第9話 三文字目 第一画
三文字目
第一画
一筆が慌ただしく宿泊研修の用意を終え、床に敷いた蒲団に入ったのは零時を過ぎていた。
今までにない経験をしてしまったからというのもあるが、胸の高鳴りは恋にも似ていて、睡眠妨害のように想像や妄想ばかりが浮かんでしまった。
気を失うように眠りを感じたのが、小鳥の鳴き声と同時のようにさえ思える。
「うう、起きなきゃ……」
蒲団から這い出て、何とか一連の朝支度を済ませ、着替えの入った、やや大きめのドラム型スポーツバッグを持って、自室を後にした。
「遅い」
一筆が玄関を出たところで、羽が待っていた。傍らには車輪のついた小さなスーツケースを連れている。慣習として羽は迎えに行くものだと決まっていた思考があった分、その驚きは大きかった。
「え、待っててくれたの?」
「べ、べつに遅刻するかもしれないって心配で、迎えにきたわけじゃないんだからね」
お手本のような棒読みだった。音声読み上げソフトのほうが人間味を感じると思えるというのは、別の切り口で見ると、素晴らしい才能なのかもしれない。
「あーはいはい、ありがとうございます姫」
「わかればいい。さっさと歩け」
「ったく、こっちは興奮やら何やらでロクに寝てもないのに……」
昨日起こった諸々のことを、羽は何とも思っていないのだろうか。その感情に起伏があったようには思えない、淡々と平静な顔だ。
「宿泊研修くらいで、興奮とか……一筆はオコサマ」
「いやいやいや、そこじゃあない」
「じゃあスケベ……おさかんなことで」
「それでもないっての」
羽に伝えるが、頭をゆっくりと傾けて、じゃあ何のこと、というポーズが返ってくる。それは藍留の専売特許だったはずだが、気に入ったのか、真似をする価値があると判断したのか、よくする仕草のひとつになったようだ。
「もういいです……」
肩にかかるバッグを担ぎ直し、教室へと急ぐことにした。
宿泊研修といえば、遠足と同じようにバスに乗って、山や海にある専用施設に行くというのが定番だと思っていた。実際、小学校でも中学校でもそうだったので、そうだと決めつけていた一筆である。
だが、深雪野学園のそれは違う。まずはいつも通り教室へ集まり、朝のショートホームルームを終えると、靴へと履き替え、校庭に屋内シューズを持って集合という形になっていた。
「なんだか妙な感じだなぁ……」
これから宿泊研修に向かうというのに、月曜日の朝礼をしている気分になってくる。ぼやいてみても、それに反応をくれる羽の姿は近くにない。出席番号順に並んでいるためだ。
屋内シューズを持つ手も疲れてきたので、スポーツバッグに無理やり押し込み、ぼんやりと朝礼台に立つ教頭の演説に思考を溶かすことにする。だが、特に意識を引くような内容でもなく、それもすぐに飽きたので、空を眺めた。東を見て西へとゆっくりと視線を移動させていく。東は雲のない晴天だが、西の端はやや雲が重なり、午後か夜か明日には天気が崩れるのかと、あまり関係ないことを考えて過ごす。
「ふにゃ!」
あまりにぼんやりとしていて、気でも失ったかと思った。突然に視界が揺らいで、空に固定していたはずの世界がめぐって、正気になったときには、地面に片膝をついていた。
「一筆、ぼやーっとしすぎ」
「ちょっと、なんていたずらするのよ!」
周りからは嘲笑にも似た笑いが密やかに起こっていた。
「一筆が気を失っていて、このままじゃみんなに置いて行かれると思ったから」
言われて周りを即座に確認すると、既に一組二組あたりの列は移動を開始していた。
「そ、それなら口で言ってよ! わざわざ小学生みたいに膝カックンとかしない!」
羽が所行に悪びれることは、全くないようだった。そればかりか、にこやかに笑って返してくる。周囲に人がいればこその表情だ。いなければ、膝カックンは非常な蹴りへと変化し、にこやかは薄ら笑いになっていたことだろう。
