もおるんです。私は……おじいちゃんであります!」

「それは聞いた。娘と孫と嫁さん、一緒に暮らしてるんでしょ。おじいちゃん、頑張って働いて食わせてやってるんでしょ」

 ワンカップを握るサラリーマンの手が震え出す。

 一は引き際だと悟った。


――酔っ払いの話には法則がある。本題からずれて、別の話をし始めても、根気よく話を続けると本題に戻り、時間を掛ければ掛けるだけ同じ話を繰り返す。やがて繰り返している内に、本人しか知り得ない情報を漏らすが、その情報を引き出すためには真摯に向き合って時間を掛けないと――


 この理念に従い、一は決してサボっているわけではなく、確実に仕事をこなしているのだが、そう見えず刑事課長の冷ややかな視線を浴びる。彼の、のんべんだらりとした口調と昼行燈のような態度のせいだった。

「そんな立派なおじいちゃんが、どうして暴れたのさ。ワッパもんの暴れっぷりだったらしいけど」

「ワッパ?」

 一は「手錠のこと、逮捕するってこと。娘さんら怪我してるから、立件されるかもね。すると裁判だ。で、有罪なら刑務所だ」という。

 するとサラリーマンは先ほどまでの勢いを無くし、首を下げ呟き始めた。

「孫には父親がおらんのです。皆で隠しとるんです。だから今日、問いただしたんです。そしたら娘が言うには……」

 頭を振って、サラリーマンは一に抱きついてきた。


「よしよし。泣きたいなら泣きなさい。企業戦士は酒に溺れなきゃ、やってられんわなぁ」

 ひょうひょうとした口調で慰めながら、一は刑事課内を見渡し、先ほどトイレに向かった刑事が帰ってきたのを見つける。

「おーい。手ぇ使え」

 手を使えとは〝ハンドサインで会話しろ〟という一が作った暗号だった。手話ほどではないが意思疎通はできる。


 新人はきょとんとしながら、覚えたてのジェスチャーを送った。

〝何でしょう?〟

 一もジェスチャーで返す。

〝この男の被害者を呼んできて〟

 新人は頷いて踵を返し、刑事課を出て行った。

 残された一は、サラリーマンに最後の質問をかけた。

「娘さん、旦那は誰と答えた?」

 鼻をすすりながらサラリーマンは一の体から離れ、絞り出すようにいう。

「マイケル、と」

 一は首を傾げる。

 サラリーマンは一の胸倉を掴み、叫んだ。

「刑事さん! マイケルって誰ですか!」

「知らないよ、そんなこと」

「ジャクソンですか! 富岡ですか!」

「おーい、誰か助けてくれ」

 すぐに職員が駆けつけ一から引き離されたサラリーマンは、引きずられ留置所に押し込まれることになった。


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 一は、被害者から事情を改めて聞き、立件するかどうか家族内で冷静になって話しするように提案した。

「俺の対応がまずかったみたいで。お父さんは暫くここで頭冷やしてもらいます。お詫びを兼ねて、年内にお伺いさせてもらっても?」


 この一の発言にリコという娘は首を横に振った。

 拒絶されたのでは無く、赦されたと一は胸を撫で下ろした。

「私がいけないんです。きちんと説明しなかったから……普段は本当に優しい父なんです」

「何かあったらいつでも来てください。むさ苦しい所ですが……電話でも構いません。俺より優秀な警官は山ほどいるんで」

「ご迷惑を、おかけしました」

 深く礼をするリコ。

 一は掛ける言葉がなかった。彼女の左手の五指、手首に包帯が巻かれている。そして五歳ぐらいの女の子が彼女の右手をしっかりと握りしめ、一を睨みつけていた。

「父を、よろしくお願いします」

 リコは頭を上げ、署の喧騒に紛れて行く。女の子は母親の右手を掴んでおり、一には母親の歩く道を作っているように見えた。


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 次の事件の容疑者が、一の元に連行されて来る。

 白人の男性で、こちらもだいぶ酔っていた。一はまず日本語が話せるかと日本語で尋ねた。

 白人の男性は笑いながら親指を立てて見せる。

「お名前、年齢、国籍、言えます?」

 するとまたも親指を立てて見せるだけで、声は返ってこない。

「もしかして、マイケルさん?」

 すると白人男性はやや左上の宙を見つめて、肩をすくめて見せた。

「そんな偶然、あるはずないか」

 一は長期戦を止む無くされた。


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 午後十時。これからが真幌市中央署の真価が問われる。

 先の田伏一が相手したような酔っ払いが、打って変わって被害者になる。

 連れてこられるのは、ホスト、ヤクザ、不良グループ等、犯罪に精通している者たち。


 だが一は長い時間をかけ、白人男性の調書を取っていた。

「へー。イギリスですか。そりゃまた遠いとこから。日本には楽しいとこ、いっぱいあるのに、何でここに?」

 すると白人男性は大きな笑い声を上げた。

 つられて一も笑う。

 

