第1話 悪魔と元勇者
光も届かないひとつの地下牢に一人の女性が鎖で繋がれていた。
白銀の長い髪に雪のように真白い肌、両の目は明るい緑をたたえているが、瞳に力はない。ボロ布のような服をまとい、埃を多少被ってはいるものの、その女性の美しさはなんら損なわれてはいない。
女性が少し身じろぎをして鎖がジャラリと音を立てる。すると、先ほどまで女性以外何者も存在しなかったその空間にひとつの影が突如として現れた。
驚き、そして不思議に思った女性はその影に尋ねる。
「何…?というか、誰…?」
影は不満そうに声を返す。
「ふむ、喚んでおいてそれはどうかと思うぞ人間」
女性は懐疑的な目でその影を見つめる。
「喚んだ?私が?」
「ああそうだとも。悪魔を召喚したのだろう?なら我がそうだ。契約に基づきこうして貴様の前に現れたというわけだ」
影、もとい悪魔はそう答えた。
「ちょっと待って、私喚んでないんだけど…」
女性には身に覚えのないことだった。なにより女性には悪魔を喚ぶ理由が欠片もなかったのだ。
悪魔は眉をひそめる。
「なに?ならなぜ我はここにいるのだ?まったくもってわけがわからんのだが…?本当に喚んでおらんのか?」
「え、ええ…私は喚んでないわ」
「うぅむ、そうなのか…だが確かに契約は結ばれておるぞ…?」
「え、本当に?悪魔との契約って確か『願いを叶える代わりに魂をいただく〜』っていう契約よね?」
悪魔は鷹揚に頷き、補足する。
「まあそうだな。あと魂を貰うと言ってもその者の寿命が来るか、本人の了承が得られればその時に貰うのだがな。我ならある程度のことはできるし、これも縁というものであろう。願いを言うがいい人間」
女性は少し考えさせて欲しいと言って、思案する。
(悪魔を喚んだ覚えはない…けど彼の言う通りかもしれない。これも縁かもしれないわ)
「そうね…じゃあ、私としばらくお話しするってのはどう?」
女性は気の遠くなるほどの長い間この地下牢に繋がれていたため、話し相手に飢えていたのだ。女性の目には力が戻り、期待するような色が見て取れた。
「なに?そんなことで良いのか?我であればこの牢獄からお前を出し、外の世界で大富豪にすることも容易いぞ?」
「あら、簡単なことでしょう?それに簡単な方があなたとしても楽だと思うのだけど?」
女性は口元に笑みを浮かべながらそう言いました。
「いやな、今まで悪魔に願いを言ったものは欲深で身の丈に合わぬことを願い、身を滅ぼすのみであったゆえな。驚いただけだ。その願い、叶えようではないか」
そう言うと悪魔は女性を牢獄に繋いでいた鎖を軽く引きちぎった。女性は少し驚いたが、文句など言うはずもなかった。
この悪魔は人の血を飲み肉を喰らい、それを愉悦に感じるような者であったが女性をどうこうしようという気は起きず、それどころかこれまでに感じたことのない親近感を抱き、そのことに少し、不思議さを感じていた。
(よもや我が人間相手にこのような感情を抱くとは…やはり我が喚ばれたのは縁のようなものやもしれんな)
「ありがとうね。嬉しいわ。人と話すのはかれこれ何年ぶりかしら?そもそも人を見かけるのすら久しぶりね…!」
女性は悪魔と話せるのが心底嬉しいかのように笑顔を浮かべていた。事実嬉しいのだろう。その笑顔は心の底から浮かべられたもので、悪魔も気分が良くなっていた。
「人ではなく悪魔なのだがな…まあ良い。それで人間、お前は何者だ?ただの人間には見えん、ずっと気になっておったのだ」
女性は何でもないかのようにさらりと答える。
「私?私はね、元勇者よ!名前はリオ、三道リオ!忘れないように!」
その女性─リオは笑顔でそう言った。
普通なら見とれてしまうようなその笑顔を前にして、悪魔はそれどころではなかった。リオという名の勇者に心当たりがあったのだ。
(勇者で、リオだと…?まさか!?そんなはずは…彼の者は既に元の世界に戻ったはずではないか!)
