第8話 二文字目 第四画


   第四画


 一夜明け、羽の自室へと一筆は律儀に朝の出迎えにやってきた。

「こらー羽―、遅れるぞー」

 ドンドンとドアを叩きながらも、優しく問いかける。

「ふぎゃっ!」

 しかし、返ってきたのは声ではなく、ドアの一撃だった。的確に額の頂をとらえ、一番痛いという地点を貫いている。見事としか言いようのない一撃。それを放てるのは羽の意志の他にない。

「あ、わざとじゃない」

 と、ドアから出てきた羽がもらしたとして、それは方便でしかない。

「嘘つけ! あんたね、お迎えに来てくれた友達に酷いでしょ!」

「仕方ない。昨日は徹夜……授業中は爆睡決定」

「いや、徹夜してなくても、結構すやすやしてるでしょいつも……」

 一筆は呆れながら、ジャケットのポケットを探り、これ一本で栄養がぎっしりという、うたい文句のお菓子を取り出し、寝不足で朝食はもちろんとっていないだろう羽の目先に差し出した。緊急用にと、この手の栄養補助食品はジグザグが特売をしている時に、賢く買いだめしてあるのだ。

「気が利くな、家来一号」

「誰が家来だ。飲み物は?」

「大丈夫」

 コーヒーくらいは飲んだのか、羽はお菓子の袋を破ると、小さな口でかじり始めた。かりかり、かりかりと。ひまわりの種をかじるハムスターのように、頬袋があわるけではないが、瞬時に見える分は食べきってしまった。

「なかなか美味。今度は新発売のチョコバナナ味よろしく」

「ジグザグに入荷したら買っといてあげるよ。んでさ……」

 待ちに待った、犯人の目星という結論が得られるかも知れないと、気がはやる。だが羽はそんなことは知らないように、先に歩き始めた。

「ちょっと、羽!」

「獲物を目の前にして、がつがつせっかちはオコサマと思われる」

「いや、何の話よ。私は昨日の……」

 続けようとした唇を、人差し指でふさがれた。指が口の中に入っていないだけましだが、なぜ聞かせてくれないのかと苛立ちが募る。

「ここで一筆だけに話すと、公平性がなくなる。それは一筆が容疑者から外れることにならない」

「え……そうなの?」

「そういうもの。言うのは寿々美を交えて」

 羽はすすっと止めていた足を動かし、また学校までの短い通学路を進み始める。

 一筆は何を出し惜しみするんだと感じるが、そういうものだと言われれば、それに従うのが得策だと思えてくる。ここで下手に食い下がってへそを曲げられたら一大事だ。触らぬ神に祟りなしとはこういう事をいう。

 しみじみとひとり心を納得させながら、羽の後を追った。

 それからの一日、一筆はやきもきとして過ごすことになった。羽は昼休みが来ても、寿々美に報告へ向かう様子はなく、昼食をとったあとは、教室でそのままクラスメイトからのお菓子という献上物をせしめて、ご満悦だった。

 それからも待ち続け、羽が軽い体の重い腰をあげたのは、放課後になってからだった。

「何で放課後まで待ったの?」

「時間がかかるから」

 ただそれだけの理由だと、羽は先だって生徒会室へと向かった。

「待ちかねたぞ一筆、羽」

「ホントはもっと早く来たかったんだけど、羽が放課後じゃないとダメだって」

「賢明な判断だな」

 寿々美はなぜか報告が遅れたことよりも、羽を賞賛した。それは羽の言う通り、これからの話が長くなり、昼休みなどの枠では収りきらないということなのだろう。

「さてと、じゃあ羽の意見を聞かせてもらうか。雪成、書記の準備はいいか」

「はい、いつでも構いませんよ」

 速記術でも使えるのか、雪成はノートにボールペンを構えている。生徒会副会長を兼任と言っていたが、書記以外の仕事は見たことがない。

「姫の意見は、逆算」

「逆算……なんか言ってたっけ、そういうの」

「直接じゃないけど、言ってた。気付け」

「く……ええと、考えろ考えろ……あ、あれかロッカーを開けられればってやつか!」

 羽はこくりと頷き、手を後ろで組んで、お尻に置いた。

「ロッカーさえ開けられれば、その他は何とでもなる。結局、カードに入ってる情報で必要なのは、更衣室を開けることと、ロッカーのナンバー情報。ふたつを手に入れれば、ある程度の知識があれば大丈夫」

