Side〝T〟-3 Normal Life

 

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 青年は少女に声をかけた。

「今、十二時ごろ。昼食は三時にしようか。おそいけど、作るならいっぺんに作っておきたいから」

 曲は流れていなかった。少女はピアノのそばに駆け寄る。鍵盤は相変わらず上がったり下がったりを繰り返していたが、青年が野菜を刻む音で店内は満たされている。少女は、息をついて窓際の席に座った。

 

 ガラス一枚隔てた外界の歩道。

 

 通る人は皆、店を一瞥しても来店しなかった。すこしの間だけ立ち止まって携帯電話をいじったり、パンフレットや地図をみたりして通り過ぎて行った。


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 夕立はなかったが、空が曇って暗くなり車が目立つようになる。歩行者は減り、カレーの匂いが店内に漂う。

「作りすぎた。今日の特別メニューにしようと思ったら……」

 大皿にてんこ盛りのカレーライスを運んできて、少女の前に置く。青年の左耳にはイヤホンがあった。食べる前に、それを外してシャツの胸にあるスイッチを押すと、ピアノの曲が店内に流れ始めた。

「自分だけ聴いてたの? ずっと流しててよ」

 少女はスプーンを取り、カレーをすくう。青年はがつがつと食べて、お冷を飲み、胃に流し込んでから答える。

「飽きられると困るから。おあずけしないと、帰っちゃうだろ」

「何それ。犬じゃないんだから」

 少女は、べーと舌を出す。スプーンは持ったまま、まだ口をつけていなかった。

「飽きないもん。たぶん、この夏は毎日、聴いていられる」

「俺はキミと一生いてもいいよ。面白いから」

 からん、とスプーンを落とし少女は髪をほどく。

 青年が「フケは落とさないで」とカレーを頬張り「食べ終わったら風呂、入って。ここ、住宅を兼ねてるんで。空き部屋は掃除しておくよ」

 青年の言葉に頷き、少女はメモをとった。


『なんだか、胸が苦しい……』


 そして髪を後ろで束ねた。


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 少女はスプーンを洩って大盛りのカレーを二分とかからず食べきった。そして青年が食べる姿を見ながら、お冷を飲んだ。


「客は来ず。料理は美味いのに」と少女はいう。がらんどうのカウンターを見やり「やはりマスターの人柄かな」と付け加え横目で青年を見る。

 彼は、口の端に付いたルーをナプキンで拭きつつ「変な人には好かれるけど」とスプーンで少女を指す。

「とりわけてキミは、独特。大人なのか子供なのかわからない。よく言われない?」

「うん。ボクは異常者だ。昔、やらかした。罪や贖罪を考え出したらきりがない。考えないように人格を変えている」

 ピアノに顔を向けながらも、少女は横目で青年を見た。彼はスプーンを引っ込め、カレーを食べていた。大きく切ったなすびを口に含んだとき、これこれ、という。

「意外だったよ。なすび。イケる。ちょっと柔らかいけど、味がよく染みこんで……俺の知らないことをキミは教えてくれる。嬉しくって、つい煮込む時間も、量も適当になった。どうだった?」

「とりあえず腹はふくれた。シャワーはどこかな」

「カウンターの奥、扉を開けて入って、廊下の最後」

 じゃあ、と少女は席を立ってカウンターに右手を置く。その手を軸に飛び上がり、ひょいっと飛び越えた。青年は口笛を鳴らす。

「どういう体してるの?」

 両手を広げて少女が背中を向けたまま、覗いてごらんという。青年はその背中に向かって、

「タダでは済まなそうなんで、遠慮するよ」

「食後の運動に、うってつけだと思ったのに」

 ステンレス製の扉を開け、少女はその奥に入る。電気はついていないが、L字型に曲がった廊下の先に窓が三つある。夕焼けの日で廊下が見えた。



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 電球が照らす風呂場は、ユニット・バスだった。

 少女は扉を締め切らず数センチの間を開け、トイレの区間でワンピースを脱ぎ、下着も脱ぎ、シャワーのコックを捻って、温度を調節する。浴槽に栓をし、溜まるまで扉の前で立って耳を澄ました。足音は聞こえなかった。

