Side〝L〟ー1 ごっこ
さて皆さん。
ハムレットはオフィーリアを突き放しました。
『尼寺へ行け』と。
これは明治の和訳です。
現在は訂正されています。
『修道院へ行け』と。
尼寺も修道院も同じような施設です。
ですが19世紀まで、欧州の修道院は売春を斡旋していました。施設存続のため、人間を生きさせるために。
尼寺は逆で、梅毒になった遊女が行き着く場所でもあった……あくまでそういう事もあった、という例にすぎません。
そんな背後関係を知ると、ますます妹に向かって兄が言うことではない、とても強烈なメッセージになります。このことをどうか、頭の片隅にでも置いていてください。
新しいSideが開きました。今回はSide〝L〟にまいりましょう。
#
こちらは現在、午後七時をすぎています。
丈治、有巣、サイコの三名はここにはいません。
わたしはまだ、丈治の部屋にいます。
ちなみにわたしはSide〝D〟で皆さんの案内したものです。
誓って別人とか作者とか神ではありません。そこは考えないでください。
天井の蛍光灯は消えています。冷房も。
動いているのは冷蔵庫、テレビのHDDぐらいです。
音もありません。遠くでサイレンが聞こえますが、まあ、語ることではない。
隣の部屋からも上からも、音はしません。
物語はここで終わり、なんてことはありません。
その程度ならとっくに脱出してますから。
わたしは、丈治に着いて行こうにも、気がかりがありまして。
それが何かというのは前回の……おや、誰かが来ましたね。丈治の部屋のインターホンが鳴っています。
一回。
二回。
三回。
止まりました。
おや、扉が開く音が。
丈治ではありませんね。有巣でもサイコでもありません。
電気を付けました。ほう、スイッチの場所を……失礼。今回から私見は慎みます。
#
丈治の部屋に入って来たのは女性です。
有巣より背が低い。150センチぐらい。華奢です。しかし髪の毛は有巣と同じスタイルです。制服も有巣と同じ、メイクも似せています。
サイコより痩せぎすで色白。
彼女はここ、マンション丸一の602号室の住人のようです。
名前は
どうやら彼女は、その名前を同級生にからかわれ、やがて陰湿ないじめを受けたと。うつ病を患ったものの、そちらは回復に向かっています。
しかし、いまも不登校。
歳は丈治たちの二つ上、十九歳。真幌女子高二年生。進学しようにも学校には行けないし、退学しようにも親が許してくれない。
引きこもりがち、という言葉がぴったり。
彼女は一人暮らし。アルバイトをして生活費を工面し、プライベートは外出かインターネット。
毎日、601号室の丈治の部屋に来るようです。今のように留守を狙って。
彼女は丈治の部屋に盗聴器とカメラをセットしていました。それを使って留守を狙っていたのですが、今日はサイコがいたため、侵入できなかったのです。
カードキーとて鍵。コピーする方法はごまんとあります。トロアが行ったのは、彼女の父親に頼む、というものでした。
トロアの父親は、いわゆる鍵師です。そして父親は彼女の嘘を信用し、合鍵を作った。それを今も使っています。
どうやって丈治のカードキ―を盗んだか。
丈治の懐からぬいたのです。
毎朝、通学する丈治に偶然を装い、ぶつかり、懐から盗む。それを何回も繰り返し続けて、カードキーを手に入れ、父親に複製してもらった。
その間、丈治は学校へ行っていました。帰って来る前に、トロアが学校へ持って返却した。
言うのは易し行うのは難し。でも彼女にとって楽しいことでした。彼女にとっては、それが単純で、面白かったのでした。
#
トロアは電気をつけ、丈治のキッチンから包丁を持ち出し、部屋の真ん中に立っています。
「なあんだ。いつものあいつと、その友達だったの。泥棒だと思って、びっくりしたよ……」
笑みを浮かべて、彼女はキッチンへと戻ります。そして流し台へ。
右手に包丁を持ち、眺めています。
じっ、と。