「わ、私にもわかるような説明を……」

「肉体派は理解半分で十分」

 羽は訴えを無視して、にやりと笑う。

「なるほど……スキミングというやつか。カード情報を頂けば、それを偽造すれば済むというわけか」

「姫ネットを使って、昨日かけてそれが出来そうな人物を割り出した」

「羽、さらっと姫ネットとか謎単語出してるけど、それなによ」

「姫専用の検索網。何でもわかる」

「平たく言うとハッキングですかね……学校のサーバーに侵入の形跡報告はないのですが……」

「それって、現時点では、羽が一番あやしいってことじゃん……」

「うるさい。それだけじゃないから安心しろ」

 否定しないところを見ると、どのようにかして、そういう事もしたのだろう。羽はやはり悪びれず、それでも今回は膝を蹴り上げることをしないだけ褒められる。

「カード情報を盗み、実際に今度はそれをカードに書き込まなきゃいけない。それは専用の機械がいる」

「その機械って、ジグザクに売ってるの?」

「さすがにスーパードラッグストアにもそれはないかと……」

「うぐ……」

 雪成からも指摘が入り、一筆は思わず胃を掴まれたように、居心地が悪くなってしまった。

「一筆がそう思うのも無理はない。この近所にはそういった類のものが手に入る店舗は存在しない。かなり特殊な機器だからな、郊外のショッピングモールや田舎の電気店程度では買えないだろう」

 寿々美は神妙な顔つきで、その入手経路を考えているようだった。だが、これはすぐに思い至った。

「近所で買えないなら、通販しかないよね。田舎の常套手段」

「そう、通販。だから調べた」

「羽、まさか個人のパソコンに入って調べたりとか……」

「安心しろ。そんな手間もなく、そんなの姫ネットではお茶の子さいさい。自宅通学は後で考えるとして、まずは男子寮の管理人さんに聞いたら、即当りだった」

「すごいじゃない、羽!」

「日頃の行い」

 羽は得意な顔になり、犯人を特定し、追い詰めていくことに、快感さえ覚えているようだった。意外でもなく、羽にはそういう表情が、姫を演じている時よりも、よく似合う。

「通販した荷物は管理人さんが受け取ってくれるから、普通は時間なんか気にしなくていい。だから逆に時間指定までして、わざわざ自分で受け取ろうとしたやつを探した」

「いたんだな……」

 羽は寿々美にこくりと頷いて返す。

「逆にそうまでして自分で受け取ろうとした人はいなかったから、管理人さんもよく覚えてた」

 羽の目がきらきらとしてくる。それが犯人へと近づいたためか、単に人を追い詰めるという行為に昂ぶっているのかはわからない。

「商品名も壊れ物の電子部品。間違いない」

「男子が買う電子部品って、中身はエロ本だって聞いたけど……」

「一筆……その思考に至るのはごく少数だと思うぞ……」

「……寿々美さんでもそう思うんですから、一般的ではないのかもしれませんね」

「どういう意味だ雪成、この歌舞伎者がっ!」

 その態度に雪成は身をかばう仕草をするが、実際に寿々美が手を出すわけではない。そんなことは些細なことと、寿々美はすぐ話に戻る。

「とにかく、だ。その電子部品を通販で買った奴は誰なんだ、羽」

「一年三組、松谷貴久(まつたにたかひさ)。コンピュータ研究部で主にプログラムとハードウェア担当」

 羽はすでに調べて暗記していたのだろう情報を、淀みなく寿々美に口頭で提示してみせる。

「ハッキングまでして、情報を盗んでいたか。そちらはログを残すようなヘマはしてないだろう……何ともわかりやすいな。この高校ではその手のことが、プロフェッショナルレベルに出来る者ではないか。嘆かわしいが、それも愛憎の織り成す物語というものか……」

 寿々美は目を閉じて、眉間にしわを寄せる。数瞬そうして、カッと目を見開くと、息を吐いた。そうして、悲しみや嘆きを身の奥にしまい込んだようにも見えた。

「よし、では動くとするか」

「動くって? 羽が言ったのだって、まだ状況証拠でしょ。その何だっけ、カードキーのコピー作る機械とか現物押さえないと、意味ないんじゃない?」

 羽の調べてきたことは、事実ではないと言われれば押し通されてしまう程度の力しかない。物質的な証拠がない今は、昨日宣言した私はやってないという「根拠のない否定」と同じだ。

「確かに、物証はない。だが、それを目の前に突き出してしまうと、こちらも本当に刀を抜くことになる……行くところまで行ってしまうんだよ、一筆」

 寿々美の言いたいことはよくわからない。だが、少しだけ表情を曇らせた寿々美が悲しんでいることは知れた。

「寿々美さんは、松谷君……彼が一連の真犯人だとして、証拠を突きつけて、事件を動かぬものにしてしまうことで、彼の今後を左右しかねないことに気を病んでいるのですよ。それはもう間違いなく警察が動くレベルの話ですから。ですがもちろん、悪を悪として放置する寿々美さんじゃないですが……今回のことは、確実に彼の今後を鑑みて、で済ませるレベルを越えています」

「その通りだ、雪成。それにな一筆、羽が掴んだことを突きつけるだけでも、十分だ。それが本人の目の前ならばなっ! 例え、あたしがどんなことがあっても、人の善意だけを信じている大馬鹿者だとしてもだ。ただで逃しも許しも、しはせんっ!」

