第4話 一文字目 第三画
第三画
五限六限、何の授業だったかは、はっきりと覚えていなかった。それだけに一筆の心は放課後一直線であり、心待ちの終業チャイムだけは聞き逃さなかった。
「さ、行くわよ、羽!」
「せっかち」
ぶつくさといいながら、羽はバッグに教科書類をのろのろと詰める。
「ええぃ、まだるっこしい! こんなの、こうしてこうして、こうよっ!」
一筆は横から入り、乱雑にバッグへ荷物を放り込むと、羽に背負わせて、手を取った。
「そこまでしなくても、部活は逃げない」
異議は無視して、羽を抱き上げるとそのまま一筆は歩き始める。羽はそんな体勢でも、クラスメイトから送られる別れの挨拶に、ひとつひとつ答えながらいる。どんな状況下であっても、姫殿下たる振る舞いだけは怠らないのが心情らしい。
「そういう細かさが私にはないのよねぇ」
「だから、平民。姫はどんな時にも慈愛を忘れない」
「はいはい、ご立派なこって。今度は私にもそれをくださいなと」一筆は嫌味を言っているつもりだった。
「平民にはあげても、一筆は姫の下僕。だからあげない……くふふ」と、嫌味を二度塗り三度塗りした丁寧な工芸品として返してきた。
しかし、ここではめげない。いつもとは違い、心持ちの中にある希望が大きい。
部活を決めるなど、時間の無駄で、嫌だった。しかし寿々美の口ぶりから、それは希望に変わった。
「きっと数年後には、ああこれも悪くなかったわぁと昔を振り返るのね」
「くふふ……どう転んでもそうなる」
「ん、何か言った?」
何でもないという羽の声を、歩く速度で生まれる風に溶かして、廊下を進む。すれ違う生徒は、放課後ということで、どこかみんな生き生きとしている。春も終わり、夏の足音が一歩一歩と響いてくるのは、日に日に長くなっていく日が沈むまでの時間で感じる。生徒会室の前で味わったような爽やかな風を頬に受けることはないが、一筆は自分が作った風でも、こんなに気分が高揚するのだと知った。
恋は季節さえも変えてしまう。
そんなことが詩的ではなく、自然に感情の中へと浮かんでしまう。
「我ながら、恋する乙女だわぁ」
「まだ、恋するとは決まってない」
確かにそうだが、きっとこういうことを運命だというのだ。
「それを今から証明することになるわぁ」
言いかけて、足が止まる。
「あ、そういえば超書道部って、どこ……」
「ドジ……文化部だから、C棟の三階か四階……うーん……思い出した、三階」
「さすが姫。学校のことも心得てるぅ」
「よきにはからえ」
アドバイスを頼りに、脳内へと未入力だった目的地を追加する。ここからなら、一階あがって渡り廊下の屋上を使用するのがベストの選択になる。
道すがらの渡り廊下は、グラウンドが一望できる、隠れた人気スポットだ。二階に屋内で架けられた渡り廊下は、一階部分が屋根付の廊下、三階をつなぐ屋上が屋外の通路になっていて、そこに設置されているベンチは、快晴の昼休みには争奪戦が起こるほどのお弁当スポットだった。
しかし、放課後ということもあり、校舎から出た屋外廊下は、人影はまばらだ。それでもベンチはすでに女子生徒で埋まっており、グラウンドで活動する部活の観戦に使用されていた。
「青春ねぇ……部活する意中の相手を遠くから眺める乙女……言い出したくても言い出せない。伝えたくても恥ずかしい」
一筆は、小脇に抱えていた羽を地面におろしつぶやく。
「今はそれを表す、いい言葉がある」
「何よ? 私が素晴らしい表現でまとめてみせた、恋する乙女以上にぴったんこな言葉なんかあるわけないでしょ」
「……ストーカ」
「…………い、いやねぇ……ほら、あの子たちはスケッチブック片手じゃない。美術部のスケッチよ、スケッチ」
手に持っているものがスケッチブックではなく、ごつい双眼鏡だったら、分が悪かった。
「じゃあ、あれは?」
羽が指を指す。
「うぐぉ……」
