4 レイ、襲われる*

 びしょ濡れになったブレザーとズボンを、シートの上に広げて乾かす。Tシャツとトランクスという格好で、レイはコンピューター前のシートに座った。

 広くて快適なキャンプ地にいる方を誰もが好む。わけてもこんな雨の日には『ハコフグ』まで来ようとする者などなおさらいない。レイはサングラスも外し、安心して作業に集中した。


 扉が開いたような気もしたが、集中している彼はほとんど気にもとめていなかった。

 いきなり背後からがしっと肩を掴まれて、レイはびっくりしたまま固まった。


「十六なんだって? よく、審査をごまかせたな? おい」


 濁った声が耳元でして息が触れた。ぞぞっと鳥肌が立った。

 シートから持ち上げられるようにして、引っぱり出される。


「カ、カルッソさん、何でしょう?」


 声が震えた。カルッソの顔が怖い。

 にたりと笑った大きな口が不気味だった。意外にまつげが長い。垂れ加減の目がいやな感じにぎらぎらとしてレイを見てくる。

 上背は同じぐらいだが横幅ががっしりして、腕を掴んだ手の力は怖いぐらいに強かった。


「あのクルーと、毎晩どんなことやってるんだ? え? 俺とも楽しもうぜ」

「な、何を言って……!」


 いきなり男の口で、口を塞がれた。舌で舐めまわしてくるのが、気持ち悪い。

 びっくりして動けないでいたレイだったが、あまりに嫌だったので思いっきり突き飛ばす。

 逃げようとドアへ駆け寄ったら、左足をつかまれて床に倒された。そのまま足首を持ち上げられて、男のほうへ引き寄せられる。


 ――怖い!


 叫びが喉のなかで引っ掛かって、ひっという音にしかならない。

 怖いと声も出なくなるんだと、知った。

 恐怖で、身体が動かない。


 過去にもこんな怖いことがあった!

 いきなり思い出す。

 ずっと小さいときだ。どうして忘れてたんだろう?

 あの時も、突然知らない人に連れていかれ、とても怖い思いをした。

 その時の恐怖が突然よみがえり、彼の全身を拘束した。


 ――いや! 助けて!


 逃げたいのに、抵抗したいのに、身体が自分のものではないみたいに強張って動かなくなってしまった。

 体温が下がる。意識が白い膜に覆われているかのように遠く感じた。


 ――怖い! 怖い!


 レイの中には恐怖しかなかった。恐怖がレイを鷲掴み、支配する。

 吐き気がこみ上げてくる。身体が小刻みに震えて止まらない。

 男の手がトランクスに掛かって、一気に脱がされた。

 手が大腿に伸びてきた。ざらりと撫でられ、悪寒に総毛立つ。

 男の太い身体が、割った脚の間に捻じ込むように入る。

 口を薄笑いに歪ませている男の顔が醜かった。


 ――怖い! 怖い!


 涙があふれる。脚を折り曲げられて、男の手が……。


 ――助けて! フィル! フィル!


 その声にならない声が聞こえたみたいだった。

 ドアがバンッ! と開いて、涙に濡れた視線の先にフィルの姿があった。


 フィルはすごく怖い表情で、男をいきなり殴りつけた。

 がっしりした男の身体がふっとんで、派手な音を立ててシートにぶつかった。


 ――フィルって、こんなに強かったんだ。


 倒れたままの男を、さらにもう一発殴りつけた。男はシートの向こうへと転がった。

 男が頬と顎をどす黒く腫らし、おどおどした表情で床に這った。その前にフィルが仁王立ちした。握った拳がぶるぶると震えているのが見えた。


「で、出来心で。船長やみんなには言わないでくれ!」


 カルッソが情けない声を出した。


「もう二度とこんなことをしないと誓うなら、公にはしません。船長には伝えますが、他のみんなには知らせないようにします。それで、いいですね」


 カルッソは何度も頭を下げて、飛び出すようにして出て行った。


 茫然と見ているレイのところへ、フィルがやってきて手を差し伸べてくれた。レイはその手に起こしてもらって、やっと立ち上がった。

 身体が、がくがく震えて止まらなかった。

 まだ、レイの中では恐怖が止まっていなかった。


 フィルにそのまましがみ付いた。彼はいたわるように優しく手をレイの背中に回してくれた。彼の制服は雨でぐっしょりと濡れていた。傘もささずに駆けつけてくれたんだと、解った。


