第2話 一文字目 第一画

 一文字目

    第一画


 千年記の終わり、雪が降った。

 それはこの星のあちこちに、季節に関係ない雪を積もらせ、寝ぼけていた人々を目覚めさせていった。

『クラウ』

 それが溶けない雪に付けられた名前だった。

 クラウがどこからこの星にやってきたのか、それが何なのか……植物なのか、生命体なのかと世界中の学者が研究したが、答えは出なかった。大気圏外では形を認識できず、大気圏をそっと抜けてから、姿を現す物質を解明するというのは、無理に決まっていた。定義するとすれは、それは素粒子のようなものなのかもしれないと、偉い学者は言ったものだ。

 ずっとずっとそこにいて、いたけれど誰も気づいてくれなかった、観測方法がわからなかった。

 だからクラウはしびれをきらして、人類に見える形へと進化した――そういう結論。

 しかし、人々が人知を越えた能力に目覚めはじめ、その原因がクラウという存在だということだけは判明した。だが、クラウが人類にもたらせたのはそれだけで、他には何もない。

 可燃性で、水にも溶ける。自然界ではまさに雲のように、自然現象で消えたり現れたりを繰り返すだけの物質。利用方法も何もわからない謎の飛来物。雪というには季節問わず降りそそぐため、その姿をもって、雲と言い切ってしまうには足りず、雪というには違い過ぎると、雲から一文字だけをとり、クラウとされたと言われている。クラウについて、迷惑だと思っているのは、豪雪地帯の住人くらいかもしれない。毎年のように雪かクラウかを見誤って転落した、怪我をしたという事件が起こる。だが、それも一般に起こる交通事故などに比べれば、微々たるパーセンテージのものだった。

 それよりも、他の影響力が強かった。

 人類の革新がかかっている、宇宙人からの人類に対するメッセージ、恐怖の大王などと言い始める団体まで現れた。人によって、クラウによる力の発現の呼び方も様々で、能力と単に言ったり、シードだとか、オリジナルだとか、代価能力だとかと、千差万別だった。

 しかし、そんな騒動も百年経たずして沈静化し、人々の認識の中で、クラウの存在が「当たり前」になっていった。当たり前になって、誰も気にしなくなるのに、わずか数年。それはこの星でクラウの存在が「以前からあったもの」になったということに似ているのかもしれない。

 ただ、クラウは姿存在とは別に、遺恨だけを人類に残したのだ。

 自分を長らく発見してもらえなかった、腹いせのように。


 「そんな事はどうでもいいのよ!」


 街ノ田一筆は、目の前にちょこんと座る天原羽に怒鳴りつける。

 怒っているわけではないが、怒鳴ると表すしかない声の大きさにしかならない。在籍する私立深雪野学園高等部、一年五組の教室には、只今二人きりだ。他の生徒は放課後早々にいなくなり、閑散とした場には、春が終わりかける五月末の生ぬるい風が窓から吹き込んでいる。

「どうでもいいって言うけど、原因は明らか」

「アキラだかヒロシだか知らないけど、能力があるかないかで、私の恋路がどうにかなったとか認めない!」

 バンと手が腫れてしまうくらいの勢いで机を叩く。それくらいしても、憤りは収らない。だが、案外思考はさっさと次へと流れるものでもある。

 能力者と一般人。それを分けているのは、超能力のようなものがあるかどうかというだけだ。

「私がちょっと墨汁を自由自在に操れるからって何なのよ。羽が許された人とだけ思考共有できるのだって、見た目には変わんないでしょ。それで恋心がどうにかなんてならないのよ!」

 またバンと机を叩き熱弁を振るう。しかし羽はそれをさらりとかわし、冷たく言い放つ。

「その恋心というものを判断するのだって、相手がどんな人間であるかっていうもの」

「あーもーごちゃごちゃ回り道みたいな言い方しない!」

「じゃあ、一筆はこっぴどくフラれた」

 それもストレート過ぎだろう。歯に衣を着せすぎないのも、人間関係が風邪をひく。最低限、下着くらいはつけておくべきなのがTPOだ。

「能力が原因じゃないなら、一筆自身に問題があったことになる」

「私のどこに問題なんて病気みたいなもんが存在するっていうのよ!」

「人間性、妄想癖、スタイル……考えられるものはいっぱい……くふふ」

 羽は一瞬明らかに、幼くあどけないかわいらしさを持った顔立ちを捨てて、真っ黒な感情を出した。

「そ、そういうことなら、能力のせいってことにしといてあげるわ……」

 そう言ってしまうと、なぜか負けてしまったように感じる。

 能力のことは認めるしかない。クラウの影響で発現した一筆の能力は、墨汁を操るだけというもの。それ以外のことは出来ないし、もちろん他の何かを操ることなんて尚更だ。便利な超能力というよりは、かなり使い道の限定されたもので、そういう能力を持っている人を、限定能力者と呼ぶ。一方で何の制限も受けない能力者もいるそうだが、そんなものはクラウが当たり前になってしまった世界にあっても、そうそうお目にかかれる存在ではない。普通の生活をしている以上、考える必要のないことなのだ。