「まぁいい。歩け」
「馬車馬か私は……ぴしぴし尻を手で打つなっ」
羽とやりとりしている間に、列の進行は自クラスにまで達していた。膝についた砂粒をはらい、羽に言われたからではないと心で否定しながら、前に続いた。
「宿泊施設って、近いんだよね?」
「もう見える。あの山」
羽が指すのは、学校の向かいにある川向こうの山だった。入学当初の説明で、そういうことを誰かが言っていたのは覚えているが、そこまで重要なことでもないと脳が判断したのか、記憶の奥底に眠っていて、思い出せなかった。
バスに乗って研修施設に行かなくても、目の前にそういう場所があるというのは、設備のいい学校というよりは、ある種の成金趣味な気がする。成金趣味とはいえ、深雪野は都会のど真ん中に、広大な土地を所有して存在するわけではない。ごくごく地方都市……言えば田舎にある。そのため、どんなに裕福な家庭の生徒が実際に在学していたとして、寮暮しの生徒が大多数を占めている。そこにも入学当初説明された理由があった気がするが、宿泊施設のことと同じく記憶に眠る程度のもので、気にする必要もないことなのだ。
「まぁあれか。田舎だから土地も安いし、建て放題ってやつか」
「そんなところ。あとは部活の合宿とかでも使われるし、小規模なシンポジウム利用もOK」
無駄話をしている間に、学校前の川を渡り、すでに低い山の中にまで列の先頭が到達していた。列について進むだけで、体は自然と山道へと吸い込まれていく。山道と言っても、きちんと舗装されていて、宿泊施設までは車やマイクロバスでの移動も可能なくらいだ。それくらいに緩やかでなだらかな道がうねうねと、白い宿泊施設まで延々とと、徒歩ならば感じるほど続いている。
「一泊二日で何やるんだろう」
「少しは、しおりを読め」
「ほら、私はそういうものに頼らず、独自性を育てることを常にしてるからね」
言うと、羽は明らかに嫌な顔をして返してきた。そしてさっとしゃがみ込み、足下に落ちていた松ぼっくりを拾い上げると、投げつけてくる。
拾っては投げ、少し進み、また拾っては投げ、を繰り返す。アスファルトで舗装され、無駄に広い道の脇に落ちていて、その目にとまる松ぼっくり全てを拾って、投げつけてくる勢いだった。
「こ、これくらいで勘弁してやる……」
息荒く、やっと羽が松ぼっくり投げをやめた時には、宿泊施設の玄関前だった。
羽のおかげで短く感じた旅路であり、退屈しなかったので、それもまたいいだろう。疲労も紛れていたので、四肢にそれほどの苦痛は感じない。
「これから、中の説明をしてまわるぞ。その後は部屋に荷物を置いて、ホールに集合だ」
学年主任の説明も遠く感じる。今は数ある生徒の中のひとりとして、それに身をゆだねて何も考えずに行動をしても許される。
流されるままに説明を受けて、流れるままに荷物を置いて、言われた通りホールに整列する。それがここでの役目の全てだった。
細々とした説明や心構えなどを聞いて終わった時には、昼食の時間になっていた。ウェルカムセレモニーの代りだと、喜べるほど昼食は豪華ではなかった。普通に健康や栄養バランスが考えられた、よくできた給食だったからだ。クラスメイトと適当に談笑しつつ、積まれたデザートを見て、羽が姫として君臨している様を遠巻きに見る。何もないときは、何もない起伏のない生活だ。
それに、一筆自身の中でイベントごとと言えば、胸の高鳴りを孕むことが主であるが、現状ではクラス単位の行動がそれこそ主であるので、六組の広次と重なることがほぼないというのも、平坦な感情の一部理由なのかもしれない。
「午後からはしおり通り、女子は屋内プールで水泳研修。男子はグラウンドでランニングだ。遅れるなよ!」
