第10話 三文字目 第二画

第二画


 プールの一件は、教師から見て危険を顧みずふざけていたと映ったらしく、一筆はひとりみっちりと濃密なお説教を受けた。プールから夕飯までの自由時間は全てお説教で終わり、解放された時には、食堂へ入らなければならない時間になっていた。宿泊合宿一日目というのに散々である。

 トレイに夕飯を乗せ、羽の姿を探しはじめ、そしてすぐに見つかる。こういう時は特徴的な外見をしている羽は目に付きやすく、いい目印だった。

「勇者のご帰還」

「羽のせいで、酷い目にあったよ……」

「酷い目って?」

 羽にしか気を裂いていなかったが、その横には、美味しそうに夕飯を頬張っている藍留がいて、さらにその向かいには男子が座っていた。

「こ、広次君!」

 勢い余って、持っていたトレイを落として、夕飯を床にぶちまけるところだった。

「街ノ田さんたちも、実習頑張ってるみたいだね。男子のほうもしごきがきついよ」

「そ、そうなんだ! こっちはもうゆる~って感じだよっ」

 一筆は、はしゃぐ心のままに、空いていた席に座り、今日あったことを報告していく。内容はありふれた、とても面白いとは言い難いことばかりだが、単純に広次と話ができていることが楽しかった。

「話すか食べるかどっちかにしろ」

「んじゃまず話す! で、息するときついでに食べる!」

「バカは言ってることの意味もわからない」

「いいじゃないですか~。お食事は楽しいのが一番なんですよぉ」

「藍留の言う通りだよ。会話のない食事なんて、蟹でも食べるとき以外はごめんだね」

「ほらほら、みんなこう言ってるじゃん、羽の少数派」

「姫はそんなに多数いたら困る」

「たくさんいるって話じゃないの!」

「はは……そうだ、この後は五組六組だけの特別プログラムだね」

「あ、そうなんだ。私しおりはあんまりみないから」

「そっかぁ。結構タメになる話が聞けるらしいよ」

「広次君がそういうなら、そうに決まってるね!」

「決まりきったようなつまらん会話……」

「羽はひねたことばっかり言わないの!」

 夕食の味はよくわからなかったが、それ以上に一筆にとっては有意義な時間だった。基本男女別のプログラムのおかげで、広次とクロスする時間もなく、笑いが伝播するような夕食を過ごせたのは貴重だった。

「じゃあ僕は先に片付けて講義室に行くから、また後で」

「はい~後で~」

 藍留が答えると、広次は夕食の空トレイを持って行ってしまった。その後ろ姿さえ絵になる。

「さてと、私もご飯食べよう……って、なんかデザートのくだものいっぱいゼリーだけがなくなってるのは気のせい?」

「気のせい」

 即答してくる羽のトレイを見ると、これもまた、なぜか透明になったゼリーカップが二つ重ねられている。

「世の中、弱肉強食。ぼーっとしてる一筆が悪い」

「むぐぐぐぐ……出せ、今すぐ出せ!」

「無理」

 ゼリーの代わりに、薄いピンクの唇が上下ふたつに開き、中から小さく舌を覗かせてくる。舌は出るが、当然食べたゼリーは戻らない。

「むぎーっ。私の……ゼリー」

「街ノ田さん~よかったらわたしのゼリー食べますかぁ?」

「え、いいの……でも、もらっちゃったら藍留ちゃんのがなくなっちゃうよ」

 藍留は答えを出す前に、ゼリーをすっと差し出してきた。

「いいんです~わたしは、ご飯だけでお腹いっぱいになったのでぇ、どうしようかと困っていたんですよぉ」

 藍留の笑顔に、くらりと思考が揺れた。かわいさと嬉しさで意識が一瞬飛びそうになったのだ。優しさなんて表現してしまうのは、とても簡単なことだ。だがそれだけでは事足りない慈悲にあふれている。

