第12話 三文字目 第四画

第四画


 二日目の宿泊研修は何の事件もなくあっさりと昼までで終わり、明けて次の日。

 それはもう、広次との試合が行われる日である。準備期間は全くない。超書道についても、寿々美からの連絡と、羽が姫ネットで調べたルールを教えられただけだった。

「覚悟は決まってるけど、どうしたものかだなぁ」

「何が?」

 放課後に試合を控えた休み時間、一筆はぼんやりと口をついて言葉が漏れた。

「何がって言われても、超書道って結局のところ何なんだろうって」

「ふむ……」

 寿々美から朝のうちに連絡があった。超書道の試合というのは、全校を上げて行うイベントでなければならないらしく、審判は自称「千の資格を持つ女」である寿々美自身がやるそうだ。

「あらゆることに平等であるということは、あらゆる事を知っているということだっ! とかって寿々美のセリフが聞こえそう」

「ありえる」

「ねぇねぇ、ふたりが放課後何かやるって本当?」

 溜息の祭を開いていた所に、クラスメイトの声がかかった。寿々美のことだ、何かしらの宣伝は打っているのだろう。

「うん~、超書道って部に入ったんだけど、その校内代表決定戦ってのやるんだ」

「見に来い」

「行く行く。私は絶対行くよ! みんなも行くでしょ?」

 問いかけた声に対して、教室に残っている者たちが口々に参加を表明してくれる。

 その渦中に、羽が口を開いた。

「要はこういうこと」

「何が?」

「自分が聞いといてそれか、バカ一筆」

「バカとは何よ!」

「言ったこともすぐ忘れるやつをバカ以外なんて呼ぶ? ニワトリか? こけこっこーさんか?」

「うぐ……いいから、何なのか教えてよ」

 羽は仕方ないなと、溜息に込めて吐き出してから、話し出す。

「超書道のこと。前に広次が言ってた、エンターティナーってやつ」

「ふむふむ、で?」

「ホントに呆れるぐらいバカ……こうして試合を見に来てといって、応えてくれること。寿々美も言ってたが、観戦する人がいないと成り立たないということは、初めから誰かに見せることが前提の競技ということ」

「なるほど。羽、あんた頭いいね」

「一筆ほどのバカからみたら、誰でも頭がいい」

 一筆は本能に従い、思わず羽の頭をぽかんと殴ってやりたくなるが、一部事実でもあるので、堪えるしかない。

 クラスに放課後の試合のことは伝播し、その全員が観戦に来る運びとなっていた。

 能力者である以上、その使い方や見せ方に興味があるのだろう。宿泊研修の一件も、もちろん手伝っている。そういう部分でも、広次が言っていたことに通じるものがある。超書道は、能力者のあり方のひとつの提案なのかもしれない。

「そういう意味でも、やるしかないわけか……」

 恋心という一見にして不確かなものが、この世界で「差別」や「区別」を超えるものと信じる一筆の意志を示すためにも。

「そういうトコ、私と広次君ってホントばっちりお似合いって感じで胸がきゅんする」

「……救えないな……」

 羽の溜息にあわせて、次の授業の予鈴が鳴った。

 それからの授業は開始前に、教師によって必ず放課後の試合のことが持ち上げられ、激励を受けた。全く、どういう方法を用いればこれだけの流布が可能なのかと、寿々美の手腕に驚くばかりだった。

 そして迎えた放課後。

「さて、行きますかね……まずは部室に」

「仕方ない……」

 寿々美からのメールによると、まずは部室で細やかな試合の段取りなどの説明があるらしい。

 帰り支度をしてから、何度目かの行程を羽と共に行くことになった。

 いつもなら、渡り廊下から見える校庭には、部活の生徒がすでにあふれている。だが、今日は超書道の試合があるために、部活は休止され、観戦を優先する旨の、寿々美による破天荒極まりない昼休み放送があった。

「まぁあのムチャな言い方に従わない勇者はいないわな」

「個人情報流出」

 寿々美は試合を見に来ないやつは、野鳥研究部の協力の下に個人特定し、自らが知り得る情報の全てを暴露すると言った。

「あそこまで行くと、脅しだよね……」

「寿々美だから許される」

 本当は誰だろうと許されないはずなのだが、寿々美には許されているのが、この深雪野学園の不思議だった。

「今日は風が気持ちいいなぁ」

「姫のスカートがめくれるのを待っても無駄」

「何でよ……」

「は、履いてないから」

「……そこでなぜいつもはしない、頬を染める表情に移るっ!」

「一筆にサービス。姫の貴重ショット」

「いるかっ!」

 言うと、羽は普段の顔に戻り、腰に手をあてた。

「まぁ、緊張は消えた」

 羽はそれだけ言うと、その場でターンして、グラウンドの方を見つめはじめる。羽が何を思っていつもとは趣向の違う冗談を言ったのかは理解できても、わからなかったことにしておく。そうしないと、体が無性にむずがゆくなってしまうだろう。

「なんだ、姫の配慮に感動して声も出ないか、ういやつめ」

「あんたは、何時代の何嗜好なお姫様なんだ……」

 一筆はおどける羽の向こう、いつか見たようにグラウンドをゆっくりと見渡す。夕方が近い、独特な暖かみと冷たさを併せ持った風が、ゆっくりとむき出しの肌に吹きつけ、自由な髪を揺らし背中へと吹き抜けていく。風景の端には、当然のように白いクラウが点在し、季節を無視した雪化粧を端々に施している。