 それだけ言うと、寿々美はジャケットの内側を探り出した。程なくして、握る手に少し大きい黒い棒のようなものを取り出した。

「それは?」

「これか……これは会長、百八つの秘密道具のひとつ、直通マイクだ!」

「何よそれ……総理官邸にでも繋がってんの?」

 一筆は欺瞞という目しか向けることができない。見た目、全校朝礼で使用しているワイヤレスマイクと何ら変わらないものだ。しかし、寿々美は気にすることなく、そのマイクを構えた。

「えー連絡する。こちら生徒会長、会長寿々美だ。一年三組の松谷貴久、至急屋上まで来てもらおう。自力での集合が困難な場合は、こちらから強制的に出向くことになる。部活中ならば、部員にも迷惑をかけることになるぞ。その点を考慮して、特別に三十分後の集合とする。以上だ」

 寿々美の演説が、目の前で聞く一瞬遅れで、全校に校内放送されていた。直通マイクというのは、それで話したことが、即校内放送に繋がるというものだった。考え方によればすごいが、裏返せば随分とくだならい秘密道具だった。今や携帯端末をつかって、メールを一斉配信でもすればすむことだろうと一筆は腕を組む。

 しかし、それも寿々美の考えるところがある行動なのだろう。

「雪成、当事者の招集を頼む。あとは……耳を貸せ」

「え、ちょ、痛いですよ!」

 寿々美は貸せというなり、雪成の反応を待たず、強引に高い位置の耳を掴み、自分の口元までさげた。そして何かをつぶやくと、解放する。

「ちょ、そんなの僕には無理ですよ……」

「いいから伝えろ。モノは生徒会費で買っても構わんから、絶対に用意しろ。切り札になるやもしれんものだ」

「わ、わかりましたよぉ……」

 一筆は全く蚊帳の外で巡る会話に、羽とぼんやり、夢での一場面を見ているようだった。

「では、あたしたちも行くぞ」

「行くってどこに……ふにゃ!」

 問い返す臀部に痛みが走る。

「屋上に決まってる。さっさと歩け」

「だから、お尻を蹴るなっての! 桃は傷みやすいから、お店屋さんでもむやみやたらに触っちゃダメなんだよ!」

「自分のお尻がさも、桃のようと言いたいのか……図々しい。そんなピンクピンクしてなかった」

「いつ見たのよ、いつ!」

 羽は黒い笑みを浮かべ終わると、さっさと先に歩き始めた。仕方なくその後を追うと、寿々美もついてくる。雪成とは寿々美の使命を果たすべく、階段でのぼりとくだりに別れた。

 屋上にのぼるのは初めてだった。この校舎での最高到達地点は生徒会室であり、それ以上のぼれることさえ知らなかった。

 こうして三人行動を共にしていると、昔を思い出してしまうが、今はそれどころではない。恋路のかかった汚名返上が、ついそこにまで迫っている。これで、犯人じゃありませんでしたとなると、落胆も大きい。その上で、また一からの犯人捜しに巻き戻ってしまう。

 そうは考えるが、寿々美たちのあの態度を見て、羽が仕入れてきた情報にそれほどのズレがあるとも思えない。周りとの摩擦を実は一番嫌っている羽は、握りつぶし飲み下すことのできる程度の情報で、人と対峙することはない。それを実行するということは、余程のことなのだ。

「ん、あれ……なんだろ」

 思考を巡らせる鼻先に、土気の香りがしたように思った。空に近くなっているはずなのに、地上により近い香りがする。

「どうした一筆」

「いや、何か臭ってこない?」

「デリカシーのない一筆。出物腫れ物所構わず」

「人がやらかしておいて、それを自然のせいにしようとしてるみたいに言うなっ」

「自然の香り……いったい何を食べれば……」

「だから違うって! ふふーん、何かそうやってやけに絡むってのは、実は羽がやっちゃったのを、私のせいにしてるとか?」

「姫において、おしっこだのうんこだの放屁だのというものは、関わり合いのないもの」

 素知らぬ様を絵に描いたようだった。その言葉を知っていて、発している時点で、それが何かということを理解した上で言っている証明のようなものだ。

「はは……お前たちの会話は聞いていて飽きないな。安心しろ、ふたりの潔白はあたしが証明してやる」

「え、じゃあ犯人は寿々美……」

「笑えんが、面白いな。そんな冗談をあたしにふっかけてこれるのも、お前たちくらいなものだ。もの悲しいものだな」

 それでは答えになっていない。今重要なのは、匂いの元なのだ。

「自然の香りと言ったが、正解だな、一筆。これは土の匂いだ」

「土? むかってる先が屋上なのに」

 寿々美は階段の途中で足を止めて、壁に寄り添う。

「ああ。私の二代か三代前の生徒会長がルーフガーデンを作ったそうだ」

「ルーフガーデン?」

「屋上庭園。ビルの屋上緑化とかで、畑作ったりするのと同じ」

 羽は妙に博学だが、これも姫ネットとやらで仕入れた知識なのだろうか。

「羽の言う通りだ。もっともその会長にそういうものと同じ目的があったのかは定かではないがな。庭園と言っても、工事を要した本格的なものではない。プランターがずらりと並んでいて、今は慣習的に園芸部が毎年、珍しい花を植えているだけのものだ」