 舌打ちして少女は扉を閉める。浴槽に入ってシャワーの勢いを激しくして、頭から浴びた。口を開けて落ちてくる湯を口に含む。

 壁には袋がかかっており、探ってみると中にはボディソープやシャンプーがあったが使わなかった。

 髪を乱暴に洗い、シャワーを止めて半身だけ湯につかる。髪や蛇口から落ちる雫の音に混じって、足音が聞こえた。

 そして、こんこんと、ノック音と同時に「おーい」との声。少女は湯につかりながら返事をする。

「一緒にはいるかい?」

「違うって。店が混んできて……タオルと着替え、扉の前に置くよ。サイズは適当だけど、衛生面はばっちり」

 少女は先まで着ていた黒のワンピースに目をやり「この服を着るよ」という。が、青年は、洗濯しますからと廊下を早足で歩いて行った。


 栓を取って湯を捨てる。

 少女は廊下への扉を開ける。青年の姿はなかった。

 夕暮れの明りもなくなっており、暗い。風呂場の明かりのみ。置いてある服は白いシャツと緑のカーゴパンツだった。下着は封をされた新品のショーツが一つ。サイズの違うスポーツブラ。全てを持って風呂場に戻った。

 白いバスタオルで頭から足先まで拭き、ドライヤーで髪を乾かし鏡を見る。六十センチほどの鏡は湯気で曇っていた。

 指でなぞると、きゅ、と音がした。なぞった部分だけ、少女の顔が見える。

〝精神病者=いくじなし?〟と書くが、すぐに露となって垂れ落ちた。

 

 封をきって、ショーツとブラを着け、服を着る。明かりをそのままにして暗い廊下を歩いた。


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 夕時から店内は賑やかになっていった。喫煙席は十二人もの大学生たちが飲み会を開き、独占していた。対して禁煙席は仕事帰りの男女が寄り添うようにしてピアノの旋律と酒に酔ったり、夜職の女がコーヒーを飲みながらメイクしたり。入れ替わりも早かった。

 

 青年は一人ですべての客の相手をしていた。常連には今日の出来事を聞き、冗談で返す。新顔には、少女と同じくサービスドリンクをきっかけに出身地などを訪ねて、話を少しずつ広げていた。

 少女はピアノの横、指定席に陣取り店内を眺めて、アイスコーヒーを飲んでいた。


 禁煙席から客がいなくなり、青年は胸のスイッチを押し、ピアノの音を独占した。テーブルを拭く彼に向かって少女は声をかける。

「いいところだったのに。曲の中盤でおあずけかい」

「バレたか」と青年は笑っていう。

「この曲、同じフレーズでも音やテンポが細かく変わるよね。終盤になると一つのところで留まって、突然、終わる……途中まで楽しいのに、終わりは悲しい。人生みたいだろ?」

「だからリピートさせるのかい。輪廻転生を信じてるのかい」

「そういうこともあってほしいじゃないか。俺とキミ……いえ、みんなが達成感と反省心を持って、一からやり直せたら、幸せになれる」

 喫煙席から男子学生がやってきて、青年に声を掛けた。少女はふいっと顔をそむけ、誰もいないカウンターに向かった。

「マスター、新曲できたよ。聴いてくれる?」

「へえ、早いな……って、これ」

 ぱんぱんと青年は少女の肩を叩く。そしてラッピングされたCDを指さした。

「これ、ここ! レーベル名見て!」

 ぐっと顔を近づけて、少女はCDを見る。レーベル名は大手音楽社のもので、帯には〝北国からのパンク・ティーンバンド推参!〟とあった。

 少女は「おめでとう」と中指を立て、学生に向ける。大学生は「これから、よろしく」と同じサインで返した。

「よかったなあ、これからTVとかラジオとかで流れるぞ! ツケもキャッシュで返してくれ!」

 ははは、と笑って青年は学生の頭を撫でまわす。すると「ウィーアー・マザー・ファッキン・マスター!」と喫煙席から乾杯の歓声が上がった。


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 カウンターに戻った青年がビニールをぴりりと剥がしてディスクを取り出す。