「ありがとう」


 と、言うつもりだった。それなのに、


「濡れているよ」


 なんて、言っていた。

 フィルの胸が動いて苦笑したのがわかった。レイを引き剥がそうとしたので、彼はもっと抱きすがっていった。


 ――まだ、怖いんだ。もう少し、こうしてて。


 フィルにも、まだレイが震えているのが解ったのだろう。


「わかったよ。待って。服を脱いじゃうから。ああ、Tシャツもびしょびしょになっちゃったね」


 彼はレイのTシャツを脱がして、自分もぐっしょりと濡れている制服の上着とTシャツを脱いで。

 フィルが笑いながら両手を拡げてくれたので、レイも泣き笑いしながら彼の胸に飛び込んだ。


 ***


 抱きしめたレイの身体は、驚くほどに震えていた。歯の根が合わないという状態だった。制服のズボンも絞ったらバケツ一杯になりそうなほどに濡れていたが、それもかまわず抱きすがってくる。

 よほど怖かったらしい。少しでもその恐怖を取り除いてやれたらと、黙って抱きしめてやる。

 レイの身体は異常なくらい強張っていた。体温も低い。ショック状態を起こしているらしい。

 しばらくそのままでいてやるうちに、身体の強張りが解けてきた気がした。震えも少しずつ収まってくる。裸の胸を通してレイの身体に温もりが戻ってきたのを感じる。

 そろそろ大丈夫だろうと思って、抱いている腕でレイの身体を引きはがそうとした。


「嫌だ。離れないで!」


 レイが強く抱きすがってきた。胸に押し付けられたレイの心臓が、まだとくとくと早鐘のように脈を打っている。


「まだ、怖いんだ。もう少し、こうしてて」

「大丈夫か?」


 怖い思いにも程度がある。少し異常な気がした。フィルはレイの顔を覗き込む。レイが背の高いフィルを見上げて来た。紫の瞳が濡れて必死な感じで見つめてくる。親からはぐれた子猫みたいだった。


 ――可愛い。


 いきなり思った。やばい感情が胸の奥から湧き上がってくる感触に、慌ててレイの身体を引きはがそうとした。すると、必死な感じで離れまいと抱きすがってくる。何をそんなに怖がっているのだろう。


「レイ……」


 シャワーを浴びて、乾いた服に着替えよう、と続けるつもりだった。が、レイの唇がフィルの唇に押し付けられて言葉を塞がれた。まだ幼いぶつけてくるようなキスだった。フィルはレイの身体を抱きしめると、さらに熱くキスをした。


 ***


 キスのあと、レイはいきなり落ち着いてしまった。がたがた震えていたことなどウソみたいに、いつもと変わりない様子に戻っていた。その唐突過ぎる変化には、フィルも戸惑った。

 ぐっしょり濡れてしまった自分のTシャツを両手にぶら下げて眺め、


「とても袖を通す気になれない。フィル、シャワー浴びて着替えようよ。フィルも取り替えたほうがいいよ」


 と言うや、トランクスを拾いブレザーやズボンも抱えたまま、素っ裸でシャワー室に駆けて行った。こっちが言うセリフだぞと胸の中で呟きながら、フィルは脱ぎ捨ててあった制服の上着とTシャツを拾い上げる。

 乾いた服にそれぞれ着替えてさっぱりすると、フィルはレイを心配して訊いた。


「キャンプ基地に戻ろうか。会議室にあるPCでも、間に合わせられるだろう?」

「僕はここで作業するよ。その為に『ハコフグ』に来てるんだよ」

「え? でも……大丈夫なのか?」


 案じてレイの顔を見るフィルに、レイはきょとんとした表情を返す。


「大丈夫に決まってるじゃない。何を心配しているの? 変だよ、フィル」


 ――変なのは、お前のほうだと思うぞ?