「広次君がやりたいのはこういうことなのかなぁ……」

「どうした」

「うん……広次君はこんな風にクラウが風景の当たり前になったみたいに、私たちの能力も風景みたい……あって当たり前にしたいのかなぁって」

「そんなの能力者なら、誰でも思う」

「そうだけど……やり方としては、間違ってないと思う」

「前も聞いた。けど、一筆はそのために自分が犠牲になってもいいのか?」

「犠牲か……まぁ恋した人の犠牲になるなら、それもいいかなって。というか前から聞こうと思ってたんだけど、なんで私は犠牲とか噛ませ犬とかっていう、自分には不利で広次君に有利なものになるの?」

「……もうすぐわかる」

 羽はそれだけ言うと、超書道部の部室へと向かった。

「わかるのは、私自身のあり方かもしんないけど……やるだけやるか」

 一筆は自分が試合することで、広次の何かが助けられるなら、それもまたいいかと思う。藍留が湯船で語った事と、何ら変わらない。

 戸惑いの思いだけを渡り廊下に残して、羽の後を追った。

「遅いぞ、このうつけものっ!」

 部室に入った第一声がそれだった。声の主である寿々美の隣には、すまし顔で羽が立っている。たかだか数瞬の遅れでしかないはずなのに、羽も同じように罵られたのかと邪推してしまう。そしてその周囲には、広次に藍留、雪成の姿もある。

「まぁいい。時間がないので、手短に確認だけしていくぞ」

「はい生徒会長」

 広次は無駄を一切そぎ落とした顔をして、直立不動で答える。その姿は清潔でこれから戦いに望むにあたり、禊ぎでもしてきたかのようだった。そして、それは身を切るような雰囲気さえ持っている。うかつに声もかけることは出来なかった。

 広次は、もう闘う相手としての態度で一筆に今、臨んでいるのだ。

「では、ルール説明から行くぞ。わかってると思うが、これも形式なのでな。超書道とは、筆者のパートナーである、思考共有能力者が対戦相手である筆者の思考を読み、それをパートナーに伝え、能力で文字を書き上げるというものだ。対戦においては、お題目を事前に会場観戦者から募集し、これを審判が選び決定する。ここまでで質問は?」

「はい! お題目って?」

「一筆……本当にルールを予習してきたのか……お題目というのは、書いて観戦者に判定してもらうためのテーマだ。そのテーマに沿って文字を描き、より好評を博した方に一本が与えられる。それを二本先取した時点で、勝敗が決す。これが超書道だ」

「ふむふむ。私の場合、羽が思考で送ってくることを能力でばばんと書けばいいってことね」

「一点気をつけてください。自分が描くことは、対戦相手の考えていることになりますから」

 雪成は重要なポイントであるかのように言う。寿々美もそれを後押しするように、胸の前で腕を組んだ。

 だが、一筆には言葉だけの思考では、いまいち理解が及ばない。

「それって、重要なの? 私が羽の言う通りに描くってことに変わりはないでしょ?」

「バカ一筆……」

「街ノ田さん~確かにその通りなんですぅ。でもちょっと違うんですよぉ」

 藍留はここに来て、少し困ったことのように体をよじった。

「それはね街ノ田さん。相手の考えていることが、自分の評価になるってことなんだ」

 広次の表情が少し今までと違って見えた。窓を背負っているためだと思うが、先ほどの清潔感を揺らがせ、表情に曇りのような影が差している。

「相手のが自分のって……それで会場の評価が勝負の分かれ目……うう~ん」

「バカで面白い一筆が圧倒的に不利ってこと……それが狙い」

 羽の指摘に、広次は少しだけ口元を緩めた。そして、そのまま藍留を連れて部室から出て行く。

「我々も行くぞ。遅れるな」

 続いて、寿々美と雪成も出て行く。遅れないようにと後を追う背中に羽の声がかかった。

「だから言ったのに……」

「……よくわかんないけど、行くよ」

 羽の言いたかったことは、言葉通り一筆にはやはりよくわからない。だが、今は赴くことが一番の答えになると思えた。足りない頭でも、誰もいない部室にその答えはないことだけはわかる。


 寿々美についてやってきた会場は、中庭だった。校舎の構造から、この場所は全教室から見下ろせる試合会場としては申し分ない、コロッセウムのようなロケーションだった。

「みんな、待たせたな。今日は集まってもらって、感謝する!」

 寿々美は懐から取り出した会長マイクで、中庭の底から、取り囲むようにそびえる校舎に向けて、声をあげる。その寿々美に答えて、校舎の各所から、生徒の声が返ってきた。その歓声で一筆は耳が震え、胸の奥からしびれが這い上がってきた。

「それではこれから、超書道の校内代表決定戦を執り行う。審判はこの千の資格を持つ女、生徒会長会長寿々美がやらせてもらう。一応解説には生徒会書記である宮元下雪成が行う。異論は認めん。加えて、参加していないものは、今野鳥研究部の協力の下、確認しているからな!」

 最後の一文は蛇足だろうと思う。そんなものの前置きのように紹介された雪成も戸惑い顔で、おそらくは解説などと言われても役を担うのは初めてなのだろう。

「続いて、対戦者の紹介だ。東、南具流広次と濡跳藍留!」

 寿々美の紹介で、広次と藍留は前に一歩出て、手を挙げて答える。それを寿々美が煽ると、校舎の生徒たちからも歓声が起こった。

「次は西、街ノ田一筆と天原羽!」

 寿々美に呼ばれて、広次たちがしたようにと一歩出る前に、羽が前に出ていた。

「頑張りますので、応援よろしくお願いします!」

 これほど快活で明瞭な羽の声を聞いたのは、クラス分け直後の自己紹介以来だった。しかし、それは生徒たちには効果が絶大だった。広次たちが受けた声援の数倍で割れんばかりの声が、校舎の壁で反響を繰り返しながら、この中庭の底まで降りてきた。

