第6話 二文字目 第二画
第二画
期待しすぎて、夢を見るのも忘れて眠っていた夜が開け、一筆の部活初日がやってきた。
快眠の結果、遅刻気味の時間になったおかげで羽には置いて行かれ、ひとり寮から学校へ行き、下駄箱が並ぶエントランスへと入ってきた。
「あれれぇ、ないですねぇ……」
そこで、昨日覚えた声に出会う。普段、靴を履き替えた後など、下駄箱を振り返ることはしない。教室へ行くことが最優先だからだったが、今朝この時は、それよりも優先されることが、隣の下駄箱セクションに存在していたのだ。
「藍留ちゃん、おはよう!」
「あ、はい~おはようございますぅ」
かろうじて挨拶は返してきた藍留だが、注意は注がれず、身長的にやっと手先が届く、開いたままの下駄箱の奥へと、必死に手を突っ込んでいた。
藍留ならば、その中にラブレターの一通や二通、もしくは紙袋に収りきらないほどの束が入っていても、おかしくはない。
だが、一筆のものよりも一回り程度小さなローファーは、脱がれたままの形で放置されて、想いの丈が綴られた手紙の類が関わる話ではない気がしてきた。
「藍留ちゃん、どうしたの?」
「あ、はい~わたしの上履きさんがないんですよぉ」
「え……上履き?」
言われて、ローファーから視線をずらすと、黒いハイソックスだけの足が目に映る。
なぜか奥行きだけが異様に広い下駄箱なので、藍留が手を差し込んだだけでは、上履きが手の届くよりも奥に入りこんでしまっている場合は、発見できないかも知れない。
「ちょっと見てみるね……」
藍留の身長は、羽より大きく一筆よりはかなり小さいという、アンバランスな中間である。
藍留より身長が高いという利点を生かし、下駄箱の奥を覗く。しかし、そこはがらんとしていて、砂埃が少しあるだけだった。
「上履きは……ないね」
「そうですかぁ。持って帰って洗った覚えはないですしぃ、おかしいですねぇ~」
藍留はわかめ成分たっぷりであろう黒髪を傾かせ、ひとつひとつ昨日からの行動を思い返しているようだ。
「これは、定番」
「羽……あんた今日は何で先に……」
言いかけた唇をふさぐように、人差し指が伸びてきた。
「あばばば」
そして、そのまま口の中へと差し込まれる。
「学校で上履きがないなんて、定番」
「へいばん?」
口内を占める羽の指をはむはむしながら、喋る。
「そう、定番」
「定番ってなんですかぁ~?」
羽はちゅぽんと口から指を抜くと、ハンカチでその指を拭いた。
「拭くなら最初から突っ込むな!」
「じゃあ姫に舐めろと? そんなことして欲しいのか、ヘンタイ」
「ち、ちがうっ!」
脱線事故はいつものことではあるので、気を取り直す。
「んで、定番って何よ」
靴箱の定番など、ラブレター以外に何があるというのだろう。
「女の子の所有物がなくなるなんて、イジメかストーカーの二択」
「え~まさか。この藍留ちゃんをいじめるやつなんかいるの?」
愛らしいという一言で、大概の説明が済んでしまう存在であるところの藍留。愛でることはあっても、憎悪の対象にはなりにくいというのが結論だ。残念ながら万人全てに愛されるキャラクターというのは、人である以上無理なのだが、そこに一種の愛玩性が孕めば、話は変わってくる。
「姫は言った。二択だって」
「二択って……」
「藍留……何してるんだ」
問いかけた声に背後から声が重なった。
「広次君!」
「街ノ田さん、天原さん、おはよう」
あいさつと眼差しを交わしたまま、広次は藍留の前まで進み、やっと足を止めた。
「遅いから、何してるのかと思ったよ。早くしないとホームルームはじまるぞ」
冷静な声に、藍留は初めて困惑した顔をした。
「広次君~わたしの上履きがないんですぅ~」
「上履き?」
聞くなり、広次は藍留との間に割って入り、下駄箱の奥を覗いて、すぐに踵を返した。