 ――天使だ。

「一筆がいらないなら、姫がもうひとつ……」

 真逆小悪魔の手がするるとゼリーに延びてくる。

「だめだめだめっ! これは私がもらったの、寄るな触るなっ」

「ケチなやつはモテない。いいから姫に献上せよ」

「じゃあ、あんたはそのお皿の端っこに寄ってる、みじん切りのピーマンをなんとかしてから言いなさいよっ! アレルギーでもないのに、オムライスに入ってるのまでせっせこ取り出して、職人さんに謝れ、オムライス職人さんにっ!」

「くふふ、オムライス職人……お笑い」

「二人とも、ケンカしちゃだめですよぉ~」

 噛み合う羽との間に、声が挟まれて流れる空気が柔らかに変わっていく。

「……なんだか藍留ちゃんって、お母さんみたいだね」

「え~そうですかぁ~。広次君のお家がやってる書道教室で、子どもたちのお世話してるからでしょうかぁ~」

「え、広次君のお家って書道教室してるの?」

「はい~、お爺さまは有名な書道家さんですよぉ」

 なくなっていたゼリーの他にも藍留からの思わぬ収穫だった。広次のパーソナルな情報をこんなことで手に入れられるとはと歓喜し、一筆はそのまま容量少ない脳内メモにしっかりと書き留めた。

「前に普通の書道もやってたとか言ってた」

「なにっ、そんな情報、いつ仕入れたどうやって仕入れた、言え羽!」

「……バカ一筆。一緒にいたとき言ってた」

 言われて記憶を探ると、そんなことも言っていたようなという欠片が、頭の隅から発掘された。

「わたしも、小さい時からその教室に通ってたんですよぉ~」

「ほうほう、それで! ちっこい広次君の情報とかは?」

 食後の雑談にはもってこいの話題だ。

「そろそろ食事時間終わって、次の用意しなさいよー」

 だが、そこで無粋な教師の声が食堂に響いた。これからめくるめく過去話に花が咲き、話の流れから、一筆にとって広次への売り込み作戦情報がもたらされると期待していたのに、とんだ肩すかしだ。

「ちぃ……わかりましたよ……」

「次も同じ講義室ですしぃ、一緒に行きましょう~」

 藍留の誘いを断る理由はないので、各々空になったトレイを持って立つ。ちなみに、ゼリーは藍留が立ち上がる間に、神速を発揮し食べきった。羽にこれを盗られ、なおかつ二つも食べたのかと思うと、悔しさで目の端に涙が滲む味だった。それをすんなりと分けてくれた藍留は天使――いや、女神にさえ見える。

「あんまりなれ合うな……」

「何でよ」

 藍留の後ろ姿について歩く背中に、羽の声がかかった。囁く声は、藍留には聞こえていないだろう。

「……まぁいい」

「いいなら、最初からそんなこと言わないの。ほら行くよ」

 前を向いたままで告げたせいで、その言葉を受けた羽が、どんな表情でいるのかはわからなかった。

 夕食後の講義は食堂の真上にあたる、やや広い階段講義室で行われる。

 羽、藍留とともに、三人中に入ると、ここでも席は自由なのか、五組も六組も区別なく生徒たちは座っていた。

 広次はと真っ先に探したが、見つけた場所は男子で囲まれていて、すでに席の空きはなかった。広次はクラスの友人と一緒のようだった。眼鏡の奥の目を細め、にこやかな笑顔を作り、講義開始までの談笑を楽しんでいるようだ。

「私たちも座ろっか」

「はい~どこがいいですかねぇ」

 きょろきょろと藍留は空いている席を探しているが、教師に指摘されるほど食堂に残っていたため、教壇のごく近い席にしか空きがない。

「仕方ない……前に座ろう」

「ふむ……一筆がグズなせい」

「あんたが、私のゼリーぶんどったりするからでしょ!」

「一筆が、余計な話をしてたせい」

「余計じゃない、断じて余計じゃない!」

 ぶんぶんと強く頭を振って抗議する。広次の情報を得ることは、一筆にとって最優先事項であって無駄などと思考の端にもない。

「まぁみなが姫のお姿を望みやすいし、前も悪くない」

「望めても、後ろ姿でしょ」

「一筆、いい女は背中と後ろ髪で語るもの。メモしとけ」

「……そうですか」

「あ、いいところが空いてますよぉ~」

「ちょっと藍留ちゃん?」

 藍留は見つけたという席へと、とことこと小走りに近づくと、さっと座り手招きをはじめる。よりにもよって、そこは教壇の真ん前であり、空いているというよりも誰も座りたがらず、選ばれていないだけの席だった。