「くるなら、くるって言ってよね」
トロアは独り言ちています。
「丈治、今日は何が食べたい? そうめん? うん、いいよつくれるよ」
そう言って包丁を振ります。
彼女の前には流し台。具材も食器もありません。水も流していません。
「とんとんとん。さっささっさ。じゃああじゃああ……え? 何? ああ、今日はねお買い物行ってきたよ。ううん。ちょっと本を買って来たの……いやだな、私、読書なんてできないよ。もちろん、丈治のため」
もちろんこの部屋に丈治はいません。
すると彼女は笑顔と声が次第に変わって行きます。
「いつも古典ばっかり。もっと新しいもの読もうよ……だからね、流行りの本買ってきました。当ててみてよ……あんた、私のカレシでしょ?」
彼女はそう言って、右手に持った包丁で左手を切りつけました。
何度も何度も。
血は流れませんが、彼女は痛みを感じています。
――私のカレシでしょ。わかってよ、それぐらい。
彼女は計、十四回切りつけました。しかし一向に血は流れません。
すべて皮膚の上をかするぐらいのもの。
「私のカレシじゃなかったら、あんた、殺してたんだから」
#
少し彼女の記憶を探ってみましょう。
丈治がこのマンションに引っ越した日ですね。
丈治はエレベーターを使わず、家具や日用品を部屋に運んでいました。
丈治の部屋は601号室で、トロアは602号室。
トロアも同じ時期に引っ越ししたのですが、彼女はあまり良い気ではなかった。
その日、トロアは人間を殺害していました。
彼女は学校もそうですが、他の悩みを抱えていました。
薬でした。危険ドラッグではなく、向精神薬。クワトロンという薬です。うつ病に効くベンゾジアセピン系の新薬です。認可されているものの、依存性が高く、一度に多く服用すると死に至る場合もあると。
彼女は医師からその概要を聞き、他の処方薬を頼んだのです。
しかし他の薬との相性は良くなかった。結局クワトロンに落ち着いたものの、依存してしまい、もうそれなしでは生活できなくなった。
医師は彼女に言いました。
「たとえ風邪薬でも依存はあるの。だから上手に、お付き合いをしましょう」
トロアは言いました。
「いつもそう言ってませんか? 誰にもそう言っていませんか?」
医師はすぐさま返事しました。
「いいえ。あなただけ。他のは馬鹿よ。適当に話して、ビタミンをやってるだけなのに、ずっと来る。これを疑問に思ったなら、あなたは普通。むしろ特別かな」
彼女は医師との会話を避けました。
でも薬を得るために通院しました。
親に相談できず医師の言われるがままに、薬を飲み、やがて、いいなりになった。
その医師は女性だったのですが、公私ともに接触するようになり、同じベッドで夜を明かすまでになった。強姦でした。
嫌がっていたトロアですが、反抗しようものなら薬を没収されてしまう。
――もう、うつなどという病気ではない悩み、肉体を弄ばれる苦痛。
なすがままにされ、抵抗できない自分への苛立ち――
やがて、薬かプライドか、となりました。
この悩みに対し彼女はプライドを選びました。
ですが薬への欲求、医師への不信感、女性への不快感はぬぐえなかった。
さらに自力で病気を治すか、命を絶つかという悩みも産まれた。
彼女は時間をかけて後者を選択し、医師を殺害しました。
現場はトロアの部屋でした。
新居に引っ越して二週間後、医師がトロアの部屋にやってきて、彼女を凌辱した。数多の器具を使って。
女性と女性ですから、互いにとってそれは繰り返された当たり前のことでした。
ただ医師にとって快楽で、トロアにとっては拷問そのもの。
医師は必ず、ウイスキーとドラッグを服用、陶酔してのぞみました。
「今日は、こっちを、試してみませんか。私、この前これで気持ちが良くって」
トロアはそう言って致死量のクワトロンを医師に飲ませた。医師の身体は筋肉が弛緩し、すぐ昏睡状態に。吐瀉物を喉に詰まらせて呼吸も弱まり絶命しました。