そこには、バズーカ砲か対戦車砲かというようなレンズを携えたデジタル一眼レフカメラを、これまたライフルでも発射するためのものかと思える三脚に据えた女子が、何かこの世の者ではない存在に取り憑かれたかのごとく、必死にシャッターを切っていた。
「や、やぁねぇ……あれだって、写真部よ写真部。写真部が放課後にカメラで何かを撮っているとすれば、それは全部、部活動なのよ、うん」
「ものはいいよう」
「だ、だって部活全入が校則なんだから、生徒が放課後にしていることは、すべからく部活動なのっ!」
苦しい問答が終わったところで、C棟への扉が見えて来た。一筆はその扉を開ける前に、もう一度後ろに広がる世界を眺めた。
色々な会話や声が散らばり、様々な行動や思いも散在している。雑踏、もしくはカオスとしか言いようのない風景だ。それでも愛おしい気持ちになってしまうのは、それがごくありふれた「普通」と呼ばれるものであって、どこかで尊いものだとわかっているからなのだろうか。
「そんなのわかんないわよね……」
能力というものが、あるいはこの世界で、クラウの存在のように「普通」になり得たら、この感情は消えるのかもしれない。
普通になりたくて、普通に恋するという人間らしい行動を欲しているわけではないとわかっていながら、季節の風に吹かれると、時々そういうものが心の奥から、ふっとわいて出てきてしまう。
「ぎゃ!」
感傷に浸っていた、お尻に強烈な痛みが傷になって広がった。
「急げ」
振り返ると、脇を抜けてさっさと扉を開け、既にC棟の中にいた羽が、片足を持ち上げたまま止まっていた。まだ校舎に背を向けて、渡り廊下からの世界に想いを馳せ、くすぶっていたお尻を蹴り上げられたのだ。
「何するのよっ! キズものになったら責任とってもらうわよ!」
「大丈夫。一筆はお尻の肉も厚いから」
「人をでっかいお尻みたいにいうなっ! こんなにキュートなヒップの持ち主はそうそういないわよっ!」
羽は聞き終わると、言葉の代わりにふんと一回鼻先で笑いをニヒルな表情でしてみせて、歩を進めた。
「ちょ、待ってよ!」
一筆は名残惜しい世界を捨て、慌てて羽に続きC棟の中に入った。
西日がさす時間にはまだ遠く、赤味を帯びた夕暮れの雰囲気ではない。しかし、教室の四分の一程度の間隔で区切られた部屋が、整然と廊下の端から端まで並んでいる。しかし整然としているのはドアだけで、その他は雑然としていた。
そのドアの一つ一つに何の部活であるかというプレートが、かけられている。
「な、なんか怖いね……」
「臆病一筆」
羽はまるで気にせず、我が家のようにずかずかと廊下を進んでいく。
通り過ぎる度、よく見てみると、ドアにはプレートだけでなく、何部なのかというのを象徴するように、作品が貼られていたり、そのドアとドアのわずかな間に、制作した作品やら段ボールやらが山積してあって、どこか文化祭の準備をしている校内に迷い込んだような感覚に陥る。
それは見方を変えれば楽しい一場面だ。だが、今は何でもない春が終わる放課後であって、文化祭シーズンではない。それが現実にいつの時間でも年中あるとすれば、どこか終わらない文化祭でもやっている異世界に閉じ込められている気がしてくる。
「やっぱ怖いよ……」
一筆は季節以外の寒さから先に行く羽の制服の袖を掴もうとする。
が、袖は掴み損ね、羽を通り過ぎて体だけが先へと進んでしまった。
「ちょっと、何でいきなり立ち止まるのよ!」
「ここだから」
立ち止まったままの羽のもとに戻り、指さすプレートを見る。
「超、書道部……」
読み上げてみると、ついに来たんだという感慨が押し寄せてくる。トレジャーハンターが困難な道のりを超えて宝物を探し当てる感動も同種なのかと思う。
「そんな、何かをやり遂げた顔してもダメ」
羽は冷静に表情を判定して、心を折ってくる。しかし、ここはぐっと我慢して、目の前の扉を開けば、新たに広がるであろう恋模様へと希望をつなげる。
「んじゃ、ノックするわよ」
「さっさとやれ」
だが、ノックして扉を開けた瞬間、何かがはじまってしまうのかという高鳴りが、手を動かさない。
「ふぎゃっ!」
