第5話 二文字目 第一画

二文字目

   第一画


 次の日、一筆は放課後が楽しみで仕方なかった。

 ダンスのステップよりも軽やかに、入部届を片手に、空いた方の手は羽の細い腰に腕を回し、抱えながら超書道部の部室へと急ぐ。

「はしゃぎすぎ」

 羽の言葉も耳には入らない。足は迷いなく淀みなく寄り道もなく、渡り廊下を通り、C棟へと進んでいく。

「ちょっと待て」

「なによ、また風景でも見ようっていう心境?」

「違う……」

 おろせという催促を受けたのは、屋外の渡り廊下に入ってからだった。

「最終確認」

「何を確認するのよ。入部届はちゃんと持ってるわよ。羽の分もさっき渡したでしょ」

 羽はちょこちょこと近づき、いきなり脛を蹴り上げようとする。

「ちょ、何するのよ!」

「そういうことじゃない。一筆は利用されてもいいのかってこと」

「なんだ、それは羽が嫌だっただけだと思ってた。私は何ともないわー。広次君に利用されるなら、トコトン利用されたいっ!」

 くねくねと腰を回しながら、羽に訴える。それに納得がいったのか、孤独な創作ダンスをする脇を抜けて、羽は歩き出した。

「自分の用件が終わったら私を放置する癖はなんとかならないのかな……」

 一筆は、ふぅっと愚痴を放課後の空気に飛ばしながら、羽の小さな背中を覆い隠す綿菓子の髪を追う。

 ひとたびC棟に入ると、そこは変わらずに文化祭の学校に迷いこんだ感覚を有していた。

 昨日ほどの違和感はなく、やや慣れた足取りと感覚のまま、超書道部の部室前まで辿り着いた。

「今日は昨日の私とは違う。今日からここが私の部室よっ!」

 歌でも一曲歌ってからのほうが、落ちついた状態で臨めるかもしれないと思い立ち、踵をかえそうとしたが、そこには羽が構えていた。

「わかったわよ。行くわよ、だから今にも蹴り上げそうにしないの……まったく、かわいいパンツはいてるくせに……ぎゃん!」

 ぶつぶつと言いながら扉に向き直ったところで、額がドアとキスした。そしてまた臀部に慣れた懐かしい痛みが乗る。

「だから、お尻を蹴るなっ!」

 さすりながら抗議していると、部室の中で物音が響いた。

『はぁ~い』

 続いて閉じたままのドアの向こうで応える声がする。ヘッドバッドの形でドアに頭をぶつけたことが、ノックの代わりになってしまった。毎回このノック方法をとっている気がする。一筆は最悪の部活スタートだと赤い額をさすりつつ、あることに気付いた。

「あれ、広次君の声じゃない……」

「女の声……」

 羽の言うとおり、明らかに高く可憐で、どこかのんびりと、間延びした声が返事をした。

「どちらさまですかぁ」

 ついにはドアの目前まで気配はやってきて、より鮮明に声色を伝えてくる。

「あの、えーと私たち……今日からここの部に入ることになってる、街ノ田一筆と天原羽です」

 挨拶と同時に、一筆はドアを開けようとするが、これが動かない。

 ドア越しの自己紹介は相手が見えない分、心の置き所がどこかわからない。セールスマンとして、見知らぬ家を訪問するときは、常にこの感覚に襲われるのかと思うと、その職業は向いていないかもしれないと思った。