 改めてじっくりと目の前で、春の名残香る風に、ひらひらと揺れている幼い容姿の羽を見る。

 羽も限定能力者であり、心よりの承認を受けた相手限定で、その思考を共有できる、少し便利なプライベート通話アプリ程度の力である。普段は誰しもそんな承認を無意識で拒んでいるので、誰の心の声も聞く事はない。

 だが、人と違うもの……クラウが顕在一般化したと言っても、それから生み出された人を越えた力までも、まだ一般化したわけではない。それを持つもの、持たぬものの間では、変わらずに「差」というものがある。それを廃するように、能力者もそうではない者も、一律に混在するという理念で設立されたのが、この私立深雪野学園だった。だが、混在は混沌と同じ意味であり、目に見えないような小競り合いは常に存在している。それを回避するように、能力者だけが学年で二つのクラスに固められていた。学園の設立理念に照らし合わせてどうなのだろうという部分はあるにせよ、余計な摩擦を封じ、誰はばかることなく、ここにいてもいいのだという許可が得られる意味では、十分にこの学園の存在意義は果たしている。それに、細々とした「差」が生み出す摩擦など、能力者か否かなど関係なく、普通に人と人が存在する場所ならばあって然るべきことだ。

 そういうものを越えた、確固たる「差」の根源である、超能力というものがあるのなら、限定能力は微妙な能力……微能力とでも呼ぶのがふさわしい。

「まったく、能力でちょちょいと恋愛くらいなんとかなればいいのに」

「それでいいの?」

 独り言のはずなのに、即座に返答がある。

「ううん……やっぱヤダ……私は能力なんか関係なく愛してもらいたい」

「じゃあ、やっぱり一筆がフラれたのは、一筆自身の魅力の欠乏」

「結局そこに戻るのっ?」

 終わったことはもういい。気にしても変えられるのは未来だけなのだ。時間は一方向にしか流れていかない。もしくは世界中のどこかを探せば、時をさかのぼる能力をクラウから与えられた、それこそ超人も存在するかもしれない。だが、そんな超人はこんなちっぽけな人間の恋愛ごとではなく、世界のために時間をさかのぼっていることだろう。

「それもこれも、どうでもいいのっ!」

 考えをコーヒーフィルターに残ったカスを処理するように、丸めて捨てる。

「じゃあ一筆にとって、どうでもよくないことってあるの?」

 羽は退屈そうに、まるでアテのない空想がそのまま口からこぼれたように言う。それでは会話というものが成り立たないはずだが、羽はいつもこのようなものなので、気にしてはいけない。しかし、一筆以外――他の人に接するときは、態度を一変させる。それは彼女の処世術というか、経験から得た、自分がどうすれば他人から愛される存在として認められるかの実践なのだ。

「私にとって、どうでもよくないこと……それは恋にまっすぐなことよね!」

「まっすぐ過ぎるから、いつも失敗だけど」

「う、うるさい……それでも私は、まっすぐ一筆なの!」

 一筆という名をつけた祖父は、特に書道をたしなんでいたというわけではない。一筆で書ききれるように、まっすぐで誠実で、隠し事ない人間になって欲しいという願いが込められていると、祖父の没後に両親から聞かされた。

 それからは、それに恥じぬようにと、とにかく自分の心にはまっすぐに歩いてきた。

「まっすぐね……けど、机くらいは避けて歩け」

 今度は呆れて言ってくる。けれど、感情がこもっているだけ、まだよしとしなければならない。

「私は私。けど羽のそんな話は聞いたことないなぁ。付き合い長いのに」

「私は何もいらない……一筆さえいれば」

 夕焼けの色がやけにまぶしく目に入る。薄めに開いた視界はぼやけ、羽のまわりにきらきらとブラウン運動にも似た光の粒のきらめきが見えた気がする。

 もちろん、気がするだけで、そんな効果は存在しない。

「ふぐぅ……危うく雰囲気に道を踏み外す所だった……」

 ぜぇぜぇと肩で息を整える。その姿を羽は余裕の顔で見ている。長い付き合い、それこそ小学生時代からの腐れ縁であって、羽のこういう態度には慣れている。そのはずなのに、いざ見つめられると、何百年雨に打たれても文句一つ言わず、同じポーズを保っている石像のように動けなくなるのだった。