「お膳立てはしてやった」

 羽は笑顔のまま話し方だけがいつものようという高等な技を駆使しつつ、一歩下がると挨拶しろと促してきた。

「あはは、どもども~」

 一筆はどうしていいかわからず、また羽のようにも出来ず、ただ笑いながら手を振った。案の定、羽が受けたものの数分の一にも足りないような声援が戻ってきた。会場の熱気は羽で最高潮になり、それからやや沈静化し、結果いい具合になった。

「よし、両者所定の位置へついて、対戦準備をしろ。こちらもやるぞ雪成!」

「はい、寿々美さん」

 寿々美は各自に指示を出す。所定の位置というのは、すぐ脇に見える、おそらく段ボールで型を作った、円形の台なのだろう。その中に入ると、目の前には庭先で子どもが遊ぶタイプのビニールプールが用意されていた。その横にはバケツも用意されている。中身は真っ黒な墨汁であることが、その特有の匂いでわかった。

「何これ……」

「墨、用意!」

 疑問をかき消して、寿々美の声が弾ける。

「どぅららららららららららっ!」

「え、あぇ?」

 横では、畳半分あるかという硯に両手で抱えるほど巨大な墨を構えた広次が、高速で墨をすり、藍留がせっせとビニールプールへと、出来上がった墨汁を灯油などの給油に使われる電動ポンプで貯めていく。

「ぼけっとせずに、一筆も用意しろ」

「羽、用意って……」

 ビニールプールとバケツに入った墨汁の存在を交互に何度も見返しているうちに、脳内で繋がった。

「この試合で描く文字ってのは、これだけの墨汁が必要なくらいにデカイってことか」

 少し離れた場所で墨をすり続ける広次たちは、既にビニールプールを満たす直前になっている。

「私もやらなきゃ」

 一筆はバケツを持って、次々とビニールプールへと注いでいく。

「はひはひ……結構重労働……」

 満杯のバケツを何回も持ち上げていると、息が上がってくる。なぜ最初からプールに墨汁を入れておいてくれなかったのかと、寿々美を恨みたくなっていた。さらに、まったく手伝おうというそぶりを見せない羽には、さらに恨みが募る。

「できました!」

 最後の一杯を注ごうとした時、広次から声があがった。それに負けじとバケツを空にして一筆も何とか準備を終えた。

「ふむ、確認した。では、これから一本目の勝負を開始する。雪成、お題の入った箱をここに!」

 寿々美は、一筆と広次の間に入るように立ち、雪成は言われた通り箱を持って来た。

「双方のパートナーは思考共有を開始してくれ」

「わかりましたぁ~。街ノ田さん~いいですかぁ」

「あ、うん。大丈夫」

 藍留からの申し出を快諾する。

『聞こえますかぁ~』

「え?」

 いきなり頭の中に声が響いてきて、どこからだと思わず左右を確認した。

『もしかして~、思考共有するの初めてですかぁ? 口に出さなくてもぉ、頭の中で思い浮かべるだけでぇわたしとお話できますよぉ』

「一回だけ羽とやったことあるだけだから……思い出しながらやってみるね」

 口を閉じ、送りたい言葉を念じてみる。

『ハンバーグ、ハンバーグ……』

『食べたいんですかぁ?』

『あ、通じた……いやぁ今晩何にしようかなって思ってね』

 やっと過去の感覚を取り戻してきた。これで何とか試合に支障はないレベルだろう。羽を見てみると、そちらも上手く出来ているようだった。

「一筆、今度はこっち」

「あ、そうか。羽ともやるんだった」

 超書道では対戦相手の考えていることを能力で描き上げるため、思考共有能力者のパートナーが読み取ったものを、さらに伝えられるという手順がふまれる。壮大な連想ゲームみたいだと、一筆は理解することにする。

『感度良好』

『まぁ羽とは前にやったことあるしね』

 藍留のそれほどに驚くこともなく、羽とは通じ合えた。付き合いの長さと片付けてしまえば簡単ではある。

「双方準備が整ったようだな。この箱の中には、あらかじめ今試合を見てくれている生徒諸君から募集した、お題を書いた紙が入っている。この中から一勝負一枚を抜き出し、それに沿った解答をして、より観戦者の指示を得た者が勝者となる。では改めて一本目のお題にいくぞ!」

 寿々美は雪成が持つ箱に手を差し入れ、ぐるぐると回してから、中から一枚の紙を引き抜いた。

「一本目のお題は……カレーの主な具……についてだっ!」

「はぁ?」

 寿々美の勇ましい声と裏腹に、ひとり気の抜けた声が一筆の口からこぼれた。

「何だ一筆、不服か?」

「いや、そうじゃないけどもですね、勝負って勢い出してて、いきなりカレーの具って……」

「いいじゃないか。放課後でそろそろお腹も減ってきて、帰って何を食べよう。よし今日はカレーだという具合に導く、素晴らしいお題ではないか。それに、一度決められたお題はそれが何であろうと覆らんぞ」

「なんでよ」

「それが、超書道のルールだからだ」

 そう言いきられては、従うしかない。競技というものは、決まりの上で闘うから公平にできているのだ。

「お題は決した。双方、準備に入ってくれ」

「わかりました……」

「ええと、私が思うカレーの具を考えればいいんだよね……」

 一筆は静かに深く念じる。そうすることで藍留が読み取り、広次に伝えるはずだ。

『街ノ田さん~頂きましたぁ~』

 藍留の合図が帰ってくる。初めてだが、うまくいったようだ。

『一筆、こっちも送る。それを描け』

『了解!』

 羽から、読み取った広次の思考が流れてくる。余計なものは一切なく、澄んだ感覚で文字がイメージできる。どうやら、その文字の読みやすさというのは、羽が持っている能力の質の高さらしい。