「うん……とりあえず職員室でスリッパでも借りよう。行こうか」
決断の早さと切り替えの早さ、行動の早さには惚れ直す。
「あ、広次君……私たちも、心当たり探してみるね」
「ありがとう」
「ありがとうですぅ~また、部活で会いましょうねぇ~」
間延びした声が遠く、校舎の奥へと消えていく。それを追いかけて教室へと行かなければならないが、一筆は今、広次の凛々しさに浸っていたかった。
「一筆、さっさと歩け」
「ぎゃん! だから愛らしいお尻を蹴るんじゃない!」
「だったら、撫で上げろと?」
「そういう意味じゃない! 注意を自分に引きたいなら、声をかけるとか、人間らしい文化的なコミュニケイション行動とかあるでしょ!」
「……だって、遅れる」
「うぐぐぐ……」
今回は、羽の言分がひたすらに正当で、反論できなかった。しかし、その注意喚起の方法については、今後も闘わなければならないと、一筆は鼻息荒く改めて誓う。
「それにしても、上履きか……」
呆れて先に進み始めた羽のお尻を追いかけながら、首をひねる。階段にさしかかり、ロングジャケットのみを着ているのか、スカートを下に履いているのかという、羽の物議を醸す謎の答えが目の前にある。
答えとして、羽のジャケット下にはスカートがなく、ロングジャケットの裾からはちらちらと、らしからぬ下着が見え隠れしている。
だが、今はそんなことよりも、悩む問題がある。
「ねぇ羽。イジメじゃないもう一択って何だっけ?」
問いかけに足を止めなかった羽は、階段をのぼりきってから、振り向いた。高い階段の上と下、朝日を背負った長い影が、足下まで届いてきて、黒がひとつにまとまる。
「ストーカー」
「ストーカー……か……」
確定ではない状態で、何かを危惧してもどうにもならない。だがこういうものは、大抵の場合、確定してからでは全てが遅い。完全に後手でしか動きようがなく、予防策が余計に悲劇を引き寄せることもある。
「やっかいねぇ……」
「一筆の性格ほどじゃない」
「黙れ、似合わない大人パンツはいてるくせに!」
「……」
言われた羽は、なぜか大きく片足を引き、そのまま振り抜いてきた。
「ふぎゃっ!」
その流麗な動作に視線奪われていて、影の中を進んでくる物体に気がつかなかった。
それが何であるかと認識したのは、額から鼻先にかけての痛みを認識した後だった。
「その高さからの上履きシュートは物理法則から言っても、凶器でしょ、反則でしょ、危険でしょ!」
鼻を押さえながらの抗議にも、羽は涼しい顔のまま、ふんと鼻を鳴らした。
仕方なく、羽の上履きを持ったまま、階段をのぼる。一歩一歩のぼる度に、縁起でもなく藍留の笑顔が歪んでいく想像が、かすめては消えていった。
恋の対象は広次であるはずなのに、なぜか今は藍留のことばかりが気にかかる。
「羽が言うように私ってば……いやいやいや、ないないない。でも、何もないといいなぁ……」
危惧を抱いたまま、授業は進み、昼休みを過ぎて、午後の授業に入った。
「眠い……」
羽は大きく欠伸をして、窓から差し込むやわらかい光に、髪の毛をきらきらと輝かせて、まどろみに落ちようとしていた。
「こらこら……しゃきっとしなさいよ」
五時限目は古典なども地獄だが、体育もきつい授業の内に入る。ふくれたばかりのお腹を抱いての授業内容はもちろんのこと、その準備として行われるグラウンド二周とサーキットトレーニングに柔軟と腕立てふせも億劫の元であった。
「ほら、遅れるよ」
体育は男女別で二組が合同で行われるのが通例だ。五組は六組との合同で、身体的な能力値を向上させる限定能力も存在するため、適当で妥当な組み分けだった。とはいえ、基本的に五組と六組が干渉することはない。大人数チームを要する種目、例えばサッカーなどでは対抗戦になることもあるが、それは現段階の授業内容にはなかった。