 既に座って講義を聴きますという体勢に入っている藍留をそのままにもしておけず、その場所に座ることにした。

「あーみんな揃ってるな。いちいち点呼なんて取らないぞ。俺はお前たちを信じてるからな!」

 藍留を端にして、羽に挟まれるように座るとすぐに、声が響いた。

 およそジェントルとはかけはなれた大きくざらつく声が印象的な大柄の学年主任は、教室前の扉から入ると、ゆっくりと教壇まで歩き、そこに立つとさらに続けた。

「ここにいるのは、みんなわかってる通り能力者ばかりだ。というわけで、今日はこれからその能力についての講義をする」

 説明に、階段教室の各所から、どよめきとも聞こえるざわざわという声の群があがる。

 能力者というのは、特に意識してそれを行使したり、考えたりしない。考えれば深みにはまり、行使すれば疎まれるからだ。だが、向き合わないことには、自己を確立することもまたできない。自分を失うと、能力にのまれてしまうからだ。その結果、悲しくも犯罪に繋がることもある。

「さてと、能力については、能力者じゃない俺が講義できることはない。大人としてのアドバイスならいつでも出来るがな。迷ったらいつでも先生を訪ねて来いよ」

 学年主任の声には肯定も否定も起こらず、しんとした空気だけがある。

「おいおい、ここはツッコむとこなんだぞ……まぁいい。と、いうわけでだ……」

 学年主任は自身のユーモアが理解されなかったことに頭をかきつつ、壇上から降りて話を続ける。

「今日はお前たちと同じ能力者でもあり、歳も近い特別講師をお呼びしとる。拍手!」

 せがまれて拍手をすると、また前扉が開き、小さな背格好の人が入ってきた。

 ふわふわとしたふたつにまとめた髪を歩みに揺らし、起伏の乏しい体を無理矢理スーツでくるんでいるような、とても講師には見えない、少女と呼ぶにふさわしい年齢の人物だった。

 緊張しているのか、歩き方を思い出しながら足を出しているように、あちこちぎこちない体が、やっと壇上の中心でとまる。

「え、えと……ご相伴……じゃないや、ご紹介になった……いや、ご紹介頂いたか」

 歩き方だけでなく、言葉も思い出しながら話しているようだった。

「その、只今学年主任の先生にご紹介頂いた、深雪野学園大学部四年の沖崎夕夜(おきざきゆや)です。今日は特別講師として、みなさんにお話しにきました」

 今度は淀みなく言い切ると、背後の生徒たちから拍手が起こった。一見するとその容姿は大学生というよりも、高校生……それ以下にも見えなくもない可憐なものだ。羽も高校生には見えないが、二人揃ってランドセルを背負って、集団登校していても許されそうだ。