 刑事課の職員全員が警邏で寒空の下にいる中、田伏一と刑事課長だけが自分のデスクに陣取っていた。

 

 一のデスクの電話が鳴る。が、一は会話を止めなかった。ハンドサインで課長に出てもらうよう送る。

「真幌市中央署刑事課……電話せんと走って来い」

 今晩だけで、二十回も電話番をさせられた刑事課長の声に、苛立ちが籠る。

「ああん? 今ぁ? 下にいる?」


 その声を聞くや、一は白人男性から顔を背け、刑事課長の方へ向いていた。

「わかった、連れて来い。こっちでやる」

 課長は受話器をそっと戻した。ため息をついて一と目が合うと、ハンドサインを送った。

〝自首〟

 一はすぐに返事を送った。

〝何の件で?〟

 度重なる電話番とサインによる会話を止め、刑事課長は声にして答える。

「殺し」


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 殺人事件が一件でも起こったなら管轄内の全職員は解決するまでプライベートを奪われる。寝食も帰宅もままならない状態で会議、情報収集で署と街を走り回り、通常業務もこなさなければならない。

 しかも解決したところでその功労を称えられるのは一部のキャリアのみ。所轄の警察官には何も無い。

 殉職すれば二階級特進できるが、それは捜査中に殺害された場合であって過労死は殉職にならない。


 警察官が血眼になって犯人検挙を目指すのは、劣悪な職場からの解放の念も含まれている。


 果たして卵が先か、鶏が先かの問いに似た体で、警察官は犯人を憎む。少なくとも一はそう考えていた。


 刑事課に連行されてきたのは十代半ばの背の高い、痩せぎすの女だった。服装は黒のスーツにYシャツ。ネクタイをきつく締め、光るほど磨かれた革靴を履いていた。髪の毛は軽いパーマ、脱色も染めもしていない。

 一が近寄ると、品の良い香りが鼻腔をくすぐった。


 女は拘束などされておらず、署の男性職員が一名着いているだけだった。

 女は一を見るや、深々と頭を下げて名乗る。

「狩川リタです。この度は」

 一は彼女の言葉を遮るように隣の職員に声を掛けた。

「いきさつは?」

「午後十時二十三分、受付けにて人を殺した、自首をしたいとの報を受け、その場で緊急確保しました!」

 職員は背筋を伸ばし、礼儀正しく答える。一は職員と、頭を下げたままの狩川を交互に見ながら聞き、問う。


「それで? どうしろって?」


 職員は、すぐに返答せず、数秒経ってから答えた。

「け、刑事課長が連行しろとの報を受け、連行したであります」

「殺しならすぐ本部に連絡しろ。本部の刑事が来るまで受付けで待たせりゃいい。課長は面子で断るに断れないだけ。実際、俺らがやれることは話することだけ」

「連絡はしました。が、逃亡の恐れもありますので」

「自首して逃げる、なんてするか? 怪しいなら車で本部に連行するとか、やりようはいくらでもある。ちょっと肩の力を抜け。日本語もおかしいぞ」

 そして一は膝を曲げ、狩川の顔を横から見た。

 色白い彼女の肌には傷も汚れも無い。一はそのまま話し掛ける。

「狩川さん、少しお待ちください。すぐ県警本部の者が来ますから……それと本当に罪を償いたいなら、謝る相手が違うぐらい、理解できないか」

 

 すると狩川はゆっくりと頭を上げ、背筋を伸ばした。

 その顔は清々しく、凛としていた。


「それでは職場へ戻ります! よろしくお願いします!」

 職員は敬礼をして刑事課を後にする。その歩は大股できびきびとしていた。

「やれやれ。すっかり飲まれてやがる」

 一は愚痴と共に嘆息を漏らし、狩川の肩を叩いていう。

「座ってお茶でもしますか。俺、日本語に飢えてきたとこだから」

「事情聴取なら、いくらでも」

 一は頭を掻きながら、刑事課長を見る。ハンドサインを送るまでも無く、課長は立ち上がった。

「ここまで上司に指図するやつは、後にも先にもあんただけだな!」

 そして一のデスクに向かい「ハロー!」と中学生レベルの英会話を始めた。

 