「へぇー」

 感嘆という感想しか出てこない。もっとも、これから実物を目にすれば、それも少しは別の……装飾の多いものに変わるのかもしれない。

 寿々美は止めていた足をまた屋上へと向けて、それに続く。程なくして、屋上の塔屋に着き、厚い鉄の扉の前に立った。寿々美はジャケットのポケットから、鍵の束を取り出して、そこを解錠する。

「ほわー、ホントすごいわ」

 開け放たれたドアから飛び出し、一筆は驚嘆する。そこには階下まで土気の香りが漂ってもおかしくない数のプランターが、ずらりと並んでいた。作った者の意志の底まではわからないが、ここに並ぶプランター全部に花が咲くとしたら、それは壮観に違いない。

 想像の中に出来上がった花畑に駆出すと、なぜか心が躍る。振り返ると、つられたのか羽も寿々美も、プランターの中へと分け入っていた。

「花っていつ咲くの?」

「そうだな……春先、お前たちが入学する前に植えた時、同席したのだが、その時聞いたものだと、秋くらいだったか。珍しく栽培も難しい品種らしいからな。咲いたらまた三人で来るか」

「お、いいねぇ。でも三人と言わず、雪成君も呼んで、私は広次君とうふふふふふ……」

 妄想の入り口に立った時、背後で重い鉄の扉が開く音がした。

 扉の影からひょろりとした人影が出てくる。雪成のそれよりも小さく、雪成を棒に例えるなら、その影は線だった。

「あれか……おい、一年三組の松谷貴久か? そうならばこちらまで来てくれ」

 寿々美の呼びかけに、線のシルエットは頷いたのか、ただ歩き始めたのか、ゆらゆらと陽炎のようにしている。それでも夕焼けになり始めた日に照らされた影絵が、時間をかけて大きくなるように、少しずつ前身はしているようだった。

 プランターの群をかき分けて像が近づき、顔つきがはっきりとしてきて、その揺れている仕草が歩みだと知れる。

「松谷貴久か? ご足労だったな」

「ええ……何すか一体。俺、忙しいんすけど……」

「それについての詳細はもう少し待ってもらおう」

 寿々美と対峙しても、貴久は全身から気だるさを発していた。まっすぐに立つことを忘れたのか常に斜に構え、口の中で何かつぶやき続けている。一筆にとって広次の存在がある以上、当然判断としては「ない」のだが、それを差し引いても、恋心は生まれそうになかった。

 容姿が特別気に入らないなどという見た目の話ではなく、その雰囲気が原因だった。しかし、人の好みというものは、趣味嗜好よりも遥かに幅広く、一目見て外面を介さず内面だけを知れることのできる能力者であるか、恋に全くもって外観や雰囲気を考慮しないソリッドな人物であれば、恋愛対象になるかもしれない。

 貴久は寿々美から目を移し、羽や一筆が深紅のロングジャケットを着ていると知れた途端に、視線を外し、それ以降こちらを見ようとしなかった。足下のまだ芽吹かないプランターをのぞき込んだまま、つぶやきを繰り返している。