手は止まったままだったのに、なぜか扉が視界に近づき、あれよという間に目の前が扉の色だけになった。そして、頭突きのノックに続き、また覚えのある鈍痛がお尻に宿る。
「だから、蹴るなっ!」
「手伝っただけ」
「なら、手を使え手を! あんたは蹴鞠の選手か、平安貴族なのかっ!」
羽めがけて、仕打ちに対する抗議をぶつけていると、まだ閉まったままの扉の向こうで、物音がした。
「どうぞ、開いてるよ」
声は招くように響いてきた。扉の向こうなので、くぐもって聞こえるが、声ははっきりと意志を灯し、自分たちを迎え入れるリズムを持っていた。
「よ、呼んでるよ……」
「だから、さっさと入れ」
羽が煮え切らない態度にしびれをきらし、小さな手を脇から通して、扉を開けた。
「こ、こんにちは……ここって超書道部の部室ですか?」
「はい、そうですよ」
室内の一番奥にある窓から差し込む逆光を背負って、人影は黒く塗りつぶされていて、判別がつかない。
「もしかして、入部希望者の人?」
声は希望の色をつけて、近づいてくる。いよいよ逆光も終わり、その姿が見える。
「…………ありっ! ビンゴビンゴ超ビンゴ!」
その姿……端正な顔立ちに眼鏡をかけた知的な表情、能力者を示す、赤いロングジャケットも一際似合って見える。一歩一歩と距離を詰め、歩み寄ってくる雰囲気に、心がダンスし始める。
「ビンゴの景品は私になりますっ!」
「ええと……入部希望の人ですよね……僕は一年六組の南具流広次(なぐるこうじ)って言います。一年ですが、一応ここの部長ですので」
「以後お見知りおきを!」
一筆はさっと会話に割って入り、手を差し伸べる。広次も手を差し伸べてくる。その手を待ちきれない速度で両手を使って包むと、ぎゅうっと握り、ぶんぶんと振った。男の割に柔らかく、それでいて力強い意志を感じる、一言で言えば業物の手の平だった。
「この手で、あんなことやこんなこと……」
「ええと、君たちは……」
「……知ってるくせに」
なぜか羽はそんなことを言い、広次も呼応して少し表情を変える。だが、そんな摩擦は初対面なら、ありがちなことなので、気にするだけ馬鹿らしい問題だと、一筆は浮かんだ疑問を意識に飲み込んだ。
だが、今は羽の機微などを気にかけている場合ではない。自己紹介をきちんと、かつ印象的にしなければいけないのだ。
「わた、私は一年五組の街ノ田一筆です! 将来の夢はお嫁さんです!」
「同じく天原羽……姫殿下と呼べ」
「はは、面白い人たちだなぁ……」
広次は、言いながら礼儀正しく一礼した。
「改めて、超書道部にようこそ。入部希望かな、それとも見学?」
「主に見学はあなたにしておいて、入部も考えちゃおうかなというか、もう決めちゃうかなって感じです!」
テンションは天井を知らず、地に足は着かない。相手の話を聞いていないともいうが、その点は羽にでもまかせればいいかというのが今の見解だった。
「今日は見学のつもり」
「そうですか……残念だなぁ。見学してもらうにも、今日は僕のパートナーが不在で、超書道の実践は見せられないんだ」
「そう……別に構わない」
「ふぎゃ!」
羽は言うがまま、踵を足先に打ち込んできた。
「いったいなっ、何すんのよ!」
「いい加減しゃきっとしろ」
羽の言うことも、もっともだった。そろそろ落ち着かないと、第一印象という部分で負けが生じてしまう。第一印象というのは、とても大事で、そこがマイナススタートだと、プラスに転じるのは、至難の業になる。せめてゼロからでないと、巻き返しはないに等しい。
広次に対し、あるという判断を下した以上、そこには細心の注意を払わなければならない。この場合はまだ間に合うと判断し、羽には感謝しておく。
「もう遅い」
「だから、心を読むなっ!」
「読んでない、顔に書いてある」
「へぇ、天原さんは、思考共有の限定能力者なんだね」
そういう広次に、羽はまた怪訝な表情を見せる。初対面の人物に、こんな顔を羽がして見せることは希だった。いつもにこやかに笑って、相手に警戒されない自分を見せるのが処世術のはずなのだ。その道理に反してまでの態度が示す意味が計り知れない。
