「……わかりました。ルシアくんも、絶対に死なないでくださいね」

「ふん、誰に向かって言っている。後で追いかけるから、さっさと行け。流れ弾に当たっても知らないぞ」

「えっ! ちょ、ちょっと待ってくださ――ひいぃ!!」


 背中を追いかけてくる弾丸の嵐から、必死に逃げる。若干このまま僕も殺す気なのでは、という悪意を感じはしたものの気がつかなかったことにして。僕はすっかり日が落ちた廃工場群の中を駆ける。

 一体何の工場だったのか、と思いを馳せるような余裕も無く。探すとは言っても、あまりにも広過ぎる。

 リヴェルはどこかの建物の中に隠れているのだろうか、それともひたすら逃げ回っているのか。どちらにせよ、片っ端から探すのはかなり厳しい。


「何か、手掛かりでもあれば……ん?」


 ガトリング砲の発砲音も遠くなった頃、不意に鼻腔を撫でた空気に思わず息を飲んだ。濃厚な血の臭いが、夜風に乗って肺腑を満たす。

 一人分の血では無い。何十人分もの血の臭いを感じる。ここまで混じり合ってしまっていては、流石にリヴェルのものを探すのは難しい。


「リヴェルくん……一体どこに……ッ」


 『それ』に気がついた時、足が自然と止まった。血の臭いが、殊更に濃くなる。恐らくは、相当の数の人間が死んでいる。その中に、リヴェルは含まれているのか。そんなことを考えている余裕は無かった。


 ――人間だった筈の女が人外を喰らうという、あまり見たくない光景が視界に飛び込んできてしまったから。


「ン、ぐ……あらぁ? 久しぶりじゃない、お兄さん。まさか、こんな場所で再会出来るだなんて……運命の赤い糸ってやつかしらぁ?」


 喰いかけだった肉片を、ガムのように奥歯でクチャクチャと噛みながらダリアがゆらりと立ち上がった。元々は綺麗なドレスであっただろう服はボロボロな上に、どす黒い血でぐっしょりと濡れている。服だけではない。ピンク色の髪も、肌も。全身が血塗れだ。

 足元に転がるのは、恐らくは手下であったのであろう男の人外の亡骸だ。既に服ごと腹部が大きく十字に切り裂かれており、既に中身はいくつか平らげた後のようだ。眼球も抉り取られ、二つの穴が僕の方を向いていた。


「……ダリアさん、一体何を?」

「えー? フフッ、別におかしいことなんてしていないわよぉ? ただ、エドガーさんから貰ったお薬を飲んだらお腹が減って……喉も渇いて、しょうがないのよぉ」


 クスクスと、ダリアが不気味に嗤う。これは、どう考えても人間の所業では無い。否、彼女はもう人間では無かった。

 異様に発達した犬歯が、彼女が吸血鬼と化したことを如実に表している。それも、人間の肉を喰らうだなんて。

 これは、悪食。それも、末期の状態に近い。


「……ダリアさん。貴女はもう、人間でもダンピールでもありません。吸血鬼……それも、階級では一番下の隷属です」

「キャハハハ! やっぱりぃ? まあねー、アタシは別に人間でいることに拘りは無いのよぉ。むしろ、永遠にキレイでいられる吸血鬼の方がずっと魅力的だとさえ思うわ。だから、今の状態に不満は無いの。それに……吸血鬼になったからかしら、アタシ……お兄さんの正体、わかっちゃった。ねえ……カインさま!」


 夜気を切り裂く、銀色の一閃。夜に生きる眷属とはいえ、暗闇に慣れた目ではそれがあまりに眩しくて。突き出されたそれを咄嗟に手で振り払ってしまう。それが、いけなかった。


 手の甲に走る、鋭い衝撃。知っている、この痛みは知り過ぎている。


「――――ッ!?」


 悲鳴を上げそうになるのを、何とか堪える。カイン、と言われたことにではない。ダリアが右手に持っている、冷たい刃に背筋が凍った。

 既に血でべったりと濡れているものの、それが何かくらいわかる。かなり古いデザインではあるが、手入れはよくされているからか切っ先が凶暴に煌めいている。


 思い出したくないのに、嫌な記憶が無理矢理に呼び起こされてしまう。


「お兄さんの身体から、すっごく良い匂いがするのぉ。甘い甘い、とっても美味しい血の匂いが、ね?」

「うぅ……ぼ、くは……」


 思わず、後ずさってしまう。直接脳を巨大な針で貫かれたかのような衝撃に、視界が歪む。彼女の持つナイフを見るだけで、全身が激痛を訴える。手に足、胸と腹。かつてこの身に刻み込まれた痛みを、一瞬で思い出してしまった。

 肺は大きく裂かれ、どれだけ息を吸っても空気が漏れて呼吸が出来ない。神経をズタズタにされた足では立っていられない。

 正気は痛みに掻き消され、思考は記憶に塗り潰されてしまう。


「ねえ、カインさま? アタシ、喉の渇きが治まらないのよぉ。だから、あなたの……真祖の血をちょうだい?」


 ねっとりと甘い猫撫で声から、剥き出しの狂気が覗く。片方のヒールが根元から折れてしまっているのも構わずに、一歩、また一歩と歩みを緩慢に進める。傍から見れば、力でも体格でも勝っている自分ならば恐れる程の相手ではない。

 だが、もう駄目だ。身体に刻まれた痛みに全身が震え、今ナイフを向けている者が誰かすらわからなかった。


「ち、が……ぼく、は……そんな、つもりじゃなかった……」

「少しで良いの……ねえ、カインさま? お願いよぉ」

「カイン、僕は……」


 ナイフが再び、僕を斬り刻まんと睨み付ける。嗚呼、どうして。かつては『兄』だった者の名前が、声となって零れ落ちる。その時だった。


 ――切り裂かれた傷から溢れた雫が、ゆっくりと指先を伝う。平静であったなら気が付かない程のむず痒い感覚であったが、今だったから気が付けた。


 否……思い出せた。


「カインさま、お願いだからさぁ? アンタの血を――」

「……申し訳ありませんが、貴女なんかにあげる血は一滴もありません」

 

 そう言って、ダリアがナイフを振り上げたのを見計らって。その腕を掴み、自由を奪う。女性らしい腕を容赦なく捻り上げれば、彼女は悲鳴を上げてナイフを取り落とした。

 そして僕は眼鏡を取り、落としてしまわないように胸ポケットに大事にしまった。


「いったたた! 痛い!! 何よ、離しなさいよ!?」

「……ねえ、ダリアさん。そういえば、僕はまだ自己紹介していませんでしたよね? すみません、それでは間違えられても仕方無いですよね」

「はあ!? ちょっと、カインさま……アンタ、今更何を言って――」

「僕の名前は、『アベル』と申します」

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