「だるい……」
言い聞かせても、羽の口からこぼれてくるのは、愚痴ともつかない春の終わりの午後への感想だ。その感想に付き合っている間に、教室は二人を残し、がらんとしてしまった。
「ほら、もう私たちだけなんだから、行くの!」
机にだらりと溶けてくっついた、駅ホームの吐き捨てたガムのようにしている羽の首根っこを掴むと、やや強引に立たせ、そのまま引き摺っていく。
「ったく、これが定番の移動手段みたいになってるじゃない」
結局抱き上げた羽の綿菓子の髪に、一筆は反論を述べる。
羽の狙いが実はお手軽な移動手段の確保だったらと、手を止めようとするが、既に更衣室の前だった。
豪華な作りの校舎には、クラス二つの間にひとつの更衣室兼個人ロッカールームである場所が存在する。このロッカーに普段は使わない辞書や参考書、体操服や体育館シューズなどを置いておけるのだ。もちろん、簡易ではあるがキィロックもついている。
「ほら羽、入るよ」
ネームプレートは便宜上女子更衣室となっている場所のドアを開き、羽と共に中へ入る。予鈴まで時間がないので、当然のように室内に人気はない……はずだった。
「あれれぇ~何でないんでしょぉ~」
「ん?」
聞き慣れたような、これから聞き慣れていくような、少し曖昧な立ち位置である声が聞こえてくる。それは既視感を覚えるというほど、夢の中や遥か過去で出会った風景と言えないものだ。
本日の朝方、エントランスで見かけたものを、シーンごと写し取ったように、下地が透けて見えるくらいの鮮明な繰り返しだった。
「藍留ちゃん、どうしたの?」
「あぁ~街ノ田さんに天原さん~こんにちはです~」
藍留は緊急事態を身振り手振りで表しながらも、丁寧に腰を折る挨拶をくれる。だが、それも一瞬で、すぐにロッカーをのぞき込んで、ぶつぶつといいながら、手で探っている。
その様まで、今朝とそっくりだった。
ということは……と思考が繋がる。
「また、何かなくなったの?」
「ま、街ノ田さんは、人の考えてることがわかるんですか~」
「驚いても、あまり話し方は変わらない」
「いや、そこじゃないでしょ注目点は……人の考えてることはわからないけど、ほら今朝と同じ感じだったから、もしかしたらって」
藍留は理由をうんうんこくこくと聞いて、ゆっくりと小首をかしげた。
「……それでぇ?」
「それでって! 今朝は上履きなかったでしょ、だから今回も何かがないのかなって!」
「あぁ~」
言われて、藍留は自分が履いているスリッパをぽすぽすと鳴らした。
「で、今度は?」
「はい~それがですね、天原さん。体操服がないのですよぉ」
「定番……」
羽は感想をぼそりと言うと、そのまま藍留が手探りしているロッカーの中を見る。
「半袖体操服の上とスパッツがない」
「夏セットがないと……じゃあ長いのはあるってこと?」
「はい~そうなんですよぉ」
長袖の上下はあるのに、半袖のセットだけがないというのは、常軌を逸している。そもそも、汗ばむことが多くとも、今の季節ならば、長袖の上下を着ることは珍しいことではない。むしろ女子たちはこの時期に半袖上下で体育をする者などいないだろう。それなのに半袖セットがなくなっているとは、どういうことなのだろう。
「半袖のセットって前に着てたっけ?」
「はい~わたしは風の子なので、もうこの時期は半袖半ズボンなんですよぉ」
「着用済み……」
「エロい言い方しないのっ! でも、そういうことか……」
羽の言ったストーカーという単語が頭をよぎる。だが、単純にストーカーが異性であると一般的な仮定をすると、更衣室に侵入しての行為ということになる。しかも、この更衣室の個人ロッカーにはキーがついている。
それらをあわせると、ただのストーカーというよりも、窃盗までを孕んだ犯罪者の域まで考えなくてはいけなくなってくる。もちろんストーカー行為も立派な犯罪である。