 一は苦笑しながら、狩川を刑事課の奥に案内する。


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 扉一枚隔てた応接室に通し、ソファに座らせた後、狩川を一人にして刑事課から給湯室に向かって歩いた。

 コーヒーを二杯淹れ、砂糖とミルクをポケットに突っ込み、再び刑事課に戻った。

 盛り上がりを見せる刑事課長と白人男性の会話に、一言だけ言葉を挟んだ。

「そいつクスリで酔ってるから、くれぐれも挑発しないように」

 すると刑事課長は言葉を詰まらせ、白人男性の笑い声が刑事課に響き渡った。


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 応接室のソファに座る狩川を見て、一は「女性の職員が出払ってて」という。

 狩川は、背とソファの背もたれの間に拳一つ分のスぺースを作り座っていた。足は開き過ぎず閉じ過ぎず、両手は太ももの中間に置くという姿勢。


「そんな形式ばった姿勢をすると、ストレスで顔の筋肉を強張らせる。とりわけ他人が登場するたび、ぐっと頬に力が入る……せっかく美人なんだから、リラックスしなさい」


 コーヒーを置いてから、一はどっかりとソファに腰を降ろした。

 真正面から狩川を見ると、彼女は目を伏せて「いただきます」とコーヒーカップを手に取った。

「狩川さん、砂糖とミルクは? 苦いでしょ、ここの」

「いえ。普段、エスプレッソばかり飲んでいるので」

「ふーん」と一は砂糖とミルクをコーヒーに投入し飲んだ。「マズ……泥みたいだ」

 一は舌を出して、えずいた。すると狩川がハンカチを差し出してくる。

「ああ、どうも」

 受け取って口回りをハンカチで拭いつつ一は狩川を観察し続ける。

「ハンカチ、洗って返しますから」

「気になさらないでください。私にはもう、必要ないので」

「そんなことない」

 狩川はコーヒーを啜っていたが、やがて口元を押さえ始めてしまった。一はにんまりと笑顔を浮かべる。

「ほら、必要になった」

 一はポケットから未開封のティッシュを取り出し、狩川に渡した。礼を述べて狩川は口回りを拭く。

「狩川さん、いくら自首で卑下しても、何か裏があるんじゃないかと疑うよ」

「どういう事ですか?」

 一は上体を起こし、やや前のめりになった。


「あんた、色白で痩せてるだけの健康体だ。とても良心の呵責に云々ってツラしてない。誰かの代わりとか、どうせ自分は無罪だとか、何か企んでの来訪と見た」


 狩川は表情を曇らせ言葉を返す。

「ここで帰りますと言ったところで、帰してくれませんよね」

「うん。意地でも帰さない。今頃、本部の刑事が現場を確認してる。ここで帰したら切腹ものだ」

「わからない人。あなた、本当に刑事ですか?」

 一は警察手帳を取り出し、開いて突きつける。


「真幌市中央署の田伏一です。ごめんね、現実の警官がこんなんで」


 じっと狩川を見つめながら、一は手帳を懐にしまう。

 狩川は一を怪訝そうに見つめていた。

 足の短いテーブルにはコーヒーのカップが二つ。他に何もない。

 

 やがて狩川はこの部屋が怪しいという。


「こんな密室で男性刑事と二人きり。しかもなんて……ねつ造、隠蔽、やりたい放題ですね?」

「そんなことする必要も意味も無い。やれ省エネだエコだ、やかましいし、マユツバの証言や妄想、狂言に割く紙すら惜しい。これも切実な現実の問題」

「なら私は、ここで何をすれば?」

「だから、県警本部の刑事が来るまで待ちなさい。話したいならどうぞご自由に。でも俺は聞くしかできない。殺人とか重犯罪の場合、調書を取ることすら本部の仕事だから」

 一はソファにもたれかかり口を閉ざした。

 狩川はじっと一を見ながら、ゆっくりとした口調で自分の犯した罪を吐く。

 

 その自供は、長く丁寧なものだった。

 ただし、田伏一は捜査の対象にならないと考えていた。


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