学年主任の説明通り、男子と女子がこれほど明確に差別されるのも珍しいプログラムだ。しかし、健全な男子高校生というのは、水泳さえ男女別にしておかないと、よからぬことが起こる可能性もある。
藍留の一件も、そういうものの切れ端が原因だった。だが広次の勇姿を見たり、見られたりすることがないという現実も、実にもったいない気がした。
「よだれたれてる」
「え、嘘……」
よからぬ妄想に旅立とうと、川を渡る小舟に乗ろうとしていた目の前に、羽が現れた。現れたので、ここがまだ現実だと気付いた。
「大丈夫、彼岸から帰ってきたから、その前蹴りの構えをした足をおろせっ!」
「……今から姫の水着姿を想像してよだれとは……立派なヘンタイ」
「だから、ちがうって!」
いつものやりとりを終わらせて、羽の表情を改めて見ると、なぜかやわらかい。これは高級アイスを目の前にした時と酷似している。
「あれ、羽……水泳好きだっけ?」
「水はいい……ぷかりとやれば、体の中から汚れたものが全部出ていく」
うっとりとした表情になり、水に浮かぶ自分を想像しているのだろう。しかし、羽の中から汚れたものが全部出ていくには、相当な時間、水に浮かんでいなければいけないなと思ったが、口には出せなかった。その暁には、プールは生物の住めない場所になるかもしれないと思ったが、それも口には決して出せなかった。
「はいはい、んじゃ行こうねぇ」
「もっと喜べ。この姫の水着姿が拝めるのだ」
「そこで喜んでたら、私はあんたの思うツボなヘンタイさんでしょうに……」
食堂から出て、同じ棟の三階にある六人部屋に戻る。宿泊施設の六人部屋といえば、小中学校で体験した、一般に狭くパイプ式の二段ベッドを想像するが、そうではない。ここは、個人用の平ベッドが横一列に六個ならび、それぞれの足下には、ロッカーまで備え付けてある。本当に無駄に豪華だ。そのロッカーから、水着など一式の入った巾着袋を取り出して、部屋から出ると、廊下で羽を待った。
こういう時に限って、羽と同室などにはならない、近くて遠い存在なのだ。羽は別々になっても、姫という立ち位置を得ているおかげで、どこでも上手くやっていく。一方一筆は、羽がいないとただただフラットになって、恋くらいしか見つめるものがなくなる。個性なんて本当は存在しない、埋もれていく存在なのだ。能力を持っているといえど、特筆して人の目をひくものでもない。それで人気が出たり、立ち位置がかわったりするものではないのだ。自分が自分でいられるのは、もしや羽のおかげなのかと考えると、心がくすぐったくなってしまった。
「そういう意味では、腐れ縁ってやつも捨てがたいもんだ」
同学年ばかりがいる廊下の風景を見ていると、学校にいることと何の変わりがあるのかと疑問になってくる。新しい出会いはあるかもしれない。だが、その基本になるのは、既に学校で出来上がっているグループに付け足しや抜けが生まれるというだけのものだ。
まして能力者ともなれば、非能力者との間には一定の壁が既に存在する。それを一泊二日程度で乗り越えたり、壊せる人物ならば、それは宿泊研修でなくても可能だろう。
「あれぇ、街ノ田さん~どうしたんですかぁ?」
焦点の定まらない目で、廊下を行き交う人影のどれだけが、これから自分自身に関わる人なのだろうと一筆は考えていたら、背後から声がかかった。
「藍留ちゃん。いやぁ羽を待ってるんだ」
「そうなんですかぁ~だったら、わたしもご一緒していいですかぁ?」
「え、もちろんだけど、クラスの人とかはいいの?」
「えぇ~いいんですよぉ。なんだか、わたしがこんな感じなのでぇ、みなさん呆れて置いて行っちゃうんですよぉ」
藍留はそれに疑問も感じぬように話している。
水が合うだの、馬が合うだの、それは心を持っていれば仕方ないことだ。そこに能力者という共通項は通用しない。
藍留はたまたま六組女子の水に合わなかった。そして、馬が合う人もいなかった。それだけのことなのだ。