「難しくなってきたわね……」
一筆は名探偵のように、指を顎に這わせながら、思考を巡らせる。こうすれば灰色の脳細胞が活性化したりするかもしれない。
「うごぉっ!」
しかし、ひらめきではなく、下半身を痛打が襲った。
「一筆が考えても無駄」
「……ちょっと、羽……いくらなんでも、前を蹴るのはなしでしょ……」
「デリケートな部分なので、優しくしといた」
「だったら、蹴るなっ!」
「ぷ、ぷくくっ」
やりとりを見ていた、藍留は我慢しきれなくなったように、笑みをこぼした。そのまま笑い声はひかえめに、更衣室へと小花を散らしながら広がっていく。
事件の当事者が笑顔になったことで、少しだけ雰囲気が柔らかになっていく。まさか羽がそこまで見越しての行動をしたとは思えないが、今は痛みをなんとか堪えて、褒めに転じてもいいかと思えた。
「じゃあ、とりあえず報告は後にして、長袖で体育出ようよ」
「はい~そうしますぅ」
藍留は、笑いすぎで目尻にあふれた涙を振り払うと、体操服に着替え始めた。
体育の授業後、教師に事のいきさつを報告したが、確たるものがないと、重い腰は動かず、誰か見かけなかったかという五組六組女子への通達で終わってしまった。
「先生に言ってもダメかもなぁ……」
一筆はうまくいかない事をガムのように噛みながら、放課後、部活へと行く前に、そんなことをつぶやく。
「じゃあ寿々美」
「それだ羽! さっそく藍留ちゃん誘って行くよ!」
のそっとした羽の帰り支度を大雑把に片付け、首根っこを掴み小脇に抱えると、六組へと急いだ。
「藍留ちゃん!」
名を叫び六組の教室に飛び込むと、そこには人だかりが出来ていた。そして、その中心に黒髪の少女が机を覗きながら、困った顔をしていた。その横に、何かに震えている少年の姿も見える。
「広次君に藍留ちゃん……」
ゆっくりと人だかりに近づき、その中に分け入った。
「何があったの?」
「街ノ田さん~……わたしの机、こんなになっちゃってぇ~ゴミ箱と間違えるなんて、すっごいうっかりさんがいるみたいですぅ」
「これは……酷い……」
机からはみ出ているゴミが、飲みかけのパックジュースなどの汁物ではなく、単なる紙くずなどというのが、唯一の救いかもしれない。
「またも定番」
羽は淡々とこぼしつつも、惨状にはやはり少し影のある表情を見せている。
「あの、広次君……」
そして、藍留の横では、打ち震えているままの広次が立っている。立っているというよりも、立ち尽くしている。それだけが出来ることのように、力ない自分を責めているようにも見えた。
その姿は正義にあふれていて、胸が疼く。
「……誰がっ、藍留にこんなことをっ!」
耐えかねた声が、教室を静める。
「広次君~ちょっとうっかりさんが、ゴミ箱と間違えちゃっただけだよぉ?」
「そんなわけないだろっ!」
事実として、今日の内に三件の事件が立て続けに起きている。藍留の言うようにうっかりさんが机をゴミ箱にしてしまったとしても、タイミング的に出来すぎている。むしろ、こちらの動きを感じ危惧しての連続犯行にさえ思える。
「く……」
広次は何も出来ないまま、ただ苦悶を漏らす。周囲を取り囲むクラスメイトたちも、同じようにどうにも出来ない惨状に、沈黙が場の思考を支配しようとしていた。
「それぇええええええっ!」
それを破壊するように、窓外――はたまた教室外――どこかから声が突然響いてきたかと首を振って探すと、開いたままの窓からかと気づく。しかし、声はすれど、それを発している主の姿は見えない。そうしている間に声は一端遠くなり、そして速度を増して下の句を響かせつつ近づいてくるというより、一筆の視界へとズームアップ、突進してきた。
「までだぁぁぁぁああっ!」
「ぶはぁがっ!」