「誠心誠意、はじめるっ!」

 先に広次が能力の発端である声を出す。

「一筆入魂、いざ参るっ!」

 遅れないようにと、一筆は声をあげてビニールプールに満たされた墨汁を注視する。見つめて刹那、黒い水面が波状に揺れ出して、やがて轟音を連れて、舞い上がる。しぶきひとつあますことなく、校舎の高さまで登った黒い竜と化した墨汁が、遥か上から見下ろしてくる。壮観な竜は、さぁこれからどうするのだ、命令してみろとでも言っているような感覚さえ覚える。

 それは広次の墨も同じで、空に上り、竜と化していた。二匹の黒竜が校舎の目前で対峙している様に、教室内で観戦している生徒たちから、怒号のような歓声があがった。

「睨まれなくても、やってやるわよ! 行け、止まれ、跳ねろ!」

 一筆は歓声におされるよう心を動かす。声にあわせ、体を大きく動かして、書き上げる文字を目の前に作り上げることをイメージする。

 四肢が動くことによって、巨大な竜も形を変え、文字の一画一画に全身を砕いていく。そして、文字がひとつ出来上がる度に、校舎の窓からは感嘆が中庭へと飛び出していく。

「できました!」

 文字を描き終え、広次を見る。広次もまた、文字を描き上げて、こちらを見ていた。その瞳は自信に満ちている。それを見つめているうちに、一筆は体験したことのない高揚感に包まれている自覚が生まれた。そして、その感覚こそが、会場との一体感であり、超書道の醍醐味だと知るのに、時間はかからなかった。

「双方、出そろったみたいだな。では読み上げるぞ!」

 寿々美はマイクを持つ手に力を込めて、声の元たる息をため、校舎の前に浮かぶ巨大な黒い文字を読み上げる。

「街ノ田一筆の答え……フィレ肉!」

 我ながらよくできたと褒めることができる、勢いよく流々とした運びの文字とは裏腹で寿々美の声に、会場はどんよりとはっきりしない反応に包まれる。

「え、何で……」

「一筆の答えはフィレ肉だったわけだが、これについてはどうかな、解説の雪成」

「え、そんないきなり……」

 寿々美にマイクを向けられ、戸惑いを隠せない雪成だったが、数回の瞬きのうちに、何とか言葉を考えついたようだ。

「そうですね……フィレ肉というのは、カレーの具としては、割と一般的な部類に入ると思います。外国産のものは、安売りをしている場合も多いので、サイコロ状に切って使うこともよくあるようです。ブライン液につけこむと、ぱさつきもなくなりますしね」

「ほう、つまりは普通すぎて思わず主婦も役立つお料理のコツを口走ってしまう、あの反応ということだ、一筆わかったか」

「わかってるから、わかったから、切ない説明するなっ! え、でも肉……肉?」

 一筆は疑問符が出た頭を捨て置かれ、寿々美は咳払いで次へ行くぞという合図に変えてきた。そして、広次が描いた雄々しくもしっかりとまとまりのある巨大な文字を読み上げていく。

「さて、では気を取り直して、南具流広次の答えは……」寿々美は、そこでなぜか一息を吸う。

「ちくわ!」

 寿々美が言葉を言い切った瞬間、校舎から割れんばかりの笑い声が降ってきた。

「え、え、何でそんなに面白いのよ!」

「この反応では、申し開きも審議もないが、解説の雪成……」

「ええと、はい……そうですね……カ、カレーの具にちくわというのは、僕も初めて聞きました……」

「つまり、それだけに珍妙であり、会場の笑いを誘ったと」

 寿々美はなぜか哀れむような視線で見てくる。実に痛ましい心を撫でてくるような、見たこともない視線だ。

「ど、どこが面白いのよ! カレーに肉なんか入ってないでしょ! 給食のには、たまたま高級志向で入ってるだけでしょ! 肉に見えるけど全部本当はちくわか、ちくわっぽいものなんでしょ!」

 一筆は想い出を掘り起こし言い切ると、また校舎からは盛大な笑い声が降り注ぎ、脳天を直撃した。

「バカ一筆……」

「なんで……羽、あんただってウチに遊びにきて、ちくわのカレーうまいうまいって食べてたでしょ!」

「まぁあれはあれで大層うまかった。だが普通はちくわなんて入ってない」

「そ、そんな……じゃあお母さんが言ってたのって嘘なの……カレーにお肉なんて、本当は入ってないのよぉってあれは……」

 がっくりと膝から崩れ落ちる。それにあわせて、能力で描き上げた文字が滲み、形を失いはじめる。

『一筆、気を抜かずプールまでおろせ』

「そ、そうだった……」

 羽の能力を通した声に気付かされる。意識を戻すと、崩れかけた文字が一本の紐のようになり、プールへと戻った。

「勝負あり。南具流広次の一本とする!」

 寿々美の宣言で、一本目の負けが決してしまった。羞恥を曝しただけで、これで早くも後がないことになる。

『だから言ったのに……』

『何がよ……』

 問いかけてきた羽に、弱々しく返す。母の嘘とカレーには本当はスタンダードに肉が入っているのだということを受け止めるのに精一杯の力を使っていて、余裕がない。

『面白いやつのが不利……』

『私が面白いってことか!』

 その問いに、羽は唇を横にむにりと伸ばして呆れていた。

「では、続いて二本目に行くぞ!」

 寿々美の宣言で、雪成が箱を差し出した。

「街ノ田さん、次はとって欲しいな……じゃないと盛り上がらないから」

「こ、広次くん~そんなこと言っちゃだめですよぉ~」

 広次は一筆をライバルとして求めている。それに応えるためには、確かに次でおめおめと負けるわけにはいかない。それは広次の期待を裏切ることにもなるのだと、一筆は母の優しい嘘から思考を解放して心を奮起させる。