 だが、まるで何もなかったかのような顔をしているレイに、わざわざ怖い思いを思い出させる必要はないだろうとフィルは思った。


「俺はキャンプに戻るけど、一人で大丈夫なんだな?」

「うん」


 こくんと頷いてフィルの上着の裾をぎゅっと握ってきた。まっすぐ見上げて来たレイの瞳は熱っぽく潤んで、頬が赤い。思いがけず色っぽいと思ってしまった。フィルの胸に熱い感情がふわっと溢れた。


 ――愛しい。


 可愛いというより、愛しかった。

 その額に音を立ててキスしてやって、フィルは『ハコフグ』を後にした。


 ***


 キャンプ地に戻ったフィルは、船長の専用室に行って、今回のカルッソの行動を告げた。船長は、心底困った表情をした。


「未遂に終わって良かったよ。よく、気がついてくれた。でないと私の首が飛んでいた」

「どういうことです?」

「これからも、レイ君の身辺に気をつけていてくれ。こんな事が二度とあってはならんし、それに、少しでも怪我をさせてさえもまずい。まったく、やっかいなお客が紛れ込んでくれたもんだ」

「レイって、何者なんですか?」


 すると、船長がじっとフィルを見詰めてきた。


「気がつかんかね? あの赤い髪と紫の眼。フォンベルトという偽名」

「やっぱり、偽名なんですか」

「あの伝説のバリヌール人の正式な名前は、ライル・フォンベルト・リザヌールなんだよ」

「……! ま、さ、か、ははは…は………」


 フィルは腰が抜けるかと思った。


「あの赤い髪は、銀河の尊父オーエン全権執政官譲りだろうし、あの紫の眼はバリヌール人以外にいない」

「……と、いうことは……その父親って……」


 声が掠れた。


「現銀河連盟執政官のアルフレッド・ハーレイ・ブルーだよ」

「ひえっ!」

「いいか、お前の役目は、何がなんでも、あのレイを守り抜くことだ! 全ての仕事を放り出してもかまわん。あの子を、とにかく無傷で、執政官に返すことだ!」


 フィルはよろよろと船長のキャビンを後にした。


 ――無傷でって……、キスしちゃったぞ? 抱き締めちゃったぞ?


 あんなに可愛い顔で見つめてくるものだから。

 あんなにきれいな真っ直ぐな目で、訴えてくるものだから。

 あんなに震えて、すがりついてくるものだから。

 なんて言い訳、通らないだろうな……。


 執政官は通算8年間その席にいる。13年前の12月に前全権執政官が辞任したあとの翌年1月1日に着任。その3年目の途中に任期を2年残して突然辞職した。後任として選ばれたクルンクリスト人の任期終了後に再度返り咲いて着任。5年間の任期完了後に再選され、現在継続して執政官を任じている。

 父親譲りの――非公式ということになってるが、誰でも知っている――緑灰色の眼は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭くて、睨まれただけで心臓が止まるとまで言われている。どんな政敵も勝てないそうだ。


 ――俺の人生、終わったかも……。


 暗ーく沈んでいたら、作業を終えてきたレイが、それこそ晴れ晴れとした顔で嬉しそうに飛びついてきた。

 おかげで、フィルの心臓は十万光年も跳ね飛んだ。

 船長、いないよな? っと思わず周りを見回してしまう。


「ね、僕の部屋に来て」


 そんな期待するような眼で見ないでくれ。今、大後悔のまっ最中なんだから。返事をしないでいたら、レイの眼が拗ねたように睨んできた。


 ――うう……可愛いじゃないか。


 ひょっとしたら、自分はもうレイにべた惚れなんだろうか? 

 まずい、すごくまずい。

 フィルは人知れず背中にたらりと脂汗を流していた。

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