だが、今は羽の仕草や心持ちよりも、自らの心に素直になることへと、天秤は傾いている。
「それで、街ノ田さんはどんな能力者なの?」
「一筆です、一筆と呼んでください! 私はもう広次君って親しみを込めて呼んでしまいます!」
「質問に答えろ……それに、こいつは全部わかってて聞いてる」
「はは……天原さんは厳しいね。もちろん、五組って部分で能力者だってことはわかってるけどね。その固有の能力まではわからないよ」
「……ものはいいよう」
羽は言ってから押し黙ると、興味を失ったように、背中に隠れた。
「ええと、私の能力は聞くところによると、超書道にもってこいの、水を操る能力です! なので、墨汁だって超よゆーでっす!」
一筆は言葉の最後に、最高の笑顔を添えて投げる。
「そうなんだ……それで超書道部に来てくれたんだね」
「いやぁ来たというか、行けと横暴な幼なじみに言われた気もするけど、きっと運命です!」
「お調子者」
羽のことはこの際無視しようと決め、目の前の広次との会話を楽しむ。羽の行動に何か重要なことが見え隠れしている気がするが、今はそれも蚊帳の外でいきたい。
「今、この部に競技者は僕しかいないんで、対戦相手もいない状態だったんだ」
「いいね! 私が広次君の対戦相手になれます! むしろ私的には対戦相手というか、伴侶というか。そういうものになれればいいかなというのが、入部を前にしての抱負になります!」
「頼もしいね。僕的には、街ノ田さんには、ライバルになって欲しいんだけどね」
「それが本音か……」
また羽は広次に突っかかる。
「もう、羽ったら、なんでそんなに広次君にぶっすりいっちゃうわけ? いつもはそんなんじゃないでしょ。ほら、あのきゃるんって感じの笑顔出しとけ、な、な?」
「やかましい……一筆は気付いてないだけ」
「何に気付いてないのよぉ!」
「まぁまぁ……」
羽に食ってかかるのを、寸前で止められる。その優しさと配慮の行き届いた部分は、心をまた射止める。今目の前で繰り広げられる羽の行動は、一筆にとって広次の仕草を際だたせる、刺身の上の菊の花だ。
「もういい……」
ついに羽はしびれをきらし、完全に顔を背けてしまった。へそを曲げたときはアイスを買って渡せばいいとわかっているので、後で口に高級アイスのひとつでも放り込めば問題ないと判断し、今は放置と決めた。
「それで、ふたりの意見はちょっと食い違ってるみたいだけど、すぐに入部してくれるのかな?」
「もちろんです!」
見事な即答だった。この上なく明瞭で、春に谷を渡るヒバリの声よりも澄んでいる。澄んでいることにかけては、森深く人知れずわき出る泉にも勝る自信があった。
「ほら、羽ももちろん入るわよね」
「……」
問うが羽は無言のままだった。沈黙もまた答えなりと判断することにした。どちらにしたって、羽もどこかの部活に入りたいという明確なものがない以上、ここで流されるしかないはずだ。ならば、その意見を事細かに聞く必要はない。
「この娘も入ります入ります! 私は羽がいないと超書道できないらしいですし!」
そっぽを向き続ける羽の頭を掴み、耳元へ後でアイス買ってあげるからと、素早く囁くと、広次の方へと向かせて、こくこくと頷く仕草をさせる。
少々強引だが、背に腹はかえられない。今は物でケリがつくなら、それも得策だった。
「それは嬉しいな。超書道ができる部員ができたら、やっと実戦ができるし……僕も本当の競技者になれる」
広次は嬉しそうに、にっこりとしているが、その表情にどこか、冷たいものも感じてしまった。
「クールだわ……」
だが、今は全てをプラスに転じさせるベクトルが働いている。マイナスは打ち消されるというよりも、プラスに吸収されてしまう脆弱な存在になっている。恋のはじまりというのは、すべからくそういうもので、落ちるだけ落ちることが許される。もっと深い部分は、付き合いだしてから少しずつ見て、受け止めて、愛していけばいいだけの事だ。