「あーはいはい。聞いてますよぉ」

「聞いてないから言ってる。開いてるなら、早く開けろ」

「あぁ、そうでしたぁ。開けますから待ってくださいねぇ~」

 いちいち間延びする語尾がもどかしいのか、羽のフラストレイションが溜まっているようだ。が、ドアには鍵がかかっているらしく、その解錠に手間取っている様子だった。

「あれぇこっちの鍵のはずなんですがぁ……あれれ、どこに行きましたかぁ」

「……ねぇ羽。ドアの内側から鍵開けるのって、キーいるのかな」

「普通はいらない」

 思い至っても、相変わらずドアの向こう側では寸劇が繰り広げられている。我関せずというよりも、ドア一枚を隔てた二つの世界で、時間の流れが違うように感じてしまう。

「ああ、やっとありました。鍵ですぅ……あれれ、鍵穴はどこですかぁ?」

「あの、ええと、まだですか?」

「それがその、さっきまであった鍵穴がどこかへ行ってしまいましてぇ……ご存じないですかぁ?」

 ご存じも何も、顔寄せるドアに鍵穴はすぐに発見でき、目の前についているが、それはこちら側の話だった。

「その……普通ドアの内側には鍵穴ないと思うんだけど……」

「あれれぇ……内と外……どっちがどっちでしたっけぇ~。こっちが……ええとぉ」

「だから、その、この場合は鍵穴がないほうが内側だと思うよ!」

「ああ、そうでしたそうでした。こっちは鍵穴に鍵をしゃこってするんじゃなくてぇ、これをかちっとやって開くんでしたぁ~」

 答えに辿り着いた声と共に、解錠を知らせる金属音が響いた。

「お待たせしましたぁ~」

 呑気な声と共に、部室へと道が出来る。その間に立つのは、少女だった。

 黒く真っ直ぐに伸びた髪、前髪をピンで寄せた隙間に、白磁に並ぶ肌の顔。清楚を絵で描くとこうなるという美少女。それが目の前に具現化していると、視線を下へとずらしていくと、その胸部あたりで目が止まる。

「ああ、自分も結構なものだけど、これには勝てない。どうして私のまわりには、こんなにド巨乳ばかりがそろっているのだろう……まさに、規格外」

「へ?」「はへ?」

 驚きの声が二つあがる。

「ちょっと羽、勝手に声真似アテレコしないでよっ!」

「正直な気持ち」

 確かにそう思ったことを否定はできない。だが、初対面の第一声がそれでは、今後の人間関係に暗雲がたちこめるだろう。

「女の子もやっぱりおっぱいは好きですからねぇ~慣れっこなのですよぉ」

 しかし、当の本人の反応といえば、自分の胸を触りながらのそれだった。逆に気に病むことが馬鹿げたことだと思えてくる。

「ええと……」

「あららぁダメですねぇわたし……自己紹介がまだでしたぁ~」

「こ、このタイミングで自己紹介……」

 とりあえず部室に入ってからでも、それは十二分にいいものではないかと思う。だが、考えている間にはじまってしまった。どうもこの少女は独特の世界観に他人を引き込む才能があるようだ。

「私はぁ、一年六組のぉ、濡跳藍留(ぬればねあいる)と申しますぅ」

「な、なんだか会話を挟むのが難しい呼吸の人ね……」

「気にするな」

 自分は上手くやってみせるからくらいの態度を羽は見せる。なんとも頼もしい。

「ええとぉ、それで何のご用でしょう~?」

「……さっき言ったんだけど……」

「何でしたっけぇ……ああ、そうでした。先ほどは鍵の開け方を教えて頂いて、ありがとうございましたぁ~」

「いえいえ、とんでもないって、違うっ!」

 なぜか藍留は小首をかしげて返してくる。この反応にまるでいわれがないですという仕草だ。

「ええとそうじゃなくてね」

 このままでは、口癖が「ええと」か「そうじゃなくて」という認識を持たれてしまいそうだった。

「入部しに来た」

「ああ、そうでしたぁ!」

 あきれ果てたのか、やっと羽が助け船を出し、藍留も納得してくれた。これで、先ほどから続いた問答も終わるだろう。

「で、何部に入部されるんですかぁ?」

「わざとか、わざとだよね、わざとだとしか思えないっ!」

 しかし藍留の頭上には、さも「?」が視覚化されて飛んでいるようだった。四車線の車道があるなら、同じ車線を飛び越して、反対車線の端を逆行しているレベルの行き違いぶりである。