「二本目のお題は……これだ!」

 寿々美は箱の中を彷徨っていた腕を天へ堂々と掲げた。

「今、履いているパンツの色!」

「こらこらこらこら!」

 巻き起こる歓声の中、一筆は寿々美へと当たり前の抗議を飛ばす。

「何だ一筆」

「何だじゃないでしょ、いくら何でもパンツの色とかどういうことよ!」

「どうもこうもない。会場の者から募集した公平なお題だ。さっきも言ったが、何が出ようと、それを変更することはない。四の五の言わずに、準備しろ」

 寿々美の断言に、会場はわき上がる。主に男子の声しか降ってこないことが気がかりだ。

『一筆のパンツなんかに興味あるやついないから安心しろ』

『あんたは、こんな乙女をつかまえてよく言うね。みんな興味津々だから、男子の視線が突き刺さるわぁ。ま、まぁ私のはいいとして、広次君のがわかっちゃうなんて、ちょっといいかななんて考えたり……』

『気持ち悪い……』

 羽はうぇっと苦い胃腸薬を飲んだように唇を波形にして見せる。

『いいから、思考よこしなさい!』

『はいはい』

 やれやれと手で示した羽から、文字のイメージが流れ込んでくる。

「藍留、僕らもだ!」

「は、はい~」

 なぜか戸惑いがちな顔で、藍留がこちらを見ていた。藍留の表情と関係あるのかわからないが、羽から伝達されるイメージが、明確化されるのに、時間がかかっている。

『羽、まだなの?』

『あーもう少し……なるほど……くふふ』

 思考共有し、その伝達中に笑われると、脳の裏側がかゆくなる。

「一筆入魂、いざ参るっ!」

「誠心誠意、はじめるっ!」

 今度は一瞬だけ広次よりも早く、一筆は声をあげた。だが、黒竜が対を成して校舎を登っていく様はほぼ同時であり、対の竜が絡み合って螺旋の動きをする姿に、校舎からはまた感嘆があふれてくる。

「踊れ、僕の思うままに!」

 広次は熱く発し、流れる動きのまま淀みなく体をさばいていく。その動きに竜は一瞬姿を消したようにわけのわからない形へとなり、瞬時に文字へと変わろうとする。

「み、見とれてる場合じゃない、私も!」

 慌てて、文字を描くイメージに四肢を動かしていく。一文字一文字の一画一画が出来上がる度に、観戦者はそれがどんな文字になるのかを予測し沸き立つ。傍の広次が行ったパフォーマンスは成功し、文字が書き上げられたのか、耳には大歓声が入る。

「よし、こっちも完成!」

「では読み上げるぞ! 南具流広次の答えは……青いしましま……だ!」

 わかっている事とは言え、大々的にそれを発表されたことに、なんともいえない感触が一筆を包んだ。スカートは履いているし、どこからも見えていないはずなのに、なぜか公衆の面前で丸裸にされた気分だった。

 そんな羞恥をよそに、会場からは野太い歓声が渦を巻いてやってきて、取り囲んでくる。

「ううぐ……わかってるのに……でも、広次君のもわかるわけだから、我慢我慢……」

『仕方ない、スカートの裾をぎゅっと下へおろしてガードだ』

 羽からありがたいアドバイスが送られてきた。天の助けと一筆は即実行に移した。

 しかし、その姿を見た観戦者からは、さらに野太い声援が起こった。

「え、え? なんで……」

「ふむ、戸惑いの一筆ではあるが、これについてはどう見るかな、解説の雪成」

「寿々美さん、これは文字の解説じゃ……」

 言い逃れしようとした雪成を、寿々美はきっと切れ長の目をさらに細くして捕縛する。

「……そ、そうですね……普段は少し大雑把に見える街ノ田さんが、恥ずかしがる乙女らしいギャップのある仕草をしたことに、会場の男子たちはときめいてしまった……という感じでしょうか」

「だ、そうだぞ一筆」

「いちいち、余計な説明するなっ!」

 さらに羞恥心は増し、もう衆人環視のもと、素っ裸なんじゃないかとさえ思えはじめてくる。

「一筆が面白いが、進行もせねばならん身の上である。それでは、続いて街ノ田一筆の答えは……なし……だ!」

「……」

 広次はすでに描き上げられていた文字に疑問を抱いていたらしく、新たに声を上げることはなかった。だが、会場にいる生徒たちはその意味を理解していない。

「こ、これってどういう……」

『自分でもわかってなくて、描いたか一筆……』

 呆れたような思考が羽からやってくる。しかし不理解の不安は会場で渦になって、どよめきにへと変わっている。

「なし、というのは、どういう事だろうな、雪成……」

「なし……ということは、やはり……履いてないの、ないかと」

 雪成は確かめるように、広次を見つつ言うが、それも仕方のないことだ。

「こ、広次君がのののの、ノーパンなのっ!」

『一筆、顔がおかしい』

「顔はおかしくないっ、どちらかというとカワイイ部類だっ!」

『こういう時は、本性が出るな……浅ましい』

「浅ましいとかいうなっ、違うから! ただ私は、思春期の権化なだけよっ」

『やな権化だなぁ……』

 羽は思考の中でも、うぇっと口を波にしてみせる。

 しかし「なし」であるかの真実は、広次だけが知るものであり、当然会場中の視線が集まっていく。真か虚かと、特に女子の視線が集まるのは、広次が一般的に端整な顔立ちで眼鏡をかけている美男子からに他ならない。