「そうだ。二人ともまだ時間あるかな?」
「もちろん! 何だったら、夜もあけちゃいますよ!」
「はは……だったら、超書道とはいかないけど、能力で文字を書いてみないかな?」
「やってみたいです! 実は私そういうことは、み、けい、けん……なんですよっ」
言った途端に、広次の表情は少し固まった。まるで自分がしてきたことがひどく至らないものだったと指摘されたと感じた顔だ。
「……そっか、じゃあ初めてなんだ」
「はい、一筆初体験になります、よろしくお願いします!」
「いちいちエロい方に持っていくな」
沈黙していた羽がやっと口を開く。一筆は親友が少しは機嫌が直ったのかと安堵の息を吐いた。もしかしたら、高級アイスを買わなくてすむという、懐具合にも優しい結末になるかもしれないと、淡い期待をした。いかにご贔屓のスーパードラッグストアジグザグをもってしても、高級アイスの値引きは微々たるもので、高校生には過ぎたる贅沢品なのだ。
「じゃあ、早速書いてみようか。書き方ってわかる?」
「それはわかります。けど、墨汁の持ち合わせが……一筆失態」
「じゃあ、そこにある墨汁を使ってくれていいよ。特に拘りのない品だけど……街ノ田さんも、超書道始めるなら、いつも墨汁は持ち歩いておくほうがいいよ。ほら……能力的にもそれがあればいざって時に」
「そうですね、超そうします!」一筆はびしりと敬礼を広次に返す。
「じゃあ僕も用意するよ」
広次は自分の懐を探り、そして取り出す。
「墨汁じゃない」
羽の言うとおり、広次が出したのは、水と墨と、硯だった。
「僕は墨をすって使うんだ。超書道だけじゃなく、普通に書道もやってたからね」
「だったら、書道部に入れ」
羽の言葉に、広次は少しだけ表情を苦くする。だが、ジェントルを崩すほどではない。
「はは、僕に能力がなければそうしたんだけどね。僕は能力者だから、超書道をとったんだ」
竹刀を捨てて、脇の木刀も置いて、真剣に持ちかえた――そんな決意めいた声だった。
それもまた、凛としていて、心に響く。
「じゃあちょっと待ってくれるかな、墨をするから……」
そう言って広次は硯に水差しから水を落とし、墨を立てた。
「うぉおおおおおおおっ!」
「へ?」
一筆は墨というのは、精神統一のように、静寂の中ですられるものだと、勝手に思い込んでいた。しかし広次は声を上げ、残像を出す勢いで、手を動かして墨をすっていく。
「よし!」
そう考えている内に、広次は手を止めてしまった。わずか一分で、しかも硯にはしっかりと墨ができあがっている。
「じゃあ書いてみようか」
「え、あ……はい」
さすがに呆気にとられた。羽は表情を変えず、我関せずの姿勢を継続している。あれを見て驚かないのは、さすが姫殿下の余裕と言えるだろう。
「やり方はわかる?」
「理論っぽいのは、わかるかなぁ。でもわからないので、根掘り葉掘りと出来れば手取り足取りレクチャーして欲しいです!」
「はは、そんなに難しくないよ。理論や原理がわかってるなら、何も疑わずにそのままやればいいだけだよ」
広次は硯を片手に持ち上げ、目を静かに閉じた。今度は奇声をあげることもなく、落ちついた呼吸音を部室に響かせる。
「誠心誠意、はじめる」
かけ声にしては、つぶやいただけの声だったが、広次の性格をよく表しているのかもしれない。
広次は言葉が終わると同時に、硯から墨をこぼした。その先を目で追うが、もちろん半紙などは用意されていない。紙がないばかりか、そこは長机の盤面であり、そのままでは墨の汚れを作ってしまう。
だが墨は牛乳をテーブルにこぼしたように広がりもせず、また、机の盤面にまで届きもせず、軌道を重力に逆らって変えると、その姿を黒く長い紐のような姿から、文字に変えて、空中に静止した。
「南具流広次……」
「まぁ自分の名前を書くのは、基本だよね」
筆も使わず、墨だけを能力で操り、文字を書くのが、広次の見せてくれた書道だった。
「私にも……」