 だが、その容姿が「美」のつく少女であるので、不思議と憎みきることができない。

「うぐぐ、得だ……」

「一筆とは、キャラの方向性が違う」

「余計なお世話だっ、私とどう違うっていうのよっ!」

「この娘は守ってあげたいタイプ。一筆は関わりたくないタイプ」

「私終わってるよね、終了だよね、それ!」

 一筆は息を切らして抗議するが、羽からは謝罪どころか、小さな口から小さな舌がちろりと覗くだけだった。

「うふふ、お二人とも面白い方ですねぇ」

 一番面白いかもしれない人が何を言うのだと、視線を投げるが、その姿は優雅すぎて、浮世離れさえしていて、何も言う気がなくなってしまう。

「はぁ、もういいよ……初めから説明するから、ちゃんと聞いててね」

 溜息をひとつ混ぜながら、数分のやりとりを取り返すことを諦め、今度は入念なアップをしてから、言葉のキャッチボールをすることにした。

「私は一年五組の街ノ田一筆、んでこっちが天原羽ね」

「これはこれはご丁寧に。私は一年……」

「だから、それはさっき聞いたから! もうぐるっぐるに、メビウスの環をフルマラソンだから、それじゃ!」

 また自己紹介をはじめようとした藍留を静止する。ここではきっと話が前に進まないように出来ているのだと、何とかしなければと算段をはじめる。

「足疲れた。座りたい」

 思考を巡らしている最中に、羽の助け船が入る。

「ああ、そうですねぇ。立ち話も何ですからぁ、中に入ってください」

「ナイス、羽」

 小声で囁くと、羽は袖から少し出た指さきでVサインをしてみせた。

 一筆と羽はやっと目的の第一段階を果たし、部室に入る。ドア前のワンアクションで終了するはずであったのに、既に何段階かに分けて、なお終わっていないことが忍びない。

「ではぁ、こちらへどぉぞぉ」

 藍留は丁寧にパイプ椅子を二脚机から引き、手で促してくる。それにおずおずと腰を下ろすと、目の前に湯気のたったお茶が出される。

「粗茶ですぅ」

 先ほどまでのもたもたゆっくりとした態度から打って変わって、用意されていたのかと思える速度で出てきたお茶に驚く。

「うまい」

 羽は疑いなく遠慮なく、早速すすって感想を述べる。羽に続いて一筆はお茶を口に深く含み、酷使した喉を潤した。

「ええと、どこまで話したっけ……」

「そうですねぇ。フルマラソンに出場して素晴らしい記録を出したとかなんとかってお話でしたっけねぇ~」

「違う」

 羽の鋭い言葉にも、藍留はひるまず、小首をかしげるだけだった。つるつると抵抗の低い黒髪が滑って傾き、白い顔を半分隠していく。その様に、一筆は同じ様に首をかしげて、そのまま召されてしまう気がしてくるが、思いとどまり息を吹き返す。

「だから、私たちは超書道部に入りに来たのっ!」

 そこまではっきりと、面と向かって言うと、藍留の表情に花が咲いた。

「あややぁ、そうでしたかぁ。ではようこそなのですねぇ~」

「うんうん、やっと通じたぁ……」

 意思疎通の証に再度すすったお茶は、粗茶などと言えないほどに美味しいと改めて感想を浮かべる。おそらく、安堵感がもたらす加味なのだろう。元々お茶の味などわからない一筆であった。