トロアは、ただただ眺めているだけ。やがて日が昇り、昼になりました。
「いままで、やってくれたね。色々」
これまでの不満、怒り、悩み、すべて遺体にぶつけることに決めました。
最もなのは遺体を解剖だ、と。
そこでインターホンが鳴りました。
トロアは警察かと思って怯え、無視したのです。
インターホンは三回鳴らされただけ。
その後、隣の601号室から物を運ぶ音、声が聞こえました。
やがてトロアは、ベランダから外の様子を伺ったのです。
その時、隣から声がしました。
「そうそう……いや、一人だけ挨拶できなかったな。美人だったりして……そこからお付き合い……とかなって……だよな! おお、いつでも来いよ!」
彼女は医師の遺体よりも隣人は誰で、どんな相手と自分のことを話しているか気になった……。
ここまでが彼女の記憶、二年前のものです。
#
「あれこそ偶然、ううん、運命だった。あのあと、私に笑顔で挨拶してくれた。初対面なのに、色々お話できた……」
トロアは、ずっと流し台で包丁を片手に、呟いています。
丈治への想いをずっとずっと。
そんなトロアの想いは丈治には伝わっていない様子。
サイコが部屋に忍び込み、驚いたぐらいですから。
わたしたちも、その丈治の方へ向かうとしましょう。
さて皆さん。
とっくにSideの法則にはお気づきのはず。
ただ、一体何が起こっているのか。
意味があるのか無いのか。
この迷宮は何か。
おわかりでしょうか。
わたしにはまだ、判断しかねます。
やはりSide〝D〟から丈治たちを追いかけていきます。
彼らはすぐ近くのファミレスにいますので、歩いていきましょう。
もし、許されるのであれば、道中、わたしなりの見解を。
『それこそナンセンス、興ざめ』という方は次のSideへどうぞ。
ほんとうに些細なことなので、無視しても大丈夫です。
『聞いてみよう』という方は、もうしばし、お付き合いください。
あまり期待はしないでください。むしろ混乱してしまうかも。
では。また。
よろしいでしょうか。
ここからは、わたしの見解となります。
ストーリーテラーとして逸脱してしまいます。
決してミスリードやヒントなどではありません。
そもそも推理ではない、あくまでわたしの考えです。
もったいつけてしまったようですね。
わたしは、引っかかることがあり、Side〝D〟から別のSideを比較することにしました。
引っかかることとは丈治の部屋の本棚です。もちろん、わたしに触れることもできないし、意図したこと予想したことでもありません。
サイコが読書をしていましたね……まあ、サイコが侵入した事態も急でしたが、しかし、あの本は奇妙。
ドストエフスキー著、罪と罰。
太宰治著、人間失格。
会話にも引っかかりましたね。
丈治は言いました。
この作家はこいつの影響を受けている、と。
その前にサイコは言いました。
オリジナルなきフィクションは存在しない、と。
それらでSide〝R〟と〝D〟を観察するべきだと思ったのです。
出口かと思いましたがSide〝L〟があらわれ、トロアのような人間に出会うとは……。
繰り返しますが、わたしがどこかに関与している、ということはありません。
その程度の迷宮なら、無視しています。
わたしの見解はそれぐらいです。
がっかりされた方へ。
まとまっていない、わたしの見解でよろしければ。
Side〝A〟から〝Z〟まであるならば。
もしSide〝R〟がSide〝F〟なら、Side〝D〟はSide〝E〟かもしれません。
だからといってSide〝L〟をSide〝R〟の対とするのはどうかと。
ただSide〝R〟のSide〝Y〟が、Side〝A〟なのは確実です。
あまり悩むとわたしのように迷子になりますので、ご注意を。
そしてそれがこの迷宮の……おや、丈治たちに追いついてしまいました。
では。
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