「僕はちゃんとパンツを履いている。見せても仕方ないし、信じる信じないは勝手だけど僕は履いているぞ!」

「あ、あのぉ~」

 その時、広次ではなく、視線を誰からも受けていない藍留から、小さく手があがった。

「くふふ……」

「え、羽なんで笑ってんの?」

 驚きをよそに、藍留はもじもじとしながら話を続ける。

「そのぉ、こ、広次君は履いてます~」

「ふむ、どういうことだ濡跳」

 これには寿々美も興味があるらしい。もちろん、公平な審査のためだろうが。

「そ、そのぉ~言いにくいんですがぁ……履いてないのは……」

 ざわめいていた生徒たちは、その緩やかな話し方から導き出されるものに、固唾を飲んでいた。散々として藍留になど一切集まっていなかった視線が、一点に集中する。

「その……履いてないのはぁ、わたしなんですぅ~!」

 藍留の声が発せられた瞬間、試合会場は声を忘れた。一切の音が止まり、山で鳴く小鳥の帰りの挨拶までもはっきりと聞こえた。

「履いてないって……のーぱん……」

「そ、そのぉ~ちょっと色々あったんですぅ~。は、恥ずかしいですぅ」

 藍留が顔を真っ赤にして、口ごもるように語尾を消していく。

 それが完全に消え終わったと同時に、しましまパンツのおよそ倍の歓声が響き渡る。震度4程度の地震でもきたかのように、校舎の窓がびりびりと鳴っていることがわかるほどだ。おそらくは、誰もが藍留が口にした「色々」の部分に思春期妄想をぶつけているのだろう。

『偉大なるノーパン戦士に敬礼』

「羽、あんた……」

 あの時の笑いはこういうことだったのだ。そして、その笑いをまた湛えて、今度は広次を挑戦的に見ていた。

「やるね、天原さん……でも、藍留に恥ずかしい思いをさせた報いはさせてもらうよ……三本目でね」

 藍留の肩を叩いて、奮起させる広次もその表情を崩さずに、羽に返してきた。

「会場の反応から言えば濡跳の一人勝ちではあるが、彼女は採点対象の競技者ではない。超書道の文字についての反響には語るまでもない。二本目は街ノ田一筆の勝利とする!」

 寿々美の宣言でも歓声がしばらく鳴り止まなかった。これで一本ずつになり、三本目を取ったほうが勝ちというわかりやすい図式になった。先の二本で、双方に自分たちの笑いのツボを見いだしたようで、期待のざわめきが会場に起こっていることを肌で感じる。

 広次が望むライバルとしての存在にも、会場の期待にも応えたくなり、一筆は身が震える。それに彼女は自分のためにも負けるわけにはいかない。

 一筆は恋を成就させたいという信念と同じく、友人として藍留の話を広次に伝えさせたいという思いもあった。そうしてから全力でぶつかる、まっすぐ一筆とはそういう事なのだ。だから藍留が伝える想いが何であろうと今は全力で対戦するのみだ。

「それでは、三本目のお題を決するぞっ!」

 寿々美さえも、会場の熱気に押されたのか、語尾がいつも以上に強まっている。雪成が差し出したお題入りの箱に、勢いよく手を突っ込むとその手で渦を作るようにかき回しはじめる。

「寿々美さん、そんなに激しくしたら、壊れちゃいますよ!」

「いいではないか。これで最後なんだ、派手に行くぞ!」

 寿々美は雪成の忠告も腕のミキサと同じようにどこかへとはじき飛ばし、一枚の紙を引き上げる。

「ああ、箱がっ!」

 寿々美の力強い引きに耐えられず、箱は無残に壊れ、中に残っていたお題を書いた紙が、宙に舞い踊った。白い紙は、中庭の植木に散在するクラウに混じり、粉雪の中に立っているような感覚をその場に与える。それで特別な想い出などを喚起されるわけではないが、一筆はとても綺麗だと素直に感じられ、勢いだけだった心が少しだけ丸くなった気がする。

「寿々美さん、だから言ったのに……」

「うむ、雪成。後で片付けておけ」

 理不尽な命令を終えた寿々美は、手にした紙を開き、お題に目を通した。

「なるほど……では、三本目のお題を発表する。それは……好きな相手……だっ!」

「待ってました!」

 寿々美の声に、即座反応して一筆は声を高らかに返した。だが、そのおかげで視線が一斉に集中する。お題については、どんな反応があるかと待ったが、それは歓声でも密やかな声でもなかった。よくある授業前の教室のような、ざわついて、落ち着きのない空気だけが流れる。好きな人の名を堂々と叫ぶことは、あやふやな雰囲気にしてしまわなければならないほどのことなのだろうか。好きな人を好きと言えることは、誇らしいことのはずだ。

 一時の恥ずかしさよりも、時間を経たとき、胸を張れる宣言がある。

『叶うか叶わないかを怖がらずに、それが言えるのは一筆だけ』

『そういうものなの?』

 再度の疑問に羽は答えてくれなかったが、会場の反応がそれを物語っているのかもしれない。

「まぁ高校生らしいお題ではあるな。誰かに恋い焦がれるというのは、永遠のものであり、誰しも他人のそれは気になるものだ。では準備してくれ。なお今回の答えは、あたしの合図で文字を成してもらう。双方、文字になる直前までそれが何かわからないように」

 寿々美の言うことは、無理難題に思える。しかし、審判である寿々美がそうしろと言うことに逆らうとは、即座の反則負けになると考えてもいい。

「やってやるわよ! それに私だって、直前まで見られたくないもん」

「望むところだよ……僕の心には迷いも恥ずかしさもない。あるのは確かな本心だけだ」

 静かな……けれど熱く燃える青い炎のような広次の視線は、体を震えさせる。この瞬間において、広次とは同じ世界にいて、同じものを見られているという共感に包まれた。ふたり、眼差しを交わし、そして前へと向き直る。泣いても笑ってもこれが最後なのだ。

『羽、準備いいわよ。私の恋を送ってこいっ』

『上手いこと言ったつもりか……』

『だから、こう高めた士気をへちょんと折るようなこと言うなっ!』

『はいはい。集中しろ』

 羽はそれだけ言うと、藍留を見つめはじめる。そうして、藍留から受け取った広次の思考を一筆へと渡すのだ。だが、今回に限りその必要もないだろう。広次が渡してくる答えなど決まっているのだ。

