Side〝F〟ー1 Life 4 U


 デスクトップパソコンの青白い光が女の顔を照らしている。

 彼女は心の内で叫んだ。

『このサイトで書き、晒すのが自分の使命。しかし書くことでしか事件の(実際に起こったあの忌々しい殺人事件の)被害者が救われない。何故なら、かの事件はとっくに解決しているものの、自分の心にこびりついて離れない。犯人は逮捕され刑も決ったが、今でも取りざたされて、当時の捜査員の心境を綴った本まで出版されている。被害者の遺族たちは毎年事件の起こった日に涙を流して、当時小学生だったわが子の冥福を祈っている。傍観していた者は忘れかけているかもしれない。でも私は違う!』

 

 彼女は先ほどまでサイトに書きこんでいたコメントをフォルダに保存し、コーヒーをすすった。書き込み前に淹れたドリップコーヒーは冷めきっており、口内は砂糖の甘味で唾が失われていく。キッチンに向かうべく腰を上げて部屋を出ようとした。部屋に散乱しているCDや本を避けながら歩いたのだが、一枚のCDを踏んでしまい、プラスチックケースの割れる音に肩を震わせた。


 ゆっくり右足を上げて、踏みつけたCDが何かを確かめる。ミスター・フーのセカンドアルバム〝LABYRINTH No25〟だった。上げた右足を降ろして座る。床にマグカップを置いた。


 ひびの入ったケースを手に取ってゆっくりと開ける。銀色のCDには傷が無い。息をついて田伏は歌詞カードを取り出した。日本国内で発売された輸入ものなら日本人のライターによる解説書があるのだが、こちらは海外版のため英語ばかりの薄い歌詞カード。

 全6曲だが総演奏時間は四十分もある。一曲目から途切れることなく演奏が続く大作だと彼女は歌詞を読みふけった。


『一曲目は〝25 to life〟。直訳すれば〝25年の人生〟だが、スラングで〝終身刑〟という意味もある。

 二曲目は〝Land Of The Free ?〟で、これは〝?〟がついているために〝自由の国なのか〟となる。

 三曲目は〝My Name is〟で四曲目が〝Ⅽage〟。これらはそのまま〝私の名前は〟と〝籠〟。残る曲は表記されていない。でも、ケースの裏には書かれている。

 ミスなのか、何かの意図があるのか……あの事件のように、理解に苦しむな』


 彼女の心は穏やかでなかった。

『本当に報われるのだろうか。いやそもそも私にあの事件を語れるのだろうか。私はやっぱり公務員でしかない』

 彼女はカップを持たずに立ち上がって、部屋を出ていく。フロアリングの床をパジャマ姿、裸足で歩き、数秒でキッチンに降りてきた。

 

 家は一軒家であったが、ここ三日間、住人は彼女だけだった。両親は沖縄まで旅行している。


 そのまま玄関に向かい、つっかけを履いて朝の光を浴びに行く。日差しが強い。気温も湿度も高く、すぐに彼女は家へ戻ろうとした。その前に郵便ポストを開けて朝刊やら速達やらを取って。


 両親から彼女を想う文が今日もあった。絵葉書だった。

 銀婚式である今年、彼女は両親に十日間の沖縄旅行をプレゼントした。八月一日に出発してから毎日のようにFAXや葉書が来る。今日の絵葉書は真夏の太陽に照らされエメラルドグリーンとなった海の写真だった。下にマジックペンで礼文とともに八月五日と書いてあった。


『今日は、八月八日だったかな』

 玄関でつっかけを脱ぎ捨て、彼女は絵葉書の端を前歯で咬んで、新聞を見る。新聞には八月八日とあって、絵葉書をそっと口から取った。


 キッチンは広く、玄関からすぐ右の扉を開けばリビングと繋がった三十畳もの一間がある。彼女は果物の置かれているウッドカウンターに郵便ポストから取ったものをまとめて積んだ。

 遮光カーテンやスモークガラスで日差しはほとんど遮られて薄暗い。しかし彼女には直射日光を浴びたせいで、緑や赤のシミが見えた。その万華鏡の中を彼女は少し歩き、しゃがんで手探り、包丁を一丁だけ手にした。


『セラミック製……はたしてこれで人間が解体できるのかな』


 彼女は疑問に思うものの試すことはしない。

 

『今まで、資料と空想のみで事件について書いてきた。実際に体験したことなど一つも無かった。

 例えば今、私は自殺するために包丁を使うべきかなんて悩みもしない。自殺するなら首を吊る。この包丁を最後に研いだのは半年前で、ためらい傷から自殺願望が消失するかもしれない。ならば高いところから落ちるか、自ら逃げ場を塞ぎ必ず死ぬようにする。これは動機と一致する。自殺という犯罪に衝動的とかどうかなんて論じることはできない。

 懐に隠すと胸あたりは危なっかしい。腰の横に挟むよりは背骨の辺りが良いようだ。落ちても傷つける部分が少なく、ベルトできつく固定すれば良い。直接触られない限り発覚しないかも』

 

 彼女はウッドテーブルに包丁を刺しつけようとしたが、刺さらずに刃先が欠けた。息をつき果物に刺した。刺されたリンゴがころんと転がってテーブルに留まる。

 彼女はインスタントコーヒーを探しながら考えた。

『あの事件の加害者は、どうやって誘拐を成功させたのだろう。被害者が小学生だったという点を踏まえてもそこが理解できない』

 

 彼女は加害者と被害者という両極の人間でもとりわけ、被害者の思考が理解できなかった。ゆえにコメントがあやふやだったと悔いた。

 加害者の弁は声をかけたら着いてきたと思い出す。ポットの湯が沸くまで彼女は考えた。


『嘘だ』


 これまで読んだ犯罪についての評論のなか、彼女はミシェル・フーコーを好んでいた。

『フーコーの時代より昨今の凶悪犯は手が込んでいる。これは被害者らの防衛意識の過剰さからのものか、無きものからか理解できない』

 彼女はポットの湯をマグカップに注ぎ、啜る。

 

 味が無かった。インスタントコーヒーの粉も砂糖もミルクも入れていなかった。彼女は白湯を飲んでいた。

『私、何故気づかなかったのだろう。急ぎ過ぎていていたのだろうか』

 彼女の頭にパズルのピースを間違えた時の挫折感が湧いてきた。足が自室へと進んでいく。


 #

 PCに向かい、コメントの修正に取り掛かる彼女は、改めて考え直す。

 その考えをノートに書き綴って行く。

 事件の進行、犯人への手がかり、人物の発言……無論、彼女はそのすべてを悟っていた。

 だが、三時間ほどで新たな考えに行き着く。

『これではエンターテイメントのプロットのようだ。そうじゃない、あの事件は実際にあった。しかし……犯罪? 犯罪は殺人だけではない。サイトのような警察内における極端な捜査も犯罪だ。それらを浮き彫りにさせ、あの事件を皆に想起させないと』

 

 オーディオにCDをセットして田伏は曲を流した。

 

 アルバムの第五曲目のタイトルは〝Labyrinth No.25〟。〝二十五番目の迷宮〟と訳すそれを聴いていると意志に反し、コメントを打つ指が突然〝knot〟をふってしまった。


『不完全な迷宮……』


 それから彼女のコメント投稿作業は夜まで続いた。

 彼女は自身の建てた場のタイトルを変更した。

 

 『Side〝F〟不・完全迷宮第二十五番』と。


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