「む、来たようだ」

 ドアノブを動かす乾いた金属音が、沈黙の続いていた屋上に響く。

 寿々美は視線を遠く、鉄の扉を注視していて、そしてそれが開くのを待っていた。開かれた扉からは雪成に広次、そして藍留の姿が現れた。

「く……」

 それに気付いた貴久は、周囲に確信を与えるだけの苦悶をもらした。それにめざとい羽は、すぐさま視線を投げつけていたが、貴久はそれに答えなかった。

「お待たせしました寿々美さん」

「遅いぞ。だがこれで役者は揃ったわけだ。長らく待たせたな、松谷……それでは始めようか……」

 ゆっくりと、寿々美の声色が変わっていく。

「寿々美、すごんじゃダメだよ」

 一筆は逃げられると思い、そう忠告した。だが、寿々美はそれも手で静止した。

 ここからは、生徒会長たる寿々美の領分なのだ。まずはそれが済まないと、先へは進めないし、こちらの出番はないということだ。

「さて、ここに自分が呼び出された理由はわかるか?」

「いえ……わかりません」

「そうか。ならば聞き方を変えよう……先週、通販を利用して、電子機器を購入したそうだが、それが何か教えてもらえるか」

 問われ、貴久の表情は明らかに変わる。だが、視線を空へ地へと変え、一周したところで答える。

「言えません。プライベートなことなので……」

「そうきたか……」

 寿々美は相手の出方に、どうしようかという顔をして、胸を強調して腕を組んだ。

「青空工房製ICチップライター……いわゆる裏通販サイト。ご丁寧に空カードのおまけつき」

 ぼそりと、風に溶ける程度の強さで羽がつぶやく。

「ど、どうしてそれを……そんなのわかるはずない……どうやって……」

「どうやって姫が知り得たか教えてやるから、愚民も全部話せ」

 交換条件という常識には、およそ当てはまらない。寿々美ならば、まだ多少はためらった言動かもしれない。だが、羽の立場ならそう発言することにためらいは生じない。

「し、知らねーよ……何だよチップライターって……」

「しらを切るのは結構だが、お前が何かを青空工房とやらで購入したことは、寮の管理人さんの証言で明白だ……それに」

 寿々美のすごみに、貴久は喉を鳴らした。はっきりと数メートル離れて立つ人物の喉が鳴る音を聞いたのは始めてだった。

「それにって何だよ……それが何になるんだよ……」

「そうだ……今ならまだ、何にもならずに済む……物証としてそれらが見つかる前ならばな」

 寿々美は貴久にとって優しいのか悲しいのか、よくわからない表情をして、静かに告げる。

 もちろん、それは寿々美の慈悲だ。それに気づけるならよし、気づけないならそれまでなのだろう。今はその決断を見守る以外にない。

「どうだ濡跳。今なら間に合うか?」

「はい~よくわかりませんが、大丈夫ですよぉ」

 藍留の答えを聞いた寿々美は、無言でその横に立つ広次へと視線を投げた。

「僕は……くやしいですが、藍留がそれでいいというなら、それに従います。僕がどうこうと言える立場じゃまだないですから」

 主張を終えて、貴久を挟む形で立っていた三人は、その距離を詰める。

 図らずも、貴久ひとりを六人という大人数で取り囲む格好になっていた。

「さぁ、どうする松谷……あとはお前の決断だ」

 寿々美に通告された貴久は、うつむきを強め、真下をにらみつけるように止まったまま動かなくなった。だがその肩だけはぶるぶると小さく震え続けている。

「……さぃ……う、さぃ……う、る、さ……い、んだよぉおおおおっ!」

 口ごもっていた声が一気に弾け、そのまま貴久は顔を上げた。

 ぼさぼさと整えられていない髪の隙間から、血走った目が覗く。

「うるさいんだよ、さっきから能力者と権力者どもがぎゃあぎゃあと……俺と彼女の種を越えた愛の邪魔ばっかりしやがって!」

「本性出た」

 羽はその様を見ても冷静に言ってのける。藍留など、驚いて一歩二歩よろめき、プランターに躓いてみせた。

「仕方ねぇだろうがよぉ、愛しちまったんだから、俺のものなんだよ。藍留ちゃんの全てが俺のものなんだよ……それなのに、いちいち下駄箱にふた付けたり、ロッカーに鍵がかかってたり! あーめんどくせぇめんどくせぇ。めんどくせぇったらねぇんだよ!」

