「うぅ、いっ……たぁ」


 転んでしまったのだろうか、堅いコンクリートに強かに打ち付けられた全身が悲鳴を上げるように痛む。痛みのせいだろうか、頭が妙に熱っぽい。

 ここは、一体どこだろう。オレは、今まで何をしていたんだろう?


「チッ……バカな吸血鬼だ。わざわざ出て来て撃たれるなんてな」


 思い出そうとするも、野犬のように凶暴な声にびくりと肩が跳ねた。大柄の男が、ショットガンのハンドグリップをスライドさせている。そうだ、オレは撃たれた筈だ。靄がかった思考の中に、何度も木霊する爆音がちゃんと記憶されている。

 だが、身体には床へ倒れた際の痛みしかない。男との距離は精々十メートル程しか離れていないが、この距離でショットガンの弾丸からどうやって逃れたのだろうか。


 そして……目の前の男は今、何て言った?


「……ジェ、ズ? ジェズ!」


 反射的に立ち上がって、ジェズアルドの元に駆け寄って膝を付いた。これは一体、どういうことだろう。床をじわじわと濡らしていく深紅に、空気を侵す鉄錆の臭い。どうして、ジェズアルドがこんなところで倒れているのか。なぜ、彼はそのままぴくりとも動かないのか。

 そういえば……銃声が轟いた瞬間、誰かに突き飛ばされたような……そうだ、あんなにを持つ者は一人しか居ないじゃないか!?


「クソッ、今度こそ――ぐあぁあ!?」

「うるさい。死ね、三流」


 男が再びショットガンを構えるも、引き金が絞られることは二度となかった。目の前で、男の頭部が水風船のように弾け飛んだ。頭を失くした身体は、糸の切れた人形のようにそのままぐらりと崩れ落ちる。

 拳銃でありながら、人間の頭を跡形もなく吹き飛ばす威力。そんな化け物じみた自動式拳銃を手に、ルシアが視界に姿を現した。兄は自分の姿に安堵の表情を浮かべるも、すぐに紅い双眸を困惑に揺らす。


「リヴェ、無事か!? 良かった……まさか、撃たれたのか?」

「ルシア……お願い、助けて! このままじゃ、ジェズが死んじゃう!!」


 自分の口から出た言葉が、どうしようもなく恐ろしかった。どれだけ名前を呼ぼうとも、上体を抱き起こそうとも、ジェズアルドは目蓋を上げなかった。

 瞬く間に、両腕がジェズアルドの血で染まっていく。


「落ち着け、純血の吸血鬼がそんな簡単に死ぬわけが……何だ、この出血量……おかしい。吸血鬼のくせに、血が止まらないなんて」


 銃をコートの内側にしまい、ルシアもジェズアルドの傍らに膝を付く。そして、夥しい量の出血に驚愕の表情を浮かべた。

 そう、ジェズアルドは夥しい量の血を流しているのだ。吸血鬼の身体は本来、その永遠性に従い傷はすぐに修復される。よって、人間や人外では致命傷になり得る傷を負ったとしても、吸血鬼ならばすぐに塞がる筈。

 それに、ジェズアルドは真祖カインと同等の力を持つ純血の吸血鬼だ。それなのに、どうして血が止まらない?


「……そうか、これのせいか。リヴェ、見てみろ」


 ルシアがジェズアルドの身体を探り、おもむろに小さな石のようなものを掌に乗せて見せる。血に濡れてはいるが、それは鈍い銀色に輝く塊のようだ。


「これは、散弾だ。あそこに転がっているショットガン、こいつはあの銃に撃たれたんだろう?」

「散弾?」

「通常の弾丸とは異なり、こういう細かい塊を同時に複数発射出来る銃弾だ。そして、この塊はご丁寧なことに純銀で出来ている。吸血鬼は銀で付けられた傷だけは、すぐに修復させることは出来ない。傷口の様子を見ると、散弾に入っていた銀は少なくとも十発以上。そのほとんどが、まだこいつの身体の中に残っている」