最後に見えたのは何だっただろう。上履きの底だったか、それともサックスカラーの水玉模様だったか……そんな記憶の端切れを顔面の痛みが吹き飛ばした。次いで立ち尽くしていただけの体が、衝撃が作る方向を持った力に押し飛ばされた。視界は天井、誰かの顔、床、机とめまぐるしく変わり、ジェットコースターから見る風景をさらに三倍速程度で再生しているように回転運動が続く。何と形容するかと考えると、発射された弾丸の螺旋運動がしっくりとくる。それを理解したかと思うと、今度は全身を激しい痛みが襲った。けたたましい音で机をなぎ倒し、一筆は身に何が起きたのかと、倒れた机の群から立ち上がったときにやっと考えられた。
「何すんのよっ!」
「すまん、一筆。着地失敗のようだ」
「問題はそれも、もちろんだし、後で慰謝料を請求したいくらいだけど、なんで開いた窓から寿々美がドロップキックしながら、私に突っ込んできたかでしょ!」
「いや、これは会長百八つの秘密道具のうちのひとつである、鍵ロープでな……」
「んな説明を望んでるんじゃないっ!」
「寿々美さん、だからちゃんと階段を使ってと言ったのに……」
雪成が教室に入ってきたときは、言うなれば「時既に遅し」を具象化した後だった。
「うん、まぁ一筆のことはどうでもいい」
「よくないっ!」
「ナイス寿々美。面白かった」
「うむ、ありがとう羽。さて、だ……話の一部始終は報告を受けている」
寿々美はアルファベットのAのような立ち姿になり、腕を組む。
「濡跳藍留に南具流広次。安心しろ、この件は生徒会が預かることになった。そして、そうなったからには安心だ」
「何を根拠に言うんですか……生徒会も先生たちも変わらないでしょ」
「ふむ、変わるという根拠か……それはあたしがあたしであり、あたしが生徒会長だからだ」
寿々美は宣言する。主張する意味はいまいちわからないが、なぜかそこには説得力と威圧感が混在している。真正面からこの宣言を受ければ、誰もが一歩たじろぐだろう。それほどの力が、寿々美の言葉には力があった。
「……大丈夫ですよ、南具流君。寿々美さんにまかせておけば安心です。こんなですが、寿々美さんはとても信頼できる生徒会長です。生徒が困っていたら、必ず手を差し伸べてくれますよ」
雪成の付け加えによって、さらにそれは説得力を増してしまった。不思議なものである。しかし後半は明らかに蛇足であり、雪成に向けていた寿々美の表情が静かに変わっていた。だが、寿々美の宣言に雪成が足し算するだけで、胸のざわつきのようなイガイガとした部分が削られて、なめらかになったように感じる。この二人は二人で、ベストパートナーなのかもしれない。
能力者ではない寿々美の力は――きっと言葉と行動という、誰でも持ち得ていて、示すには難しい勇気なのかもしれない。
「わかりました……藍留もいいか?」
「はい~わたしは大丈夫ですよぉ」
「一筆……」
やりとりを静観していた羽が、不意にジャケットの袖を引っ張ってきた。そして耳へと唇を寄せてくる。
「ふぅ~」
「はわっ!」
いきなり息を耳穴へジャストで吹きかけられ、腰が砕けそうになる。
「なにすんのよっ!」
「いいからちょっと」
「よくないよくない、意味がわからん!」
「ちょっとした余興で、ちょっとした用」
そのまま羽は一歩二歩と引いて、藍留を囲む円から離れた。そこで再度、耳元へ声を潜ませてくる。
「一筆、このままじゃヤバイ」
「ヤバイ? 何でよ……」
羽が言っていることは、おそらく忠告という部類に入るだろう。だが、忠告を受ける理由が全く思い浮かばない。
「今回の事件、全ての発生場所に存在するものがある」
「……うーん、藍留ちゃん?」
「どばか」
「どばかって何よ!」
「どがつくバカってこと。事件は藍留がいない時、いない場所で必ず起こる。でも、起こったことが発覚した時点で、必ず存在していたもの」