「同じ事が出来るはずだよ」
「やってみろ」
羽も重い口を開いて、勧めてくる。
二人、合計四つの瞳で見つめられ、ごくりと喉が鳴った。緊張していると言っていい。相手が広次だけでなく、羽だけであっても、同じ種類の緊張が背中を支配していたかもしれない。
能力に目覚め、それから確たるものを持って、それを行使したことはなかった。そんなものなくても、恋はできたし、生きて来られたからだ。一筆は今までの人生において、能力を行使することが自己確立の方法であったことがないのだ。
「じゃ、じゃあやってみる……」
恐る恐る手に持っている墨汁のキャップを外す。ただキャップを外すだけだというのに、手が寒さでかじかんだように、震えてうまく回せない。一度指をキャップから放し、ひとつ呼吸を整えてから、再び外す。
一回二回とキャップは回転を続け、やっと注ぎ口が現れた。
「……」
意を決して、墨汁のボトルを傾けていく・
「……ええと、広次君みたいなかけ声って必須?」
「早くやれっ!」
「きゃん! だからお尻を蹴り上げるなっ!」
「一筆がじれったいからイライラ」
「割れ目にヒットしたでしょ、割れ目にっ! 割れたらどうするっ!」
「どっちの割れ目だ」
「ちょ、そんな……広次君がいるのに激白させるとか、羽ってばマジ鬼畜」
「じゃあなぜ頬を赤らめる?」
羽の返しがなければ、続けて激白してしまう所だった。
「はは……ええと、言葉はきっと能力を使う瞬間、頭の中にあふれてくるから、それに従うといいよ。能力を使うスイッチみたいなものだから」
広次は苦笑いの中、そうアドバイスをくれる。期待の中、今度こその意を乗せて、墨汁のボトルを傾けていく。墨汁のボトルは、傾けただけでは墨が出てこない。少し押さなければと、指に力を込める。
同時に、広次が言ったように頭の中に言葉が浮かんでくるのかと、不安だった。それでも、期待の目で広次が見ている以上、それに応えなければならない。
ええい、ままよと押す指に力を込め、いよいよ墨汁の一滴目がボトルの口からあふれ出る瞬間、頭に言葉が宿った。
「一筆入魂、いざ参る!」
頭の中に浮かぶ文字。今は広次を真似て名前を浮かべると、そのイメージに倣い、目の前で流れ落ちていくはずの墨汁が形を変える。
不可視である、透明の文字のケースにすぅっと墨の黒が注がれていくように、目の前に能力が具現化した。
「これが、私の能力……」
「街ノ田一筆……読める」
広次のそれと比べるとかなり不細工で整っていない、のたくたとした文字だった。
「すごいよ。初めてでここまでできるなんて……これは」
文字を見た広次は、興奮を隠せないように、上気した顔で唇をほころばせた。一筆は我が身ながら、自分の能力を目の当たりにすることに、興奮してしまう。
「ええと、これ書いたのはいいんだけど、あとはどうするの?」
しかし、一筆はその後どうしていいかわからず、とりあえずそのままでいてくれと念じ続けている。
「大丈夫。文字の形でとどまるように念じるのをやめても……」
「え、いいの? わっ!」
疑問が生じた脳にノイズが走った。その瞬間、文字は形を崩し、部室の床に黒い水たまりを作ってしまった。
「掃除しろ」
「わかってるわよ……あのこれ、どうしたら……ぞうきんとかは?」
「だから、大丈夫だって。考えてみて?」
広次は焦ることもなく、思考を促してくる。
「考えてみてって……」
今や取り返しのつかない状態の墨汁が、床に広がっているだけだ。
「ん……墨汁……」
墨汁はどんなになっても墨汁だということに変わりない。半紙に文字を書いた後でも、これは何で書いたのと聞かれたら、墨汁と答える。
「つまり……床にこぼれたとしても、墨汁には変わりないってこと……」
やっと広次の言っていたことと、思考が繋がった。大丈夫とは、こういうことだったのだと、実践をはじめる。
床に溜まった墨汁に意識を集中させ、すっと目を閉じる。
「一筆入魂、いざ参る!」
「……浮かんだ」
目を開けると、羽が小さな口を開いて、感嘆を漏らしていた。
