零章 始まり


 暖かく、柔らかな風が頬を擽るように撫でる。まるで覚醒を促されるような感触に、僕はゆっくりと目を開けた。


「……ここ、は?」


 視界にあるのは、青々とした草と芳しい土。どこだろう、ここは。両腕を地面に付き、突っぱねるようにして上体を起こす。強張っているような感覚が多少残っているが、身体のどこにも痛みは無かった。

 地面に座り込んだまま、しばらく辺りを見つめる。傍らで揺れる色とりどりの花に、それらを美しく照らす暖かな陽光。降り注ぐような蒼空を眺めていると、思考が徐々に鮮明になっていく。

 なんて美しい。こんなに綺麗な景色は初めて――否、久し振りに見た。


「……ここは、もしかして」


 そうだ、僕は知っている。ゆっくりと立ち上がると、自分の姿が一変していることに気がついた。

 服装も、靴も。風に遊ばれる髪に、瞳――鏡が無いので確認は出来ないが、恐らく間違いない――の色も全てが。

 血に染まった吸血鬼ではなく、神に愛された人間だった頃のものになっている。


「なぜ……一体、何が」


 握り締めた手に、じわりと滲む温度。ずっと昔に失ったものだった筈なのに。そう、この身体も。この目で見える景色も、かつて自分が失った全てであった。

 思い出した。ここは、僕が生まれ育った故郷だ。堅いコンクリートではなく、野原の懐かしい感触を楽しむ。小高い丘にはあるのは、石造りの我が家。その向こうには、日だまりでのんびりしている可愛い羊達。

 そうだそうだ。ここは、自分の故郷だ。懐かしい! 花の蜜の香りを運ぶ風に、辺り一面に広がる緑。小鳥が歌い、真っ白な雲が流れている。

 人間が文明を発展させる前の世界は、こんなにも美しかったのだ。


「あはは! 懐かしいなぁ……そうそう、ここは春になると一面が白い花畑になるんですよね。あそこは夏になると日陰がないから暑くて……おや、あれは」


 景色の一つ一つを思い出しながら、歩みを進める。すると、視界の端に一際大きな果樹が入り込んだ。


「あの木は……確か」


 そうだ、よく覚えている。僕は足早に、その木の元へ向かう。僕の両親は、その木の実を口にしたことにより神の怒りを買った。そして、その実の種と共に楽園からこの地上へと追放されたのだ。

 種は地上の土で芽吹き、いつしか見上げる程に大きく育った。懐かしい、この木は確か。ぼんやりと埋もれた記憶を思い出していた僕は、血ではなく空と同じ色の瞳で、信じられないものを見つけてしまった。


「……え」


 思わず、足を止めて。僕は、大木の根元に座り込んだ『彼』の姿に、思わず息を止めた。彼もまた、一番古い記憶と同じ格好をしていた。

 木漏れ日の下で、気持ちが良さそうに目を閉じて。軽く開かれた唇に、肩が規則的に上下している。

 見間違える筈が無かった。


「……カイ、ン?」

「…………う、んぅ」


 思わず漏れた声に、カインが擽ったそうに小さく身を捩る。そして、ゆっくりと目蓋を上げて僕の方を見る。

 虚ろな……というよりは、寝ぼけ眼のまま。そういえばこの人、寝起きが悪いのだった。端正な顔が、不機嫌そうに顰められたことに無意識に後ずさる。だが、しばらく様子を窺っていると意識がはっきりしてきたようで。


「……嗚呼、待っていたぞ……アベル」

「ま、待っていた? ……僕、を?」

「ん、そう……うー……今日は暖かくて気持ちが良い。つい、眠ってしまった」


 ふわふわと、欠伸を漏らしながらカインが言った。僕を、待っていた? 凡そ彼らしくない台詞に、心臓がどくどくと鼓動する。

 だが、どうやら緊張しているのは僕だけのよう。カインはのっそりと立ち上がり、服の埃を軽く叩いて払う。細身の身体は、僕よりもほんの少しだけ背が高い。そして、美しい顔面にふにゃりとした覇気のない笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。