「何ともな理由だが、とりあえず落着いたらどうだ。そんな狂気じみたマネをしたところで、お前が濡跳の厚意をたった今、無にしたことは変わらないぞ」

 寿々美はしっかりと両足を地に突っ張ったA立ちをして、宣言する。それは逃げられるものではないぞという勧告でもある。

「……知らねぇよ……」貴久は冷淡に吐き捨てた。

「お前、藍留が許すと言ってくれたのに、それを無碍にするのか……」

 広次は打ち震えるように声をうわずらせる。大声で叫びたい衝動を必死で押さえているようにも見えて、心が痛くなってくる。その痛みは一筆の胸にも伝わるからだ。

「……お前らが……能力者がいなけりゃ……能力者が全部悪いんだ……俺の邪魔ばっかりしやがって……」

「あんた、やっぱりトリックスターなの?」

「トリックスター……ああ、そんな風に呼んだりされるんだっけなぁ」

 顔をあげた貴久の態度に、取り乱したような部分が消えていた。寿々美が指摘した通り、あれはその場逃れのための演技だったのだ。

「あーあー、謝ればいいんだよなぁ……」

 貴久は今さらであることを口にし、モスグリーンのジャケットのポケットに手を突っ込んだ。そして、腰を折る。とてもではないが、相手に誠意を伝えようとする態度ではない。

「すみませんでした……なぁんて言うと思ったかよ!」

「え、何っ!」

 貴久が、かがんだままの体勢で、腕を大きく振ると、屋上の地面で何かが弾けた。弾けたと同時に、激しい光が一瞬で辺りに放出される。

「めくらましかっ、味なマネを!」

「そっち、逃げる」

「え、羽。あんた何でわかるのよ!」

 数秒の明滅がおさまると、やっと目が慣れてきて、視界に像を結んだ羽は、いつの間にか、真っ黒なサングラスをかけていた。

「それ……」

「姫、百八つの秘密道具のひとつ、ブランド物サングラス」

「そこでそうしてろっ、能力者どもがっ」

 苦悶を漏らす一同を捨て、貴久は階下へ続くドアへと走りはじめていた。だが、プランターが足下の進行を邪魔して、思うほかそのスピードは早くない。

「く、やむを得ん……濡跳、例のモノを頼む!」

「え、えぇ~やっぱりやるんですかぁ……ほ、保険だって言われたのにぃ」

「え、何?」

 頭の中で、疑問符が浮かぶ中、藍留はさらに信じられない行動をはじめる。

「ううう、仕方ないですぅ……」

 自身のスカートの中に手を差し入れ、うんしょとしながら、何かを引き下ろした。

 その様を見て、広次は一言も発することを忘れて固まり、雪成は片目を覆い、羽さえも唖然としているのがわかった。

「えぇとぉ、松谷さぁん~! これぇ~わたしのぉ~、脱ぎたてですよぉ~!」

 言いながら、藍留は今し方スカートの中から出した「脱ぎたてスパッツ」を逃げる方向とは逆方向の空に向かって投げた。

「ぬ、脱ぎたてだと!」

 そのまま逃げればいいものを、貴久も男の性なのか、愛のなせる業なのか、引き返してそれを追いかけはじめる。しかも逃げる速度よりも早く。

「今だ一筆、南具流。取り押さえろ!」

「え、ちょ、何言ってんの。そんなこと私にできるわけ……」

「出来る! お前たちは墨汁を操れるのだろう。墨汁を操るということが、ただ文字を書けるだけだと思い込むな! 自らの可能性を限定するんじゃない、お前たちの思考は自由なんだ、その自由が未知を創造するっ!」

「……そういうことか……街ノ田さん、今は用意をして!」

 何かに納得した広次は、ジャケットから硯と墨と水差しを取り出し、乾いてほこりっぽい屋上の床に据えた。

「どぅらららららららっ!」

 以前見た、高速墨すりという技で、一気に墨汁を作り上げる広次。それに置いて行かれまいと、一筆はジャケットの内ポケットから墨汁のボトルを出し、キャップを開けた。今はそれに倣うしかないのだ。

「え、えと……これからどうすればいいの広次君」

「こうするんだよ……誠心誠意、はじめるっ!」

 広次が叫んだ瞬間、硯に入っていた墨汁はいくつかにわかれ、テニスボール大の黒い弾に変わる。広次は片手で眼鏡を直し、もう片方で標的を指さし設定する。その黒い弾丸は声の合図で、風に舞うスパッツを追う貴久めがけて飛びはじめた。

 そのうち何個かは外れ、何個かが貴久の体へと当り、弾けた。

「ぐあ冷てぇっ、だがそんなことで止められるか。もうすぐスパッツがっ、藍留ちゃんの脱ぎたてスパッツが俺のものにっ!」

 貴久は墨玉が染めてモスグリーンから迷彩っぽい色になったジャケットをもろともせず、ジャンプ一番、空中を行くスパッツに追いつき、それを手にした。

「へへ、これで……」

 満悦で着地した踵をかえし、また逃げ始めようとする貴久を見て、寿々美は指示を出す。

「雪成、出口を固めろ。一筆はさっさと足を止めろ!」

「わ、わかったわよ!」

 広次のようにすればいいとわかっている。墨汁を操るということは、ただ文字が書けるだけではない。そのものの物質的形を変えることもできると広次が示してくれた。ならば他のことも出来るはずなのだ。自らの能力が持つ、可能性を信じるしかない。世界中の白いクラウを自分の墨汁で黒く染め上げるなんてことよりは、余程簡単な事だと思い込む。

「やってやるわよ……一筆入魂、いざ参るっ!」

 ボトルから中空に墨汁をまき、そのまま地に落とすことなく操りはじめる。

「いける、できる、私はやれる! 固く細く……届く届く、届け……届けっ!」

 念じると、吹き出したままの乱雑なしぶきのギザギザを残す線から、何にも成形されていなかった墨汁が、形を変えていく。細く長く、ロープのように螺旋を描いて編み上がっていく。

「よぉおおおし、いけっ!」

 一筆は伸ばした指を貴久に合わせ号令と共に放つ。

細く形を変えた墨汁が海中を泳ぐウミヘビのように、空を走っていく。

「く、何だそりゃ……」

 それに気付いた貴久が身を縮めようとした瞬間、墨のヘビが空から地へと急降下して、その足に噛みつき、そのまましなる体を使って、両足を縛り上げていく。

「うぐわっ!」

 両足を不意にとられた貴久は、バランスを崩し、プランターの上に突っ伏した。

「もういっちょ、いざ参るっ!」

 ボトルから押し出した墨汁をそのままボトル口の部分で、バレーボール大にまで成形し、迷いなく貴久目がけて指先で弾き、射出した。

「ぶはっ!」

 倒れ、じたばたともがく貴久の顔面に、黒い弾はぶち当たり、弾けてその視界を全て奪った。見事、顔部分だけが真っ黒な姿が出来上がる。

「や、やった……」

 一筆はやり遂げたという達成感から気がゆるみ、形成していた全てのものが墨汁たる液体へと戻ってしまう。

「一筆、最後で抜いたな、気合いが足りんぞっ!」

 寿々美の声が飛んでくるが、答える気力もない。荒い息をついて、顔を向けることが精一杯だった。慣れないことは、精神体力ともに、激しく消耗してしまう。それは、広次も同じようだった。