「そっか、んじゃ私たちと一緒に行こうね」
「はい~嬉しいです~」
そして、自分たちと藍留の馬は合う。それだけのことなのだ。これだけ生徒がいて、今も話している目の前を、たくさんの女子生徒が通り過ぎて行く。その中でたった数人の馬が合うというなら、それはもう運命みたいなものなのだ。こと藍留は広次のパートナーでもある。藍留との関係が良好であることに越したことはないのだ。だが、そんな掛け値で考える必要もない。
「そういえば、水着って自由らしいけど、藍留ちゃんはどんなの持って来たの?」
「普通ですよぉ~中学の時着てたのしかなかったので、新しいのは買いましたけど~」
「姫のは見てのお楽しみ」
突然会話に立ち話の発生した原因の張本人が入ってきた。
「羽、遅れといていきなりの登場ね」
「遅れたので、意表を突いてみた」
ああいえばこういう切り返しで、本気で相手をすると、背筋がむずむずとしてくる。先ほどに感じた感謝のようなものは、芽生えたところで、その双葉をちょきんと切り取られた。
「まぁいいことにしよう……早めに行かないと、着替える時間もあるし」
「そうですねぇ、わたしは着替えるの遅いのでぇ、三十分前には集合を心がけてるんですぅ」
「いや、藍留ちゃん。とっくに三十分前は過ぎてるし、その計算だと学校の体育だって五時限目のしか間に合わないから」
「あれぇ、そうでしたっけぇ~。だったらわたし、いつもどうやって遅刻せずに着替えてるんでしょう」
「七不思議……」
羽は感想を告げると、さっさと歩き始める。一筆は未だに自分のミステリーに囚われている藍留の腕を引いて、羽に続いた。
水泳実習は併設されている屋内プールで行われる。
ここは学校の水泳部も使っている場所であり、宿泊施設から一端外に出て、向かわなければならない。学年女子全員が一度に実習することになっているので、その道順は女子の列が続く先であり、迷うことはなかった。
連れだって更衣室に入るが、女子全員が一斉に着替えてもまだ余裕がありそうなほど、無駄としか思えない広さだった。
一般への貸し出しや地域レベルの水泳大会も開かれるのだろうか。
「すごい熱気……」
「女子が大勢いる場所で熱気を感じるなんて、いよいよ、ヘンタイ一筆」
「こらこら、誰かが聞いたら私を変な目でみるような発言をって、もう見られてるっ!」
すぐ横にいた女子が羽の言葉を聞いた瞬間に、さっと一歩分の距離を取って離れた。
「いやね、私はそういう人じゃないから……ねね、安心。安心無害一筆だよぉ?」
弁明をしてみたが、一切目もあわせず、終始バスタオルで肢体を隠したまま着替えを終えた女子は去っていった。さらにその外周では、こちらをちらちらと見ながら口に言葉を含ませて、バスタオルで必死のガードを開始した面々が、視線を合わせようとすると、瞬時によそを向くという繰り返しが続いた。
「ああああ……私のイメージがぁ……」
「連続五回フラれ続けてるやつが、イメージも何もない」
「酷いことを、やすやすとぉ……」
悔しくて歯がみする横では、藍留が一所懸命に水着を着ていた。
「うんしょぉ……あれぇ、おかしいです~買ったときはちゃんと、着れた……のにぃ~」
主に水着へと収めるのに手間取っているのは胸である。一般的には敗北を宣言する必要のないサイズではある一筆だが、寿々美や藍留などが傍にいると、それもどうなのかと思えてくる。寿々美の場合は、身長などから導き出される最適解のようなプロポーションであるが、藍留のそれは、規格外としか言いようがない。怖くてサイズなどは聞けない代物だ。だが救いと言えば、羽にその部分で引けを取ることが決してないことだ。
「羽はあんな苦労しなくていいね」
「あんな重いもの、たぷたぷさせて歩きたくない。あれは揉むものだ」