 だが、ほっと一息ついている場合ではない。これではただ部室にお茶を飲みに来た人になってしまう。

 ここへは、超書道部への入部届を持ってきたのだ。

「でね、入部届を渡さなきゃなんだけど、広次君は……」

 右を見て左をみて、真ん中の藍留で目を止める。

「ああ、広次君は所用で今日は部活にこれないんですぅ。だから代りにわたしがお留守番なのですよぉ~」

 ずずっとお茶をすすり、いつの間に出てきたのか、お茶請けの上品な和菓子を食べながら、藍留は駄菓子屋の店番気分だった。

「まぁ代理ってことは、藍留ちゃん……に渡してもいいんだよね?」

「はい~お預かりしますよぉ。それにしてもこのお菓子おいしいですぅ。街ノ田さんに天原さんもいかがですかぁ?」

「もらう」

 羽は籠に盛ってある、薄紫色の包装紙にくるまったお菓子を高速で手元に引き寄せると、迎える手で端を破り、中身をはむりと咥える。

「ふむ、姫にもぴったり」

「羽がそこまでいうなら、相当美味しいんだなぁ。私も、もらおう……」

 羽は自身を姫殿下と思い込む程度に、舌は肥えていて、アイスなら高級品しか食べないというような、地方公務員の娘とはあるまじき行為を繰り広げる娘だ。

 その舌は信頼していいはずだと、一筆は期待を寄せる。

「いただきまぁす」

 あむりとお菓子をかじると、甘すぎない上品なこしあんがもちもちとした求肥にくるまり、それをはさむ上下のふわふわとした食感の皮の口溶けも素晴らしい。

「うむうむ……美味しい、これはヤミツキに……ってそうじゃない!」

 藍留の醸し出すゆるい時間に捕らわれて、放課後お茶タイムをしている場合ではない。

「はっ、まさか、このゆるゆる空間を作り出すのが、藍留ちゃんの限定能力?」

 ひらめきを額に浮かぶ焦りの汗にしながら、三個目のお菓子を頬張ろうとしていた藍留を視線で刺す。

 なるほど、藍留ややふっくらしているのは、こういうからくりか。

「へ……ちがいまふよぉ」

「食べてから喋れ」

「ふみまへん……」

 羽に言われて、藍留はすぐにお菓子を置くのかと思ったが、そのままもぐもぐと食べきり、お茶をすすってから続きをはじめた。

「どこまでもマイペース……だけど何でだろう、いつのまにか引き込まれてしまうこの吸引力……」

 藍留と接していると、離れて暮らす家族のことを思い出してしまうから不思議だった。それが人の持つ雰囲気というものの妙と気付くにはしばらく時間がかかった。

「ええと、このお菓子がどこのかってことでしたっけ?」

「ち、違うから……藍留ちゃんの限定能力の話!」

 一年六組であり、赤いロングジャケットを着ているということは、クラウによって開花した、何らかの能力を有しているということだ。

「わたしの能力はぁ、許された人とぉ、思考を共有する能力ですよぉ」

「姫と同じ……ということは」

「と、いうことって何含ませてるのよ」

「鈍い」

 聞き返したところで、さらに羽の視線が突き刺さる。鈍いとはずいぶんな言われようだ。今ここでわかるのは、藍留の能力が羽と同じで、超書道部にいるというくらいだ。

「あ……」

「やっとわかったか」

「どうかしましたかぁ?」

「え、うん……藍留ちゃんが思考の能力者ってことは、その……広次君の……」

「はい~、超書道のぉ、競技パートナーですねぇ」

 雷に打たれた衝撃といえば適当だろう、頭上四十五度から打ち込まれた電撃が顔面を通過し、背筋まで突き抜けて放電し、足下のPタイルにリヒテンベルグ図形を描いて消える。いや待て、今の認識ではただのパートナー以上の存在であると断定できないじゃないかと、心の中で星に願うよりも素早く三度繰り返して、顔をあげる。

「そ、そうなんだぁ……実は私も水系の能力者で、墨汁を操れちゃったりして、この羽も藍留ちゃんと同じ能力なんだ。だ、だから私たちも超書道はじめちゃおうかなぁって!」

「隠しきれてない」

「うるさい、今はいいのよ!」

「そうなんですかぁ、じゃあこれから一緒に頑張りましょうねぇ~」

 羽が言ったのは一般的な対応と反応をしてくれる人間が持つ感情であって、藍留はそれに含まれないことが、ここ十数分のうちで判明している。

「街ノ田さん、これからよろしくですねぇ」

 抱えた頭にそんな計算が渦巻いているとはつゆ知らず。藍留は愛らしい白い頬を少し紅潮させて、握手を求める手を差し出してくるあたり、二人の入部を心から喜んでいる様子だった。

「あ、うん……よろしく」

 握りかえした手のひらは、柔らかく、白く、適度な肉感をもっていつつも小さく、そして少し冷たい。これ以上ない女の子の手だった。握っているだけで、どこか心が安らいで、全てを許したくなる。