 ルシアが言うには、どれだけ小さな塊であろうとも体内に銀が残っている以上はジェズアルドの傷は塞がらない。傷が塞がらなければ、出血も止まらない。

 いくら吸血鬼であろうとも、このまま出血が続けばジェズアルドは死ぬ。


「じゃ、じゃあ……早く銀を取り出さないと」

「…………」

「ルシア?」

「……銀はそんなに大きくない。臓器や主要な血管に埋まった可能性もある。全ての銀を取り出す為には、一時的にでも傷口を更に広げる必要がある。だが、既にこの出血量……今のこいつでは、恐らく耐えられない」

「そんな……」


 何も考えられないし、言葉さえ出せなかった。ジェズアルドが死ぬ? そんなの、嫌に決まっている。だが、どうすれば彼を助けられるというのか。

 考えろ、必ず何か方法が残っている。その時、だった。


「…………っ」

「ジェズ……?」

「……リヴェル、くん?」


 ゆっくりと、ジェズアルドが目を開けた。良かった、気がついた! 泣きたくなる程に嬉しかったが、状況は何も変わっていない。

 否、むしろ。意識を取り戻したことと引き換えに、彼の命が更に削られていってしまったよう。


「良かった、無事でしたか。ルシアくんも――うぐッ!? ゲホッゲホッ!!」

「おい喋るな、血が止まらない」


 激しく咳き込むジェズアルドに、ルシアが悲痛そうに眉を顰める。美しい顔は青ざめて、瞳は暗く虚ろだ。

 それでも、彼は笑った。そこにいつもの胡散臭さは無く、焦点すら合っていないが、代わりに今にも消えてしまいそうな儚さを纏っている。


「嗚呼、本当ですね。血が止まらない……でも、良いんです。僕は、満足ですから」

「ジェズ……何、を」

「……ふふっ。リヴェルくん、きみは……本当に、大きくなりましたね。最初に会った頃は、まだ小さくて……あんなに弱々しかったのに」


 冷たい指先が、頬に触れる。小さく震える大好きな手を握り締める。だが、それで彼を繋ぎ止めておくことなんて出来そうにない。こうしている間にも、ジェズアルドの命はどんどん失われていく。

 とにかく、早く処置をしないと!


「オレが……絶対に、助けるから」

「きみが……もう少し大人になったら、話したいことがあったんですけど……ちょっと、無理そうですね。目が、霞んできました……」

「ジェズ、嫌だ……ねえ、本当に死んじゃう、から。とにかく、今は休んで」

「あはは……無様、ですね……僕は、カインに『復讐』する為に、今まで生きることを許された筈なのに、それすら果たせないとは……でも、きみを護れて良かった」

「ジェズ……お願い、だから」

「最後に……リヴェルくんを護れて、良かった」


 ふっ、と。ジェズアルドが微笑む。その表情は今までに見てきたどんな彼よりも美しくて、とても温かい。

 優しくて、そして――まるで、泣いているようで。


「ありがとう。リヴェルくん……きみは、ぼく……の……大事な……」

「……ジェズ?」

「…………」

「ジェズ!」


 紅い双眸が、再び目蓋に閉ざされてしまう。握り締めた手からは、最後に残っていた力の一欠片さえも抜け落ちてしまい。

 頭の中に過る、最悪の結末。嫌だ、そんな最後は嫌だ!!


「嫌だ……アンタまで失うなんて、絶対に嫌だ! お願いだよ、ジェズ!! 目を開けてくれよ!!」


 何度、名前を呼んでも。どれだけ揺さぶっても。ジェズアルドが目を覚ますことは無かった。だが、その時だった。


「チッ……仕方がないな。リヴェ、少しの間で良い。目を瞑っていろ」

「……ルシア?」

「こいつを助けてやるのは、この上なく気が進まないが……借りが出来てしまったからな」


 やれやれと、ルシアが苦笑した。そして、おもむろにコートの裏側……腰のベルトの辺りを片手で探る。彼が何を考えているのか、悲しみに押し潰されそうな今の自分ではわからない。

 だから、彼が手にした刃――まるで鉈のように大きな軍用ナイフに、瞬きを繰り返すことしか出来なかった。

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