藍留に目を奪われている間に、羽の着替えは終わっていた。その水着はどう考えても、羽の体型から導き出される年齢から逸脱したデザインだった。
「ちょっと、いくら何でもそれは……」
「一筆のようなヘンタイ以外には、普通。男子いないし」
「女子は変な気分にならないだろうけど、変な目では見られるかも」
「確かに……」
「そうでしょ?」
「どこかのヘンタイが着ていたら、変な目で見られるかも知れない。けど、姫ならば着こなせるし、許される」
「へいへい、さいですか……かわいいは正義ですなぁ~」
羽はあらためてその場でくるりと回ってみせる。布の面積があきらかに実習向きではなく狭く小さくこぢんまりである。
「天原さん、かわいいですぅ~」
「そう? わかる女は好き」
藍留は巨大な胸の前で指と指を組んで、羽の水着を輝いた目で見つめている。
スクール水着に毛が生えた程度の地味なデザインの水着を着ているはずの藍留だが、そのスタイルのおかげで、全くそうは見えない。伸縮性の高い布地が見事に胸から続く体のラインを浮き上がらせ、全てを強調している。
一筆は自分にしては、なかなかに大胆な切れ込みのワンピースを買ったつもりだったが、ひどく霞んで見えてしまう。スクール水着程度にさえ勝っているのは、おそらく値段だけだった。
「ま、負けるな一筆……女は中身!」
「そういう女に限って、中身もない」
「う、うるさい! ほら着替えたんだから、プール行くの!」
二人を並ばせて、その背中を一筆はプールへと押しやった。
プールは予想を越える大きさで待ち構えていた。長さは五十メートルで、しかもコースが横にずらりと十もある。ちょっとした国際大会でも開けそうな風格だ。飛び込み用にはまた別のプールまで用意されている徹底ぶりには感服する。一筆は自分は違うからという理由で、そうは感じていなかったが、この学校はやはりセレブ御用達の高校なのかとさえ思えてくる。
主に五組六組に固まる能力者は推薦や学費減額の補助があるため考えが及んでいなかった。
「うわぁ~おっきいですねぇ~どんな実習するんでしょう~」
藍留が大きいと感動をあらわに跳ねると、その胸にある大きな双子の丘も、あわせて上下に激しく揺れる。
「おかしいな……Eカップの私がなぜにこんなに敗北感? これが絶対的なアンダーとトップの差というものなのかっ!」
「世の中、ハンパが一番よくない」
揺れるどころか、つるんとした胸の羽の毒が刺さる。
「あるならある、ないならない。これが愛される理由」
「逆にないことにそこまで誇りを持てる羽に頭がさがるわ」
「いいぞ、姫を褒め称えよ」
羽の開き直りに頭を垂れたところに、教師の笛の音が聞こえてきた。ワイヤレスで拡声された言葉がホール効果のあるプールサイドに広がる。
「はい、集合! クラス順とかじゃなくていいから、円形にでも話が聞きやすいように集まってね」
教師の配慮か、その声に逆らうことなく、生徒たちは円形を組んで、朝礼台のようなものに乗る教師を囲み、話を聞く体勢になった。
「はい、それではさっさとやるべき実習をすませます。すませた後は、時間まで自由にプールで遊べるから、ちゃっちゃと実習がすむようにガンバってね」
心理を導くのが上手いのか、鼻先にニンジンをぶら下げられれば、頑張れるものだし、統制もとれるものである。学年の女子全てがこの場にいるということは、能力者もそうでない者も混在するということだ。教師の言うことに、後のご褒美に釣られておとなしく円形を描く女子はとてもフラットな存在で、寿々美の言っていたような「区別」は存在しないように見えた。
「こういう時のおきまりだけど、水の事故やその他でも必ず知ってると役に立つ、人工呼吸の訓練をします。それが終わったら、AEDの使い方も見てもらうからね」
教師の説明に納得した声や、嫌がる声などが混じる。未経験の者は当然に不安があり、経験者はまたかという飽き飽きした感想だろう。だが、こういう訓練は、飽きるほど、うんざりするほど繰り返して、初めていざというときに生きる。