「ねぇ羽。つかぬ事を伺いますが、女の子相手にも一目惚れってやつはあるのですか?」

「ついに、そっちに行ったか……姫も同じ目で見るなよ節操なし」

「ちょ、ちが!」

 一筆は慌てて否定するが、握った藍留の手はいつまでも離したくない。それに随分と長い握手をしているのに、怪訝な表情も浮かべず、にこやかな笑顔が目の前で続いている。

「これは……なんていうか……」

 見つめる藍留の後ろに何か花でも咲いているような幻影が見え始める。それが百合の花かどうかはわからないが、今胸を包んでいる想いの正体は朧に浮かんできた。

「そう、癒しってやつよ……癒し系!」

「上手いこと逃れた」

「だから、違うっての! ほ、ほら、毛がふわふわもしゃもしゃの癒し系ペットちゃんをなでなでするのと同じよ!」

 一筆は決心して、藍留からやっと手を切る。それでもやはり名残惜しさが心の端に滲んでいる。

「街ノ田さんの手もあったかいですよぉ」

 そう言って、きっと好物はわかめか海苔に違いないと思える黒髪をさらりと揺らす姿は、目を奪う。その気は全くないはずだが、羽の指摘もあながち……などと疑いはじめてしまう。

「違う違う違う。私はノーマルノーマルなの」

「呪文のように言い聞かせないと、私は我を忘れて、何かに流されてしまいそうだった」

「だから、勝手に心情を地の文としてかぶせるなっ!」

「うふふ……お二人さんは、とっても仲良しさんなんですねぇ」

 このやりとりを見て、そう思えるのは、二人に「コンビ名」というものがある場合に限ると思った。しかし、そう思われるのもまんざらではない気もする。

「はは……」

 一筆は藍留から視線を切って、照れ隠しのように笑ってみせた。このまま、今日は入部届を渡して、楽しくお喋りでもいいかと思えてくる。

「あ、そうだった。これ渡さないとね」

 本懐であるはずのものを横に置いていたのを思いだし、ロングジャケットのポケットを探り、入部届をハンカチの隙間から引き当てた。

「はい、入部届」

「……ん」

 差し出す紙に重なって、羽も同じ入部届を藍留に差し出した。コンビや仲がいいと言われるよりも、影踏みでもされている気がする。

「はい~お預かりしますねぇ。受理作業は明日、広次君がしてくれますからぁ、それで正式に部活メンバーですねぇ」

「うん、よろしくね」

 今日何度よろしくねと言ったことだろう。前のものに加えての口癖が「よろしくね」というような、いつでも何度でも的挨拶を無意味に繰り返す、変な人と勘違いされないだろうかと、いらぬ気を揉む。