 ……そういえば、こんな風に笑う人だったな。物静かで、口数は少ないが。その代わりに、カインは非常に表情豊かな男だった。

 嫌悪、殺意。そんな冷たい感情を一欠片も持たないままに、目の前に立ったカイン。ふと、彼の右手が何かを背に隠すように持っていることに気がついた。

 というより、それで隠しているつもりなのだろうか。


「ふふっ……ほら、見てみろ。今年の初物だ」

「ええっと……これは、リンゴ……です、よね?」

「そうだ。やっと赤くなったんだ、毎日念を送っていただけあるな。ふふっ」


 掌に収まるくらいの大きさの、真っ赤に染まったリンゴ。たった一つだけの、何の変哲も無い果実を、カインはまるで宝石のように両手で大事に持っている。

 嗚呼、思い出した。


「カインは、本当にリンゴが好きですね」

「うん、私はこの時期の為に生きているようなものだからな」

「そこまで言いますか」

「なあ、アベル……」


 おもむろに、リンゴを片手で持ち直して。右手をこちらに差し出して、カインが言った。


「お前のナイフを、貸してくれないか?」

「…………!?」


 その言葉に、一瞬で全身が凍り付く。どうして、まさか! 記憶の古傷がじくじくと疼く。早く逃げなければ!!

 だが、記憶がそう叫ぶ反面で。不思議なことに、心は全く違う思いにしがみつこうとしている。


「……あの、カイン。貴方、自分のナイフはどうしたんですか?」


 彼だって農夫なのだ、自分のナイフを持っている筈。だが、カインは柔らかな笑顔を気まずそうな表情に変えて、困り果てたようにごにょごにょと唇を動かす。


「それが……朝、家を出て……畑に行った時までは、あったんだが」

「つまり、また失くしたんですね」

「うう……これでも、一生懸命探したんだが……」


 やれやれ、と肩を落とす。この兄はどうにも暢気で、抜けている性格のせいか。とにかく、ものをよく失くすのだ。否、それだけではない。

 ぼーっとしている為に道にもよく迷うし、放っておいたらいつまでも寝ているし、せっかく綺麗な容姿を持っているくせに僕に言われるまで髪を梳かすことすらしない。


「はあ……全く、もう少しでも良いのでしっかりしてくださいよ。カイン、この先貴方は一人で生きていくのに、いつまでもそんな風では駄目ですよ」

「……一人? 何故、お前が居るのに……どうして私が一人になるんだ?」

「えっ。いや、それは……」


 思わず口を突いて出た言葉に、カインが不思議そうに首を傾げる。しまった。僕は慌てて何でもないと取り繕うと、腰元に引っ掛けていたナイフを手に取った。

 まだ、血に染まっていない刃が、木漏れ日を浴びてきらきらと輝いている。簡素な作りだが、手入れは欠かしていない。


「……はい、どうぞ」


 柄の方をカインに向けて、僕はナイフを差し出す。指が、恐怖で小さく震えている。だが、カインは気がついていないらしく礼を言いながらナイフを受け取った。

 すると、兄は刃を僕に向けることはせず。大好きなリンゴの身にナイフを当てて、そのまま真ん中から綺麗に二等分にして見せる。そして、濡れた刃をシャツの袖で軽く拭ってから、再びナイフを僕の手に返した。

 半分にしたリンゴの実と共に。


「ありがとうアベル。ほら、これはお前の分だ」

「え……」


 ポンと手渡されたそれに、言葉が詰まる。何故? 自分が育てたリンゴを齧りながら、嬉しそうに笑うカインを見つめる。


「うん、今年は去年よりもずっと良い出来だ。……ん? どうした、アベル。食べないのか?」

「……何故、ですか?」

「何故?」

「どうして……僕にリンゴをくれるんですか?」


 返して貰ったナイフをしまうことも出来ずに、僕はカインに問い掛けた。リンゴはカインの大好物だ。時期が来れば、それこそ三食リンゴばかり食べているくらいに好きなのだ。

 それなのに、どうしてわざわざ自分の分を減らしてまで、僕に分け与えるのか。


「……何だ、足りないのか? 悪いな、赤くなった実はまだこれ一つなんだ。他の実はまだ青くて、食べられる状態じゃない」

「そういう意味ではなくて。……いや、それなら尚更です。カイン……どうして、僕にも分けてくれるんですか?」


 恐らく、僕を待っていたというのはナイフを借りる為だろう。でも、カインはどうして僕なんかを待っていたのだろう。居眠りしていたところを見ると、それなりに長い間ここに居たに違いない。

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