「よかったな一筆」
「え、何が?」
「これで堂々と女の子にちゅーできる」
「ちょ、何でそんなことで私が喜ぶのよ!」
「街ノ田さん、人工呼吸得意なんですねぇ~」
「プロ級」
「どんなプロだ。私はレスキュー隊員か!」
羽の言葉で火が付いて、周りを気にせず声を高めてしまった。それに周囲の女子の笑い声が重なるまで、一筆は平坦な一群から抜き出ている事態に気がつかなかった。
どういう状況か把握したのか、台上の教師が呆れた顔をした。
「あー盛り上がってるとこ残念だけど、ちゃんと人工呼吸用の保護ナイロンを使ってやるし、相手は人形さんだから」
そう指摘されて、さらに大きな笑いが起こる。その笑いの中心にいるのが、どれほど恥ずかしいか。その仕打ちの八つ当たりをしてやろうと羽をみたら、一瞬まで目の前にあった体が、藍留と共に忽然と消えていた。
「はい、それじゃ三人一組になって、人形を使っての人工呼吸訓練に入るよー」
恥ずかしさを払拭できない一筆を置いて、世界は実習最優先で動いていく。三人一組になった生徒たちは、あらかじめ広大なプールサイドに用意されていた、マットに横たわる人形の元へと散っていく。一筆は自分もと足を動かそうとした目先、一番近い場所の人形を既に羽と藍留が確保していた。
「ちょっと、何でひとりにして置いていくのよ!」
「面白いから……」
全く悪びれない羽。藍留はというと、人形に興味津々で、撫でたりつついたりしていた。
「あーもう……いいわよ。どんだけ自由なの……この娘らは」
仕方なく、人形の横に座り、教師の指示を待つ。程なくして、全員が配置につくと人工呼吸実習がはじまった。
そして、早々に終わる。知識として、どうしたらいいかという手順は当然必要であり、それも交代で三回やれば終わることだ。もしも実際に人工呼吸が必要な場面に出くわしたら、飽き飽きする訓練で得た技術の上に体を突き動かす心のほうが重要になる。結局、全員が技術的な実習は早く終えて、目の前のプールで遊びたいという一心だった。人形を相手にしていて、窮地に対する、心の鍛錬にはならないということが結論だ。人工呼吸を各自が行っている間に、教師たちはAED……自動体外除細動器というものを用意していた。AEDは心臓が痙攣などを起こしうまく動かなくなった場合、電気ショックを用いて、心臓の拍動を元のリズムに戻すという器械だそうで、数がないらしく、教師監視の下で代表者が使い方を見せるということで終了した。詳細なやり方は機械に説明が載っているそうだし、人工呼吸などが必要かどうかもその機械に判断する機能が備わっているそうだ。
そういえば、いつもお世話になっているスーパードラッグジグザグの店舗入り口にも、月に一度くらい出かける郊外ショッピングモールでもAEDと書いたボックスを見たことがあるのを思い出す一筆である。
「はい、それじゃみなさんの協力で、滞りなく実習も終わりました。ので……プールで遊んでよし! ただし、飛び込みとかの危険行為はなしね。早速、AEDのお世話になることになるわよ!」
教師のお許しが出て、一斉に生徒たちはプールへとなだれ込む。注意された直後なので、さすがに走る者や飛び込む者はなく、のそのそという擬音が最適な速度で、人並みはプールへと吸い寄せられていく。
「私たちも行こう」
「ふむ」
「はい~行きましょう~。こう見えても泳ぎは得意なんですよぉ!」
いつになく元気な藍留は、さっそく足の腱を伸ばしたりと、その場で準備体操を始める。ちなみにそんなことを律儀にしているのは、藍留だけだった。
「そんなでっかい浮き袋があったら、まず溺れない」
「え~わたしは、浮き輪なんかもってないですよぉ~。浮き輪は小学校低学年で卒業したんですからぁ~」