「まったく……羽は自分が好きなだけでしょ」

「うん、好き。大好き。だけど、この姫殿下たる天原羽さまくらいになると、そんなことは当たり前」

「羽のお父さんって、市役所勤務だったよね……」

「そう公僕。だから私はこの国の姫殿下ということにも変わりないともいえない、いえる。あがめなさい」

「あーはいはい」

 まともに相手をしていては、このまま夕焼けを過ぎて、夜中に守衛が見つけてくれるまで時が止まったままになってしまう。

 だが、羽の言うことにも一理あるのかもしれない。人と違うという「個性」たる能力を持ってしまった者は、誰に疎まれても自分を保つために、自己愛を高めなければいけない。そうすることが、心の闇を引き寄せない常套手段なのだ。簡単な言葉でいえば、自分に自信を持つということだ。だが、それは能力者であろうとなかろうと、とても難しいことでもある。それが誰でも簡単に出来れば、世の人の半分は悩みを見事に解消するだろう。

「一筆だって、フラれまくっても、そのヘンテコなとこを直さないで、心にまっすぐなのだって、そういう自分が好きだからでしょ」

「……そうかもしれない……そうかもだけど、ヘンテコというのは、私のいったいどこを指して出てきた言葉なのかなっ!」

「あぅあぅあ……」

 ほんの少し腹が立ち、一筆は実力行使に出た。やわらかそうな、赤ちゃん肌と称される羽の頬を両手でぷにりと押す。シフォンケーキかという弾力で指は沈み込み、返す言葉は言葉ではない音になっているので、少しだけ気が晴れる。

「ぷはっ、酷い。姫殿下の肌に触れるとは、厳罰ものだ」

「はいはい、厳罰でも何でもくださいな」

 またおどけて返すと、乗ってくるかと思った。そうして、女子高校生の正しい放課後円舞曲のごとく、どうでもいい話に花を咲かせられれば、それもいいと思った。

「貸しにしておく」

「どこまで肩すかしなのよっ! ここは、ほいほい私の口車に乗るところでしょ!」

「嫌。そんなすぐ壊れそうな車には乗らない。姫殿下に必要なのは、黒いデカいっていう感想しか得られない高級車。もちろん後部座席」

「あーはいはい。もういいもういい」

 羽のほうがよほど妄想癖持ちだと思いながら、一筆は窓の外へ嘆息と視線を投げた。

 そこには、部活途中の生徒たちが群になって通っている最中だった。ここから見る分には、群に所属する人ひとりひとりが、能力者であるかないかなんて、わからなかった。

 宇宙飛行士が宇宙から地球を見ても、国境線なんて見えないと思うことと同じだろうか。

「部活かぁ……」

「部活でもやれば、同じ趣味をしてるってことで、もしかしたら、誰かが万が一に、二百六十万分の一程度に、一筆に興味を持つかもしれない」

「宝くじか私は……そんな確率じゃなくても、この、この魅力に気付く人はすぐそこにっ!」

 がたりと机を鳴らして立ち上がり、次々に毎夜鏡の前で決めるポーズを披露していく。

「見てると疲労するから、いい」

「ちょっと、せっかく放課後女子トークになってきてるんだから、話の腰折らない!」

「気持ち悪い。姫にはそういう趣味ないから」

「いや、姫殿下くらいになれば、そんなのどっちも大丈夫なはずでしょ。それくらいの余裕が姫殿下には必要ってことよ」

「偏見……」

 偏見でも何でも、少し話の調子が出てきたというのに、それをぽきりと折ってしまうのは、人と人のコミュニケーションとしては許されることなのかと、毎度一筆は思う。

「偏見はどっちだっ!」

「……一筆、唐突だけど思い出した」

 唐突にもほどがあった。今の会話の最中、何かを思い出す点があっただろうか、飛躍しすぎである。

 不意に窓から吹き込んだ風に乗って、部活の声が聞こえてくる。耳を澄ませば、それは二人の会話が始まった時からずっとしていた。

 それをただの環境として終わらせるか、目を向けるかで、見えてくるものは変わる。

「そういう高度な話じゃない」

「心を読むなっ!」

「読むわけないし、読めるわけない。それに一筆が考えてることくらいわかる」

「確かに、そうだった……」

 図書室の本に載っているような能力者でもない限り、勝手に思考を読むなんてことは、できない。少なくとも目の前に座る、羽にはその能力はないのだ。羽が読み取れるのは「送る」「伝える」という明確な意志があるものだけである。