「おおーっ」

 集まった大学生が声を漏らし拍手をした。最後に青年が「いよーっ」と声を上げると、パンと全員が拍子を打ち、笑いが起きる。離れた席で傍観する少女も笑った。

 オーディオが無いため、青年はデビューした学生のウォークマンを店のスピーカーに繋ぐ。CDはお披露目だけで、すぐにディスクを戻し、レジの前に立てかけた。

 その間に曲は始まり、学生たちは頭を振ったり踊ったりして、騒いだ。青年の許可を得ず扉のプレートを降ろし、新たな客が入ってくるのを防ぐ者もいた。少女だけが彼を見て黙っていた。


「――ここはどこ? ここはどこ? ボクの世界はこんなものだったの? 視界ごと燃やしてしまいたい現実でカッコつけて、一人になって、そこから何か生まれるだなんて、それ勘違い、誰も間違い、みんな成長してわかるはず――」

 学生たちはその節を大合唱して、また騒ぎ出す。

 

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 全十一曲を三回もリピートし、学生たちはハイタッチし、宴会の終了を告げ会計をはじめた。青年はもうちょっといてもいいと、学生たちは酔いが回ったと断った。


「喉が命だもんな。酒も煙草もほどほどにしないとね」

 青年は、レジを打つ手を止め、レジ前に立てかけたCDを取り、サインをせがんだ。

「全員のサインをくれないかな。客寄せになりそうだから」

「え……そういうのは、早いっていうか、売れるかどうかもわからないし」

「頼むよ。俺、自慢できるものがやっと見つかったんだ」

 青年がペンを差し出し、学生は受け取った。ゆっくりとCDに名を書き、次の学生に渡す。青年は、外で待っている女生徒にも声をかけ、サインをせがんだ。そのときサインを終えた男子が、眼をこする。少女は、視線をピアノに移した。


「今度はライヴに呼びます、ごちそうさまでした!」

 ぽろん、と扉が鳴る。外から女の子が窓を叩き、少女に向かって手を振る。少女は軽く手を上げて、全員を見送った。

 ふう、と息をついて青年は喫煙席の片づけを始める。少女が席を立つと、ピアノの音が流れ始めた。

 レジにあるCDを手に取り、少女は歌詞カードを抜きだすと、挟まっていたポチ袋が落ちた。拾って中身を確かめ、少女は青年に声をかける。彼の背中は汗で濡れていたが片づけを続けていた。

「おかしな店だ。あんな子も来るんだね」

「常連様は小学生からヤクザまで。どんな相手でも適当に合わせる、俺の性格を面白がってくれる。ちなみに今、十時ぐらい。はしゃぎすぎた?」

「ボクは文句をいえない。あなたを見くびっていたらしい」

 青年はグラスや灰皿をトレイに積んでカウンターに向かう。少女とすれ違うときに、ポチ袋を見て尋ねた。少女は中身を取り出し、トレイに乗せる。折りたたまれた万札だった。

 さらに少女は歌詞カードを広げて乗せる。そこにある歌のタイトルはゴーストトラックとなっており、順番から大合唱していたものとわかった。歌詞カードには〝作者の意図によりタイトル・歌詞表記を割愛します〟とあった。

「あいつら……十九にもなって。素直じゃないなあ」と歌詞カードをレジの前に、札束をレジ下に入れた。

 

 少女は「夜風に当たってくる」と扉に向かう。食器を洗いはじめた青年が、帰ってきてくださいよ、という。

「キミの宿はここ。チェックアウトするなら、声をかけて」

 ぽろん、と鳴る。

 店前で少女は髪を縛り直す。

 右前髪だけをおろし、夜の真幌にくりだした。



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