「誠心誠意、はじめるっ!」

 もはや広次のそのかけ声が、能力の合図であると既知している生徒たちからは、期待の声が自然と持ち上がる。それを全身に受けても、広次は体を大きく動かすことなく、静かに佇む。だが、黒い竜は一本目二本目よりも、たくましく雄々しい姿で、校舎の高さまで小さなビニールプールに尾を浸したまま立ち上がった。そして、静かに時を待つ。

「一筆入魂、いざ参るっ!」

 応えて一筆が声をあげると、待っていたかのように、校舎からはコールが返ってきた。それに負けじと、目の前のビニールプールをのぞき込み、黒い水面に映る自分自身の瞳を見つめた。じわじわと水面は揺れて、波紋を作ると、それは刹那に幾重にも産まれて間隔を狭めて続く。

『行け、私の気持ちは通じてる!』

 念じると、波紋の中心から黒い竜が墨を引き摺る音を連れて、空へと舞い上がった。舞い上がる途中で、どんどんと体を太らせ、広次の作ったそれを飲み込む勢いで校舎のてっぺんまで立ち上がった。そして、じっと双竜は対峙し、時を待つ。

「よし、出そろったな。では、あたしの合図で一気に文字へと変化させてもらう、準備はいいか!」

「いつもでおっけー!」

「どうぞ!」

 寿々美は、双方の答えを確認し、ひとつ大きく呼吸をして、また肺へと大きく息を吸い込む。

「では、文字をしめせ!」

 寿々美の号令と共に、一筆は心に押しとどめていたイメージを解放した。

 それは一瞬の出来事で、竜は姿を裏返すようにするだけで、文字となった。その瞬間に、会場からは大きな声があがり、今までにない最高潮を如実とする。あまりの歓声に耳をふさぎたくなるくらいだった。パンツの色というお題の時よりも、さらに大きく感じるのは、それが男女に共通し、誰しもに関心事であるからかもしれない。

「他人の味は蜜の味だけど、私には関係ない!」

 勇んで広次が描いた自分の想いを確認する。そこには間違いなく「広次」と描いてある。

「よっしゃ! これで想いは通じ合えて、私はらぶらぶ一直線。いやぁ照れるなぁ。そんなみんなで祝福だなんて……」

 会場はそんな想いの丈に湧いたのか、歓声が鳴り止まない。一筆は全てに祝福されるというのは、なんと心地いいものなんだろうと思う。羽の出しっぱなしのウェハースくらい湿り散らしたじっとり目でさえ、今は気にならなかった。

「ん? なんで羽はじっとり……」

 急に幸せ一色だった心に別の色が足し算された。いくら羽が広次を訝しんでいたとしても、親友の想いが成就したというなら、祝福とはいかないまでも、普通の顔をしているはずだ。

『幸せだな、一筆は……』

『なんだ、やっぱり祝福してくれるんじゃん、じゃあそんな顔はないでしょ。スマイルスマイルだよー、羽、姫スマイル』

 思考を投げてみるが、羽の表情は変わらず、じっとりとしたままだった。一体、何が気に入らないのかわからなくなってくる。羽を諦めて、寿々美ならと見てみる。

「……」

 だが、寿々美は絶句も同じく、目を閉じて胸の前で腕を組んで、お得意のA型立ちをしているだけだった。

「何よ、寿々美まで……少しは祝福してくれてもいいじゃない、ね、広次君……」

 と、振り返って広次と藍留を見た。

「え、あれ……なんで一体どうして……あれ?」

「大丈夫か、話し方が変だぞ。他も色々変だけど」

 羽の声がするのはわかる。そして何かを諭すように言っていることも理解できる。だが、目の前の光景だけが理解できない。それを理解しようとしているために、羽の言葉に突っ込むこともできない。

「こういうときは深呼吸しかない。吐いてぇ~吸って吐いて……」

 特に呼吸が乱れているということはない。健やかに伸びやかに、吐いて吸っては吐いてと、肺は穏やかに動作を続けている。

 だが、目の前の景色は覆らない。

「ねぇ羽……これって、現実なの?」

「現実。紛れもなく」

「ならちょっと蹴ってみてよ。ほらいつものように、むちっともちっとしたこの桃さんのようなお尻をばさ」

 羽に懇願するようにと、臀部を突き出して待機する。

「まぁ願いを叶えるのは姫としてやぶさかではないが、とりあえず自分が描いた文字を見るがいい」

 その現実とやらが把握できないから、夢かどうかの判定を手伝って欲しいと願い出たのに、拒否されてしまった。

「文字なんか見たって……」

 ゆっくりと首を動かし、自らの前にそびえる文字をそのてっぺんから順に追って読んでいく。

「……あ……い……るぅううううう?」

 おかしい。どうもおかしい。自分はっきりと「一筆」とイメージして、描き上げたつもりだった。それなのに出来上がったのは「藍留」という文字列だった。能力を使いつつ、さらに羽から流れ込む思考に無意識下での嘘か何かで抵抗でもしない限り、ここにある文字が真実だった。一筆は自分にそこまでの器用さも能力もないことなど、誰よりも心得ている。

「ああああ……」

 恐れと怯えの中、周囲の祝福が向けられている、事実であることを拒否し続けていた、広次と藍留が醸し出す絵画のような一場面の理由がやっと脳内で繋がっていく。

「ふぎゃんっ!」

 その事実が鮮明になり始めたところで、目の前が中庭の地面で一杯になった。

「ちょっと、なんで今さら蹴るのよ! お尻が割れるわっ!」

「現実を知ったご褒美……ほら見ろ一筆、これが現実……」

 羽がご丁寧に指さす向こう。ローアングルから見上げるように広がる世界には、背景に花びらでも舞い散っているのがお似合いの二人がいる。ご丁寧に、互いの両手を両手で包み込むようにして、何人たりとも入り込むことの出来ない、絶対の空間で結界を張っていた。その中で視線は絡み合い、もうほどけそうにもない。ここが満員御礼の試合会場であったり、学校の中庭でなければ、クラウの白い姿を植え込みの上からすくい取って、髪に乗せて、冠にでもして、そのままチャペルにでも行こうかという雰囲気だった。