「ごめん……」

「そんなことはいい。けど、ちょっと大事なことを思い出した」

「大事なこと……やっと自分が姫殿下じゃないことに気付いたとか?」

「……」

 机の下でごきっと、不穏な音がした。何が起こったかわからず、そろりと机の下へと視線を落とす。羽の上履きを履いた小さなつま先が、見事に弁慶の泣き所にめり込んでいた。

 確認を終えて、ゆっくりと顔を戻し、そして床に転げ回った。

「ちょ、む、無言はないでしょ!」

 ひとしきりゴロゴロと転げ回り、床の掃除をし、深い部分で痛みを発し続ける足を抱えて、羽へと向き直る。

「大事なこと……」

「この惨状を無視して話を続けるあたりの神経は十分に姫殿下だわ……」

 悔しく言うが、それ以上は構わず放置なのが羽の方針だった。

「一筆が言うから思いだした。部活のこと」

「部活って? 何か必殺の出会いが生まれそうな部活でもあるの?」

「ないから安心。そうじゃない」

 また羽は酷いことを、ところてんを押し出すようにつるんと気持ちよく言う。一筆が必死でも片方が必死でないことは、よくあることだが、ここまで明確だと清々しさから一回りして、落ち込み、さらに憎悪に変わる。

「校則を思い出した」

 部活に関する校則などあったかと記憶を探るが、記憶を探る前に能力者の証である、赤いロングジャケットの制服の懐を探るべきだった。

「あれ、生徒手帳ない……バッグの中かな……」

「愚民……部活全入がここの校則のひとつ」

「な……そんな奇妙な校則があったなんて……めんどくさいじゃない」

 部活に入るかどうかなんてことで、何か変わる事があるのだろうか。もし、自立心を育てるという名目であったら、笑える。自立心なんて自分で育てるもので、それに場所などは本来含まれないはずなのだ。本人が自らやるかどうかであって、やらされているという感覚が少しでもあるのなら、高校生になってしまってからでは、何にしても間に合わない。

人はもっと早く、粘度のある心ではなく、固体的であると知るべきなのだ。能力者と一般人、混じり合うよりは個々であると思うほうが幸せなのだ。

「私は、部活をやってる暇があったら、恋に邁進する!」

「邁進して、壁にぶつかって事故死」

「う。い、いつまでも私が壁にぶつかっているばっかと思うなっ!」

 吹き込むぬるい風に負けじと、顔を窓外へ向ける。部活の生徒、赤に暮れていく世界、そして青と赤と紫が混在する空。それらを見ていて、心に浮かぶのは青春の二文字であり、何かを大声で叫びたくなる。

「何か恥ずかしい事叫んだりするな。それこそ恥ずかしい」

「く……どこまで私の……」

 ここまでされては形無しもいいところだが、反撃の余地すらない。実際にちょっとドラマを真似て、恥ずかしいことでも言ってみようと思っていたからだ。

「時間の無駄。そろそろ帰る」

 言って、羽はそそくさと立ち上がる。

「ちょっと待った。さっきの部活どうとかってのは、あれでおしまいなの?」

「おしまい。ただ、部活全入が校則だったと思い出しただけ」

 それだけでは、わざわざ口に出した意味がない。一筆は歩き出す羽の背中を引きとめようと言葉を選ぶが、出てこない。

 歩みと吹き込む風が、羽の緩やかなウェーブのかかった腰までの髪に、所々ちりばめられている小さなリボンを揺らす。

 言葉は出ず、ただ口呼吸をするだけに空いていた口が閉じかける所に、羽は振り向いた。

「ちなみにだけど、部活を決める期限が明日まで」

「え……」

 驚いた顔に満足したように、羽はすたすたと歩き、教室の出口を目指した。明らかに全てを「知っていた」表情をしていた。

「戸締まりよろしく。じゃ」

 扉を出ると、丁寧にこちらに向き直り、そう残して、羽は消えた。

「くうううう、わかったわよ!」

 仕方なく、開いていた窓に施錠し、一足早く、併設されている女子寮へと向かったはずの羽を追った。

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