目の前に、黒い玉が浮かんでいる。蛍光灯の光を写し取り、つやつやとした光輪を表面に抱いていて、黒真珠のようにも見える。
「ええと、この次は……このままボトルに戻せばいいのかな?」
「いや、一回床に落ちちゃったし、墨の粒子以外の不純物がいっぱい混じってるから、紙にでもうつして、捨てちゃうのがいいかな」
そう言って、広次は手の届く範囲にあった、半紙を数枚掴んで、ここだよと示した。
「んじゃ、そこへ……せっかくだから、愛をこめまして……」
「いいから、さっさとしろ」
また羽の蹴り上げが襲いかけたので、何もなく、広次が掴んでいる半紙に黒い球体を抱いてもらった。
「やっと一段落……落ちたものでも大丈夫だったとは、自分でも驚きだ」
一筆の息をつくそんな感想に、広次はやはり少し困ったような顔をして、すぐに笑顔へと戻した。
「初めてにしては、すごいと思うよ。その調子で頑張って欲しいな」
「もちろんです、頑張っちゃいますよ!」
広次のためにと付け加え忘れたと、一筆は少し後悔しつつ、ポーズをつくった。
「頼もしいね……」
また広次の表情が変わる。それは冷たく見下しているわけではないのに、とても冷えていて、冬の北風が立ち枯れた林を突き放すようなものだ。
「もう行く」
羽は広次の顔に耐えられなくなったように、背中を押してきた。
「ちょっと、私はまだお話がっ!」
訴えても、羽は背中を押すことをやめず、出口へと足が向かう。広次もその姿を見て、ゆっくりと手を振った。
「また明日来てくれるかな。その時は入部届もお願いするね」
「わかりーましたー!」
言い切る前に、体は部室から廊下へと出ていた。無情に扉は閉まり、もう広次の姿は見えなくなっていた。
「……お調子者」
「何がよ、まったく……もうちょっと話すことあったのに」
再び廊下を進みながら、後ろを着いてくる羽に反論する。わずかな時間だったはずなのに、一日の色は着実に、赤味を帯びた世界を作っていた。
「うぅ、まだ夕方は冷えるなぁ」
渡り廊下に出ると、頬やスカートから覗くふとももに触る風が、効き過ぎたクーラーのようだった。
昔は、そこいらに存在する雪か綿に似たクラウも珍しく、春も終わる時期に青々とした緑の木々に所々白い化粧がされていることに、寒さを感じたそうだ。だが、生まれて目が開いた時から、それは当たり前であり、昔はこうだったと教えられても、理解できない。だから季節問わず、雪景色の真似事が広がっていても、それで寒気を喚起されることはない。
その懐古にならって寒気ある不自然な世界に足を止めさせるだけだ。そうしている一筆の脇を抜けて、羽は一歩二歩と先へ進み、向き直った。
「入るの?」
「超書道部? もうそれしか選択肢ないでしょ、私たちに」
「そうだけど」
なぜか羽は、唇を凝視しないとわからない程度に、それを尖らせている。
「いいじゃないの、面白そうだし。羽もそれがいいんでしょ?」
「面白いはこの姫が作り、姫自身が操作しなければならない」
「へぇへぇ、すごいこって」
羽は与えられる面白さでは満足がいかず、その支配権を自分が有していなければならない性分なのだ。
「だけど、あいつは自分の面白いのために一筆を利用しようとしてる」
やけに饒舌な羽は、にわかに信じられないことを言う。
「そんな。広次君が私の何を利用しようとしてるって言うのよ、羽も心配性だなぁ」
「別に、一筆の心配はしてない。問題はこの姫を出し抜こうとしていること」
どこまで行っても自分をないがしろにされているように感じることが、気に入らないということらしい。
ならば、それ以上ではないということだ。
「それは後々わかるでしょ。さ、寿々美に入部届もらいに行くよ」
「それは担任に、だろ……」
二歩三歩と進んでも羽は動かないままだったが、やがて夕方の冷たさに耐えられなくなったのか、ゆっくりと後を追ってきた。
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