「くそ、こんなもんがあるからっ!」

 よろよろと立ち上がった貴久は、足下を邪魔するプランターを蹴り飛ばし、中身をぶちまけた。強い土の香りがあたりでより強くなり、風に乗った香りが辺りを包み込んでいく。

「松谷……プランターを故意に倒すとは、この痴れ者がっ! もはや容赦はいらんな、覚悟しろ……」

 何かにキレてしまった寿々美は、ごそごそとジャケットの中を探り出し、また何かを取り出した。

「会長、百八の秘密道具のひとつ、ボーラ!」

 ボーラと言われても、それが何かはよくわからない。形状としてはロープの両端に球体状のおもりのようなものがついている。

 自身の身の丈と同じ程度の長さであるロープを、寿々美は器用に回しはじめる。ダンスを踊るように、腰からの動きから上体を揺らし、それを腕へと伝達し、果ては体ごと円の動きを作り、残像でロープが半月を描くように見えた瞬間、それは手の中から消えていた。

「うぐわっ!」

 刹那、足下を散らして逃げようとしていた貴久の体にボーラが巻き付いていた。そしてそのまま、貴久は全身の身動きを奪われて、蓑虫のように簀巻き状になり、今度こそコンクリートの地面に突っ伏した。

「成、敗っ!」

 発する言葉と決めたポーズだけをとれば、暮れ始めた空を背負い、ひどく格好いいのだが、もはや寿々美のそれは生徒会長の域を脱している。これで一般人だと言われたら、能力者などと住み分けられることさえ、有意であるのか疑わしくなる。

「寿々美、あんたそれが出来るなら最初っからやりなよ……」

「最初からあたしがやったのでは、面白みがないだろう」

「寿々美、ナイス」

 寿々美と羽は拳を打ち合わせて、讃え合う。その姿に一筆は溜息しか出てこなかった。

「寿々美さん、松谷君を確保しました」

「よし雪成、ボーラは解いていいぞ。今行くからそのまま待機していろ」

 寿々美はすぐさま雪成が押さえる貴久の所へと走る。それに合わせ、皆も集まる。奇しくも二回目の一対六の構図を描くことになった。先ほどと決定的に違うのは、貴久が観念したように、地面に座り込んでいることだ。

「さて、松谷……もはや言い逃れはできんぞ。逃れるという行為こそが、肯定になってしまったからな」

「く……」

「まぁそのままでは何ともしがたいだろう。一筆、南具流。お前たちがつけた墨を抜いてやれ」

「わかりました……」

「やれやれ、人使い荒いなぁ……」

 部室で床にこぼした墨汁を吸い上げたのと同じように、貴久の制服や肌に残る墨汁を全て取り除いた。やれば出来るもので、墨汚れていた部分がすっかりと元通りになった。

 貴久は墨抜きをされている最中も、苦悶を漏らすだけで、言い返すことはなかった。だが、それだけでは話が進んでいかない。

「一連の濡跳に対する行動は、お前の犯行で間違いないな」

「……」

「聞いてる、答えろ」

 無言のままの貴久に羽は言葉を重ねていく。

それに耐えかねたように、貴久はゆっくりと口を開いてきた。

「ああ……俺だよ……俺がやったんだよ」

「ふむ……ということだが、後の処遇は当事者である濡跳にまかせよう……どうだ?」

「はい~おまかせください~」

 本当に任せていいのだろうかと一瞬考えたが、藍留以外に答えを出せる者はいないとすぐに結論が出る。広次さえ静観しているのだから、他の誰もが口を出すことではないのだ。

「えぇとですねぇ、体操服や上履きがなくなるのは、色々困るのでやめて欲しいかなぁって思いますぅ」

 藍留は相変わらずのんびりとした口調だが、言うべきことはきちんと的を射ている。貴久の目をしっかりと見て、そらさずに真っ直ぐと向き合い、返答のない貴久のすぐ傍にしゃがみ込む。