「リオよ…貴様、本当に元勇者でリオという名なのか…?」
「ええそうよ?第一嘘をつく理由がないじゃない。悪魔は契約者の嘘を見抜くらしいじゃない?だったらそんなことしても無意味じゃない」
カラカラとリオは「おかしなことを言うのね」と笑っている。
悪魔はリオの言う通りだと思い、自分の考えが正しいことを確信した。
(確かにこの者は嘘をついておらぬ…ということは、やはり、そうなのか…)
永き時を生きる悪魔をして顔に貼り付いた驚きの表情を消すことができないほどに悪魔は驚いていた。
「貴様、すごいな…。3万年前の勇者なのか…。我と同じくらい生きておるぞ。…しかし神代の勇者となると、大戦終結後に自らの世界へと帰還したのではなかったのか?」
次はリオの驚く番だった。
「へーい、ちょっと待ちなさい?ねえ悪魔くん?今君3万年前って言った?ん?本当に?本当にあれから3万年以上経ってるの!?」
口調が変わるほど驚いてた。がしかし、時間感覚もわからなくなるほどの長い間牢獄で繋がれていたわけなのだから、無理もないだろう。
「ああ、そのはずだ。我が存在を確立したのもそれぐらいだったのでな、およそではあるが覚えているとも。それよりなぜ異界に帰ったはずの勇者がこのようなところにいるのだ…?」
「えぇ…ほんとに3万年?そんなに経ってたんだ…ん?ああ、そのこと?それは簡単よ。私が勇者で、世界を救った英雄だったから。それだけよ」
悪魔が詳しく聞いたところ、リオを召喚した国の王が、世界が救われるだろうことを確信したときから自分を暗殺する計画を企てていたらしい、ということだった。
「なるほど。なれば十中八九、貴様の存在が邪魔だったのだろうな」
「ええそうでしょうね、思い出しただけで殺したくなるわ…あ、もう死んでるか」
「それほどまでに恨んでいたのならこの程度の牢獄なぞ打ち壊し、その手で憎き王の心臓を握り潰せば良かったのではないか?」
悪魔の疑問は当然のもので、当時の魔王を打ち倒すほどの実力を持つのだから、この程度の牢獄では拘束らしい拘束もできないはずだと考えたのだ。
リオはそのわけを説明する。
「できなかったのよ。あいつは私のことを五度殺そうとしてきたわ。まあこの身体を見ればわかるように私は無事、無傷だった。もういい加減鬱陶しかったし、一度お城を訪ねたの」
するとあいつはなんて言ったと思う…?
リオの目はナイフのように鋭く、冷たくなっていた。さきほどまでの朗らかな雰囲気が消えたことで、相当のことを言ったのだろうと悪魔は察した。
「あいつはね、自分の娘であるお姫様を人質に私を脅したのよ。だから手出しできなかったの」
当時、自分の胸が平らなことで男と間違われることの多かったリオは事情を知る友人として姫と親しくしていたのだが、王は自分の娘が勇者リオと仲が良いのを利用し、人質としてリオを脅したのだ。
「当時の王はそれほどまでに欲深であったか…」
「まあね。あとは知ってのとおり、この牢獄に繋がれて3万年ってとこよ。知ってる?この手錠って対象の内部と外部の魔力の流れを遮断するのよ。だから魔法は使えなかった。おかげで何もできなかったわ」
「ふむ、なるほどな。そういうことなら納得だ」
それからしばらく、リオと悪魔は多くのことを話し合った。リオの勇者時代の仲間のこと。悪魔が今まで出会った人間たちのこと。今の世界のこと。リオの故郷のこと。
リオは久しぶりの会話を楽しんだ。悪魔としても彼女と話すことはそれほど気分の悪いものではなく、むしろ心地よさすら感じていた。
そして……。
「ん、そろそろいいわ。私もそろそろ安らかに眠りたいし。鎖で繋がれた状態じゃあ気分よく眠るなんてできなかったもの。楽にしてくれる?」
リオは十分に楽しんだのか、契約の履行を悪魔に促した。
「そうか…でも良いのか?まだ時間は十分にあるだろう?」
「ええ、3万年も生きたんだもの。もう休まないとね…ああそうだ、悪魔さん?」
いいことを思いついた!と言わんばかりにリオは悪魔にあるひとつの提案をした。
「なんだ?」
「私の魂を受け取った後はこの身体、あげるわ。受肉?だっけ、それをすれば契約が終わった後でもこの世界で活動できるのよね?」
悪魔はリオの言う受肉というものを知らなかった。悪魔は今まで生きてきた中でそのようなことを聞いたことはなかったのだ。
「受肉?そんなことができるのか?」
「えっ?知らないの?メジャーな情報だと思ってたけど、そうでもないのね」
リオはカラカラと心底愉快そうに笑う。悪魔はばつが悪く、誤魔化すように口を早く動かす。