 もはや、藍留が試合前に言っていた話というものがなんだったのかと、その答えというものを、改めて問い直す必要性がない現場として、しかと見せられてしまった。

「しょ、しょんにゃぁ……」

「いやまぁその一筆……あたしは割と初期にわかっていたぞ……」

 寿々美は、意気消沈した姿を気遣うように、咳払いなどひとつしてそう告げてきた。しかもご丁寧に、視線だけは合わせてこない。

「しょんにゃぁあああああっ!」

 無残に散ったこれからの夢の生活を笑うように、能力で作り上げていた文字が、声と共に崩れはじめる。

「一筆、踏ん張れ」

 羽の声も空しく、文字は崩れ落ち、黒い雨となって、頭上から降り注いできた。

「ふぎゃっ!」

 その一際大きな粒が、頭で弾けて全身を包んだ。

「ふむ……残念だが、今勝負が決したようだ。判定が出る前に能力を維持できず、その文字を表せなくなった者は、即刻反則負けとなるルールだ。従ってこの勝負、南具流広次の勝利とする!」

 寿々美の宣言に、会場は盛大な歓声と笑いに包み込まれる。当然、歓声という祝福は広次たちに向けられたもので、笑いを引き受けているのは、この黒塗りの哀れな存在だった。

 勝負が決したことに対する校舎からの声や感想、それには当然賛否が含まれている。それを黒い視界から聞いていると、惨めに拍車がかかり、いたたまれなくなってきた。

「うぁああああああん、お幸せにっ!」

 泣声か叫び声かと、判断することが困難な声をあげて、敗者一筆は走る。敗戦に走ると言ったりもするのだから。耳には、自分の叫び声だけがいつまでも残り、誰の静止も声も入らない。


 一筆はいたたまれなくなった中庭から校舎内へと逃げ込み、さらに何も考えず走っていたら、更衣室の中だった。誰にも邪魔されず、流れ落ちてくる涙と、全身が墨で真っ黒になっていても、許容される場所といえば、ここしかないと、足が連れてきてくれたのだろう。

「うあああん、あんあん……」

 涙は止まらず、思考は出来ても言葉はうまく口から出ていかなかった。結果、広次に想いが届かなかったことは悲しいが、一方で藍留の幸せを喜ぶ自分も、同時に存在する。甘いのに辛いところもある、醤油味のせんべいはとてもおいしいのに、別のことでそれを味わうと、そうとも言えないという、複雑に絡み合う思考が、涙を涸れさせない。

「一筆……」

 涙で周りの音を遮断していた耳に、呼ぶ声が届いた。

「あ……はにぇ……」

 泣声でかすれ気味の声では、上手く名を呼ぶこともできなかった。羽だけが心配して追いかけてきてくれたようだ。

「そんなとこで、真っ黒のまんま泣くな」

「泣くなとか、言われてもぉ……」

「フラレ虫は泣くだけか。その後とか知りたくないか?」

 そんなものは、普通に考えて傷口に塩を塗り込むだけの行為でしかない。だが、聞かず終わることもできないと思えた。

「じゃあ、聞かせてよ……」

「会場の盛り上がりは最高」

「それで?」

「……それだけ。他に何がある、何が必要だ?」

 羽は特に気を遣ってそう言っているわけではないのかもしれない。

「最高か……でも私は真っ黒でフラレ虫」

「いいじゃないか。一筆は笑いものになったが、会場を沸かせて、十分に広次が求めていたエンターティナーってやつにはなれた」

「そ、そうかな……」

 珍しいこともあるもので、あの暴君たる羽は姿を潜め、今回ばかりは、傷ついた親友を思っての慈悲深い言動だと思えた。

「そうそう、きっと広次も満足だ……藍留と幸せになるだろう。くふふ」

 その瞬間、羽の笑みが墨にも濡れていないのに、真っ黒に染まった。やはり羽とはこういう性格をしているのだ。

「う、ううう、うわあああん」

 せっかくひいていた涙の波が、また押し寄せて、まぶたの堤防を決壊させた。

「まぁ、気にするな……」

「なんでよぉ……」

 羽は二歩三歩と小さな歩幅で近づき、真っ黒な墨が残る頭にそっと手を置いた。余った布をまくり上げた袖から覗く、か弱く小さな指先は髪の毛の感触でも楽しむように、ゆっくりと丁寧に動く。道端でお気に入りの仔猫でも見つけて、鳴き声を楽しみながら、撫で回しているようにも感じる。

「男は他にもいっぱいだ……それに」

「それにぃ……?」

 言葉をためる羽の表情が、黒塗りの自分の顔よりも深く黒くなり、夜空に浮かぶ三日月のように、口がにぃっと横に大きく開いた。

「面白かった」

「ううううう、うあああああああっんっ!」

「くふふ、だから一筆はやめられない。姫が色々うまいこと立ち回ったかいがあった。手の平でころころは至福」

「うわぁあああん、もう恋なんかするもんかっ! 恋なんかしてやるもんかっ、羽のいいなりなんか嫌ぁあああああんっ!」

「くふふ、楽しみは姫のもの……くふふ、一筆はこの姫をずっとずっと楽しませればいい」

 泣き声と笑い声、対照的なふたつの声は、外の喧騒と隔離された冷たい更衣室で静かに激しく、しかし何よりも寄り添って、共に響いた。

                          (了)

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