 拍手にはにかむ笑顔は人なつっこく、妹系と分類して問題ない。

「ち、敵が現れた……」

 羽の脳内ロールプレイングゲームでは、夕夜は舌打ちを枕詞にしなければいけないほどの難敵らしい。

「さてと、頂いてる時間も少ないので、それで役に立てるか自信ないんだけど、始めますね」

 夕夜は着られている感の漂うスーツのポケットから、折りたたんだ用紙を取り出し、壇上に準備する。かさかさと紙をひらく音がマイクを通して、講義室全体に響く。

「ええと、それでは始めに。さすがに知らない人はいないと思うんだけど、みなさんは自分の能力について知っていますか?」

 ごく当たり前の導入部分だが、能力者に対してならば、誰しもが興味を引かれる。

「自分のはわかるけど、先生の能力は何ですかー?」

 よくある質問が、調子のいい男子生徒から起こる。

「あ、私の能力か……ごめんね、言えないの」

「言えないってどういうことですかー?」

 確かに、なぜ言えないのだろう。人に自分の能力を知っているかと聞いておいて、自分がわからないというはずはない。

「ええと、そういう決まりなの。ごめんね」

 夕夜は壇上でウィンクを飛ばし、ちろりと舌を出した。それに男子生徒は打ち抜かれたのか、観念して口をつぐんだ。

「……言えないということは、人に教えると困る能力」

「どういうこと?」

 夕夜のほぼ真ん前の席ということもあり、つぶやく羽に問い返すのにも、小声になる。

「その辺でお目にかかれるものじゃないってこと……頭つかえ」

「うぐ……最後の一言は非常に余計だけど、大体わかった」

 夕夜の能力というのは、知られることで、何らかの利益が生じてしまうか、危険かというものなのだろう。そんなものを知ろうとする好奇心は自分を殺すことを、能力者はよく理解している。それは、能力同志のぶつかり合いに発展する可能性もあるからだ。

「さて、それ以外だったらスリーサイズも今日はサービスで教えちゃうよ!」

「そんなぺたぺたサイズどうでもいい。講義続けろ」

 羽は夕夜という仮想敵の勢いをへし折ろうと必死のようだ。

「……はい……じゃあリクエストに答えて、講義の続きしますね……」

 なぜかしょげたように、夕夜はしぶしぶと話を続けはじめる。羽にかかれば、人に知られてはならない能力を持った人物でも、すっかり形無しだった。

「それでは続けて……みなさんの能力には、それぞれ出来ることって決まってますよね。でも、実は決められた通りのこと以外も出来るんです」

 夕夜が説明しようとしていることは、つい昨日に寿々美が言ったこと、そして自分たちが実践したことだろうか。

「例えば、そこのあなた!」

「へ? わ、私ですか?」

「そうそう、黒髪の娘の横にいる、サイドの髪の毛だけ長いあなた」

「一筆のこと」

 夕夜は壇上でばたばたと手を動かして、一筆を必死に指していた。

「あなたの能力って何かな?」

「私の能力は墨汁を操るってものです……要するに水系、液体を操る系統のです」

「なるほど……確かに名前につけられているのは、墨汁を操るってことだけだけど、そもそも墨汁って何で出来てるのかな」

 夕夜は続けて聞いてくる。

「詳しくは知らないですけど……墨と水、ですか?」

「そうね。水と……墨はもっと細かく言うと、燃えたあとできる炭だし、炭素よね。つまり、能力を細分化していくと、あなたは理論上、そういうものさえ操れるってことなの」

「そう、ですよね……」

 昨日のことが甦る。寿々美に言われて、広次は墨を球体にして飛ばして見せたし、自分は縄にするという形状だけでなく、その強度までも操ることができた。もちろん、墨汁という範疇からは出ていない程度である。だから、夕夜の言うことは真実であるが、真意でもないと思えた。

「もちろん、全ての人がそういうことだと理解しても、炭素まで操れるように能力を開花させることは、並大抵じゃできないです。でもね、決められた名前だけで、自分の能力を限定してしまうことをしないで、その可能性を信じて欲しいってお話なの。そうすれば、今まで到達できなかった領域にまで、自分を進めることができる」

 それは能力の開発というよりも、自分を信じてというような、ひどく真っ当で、教師ならば一度は生徒に向けて言うだろう常套句のようなものだった。

「私も能力者です。その能力がどんなものかは言えないけど、今の力になったのは、自分だけの力じゃないの。誰かと触れあって、考えて、泣いて、笑って……それが出来たから、自分と向き合えたし、理解できた。能力ってそういうものだと思うの。自分の成長と一緒に歩いて大きくなっていくもの。みんなの能力はまだ種の段階……色々な経験を積んで、綺麗な花を咲かせてね。備わった能力は、自分の一部だし、分身だから……しっかり愛してあげて、人の能力も受け入れて愛してください」