だが、それも気苦労だった。藍留は相変わらずにこやかに笑顔を浮かべ、そこにいた。

「藍留、留守番させて悪かった……ん?」

 ほんわかとした空気の後ろ、部室のドアが声と共に突然開き、声がした。

「広次君!」

 素早く声に振り向き、両手を胸の前で組み上げる。昨夜、鏡の前で必死に編み出した胸を自然と強調させつつ、いやらしさを全面に押し出しすぎない、必殺のポーズだ。

「あれ?」

 だが、一筆のそれには無反応で、広次は淀みなく歩み進めて脇を抜けると、藍留の横で止まった。

「広次君~。これ、街ノ田さんと天原さんの入部届、預かったのぉ~」

「ありがとう。街ノ田さんも天原さんも、入部届持って来てくれたんだね」

「そりゃもう、遅れてすみませんって感じで、これから改めてよろしくというか、ずっとよろしくしていきたい所存です!」

 通り過ぎられた体勢のまま、広次に向き直り、連れ添って立つ広次と藍留を見た。

 その姿に少しの違和感を覚えた気がするが、今はこれからはじまる部活動のことで頭がいっぱいだった。だから、立ち上がると勝手に流れる水洗トイレ機能のように押し流した。

「……鈍感」

 羽が何かをぼそりとつぶやいたが、それが何に対するものなのかはわからない。ついでに流すだけだ。

「これでやっと、超書道の公式対戦が出来るよ。ありがとう」

「いやぁそんなありがとうだなんて。これから一緒に頑張ろうね!」

「はい~頑張りましょうですぅ~」

 広次と藍留は同じ喜びの表情で、参加を祝ってくれている。

「……嘘つき」

「もぅ、羽は憎まれ口ばっか叩かないの。これからみんなで部員として切磋琢磨していくんだから」

「そうだね……街ノ田さんと天原さんには、頑張ってもらわないと」

「うん、頑張るよ!」

 一筆は最高の笑顔を返す。

誰かのために何かを頑張るという行為は、とても心地のいいものだ。それが恋というものであり、女の子として一番輝ける瞬間だと信じている。

「うん……頑張って、僕たちのライバルになって欲しいからね」

「ライバル……それが本音か」

 羽は広次の言いようが気にくわないのか、眉の間にしわを寄せる。面白いということを自分主導で行えないかもしれないという感覚が、ここまでさせてしまうものなのだろうか。

「本音……否定は出来ないね。僕は僕と向き合って、真正面から戦える人をここで探していたんだから」

「もっちろん。真っ正面どころか、左右、背面だってお望みとあらば受けて立ちますよ!」

「ほら、街ノ田さんはこう言ってくれてるし、天原さんもよろしく頼むね」

 広次の懇願にも、羽は表情を固くしたままだった。

「うにー……にゃにをふる、ひとふぅで」

 一筆はその固い表情を後ろから両頬をつまみ上げ、無理矢理に笑顔を作ってやる。「ほらほら、眉毛の間にそんなしわよせないの」他人に接するとき、常に別人のような表情を見せるくせに、なぜ広次にだけそれをしないのかという、抗議だった。

「あんた、いっつもみんなには笑ってるんだから、広次君にもそうしなよ」

「はふー、うるさい。こいつは違う」

 羽はつまみ上げられていた頬をちょこんと出た指さきでなで上げながらの抗議をする。

「何が違うっていうのよ」

「一筆には見えない」

 羽は視線をずらし、その先に広次を捕らえて、怪訝な顔をする。

「それじゃこれからの部活動生活がうまくいかないじゃない。らしくないよ、羽」

「はは、街ノ田さん、気にしないで。ライバルになろうって言うんだから、それくらいで僕は本望だよ」

「うん……藍留ちゃんはそれでいいの?」

「ええとぉ、広次君がそれでいいなら、いいんじゃないかなぁ~と思うのですぅ。ほら~お茶の時間にはぁ、みんなで仲良くすればいいでしょぉ?」

 藍留の言うことはもっともだ。それに広次が望んでいるというなら、羽の態度もそれでいいのだと思えてくる。

「じゃあ早速って言いたいところだけど、今日はもう時間がないから、明日から頑張ろう」

「残念……」

 広次の言葉が終わると同時に、最終下校を知らせる校内放送が響いてきて、今日の部活終了を告げた。

「じゃあ、今日はこれで帰ります。行くよ、羽」

 いつまでも広次を見据えたままの羽の首根っこを掴み抱き上げると、広次と藍留が逆行に影となる部室を後にした。

 今日の部活は収穫の多いものだった。藍留の雰囲気がもつ癒しの効果と、お茶とお菓子。そして、現状ライバルとしてではあっても、広次が存在を求めているという事実。

「いやぁ、それだけで今夜、ごはん三杯だわぁ~」

「……お気楽バカ……」

 藍留のような口調に素早く羽の反応がくる。

 最終下校時の放送開始から、閉門まで流れる、郷愁を彷彿させる音楽に紛れ、羽の皮肉めいた言葉は気にならなかった。胸中をしめるのは、明日からの部活動での輝かしい日々だけだ。

「勉強も忘れるな……」

「だから、余計だってのっ!」

 一筆はせっかく忘れていた、今日の宿題量を思い出して、夕闇のように心が暗くなった。

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