羽の皮肉も藍留にだけは通用しない。いい気味だと思うが、羽は藍留の受け答えに、一喜一憂しないのも腹立たしい。
「まぁいいか。泳ごう泳ごう!」
「はい~行きましょう~」
三人並んで、プールへと近づき、水に触れる。季節はまだ春の終わりということもあり、水というよりは当然温水で、プールはとてつもなく大きなぬるい湯船のようだった。
それでも藍留は律儀にぱしゃぱしゃと音をさせて水を全身に浴びてから、これまた律儀に水泳帽までかぶり、足先からゆっくりと入って行く。一方で羽はそんなことおかまいなしに、長い髪の毛を器用にまとめ上げると、じゅぽんと足先から一気に水へと滑り込んでいった。
「は~気持ちいいですぅ」
「極楽……」
それではまるで本当にお風呂に入った時の感想だ。今日もプログラムが全て終われば、お風呂に入ることになるのに、その時にはどんな感想を言うのだろうと、少し興味がわいた。
「んじゃ、私もはいろ……」
水は全身で感じると、手で触れたときよりもさらに少し温かく、泳ぐというより、羽のように浮かんでいるだけにとどめておきたくなった。それはやはりプールではなく、お風呂の感覚だ。
「そうするかぁ……」
羽は既に浮かんでいるだけモードに入り、ぷかぷかと全身からデトックスしている。藍留は泳ぎが得意と言っていたが、実際に優雅な平泳ぎで水を進む感触を楽しんでいる。自分は羽に倣い、水に浮かぶことを選んだ。見上げたプールの天井一部はガラス張りになっていて、空がよく見えた。蒼天であり、朝に見かけた西からの崩れなど、どこかへ消えてしまったように見えた。青はまぶたを閉じても、まだ青を感じる。太陽から届く波長の違いのせいだろうか。光線と体が揺らめく関係で、たまに訪れるまぶたの裏の光と闇の感覚は寄せては返す波を想像させた。
「ふにゃ?」
「はぁあん~♪」
しばらく浮かんで漂っていた頭に、不意に柔らかな物体が触れたかと思うと、艶やかな声が響いた。
「はぁっん~街ノ田さん、そんなとこ触っちゃダメですよぉ~」
「ついにやったか一筆現行犯」
「こらこら、人を犯罪者に仕立て上げるんじゃないっ」
一筆はこういうところから、えん罪は生み出されるのかと実感していると、また頭に柔らかな物体が触れる。
「あん、だからダメですってばぁ~」
「え、藍留ちゃん? じゃあこのぽよぽよした物体は……」
浮かんだまま、手を伸ばした先に、もっちり安眠枕以上の柔らかで弾力ある手応えがうまれる。
「わたしのおっぱいですよぉ~」
「わ、ちょ、ごめん!」
慌てて浮き上がりからプールの底に立とうとしたのがいけなかった。
届くと確信していた足が、底面で滑った。
「ぶはっ!」
「ひゃあん」
「シャッターチャンス」
「ダメですぅ~そんなに強くしたらぁ~」
足を滑らせたりと、バランスを崩し倒れそうになると、人は本能的に掴まれそうなものを掴む。それが今回は運悪く、間近にあったもっとも出っ張った部分……藍留の胸だった。
「ご、ごめん今立つから!」
焦ると余計に足が滑る。きちんと掃除しているのかとさえ恨み節をあげたくなるほどに、足は滑る。そしてその度に手が藍留の胸を強く揉む。
「こら、ちゃんと立て、このこのっ!」
「たてるものもないくせに、初々しい」
「だから、そういうことを言うから、私がどんどんそっち系に!」
「いやぁん、街ノ田さん激しいですよぉ~」
「え、ちょっと藍留ちゃん?」
「だめだめ、ダメですぅ~!」
艶やかな声がだんだんと大きくなっていく。いつの間にか手は藍留の胸から離れて、足も底面にしっかりと立っていた。それなのに、水に浮かぶ藍留の声が止むことはなかった。
「はぁんっ!」
やがて短い声を最後に、藍留は水の上に荒い息のまま漂った。
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