 言い切ったように、夕夜は壇上に置いていた紙を畳み、ポケットにしまった。ふわりとあげた顔について、年齢にそぐわないゆるゆると巻いた髪のツインテールが踊る。その顔は上気して少しだけ赤く、幼さの生むかわいらしさを過ぎて、とても綺麗だった。

「ち……特別講師のくせに」

 羽の負け惜しみも、今は賛辞みたいなものだ。藍留など、指を組んで夢見がちな少女の目をして、夕夜を見つめている。

 しばらくして、どこからともなく拍手が起こり、それに笑顔で応えて、夕夜は壇上から去ろうとする。

「待ってください!」

 だが、それを一声が止めた。

「広次君の声ですぅ~」

 横で夕夜の講義を熱心にメモまでしていた藍留が教えてくれる。振り返り、階段教室の底から見渡してみると、段の真ん中から、天井へとまっすぐに腕が伸びていた。

「質問させてください」

「は、はい。私に答えられるなら」

「先生が今おっしゃったことは、とても素晴らしいことで、感動しました。でも、あくまで能力者同士のことですよね」

「そ、そうかもしれないね……」

「じゃあ、僕たちが能力を持っていない人に受け入れられ、愛されるにはどうしたらいいんですか? 僕たちがどんなに受け入れても、彼らが受け入れないことはありますよね?」

 広次の質問に、講義室からはざわつきが生まれ、夕夜の表情が変わった。大きなくりくりとした目が一層見開かれる。広次が言おうとしていることは、昨日のことだろう。あのトリックスターという思念のことだ。

「……そうだね……もちろんある。けど、諦めちゃダメなんだと思う。諦めて自分を自分から閉じたら、そこから先は闇だけなの」

 経験に基づいているのだろうか。夕夜の言葉には強さと説得力を感じた。

「じゃあ、逆に質問してもいいかな?」

「はい……」

「君はどうやったら自分の能力が受け入れてもらえるだろうって、方法みたいなのは考えてる?」

「はい、もちろんです」

 広次の答えにも迷いがなく直線で、選手宣誓のような清々しささえ漂う。

「よかったら聞かせてくれるかな? みんなのためにもなるだろうし」

「はい」

 夕夜の申し出をまるで待っていたかのように、広次は表情を緩めた。

「広次くん~……」

 藍留は横でなぜか心配そうな顔になっている。あれだけ堂々としている広次の何が心配なのだろう。もしその危惧が藍留だから出来る類のものであると考えると、とたんに怖くなる。しかし、その不安を消すように広次の意見発表が始まった。

「僕が考える、受け入れられる能力者のあり方は、エンターティナーになることだと思います」

「エンターティナー……芸人さんみたいなものかな?」

「平たく言えばそうかもしれませんね。能力を芸として表現すれば、それは能力を持ってない人にも、ぐっと距離が近づくことだと思います」

「なるほど……テレビなんかでたまに、能力を使ってる人がいるけど、あれを広く浸透させていけば、普通になるってことだね」

「それって、見せ物になれってことかよ!」

 納得した夕夜の声に重なって、どこからか野次が飛んできた。そして次々と野次に乗る声が飛んでくる。広次はそれらが、あらかじめあることだと予測していたように、冷静だった。人差し指で眼鏡を直し、声に向く。

「見せ物でも何でもいいじゃないか。能力を怖がらず、笑って受け入れてくれるなら、否定されたり憎まれたり、怖がられたり疎まれたりして、虐げられるよりもよっぽどいい」

 広次の切り返しに、肯定とも否定とも取れないざわめきが、講義室に波のように広がっていく。その伝播がもたらしたものは個人によって違うだろう。だが、明らかに意識へと一石を投じたことは間違いない。