「知らぬな。だが、そのようなことができるのならやってみるのも良いだろう。今回は人を喰らうことはできなんだ。悪魔もそうそう喚ばれることもなくなってしまった。この世に混沌を撒くのも悪くはない」
悪魔はリオとの別れの寂しさを紛らわせるかのようにそう言った。
「ちょっと、ほどほどにしてよ?」
リオも悪魔の趣味やなにやらを聞いているので特に強く言うことはなかった。それにリオはそれほどこの世界を大切だとは思っていないのだ。友人だった姫や、仲間達、彼らのいないこの世界なら壊れてしまってもいいかも知れない。そう思っている節が、彼女にはあった。
「ああ、ほどほどにな、ほどほどに」
悪魔は笑ってそう言った。リオも笑顔で応じる。まるでこれで別れではないかのように、ふたりは温かな気持ちに包まれていた。
「では魂をいただくと同時に受肉とやらを試してみるとしよう」
「ええ、うまくいくといいわね。…私、初めは否定してたけど、あなたのこと喚んだんだと、今では思うの。こうやってたくさん話して、安らかに逝けるんだもの。きっと私の心がそう望んだのね」
ありがとう、嬉しかったわ────
彼女はそう残してパタリと動かなくなった。
悪魔の手には白く強い輝き。悪魔はそれを己の内側に取り込み、そして、今まで感じていた親近感のようなものがなぜ湧いてきたのかの理由を知ることになり、同時に納得もした。
(クハハハ!なるほど!!そうかそういうことだったのか!どうりで貴様に親近感など沸くわけだ。貴様は向こうの世界の我だったということなのだな!)
悪魔は知っている。世界というのは万華鏡のようなものだと。いくつもの鏡が合わさっているかのように、世界というのは途方もない数あるのだと。
そしてリオに伝えたように悪魔は受肉を試みて、成功した。
髪の毛と肌の色はそのままに、瞳の色が緑色から血のような赤色へと移り変わっていった。
これは幽霊のする憑依のような陳腐なものでも、降霊術氏のする降霊術のような無理やりなものでもない。まるで、この身が悪魔のものであったのだと言うようにすんなりと魂と肉体が重なったのだ。
悪魔は思う。
(これは我とリオが同一存在であるがゆえになし得た奇跡のようなものなのだろう)と。
そして悪魔は己の身体となった肉体の調子を確かめる。3万年以上経過してるとは思えないほどのスペックを持つリオの肉体。彼女の記憶を探ると、彼女の今までの恨みや無念、そういったものが津波のように溢れてきた。それを受けた悪魔は一人、己の心情を誰もいない空間に吐露する。
「これは我の勝手な気持ちだ」
事実、これはリオの気持ちというよりは自分のものであった。
「我は我が友人であり我であるリオをこのような場所へと閉じ込めた者が憎い」
正にこの時、悪魔は自分にとってはただの玩具であったはずの人間を初めて憎んだ。
叶うならば自らの手でその首をカッ捌き、溢れ出る血液でその身を染めたいとさえ思った。
「だが彼の者は既にこの世にはおらぬ」
しかし、いるではないか。彼女がこのような運命を辿ることになった元凶どもは!
「ゆえに!嗚呼、それゆえに!我は復讐を成そう」
悪魔は謳う。彼女を、自分を己等の事情で振り回した人類への復讐を謳う。
悪魔はこの時ほど自分が人を殺すことに意味を見出したことはなかった。
そう、これからの殺しは意味を持つようになった。意味を持って、その上で愉悦に耽溺しよう。
「待っていろ人間共…!名を持たぬ我であったが、これより我が名をサンドリヨンとしよう。一人一人、その血でこの身を紅に染めてやろうではないか──」
自分のため、復讐を決意した悪魔は己の名前を三道リオから取り、サンドリヨンとした。
自分の新しい身体を見て、サンドリヨンは少し不満そうに眉間にシワを寄せた。
「……しかし、このような格好では物乞いのようにしか見えぬな。うーむ、なかなかどうして、素晴らしい器を寄越してくれたものだ。少し記憶を探らせてもらおう」
サンドリヨンはリオの記憶を探り、衣類などを確認し、気に入ったものを魔法で編んでいく。
できあがったのは、黒のロングコート、白のシャツ、黒のスカート、そして黒のロングブーツ。これでもかと言うくらいに黒だった。ちなみにスカートを選んだのはリオの記憶を探ったときに彼女のはいていたものがスカートだったからだ。
そしてそれらを着込み、満足したサンドリヨンは牢獄のある地下から意気揚々と地上へと向かうのだった…。
地獄の底からさようなら 市伍 鳥助 @kazuki0405
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