羽は髪の毛に埋まって伏し目がちで話す。どこか定まってないような視線なのに、しっかりと見据えられている感覚だった。
「それは、一筆……一筆は必ず事件現場に居合わせている」
「いや、確かに居合わせてるけど、それでなんで私がヤバイの?」
「犯人は犯行現場に戻ってくる!」
「ちょ、声でかっ!」
なぜか羽はわざわざ一団を離れた場所で話していたというのに、今度は注意をこちらに向けるために声をあげたように見えた。
「ん、どうした羽」
「寿々美、容疑者発見」
「ちょ、私はっ」「最重要容疑者」
「一筆か……雪成、現状でわかっていることを報告しろ」
寿々美は腕組みで胸を強調させたまま、向き直ると、雪成に求める。
「はい……まずは今朝ですね。エントランス下駄箱にて、濡跳さんの上履きがなくなり、同時に街ノ田さんがそこに居合わせていますね。次に五時限目の合同体育前の更衣室。ここで濡跳さんの半袖体操服のセットが紛失しています。そして、この場にも街ノ田さん、そして天原さんが居合わせていますね。その次は、現状ということになります」
「無駄な部分が多いな雪成。マイナス点だ」
寿々美はうーんと唸ると、一歩前に出る。それは気が知れた幼なじみの顔ではなく、生徒会長の凛とした、一点の曇りもない顔だった。
「さて、一筆……物的はなく、状況証拠しかないが、現時点では犯人心理というものを加味すると、かなり分が悪い状況だ」
「ちょっと寿々美まで、なんでそうなるのよ!」
一筆は無様にわめく程度の反論しかできないし、それこそ反論にも証拠が足りない。しかも、私はやっていないと主張するだけを理由としてあげると、この場所、ひいては全人類規模で人は容疑者のはずだ。
そんな仮説程度の理論を放ったとしても、状況証拠だけでも有する自分の立場は、全人類から一歩だけだとしても、前に出て「犯人」という黒いものへ近い存在だった。
「広次君……」
視線が痛い。そして、その視線を避けることしか出来ない一筆の存在はもっと痛い。知れずとも、好意を寄せている人物から投げられる奇異の目ほど身を切らされるものはない。ハートというわかりやすい形と物質で心というものが表されるのであれば、それを鋼鉄製の鬼おろしで容赦なくごりんごりんと微塵にされているようなものだ。
「……むぐぐ……よし、わかったぁっ!」
一度大きく息を吸い、覚悟を決めると大きく手を打って、堂々と立ちなおす。
「何がわかった?」
「よく聞きなさい羽。この現状で私は私の無実をはらすことは困難。だから、私は私の無実を証明するために、動かせてもらう!」
寿々美のように言ってみせて、大きく胸を張った。自分が犯人でないと主張し、動いてくれる人物は、自分以外に存在しない。
「寿々美には勝てない」
「うっさいわね、今はそこじゃないのよっ!」
「いいだろう、一筆。自分の汚名は自分で晴らす努力は必要だ。濡跳も南具流もそれでいいか?」
「はい~わたしは大丈夫ですよぉ~。それに、街ノ田さんがそんなことするはずないって思ってますからぁ」
「……藍留がそれでいいなら、僕は構いません」
「ありがとう。私絶対に真犯人とっつかまえてくるからね!」
二人の賛同は心強かった。一歩抜きんでた容疑者だったのが、半歩だけでも後ろへ下がれた気がした。
「さ、羽。そうと決まったら行くよ!」
「おー!」
そう答えた羽の表情がなぜか笑っていたように見えたが、気にせず首根っこを掴み抱き上げると、六組の教室から飛び出した。
寿々美が突っ込んできた開けっ放しの窓から香る、ぬるい季節花の香りに背中を押されて、真犯人捜しの一歩を廊下のリノリウムにつけた。
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