「広次君、かっこいい……」

「言いたいことはわかる。けど簡単でもない」

「その茨の道をあえて進むとこがいいんじゃない、羽はわかってないなぁ」

 密やかに話していたはずなのに、壇上からの視線に気付き、首を振ると夕夜は笑っていた。

「君の理想はなかなか困難なことだと思うけど、きっとそれを支えてくれる人や理解してくれる人もいると思うの。だから諦めないでね。私もそういう人たちに支えられて、今ここで君たちに話してるから」

「はい……僕は僕自身でそれを証明してみせます……絶対に」

「かっこいい……」

「わかってないのはいいことだけど、それに利用されようとしてる自分にも気付け」

「んあ、何か言った?」

 羽はもういいという風に、片手を開花させるジェスチャをしてみせてから、顔を伏せた。

「じゃあ、これで私の講義は終わりますね。みなさんも、彼みたいに自分の能力と向き合って、世界とも向き合ってみてくださいね」

 夕夜はそうしめると、一礼して壇上から降りた。ふわふわとしたツインテールが扉から出て消えると、学年主任がまた壇上に現れる。

「さてと、いい講義だったな。あとでレポート提出してもらうから、寝てる奴は今のうちに起こしといてやれよ」

 どっと笑いが起こった。だが、この講義で笑いが起きたのはこれが最後であり、後はつまらないビデオを鑑賞するだけの座学だった。

「はぁ……終わった……」

 何人の生徒が同じ言葉を口にし、凝り固まった肩や首や腰をぐりぐりと言わせただろう。

「ふむ、疲れた」

「羽……沖崎先生の講義終わってから、ほとんど寝てたよね。それで疲れたとか」

「寝疲れた……」

 大層な性格をしている。羽がもたれかかって爆睡していた間も、重点をかかさずメモし続けていた藍留を少しは見習って欲しい。そしてレポート提出のため、そのメモはぜひ貸して欲しい。

「でも、疲れましたねぇ~やっぱり先生の前だと、緊張しちゃいますねぇ~」

「藍留ちゃんが真っ先に、真ん前陣取ったんだけどなぁ……」

「あれれ、そうでしたかぁ~、すみませんでしたぁ~よくわたし失敗するんですぅ」

 いつものことと言えるには、まだまだ付き合いは浅いが、藍留とはこういうものなのだと、頭の中で構築できてきた。羽に関しては、藍留の存在はまだそれまでに至ってないのか、歯がゆいという表情をしている。