「さっきのスパッツはあげますのでぇ、それで我慢してくださいねぇ。気持ちをぶつけてくれるなら、まっすぐがいいですよぉ~」

 そう言って、藍留は愛らしく笑ってみせた。

「く……ごめん、なさい……」

 その笑顔に勝るものは、世界にそうは存在しないだろう。だから、貴久が謝罪を口にしたのも頷けてしまう。

「よし、これにて一件は終了だ。だが、松谷が壊したプランターの件は済んでいないので、お前は明日改めて生徒会室に来るように。一週間の奉仕作業をしてもらうからな」

「わかり、ました……」

 俯いた貴久は、寿々美に答える。

「雪成、もう威圧するのをやめてやれ」

「僕はそんなことしてません。失礼ですよ……まったく」

「ぶつぶつ言うな! お前は立っているだけで威圧感があるから要注意なのだ」

 寿々美に言われて、雪成が背後をあけると、貴久はそこから抜け、無言で俯いたまま鉄の扉へ向かい、姿を消した。

 しっかりと藍留の脱ぎたてスパッツを抱いたままなのが、やはりサマにはならない。

「松谷も今回で相当懲りただろう。これでトリックスターからも解放されるかもしれん」

「出来ますかね……」

「疑問か、南具流。あたしはとりあえず信じてみるがな。濡跳が許した相手だからな」

「……そうですね……じゃあ僕らも行こう、藍留」

「はい~みなさん、またねです~」

 広次と藍留は並んで屋上から出ていく。一筆は出来れば一緒に行きたかったが、二人の雰囲気がそれをさせないように、特別に感じた。特別だからといって、それは一過性のものであり、入る隙間がないようなものではないので、自重することにする。事後であり、いわゆる吊り橋効果というものに違いない。

 屋上は人が三人消えただけで、やけに世界を広く感じる場所に変わってしまった。喧騒がすぐ傍にあったはずなのに、それも消えて、今は遠く耳を澄まさないと、部活に汗する生徒たちの声も届いてこない。

 なぎ倒されたプランターの一角が悲しげに土をこぼし、植えられていた球根が姿を見せていた。

「酷いもんねぇ……」

「ああそうだな。まぁ奉仕活動として松谷には植え替えをやってもらうから、安心しろ」

「じゃあ秋には予定通り満開だ」

 一筆は羽と寿々美との約束は守られるとわかって、少し安心した。安心したから、別の危惧が急に浮かんできた。

「結局、トリックスターだったのかな、彼って」

「まぁそう。概念みたいなものに名前付けてるだけだから、あいつがそうだったかなんて、本当は特定できない」

 羽の言うことは、かみ砕いているようで、重要な部分は、そのままごろりと入っている。それで理解しろというのは、感じろと言われているのに似ていた。

「街ノ田さんは認めたくないんですね……」

「え、私が何を?」

「いえ、そう思っただけです。寿々美さんのように能力を持ってない人と幼なじみで親友で、僕にも何事もなく接してくれる。誰を愛しても力強く能力なんて関係ないと言い切れる……それはすごいことです」

「雪成にしては、大したものいいだな」

 寿々美の褒め言葉は貴重なのか希なのか、雪成は絵本の少女のように頬を赤くして、丁寧な一礼を返した。

「まぁ、だからこそ一筆は、我らの間に差別があるということを認めたくないんだな」

「それが弱さ」

 寿々美の言う明確な「差別」という言葉と、羽の感想は突き刺さるものだった。だから一筆は無理やりに恋だの愛だのを大仰に掲げて行動原理に置いているのかとも、自身を疑いたくなる。

「弱さ……なのかな……私はただまっすぐに何にも悪びれずに、好きな人を好きって言いたいだけ」

「それでいいんじゃないか? 差別とは言ったが、それは……そうだな、男女の違いのようなもので、気にしても仕方ないものだ」

 そんな事が言える寿々美は、紛れもなく人の上に立てる器の持ち主なのだろうなと感じる。差別も男女の区別のようにだけ受け取る方法は出来そうで出来ないものだ。

 一筆は思う。自分だって、好きだと告げた相手に能力者だからダメだと言われた。それくらい、簡単なことで代価できることではないのだ。

「しかし、羽……一筆の今のアレは、あれなのか?」

「そう」

「いや、それは無理だろう……あたしでもわかるぞ。まさかそれに気付いてないのか?」

「そこが面白い。恋は盲目……だから余計なことは言うな」

 羽はくふふと得意だが、特定の人物にしか決して見せることのない笑みを浮かべて、寿々美を静止する。なぜ寿々美が静止されたかは、一筆には全くわからないが、それをこの場で発表しないことで、羽の楽しみが出来上がるというだけの事なのだろう。

「まぁいい。今日はこれで解散といこう。雪成、引き上げるぞ」

「はい寿々美さん。お二人もお疲れ様でした」

 雪成に声かけ、寿々美は一歩二歩と遠ざかる。貴久拿捕のために使用したボーラを拾い上げ、胸元にしまうと一度大きく空を仰ぎ見た。そしてそのまま立ち去るのかと思ったが、ぴたりと動きを止めた。

「あ、そうだ……お前たち、明日から一年生は宿泊合宿なわけだが、用意は出来てるのか?」

「で、できてねーっ!」

 寿々美の指摘で今、まさに思い出した。

「まぁいい……じゃあな」

 寿々美は焦る幼なじみを置いて、後ろ姿で挨拶をすると、屋上の扉から階下へと消えた。

 慌てた収まりの悪い心を抱いて、羽を見ると焦りも何もない、凪の海のような顔をしていた。

「何とかなる。所詮は一泊二日」

 頼もしいのか、一筆は自身が情けないのか、羽を対象にしてはかることは困難だと、暮れていく空の赤く染まったちぎれ雲を数えながら思った。

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