「藍留、お疲れ様。メモ取れた?」

「広次君、お疲れ様!」

 藍留に話しかけているのはわかっているが、その答えをいちいち待ってはいられず、一筆は弾んだ声を挟む。ここに存在していると認識してもらえれば、それでいい。

「はい~お疲れ様ですよぉ。それにいっぱいメモしたので、あとでまとめるのが大変です~」

「それはメモと言わない」

「あ、そうでしたぁ。だから授業でも、わたしいつもノートがすぐになくなっちゃうし、ノート取り終わる前に黒板消されちゃうんですねぇ~」

「はは……藍留らしいなぁ」

「広次君こそ、先生に質問までしちゃって、かっこよかったよ!」

「ありがとう。僕にも曲げられないものっていうのがあるからさ」

 広次は照れながらも、曲げないという信念の片鱗を見せて、力強く言う。

「それがエンターティナーになること?」

「うん、さっきも言ったけど、僕は見る人を笑わせて、受け入れてもらうのが夢なんだ」

「なんでそこまでこだわる」

「……そうだね、祖父が僕に教えてくれたことだし、僕も祖父のようになりたいからかな」

「広次君のおじいさんは、超書道を作った人のひとりなんですよぉ~」

 藍留から、重要証言が飛び出した。広次の祖父が超書道の始祖たるひとりだというなら、彼がそこまで魅せることにこだわる理由も知れる。

「だとして、その夢を叶えるためなら、誰かを利用してもいいのか」

「ちょっと、羽!」

「相変わらず、天原さんは手厳しいね……悪いけど、僕の考えは変わらないよ。その程度で揺らぐほど甘いものじゃないんだ」

「広次君~……」

 凛とした広次の言いようとは裏腹に、いつもは明るい藍留の声は落ちていく。放っておいたら、噛みつきそうな羽とは大違いだ。

「まぁまぁ。私は広次君に協力するし! 私だってみんなに笑って受け入れてもらえるなら、それが一番だから!」

「ありがとう……パートナーの街ノ田さんはこう言ってるけど?」

「勝手にしろ……」

 羽は捨て台詞のように吐いて、さっさと歩き出してしまう。

「ちょっと、羽。待ちなよ!」

 呼び止めても、その背中は遠のくばかりで、静止しようとする意志は欠片も見受けられない。仕方なく追いかけようと、二歩三歩進んでから、後を広次と藍留が追っていないのに気がつき、慌てて踵を返した。

「羽、先に行っちゃったみたいで」

「仕方ないよ。僕たちも次のプログラムの場所に行こう」

「はい~次は……晴れなので、グラウンドでキャンドルセレモニーですねぇ~」

「多忙で過密なスケジュール……誰なんだろうこれ考えたの。一泊二日に詰め込みすぎなんじゃ……」

 乾いた笑いを引き連れて、キャンドルセレモニーへと向かう。その途中、女子トイレから手をハンカチで拭きつつ出てきた羽と出くわした。

「あれれ、トイレとは無縁の姫殿下は、何をしてらっしゃったのですか?」

「うるさい……手を洗ってただけ」

 何をすたすたと先へと行ったかと思えば、そういうことだったのだ。むすっとした顔の羽をご一行に拾い上げて、グラウンドへと歩いた。

 グラウンドにはキャンドルと言いながら、小ぶりとはいえ、キャンプファイヤーのように、薪が井桁状に組み上げられていた。生徒の多くは既にそれを取り囲むように集まっている。

「どこでろうそくに火をつける気なの」

「こういうのは雰囲気。キャンドルなんて、名前だけ」

「羽はそういうとこには心広いよねぇ……」

「姫はいつも寛大だ。そして燃え上がる火を見ると、征服感に満たされる」

「人のこと散々言うけど、あんたも立派にヘンタイさんじゃない」

「んふふ……お二人はホント仲いいですねぇ~」

 静観していた藍留はほほえみを添えてしみじみともらす。

「そんなでもないけど、付き合い長いからかなぁ」

「お、いよいよ」

 話の腰を見事に羽は折ってくれたが、薪に火がつけられるようだった。

 ひとりの男子生徒が薪の前に立つ。その手には火種も何もない。それがなぜなのかは服装からは判断できない。宿泊研修中は能力者の証であるロングジャケットではなく、全員が体操服であるためだ。薪の前に立つ男子がその能力で火を起こすのか、はたまた能力者である第三者と協力して火をつけるのかと、少し見物だった。

「あ、火がつくみたいですよぉ~」

 藍留は待ち焦がれていたように指さし、点火の瞬間に見入る。

「点火!」

 先ほどまで講義室にいた、学年主任のかすれた声が、号令を出す。すると、薪の前に立っていた男子は片腕を星空へと掲げたまま、残った腕を空手の突きのように、組み上げられた薪へと打ち込んだ。

「つきましたぁ!」

 藍留の歓喜とともに、薪は一息に炎に包まれ、煌々と燃え始めた。炎の周囲を生徒の歓声が包み、点火をした男子は英雄のように拍手を送られて、それに応えながら人混みに溶けていった。

「あれだって、能力で人を楽しませるってことだ……僕もああなってみせる。さっき批判してたやつらだって、今のをみて拍手したんだから」

「広次君なら、なれるよ!」

「ありがとう。そうだ、もうすぐ生徒会長から街ノ田さんにも連絡が行くと思うけど、超書道部で、校内代表決定戦をやることになったから」

「校内代表?」

「うん。超書道の大会に出る代表を決める試合だよ」

「試合ですかぁ~みんなで大きな大会に出れたらいいのですがぁ、そういうルールみたいですぅ」

「超書道の試合は時間がかかるからね、そんなに大勢のトーナメントにするわけにはいかないらしくて」

「そっかぁ……ちょっと残念……」

「うん、僕も出来れば街ノ田さんと試合するだけじゃなく、大会も仲間として参加したいんだけどね」

「その言い方……まるで、もう自分が勝ってるみたい……まぁ当初の思惑通りってわけか」

 羽はまるで探偵が犯人を、断崖絶壁に追い詰めて問いただすような口調で、広次に告げる。

「はは……何とでも思ってくれればいいよ。僕は僕の信念を通すだけだから……何があっても」

 広次の信念というのは、広く考えれば一筆にも関係あることだった。能力者が他者に能力を受け入れられるかと悩むことは、夕飯の献立は何にしようと考えることに似ている。無駄のようで、絶対に必要なことだ。

「それに縛られすぎるのも考え物」

「羽、余計なこと言わないの」

「ふん……」

 鼻を鳴らした羽はそれっきり、揺れる炎を見つめるだけになった。揺らめく炎に照らされた顔は、赤と黒の光と影が行き来して作る影絵が映り、黙っていたら美少女という言葉を連想させた。もう少しぐらいこのまま眺めていてもいいかなと、もしかしたらいるかもしれない羽を見つめる者の代弁をしてみた。

「あ~もう終わっちゃうみたいですよぉ」

 藍留は眉を寄せて、炎の終焉を寂しがる。始まりも一瞬なら、燃え尽きるのもまた早かった。能力で作り出した炎であったから、その炎圧というのか、薪を燃やしきるには強すぎたのかもしれない。もしくは、過密に立てられたスケジュールのために、元々がわずかの時間で終わることになっていたのかもしれない。セレモニィというものが、どれも形式だけのものであるのと同じように。

 どちらにしても、炎は一瞬でも夜空に綺麗だと、この場にいた人間に記憶を与えたことで、その役目を終えていたのだろう。そこに付随する、炎に照らされる誰かの横顔を見つめていたというような、人と人の想い出までは、領分ではない。

「終わるのは一瞬か……僕はそうならない……僕に続く人たちのためにも」

「欲張り……それが身を滅ぼす」

 また羽が広次に食ってかかっている。炎を見つめているときは黙って美少女に見えるなら、羽といるときは、常にたいまつでも焚いていればいいかと、一筆は首をひねる。

「そんなことないさ……何の志もなくただ流れていく時間に身を漂わせてるほうがよくないよ」

「広次君~……ほら、みんなもう時間だからお部屋に帰ってますよぉ~」

 藍留は広次と羽の間に流れている空気を何とかしたいのだろう。せっかく仲良くなった人同士が争うようにしたままなのが、耐えられないのかもしれない。

 その考えには同意だ。今後も含めて、羽と広次の仲が良好にならなくとも、普通であることが喜ばしい。

「さ、んじゃお部屋に行こうね。羽ちゃん~」

 広次と向き合う羽の首根っこをつかみ、いつものように小脇に抱えた。

「広次君~」

「ん、どうしたの藍留?」

「はい~……その、街ノ田さんとの校内試合に広次君が勝ったら、大事なお話があるんです~」

 組み上げられていた跡形も、探すのが困難なほどに炭と化した薪が、最後に大きく爆ぜた音が響く。宿舎へ帰る多くの生徒は、その突然の音に驚いていた。

 だがそれに勝るとも劣らないのが、藍留が広次に突然告げた言葉だった。

 羽がふぎゃっと聞いた事のない声をあげて地面に落ちたが気にしている場合ではない。後を追ってこない広次と藍留を振り返らない方がよかった。にわかに一筆はそう後悔したが、もう後の祭で、この場合の「青天の霹靂」の用法は、薪が爆ぜる音から受けた衝撃に似ていた。

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